二年生、五月  エピソード1 -10-


 ようやく太陽の光が陰りだした夕刻時。

「はっ、はっ――――!」

 全身から玉の汗を流しながら、和泉眞子は住宅街を駆け抜けていた。
 土地勘はあまりない、自宅とは真逆の方向。だが、迷っている暇などなかった。
 どうしてこんな目に――――到底受け入れられない嘆きにも似た感情が頭の隅に佇んでいるが、それ以上に、今すぐこの場から逃げ出したいという大きすぎる“恐怖”に身体が支配され、まともに前も見ず走っている。
 言ってしまえば狂気にも似ていた。

 コツ、コツ……

「――――ひっ!」

 ただの足音のはずなのに、異様なほどエコーのかかっている。そして、真後ろから一定間隔で聞こえている。だが――後ろには当然の如く、誰も見えない。
 これまで散々眞子を苦しめてきた赤子の怪奇現象とはまるで違う。全くの別物。

「や、やめて……! こんな、こんな!」
『やめる? 別に吾は何もしておらんぞ。……ただ貴様が勝手に恐怖を感じ、逃げ出しているだけに過ぎん』

 思わず叫んだ言葉に被さるよう、低音女性声が足音と同じくあたりに反響した。

『そうやって貴様は逃げ続ける。馬鹿馬鹿しい言い訳で身を繕い、切り捨てられたモノの存在を記憶から消し……自分だけ幸せになりたがっている。――――あぁ、反吐が出るほど憎たらしい人間だっ!』

 この声の主を眞子は知っている。いや、知っていると思っていた。
 担当するクラス全員の名前は把握していたし、ある程度の性格や性質も知った。
 彼女――琴寄鈴奈は“儚い”という言葉がピッタリと当てはまるような子だと記憶していた。クラスという輪にひっそりと溶け込み、自分という存在を決して主張しない。そんな印象だった。古典的な引っ込み思案タイプ。そんな彼女の友人が、異性の永瀬律己ということには正直驚いたものだ。だが、二人はよく似たタイプであったし、波長があったのだろう。そんな風に考えていた。
 ――――なのに。

 ほんの少し前のことだった。
 部活動もあらかた終了し、眞子自身も帰宅する準備をしていたとき。不意に彼女から声をかけられたのだ。
 正直かなり驚いた。彼女が自分から声をかけてくるなんて絶対にありえないことだと無意識のうちに決め付けていたようだった。
 そんな気持ちを顔に出さないよう、返事をした。それが、ある意味間違いだったのかもしれない。
 真っ黒な髪をまっすぐ伸ばした彼女は、どことなく日本人形に近い雰囲気を持っていた。それが窓から差し込んだ夕日と合わさり、ゾクリとするような笑顔を顔に貼り付けていた。
 思わず後ずさりした眞子に、微笑む彼女からこぼれた言葉は、呪いにもよく似ていた。


「人殺し」


「――――――――――っっ!?」

 喉元までせり上がってきた悲鳴は、声帯を通り抜ける前にただの空気となって、口からは何も出てこない。
 頭は完全に真っ白で、思考そのものをどこかに落としてしまったかのよう。
 石よりも固く、瞬くこともできない瞳は、ただ彼女の顔を見つめることしか出来なかった。

「気づいているんだろう? その身にかかる重みの意味を。聞こえてるんだろう? この声を――」

 ――――おぎゃあぁ!

 彼女の呪詛に応えるように、例の泣き声が鼓膜を貫く。
 ずっしりとした重みが肩と背中にかかる。そう、まるで赤子を背負っているような……。

「いやぁあああっ!!」

 ようやく喉が震えた。自分の声のはずだが、まるでテレビの向こうから聞こえてくるかのように、まるで現実感がない。
 背中にいるモノを振り払おうと全身をデタラメに暴れ、足が勝手に走り出した。


