二年生、五月  エピソード1 -09-

 もう慣れた、ぼんやりとした視界に、蛍光色のマーカーが引かれた少し大きめの活字が映る。
『人工中絶』
 正直に言ってしまえば、今の今まで完全に眼中になかった単語であった。
 それを思い出させ、今まさに目に入れんばかりに律己の顔に押し付けてくるのは、当然のことながらセイズの仕業である。
「このような“殺人行為”を堂々と授業で教えるなど……日本の教育社会も落ちぶれたものだ」
 怒り六割、憎しみ三割、悲しみ一割ぐらいの感情を顔に浮かべている。
「命と金、比べること自体がおかしいことだと思わんのか」
 確かに彼女の性格上、こういったことは断固として許すことできないだろう。生命こそ至高だと声高々に謳っているぐらいなのだから。
 だが――――

「いつまで教科書と睨めっこしていればいいのさ?」
「暗記するまでだ! このページ全てを、な!」

 この扱いはあんまりだと思う律己であった。

 どうしてこうなったのかと聞かれれば返答に困るのだが。セイズにあの【水子】のことを突っ込んで聞いてしまった律己の不注意が原因と呼べるのかもしれない。
 セイズが一から十まで事細かく説明してくれるはずもなく、突然、保健体育の教科書を取り出してきたかと思ったら、ページを破りかねない勢いで開き、律己の顔面に押し当ててきたのである。
 その状態から数十秒が経ち、ようやく先ほどの単語のみ認識できた。
「……セイズ」
「なんだ。文句は受け付けておらんぞ。抵抗もな」
「それはしないつもりだけど……ちょっと離れてくれない?」
「何故だ! どうせサボる気だろう? それとも逃げる気か? たとえコーヒーを貢がれたとしても吾は動かんぞ」
「いや、その…………近すぎて読めない」
「――――――――――――――す、すまん」
 耳を真っ赤にさせ、数歩後ずさるセイズ。
 こういう仕草は――本人の前では口が裂けても言えないが――実に、可愛らしいと思う。セイズ自身のものか、トレースした鈴音のものなのかは分からないが。
 ただ……なんとなく、セイズの素に近いのではないか、と律己は思っている。
「ほ、ほらっ。これでいいだろう! さっさと読まんか」
 恥ずかしさからか、普段より若干乱暴っぽくなっているセイズの攻撃を躱しつつ、ようやくまともに読めるようになった教科書へ視線を向けた。
 このページはどうやら実際あったことをぼかしながら書いてあるようだ。
 医師の眼から見た、中絶に関する患者の実態……そこには、セイズが激怒し嫌悪する理由がハッキリと記されていた。
『私がおずおずと妊娠を彼女に伝えると、驚いたことに笑顔のまま「じゃあ堕ろさないとね」と言った。そこにはなんの躊躇いも葛藤もなく、私は呆然と彼女を見つめてしまった』
「……笑顔の、まま……」
 この女性はまだ学生だったらしい。保護者もとくに反発することなくあっという間に小さな命は摘み取られ、やはり笑ったまま彼女は病院を後にしたという。
 この人は、笑いながら自分自身の子供の死を選択したのだ。
 そして最後の行は『このようなケースは少なくなく、また、近年増加の傾向にある』という言葉で締めくくられていた。
 何ともいえない。理解できたか、と問われれば首をかしげてしまう。実感がわかないのだ。律己にとってまったく縁のない話であるし、自分の耳で聞いたことも目で見たこともない。
「どうやらお前も“他人事”としか思えない奴らしいな、リツ」
 冷え切ったセイズの声。顔を上げて見てみれば、悲しみと怒りに揺れる彼女の瞳と視線が交わった。
「まぁ、男のお前には酷なことだろうが……」
 子供ができる、という感覚は女性には理解されやすいらしいが、男性は当事者であったとしても自覚が芽生えにくいと聞く。
「ごめん。……でも、セイズがそれだけ怒る訳はよくわかった」
 生命を尊重する彼女にとって、不当に奪われていく赤子たちの存在――そして、それらを生み出す原因である中絶という行為が許せなかったのだ。
「【水子】は生まれる前に死した赤子の霊。それが近年、悍ましい勢いで増えている。理由は、もうわかるであろう」
「うん…………」
「まだ痛みを覚えるものはいい。しかし、今はただの後始末程度にしか感じぬ輩がいるのだ。これでは水子が救われまい」
 セイズの重い、重いため息が部屋中に広がった