 そして、眞子は無我夢中のまま走り続けていた。
 靴も履き替えず、涙で顔をぐちゃぐちゃに汚しながらも、耐え切れない恐怖に全身を突き動かされる。
 重みは無くならない。それどころか、次々と数を増やしているような錯覚も。
「私のせいじゃないっ! 私は悪くないっ!!」
 駄々っ子のように泣き叫ぶ。
 そうだ、私は悪くないのだ。悪いのは――――

『相手が悪い? 家族が悪い? 医者が悪い? ――――ハッ! 醜い言い訳はそろそろやめるんだな』

 怒りを隠そうともしない声が嫌でも聞こえる。
 耳を塞いでいるのに、脳に直接響いているかのようだった。

『いい加減認めるがいい。お前は殺したんだよ。産まれ生きるのを心待ちにしていた無垢なる子らを。一切の情けも、愛情もなく。薄っぺらい罪悪感だけを残して、しかしそれすらも忘れた』

 悪魔、いや無慈悲な正義の女神が下す冷酷なる鉄槌。眞子を容赦なく叩きのめす言葉(しんじつ)という名の刃。

「ごめんなさい! だって、ああっ――!」

 足を取られ転倒してしまった。口に砂利が入り込む。足元を振り返ると、よく見えないが、木の根のようなものが地面から少し浮き上がっていた。どうやら住宅街の真ん中、というわけではないらしい。
 痛みを訴える全身を死ぬ気で押さえ込み、横にあった大木を支えにしてなんとか立ち上がる。どうやらここは公園のようだ。
「…………ひぐっ」
 相変わらず瞳からは大量の滴がこぼれ落ちる。未だに震えと恐怖が収まらない。
 だが、なぜだろう。あの重みを感じない。いつも耳の奥から聞こえていた泣き声も。まるでこの場所には入り込めないというかのような……。

「先生」
 前方から聞こえてきた声に思わず過剰な反応をしてしまう。
 服の裾でグイと目を擦り、声の主を見た。
 永瀬律己だ。困ったような、悲しそうな表情でこちらを見つめていた。いつもと違って、黒縁のメガネをしている。何故か、それが本来の彼の姿なんだと思った。格好良いわけでも綺麗というわけでもないが、普段のどこか頼りない雰囲気が無くてよく似合っている。
 ふと、彼の腕の中に何かがいるように見えた。真っ白な布に抱かれた――――
「――――――ぁ」
 口から悲鳴が、出なかった。
 自分でも信じられない。今まで見ず知らずの人が抱いているのを見るのも嫌悪感が湧き出ていたというのに、彼の腕の中で眠っているのが――自分がいなかったことにしてしまった子供だと悟っているのに、先程までの狂気的な感情が欠片も無くなっていた。
 一歩、二歩。激痛が走るのも無視して足を前へ。無意識のうちに手を伸ばし、彼の腕からその子を受け取った。
 ……暖かい。火傷してしまいそうなほど暖かくて、けれどとても優しい熱だった。
「ぁ、あ……」
 子供って、こんなにも暖かいものだったんだ。
 何度も見たはずなのに、そんなことも知らなかった。こうして抱きかかえたのも初めてだ。
「先生、この子は……あなたに教えてあげたかったんです」
「…………」
 聞くのが怖い。恨まれている自信はある。認めたくなくて何年も無視してきたけれど、こんな醜態を晒したあとに取り繕っても意味はないだろう。耳を塞いで逃げたかった。
 けど、この温もりを離すことだけは……できない。
 眠っていた子が目を薄く開いた。濁った黒い目玉――ではなく、キラキラと無限の可能性を秘めた星のような瞳。この光を奪ってしまったかと思うと、殊更に聞けない気がする。
 でも……それでは今まで通りの、何も変わらない逃避の状態のままだ。それではいけない。
 キュッと小さな指が指に絡み合う。こちらに縋るような手つきは、絶対に守らなければいけないと思わせた。
「な、にを……?」
 震える声で訊ねた。グッと子供を胸に押し付けるようにして。決して……離さないように。


「…………今度こそ――その子を離さないで欲しい、と」


 つぅ、と頬を新たな雫が伝った。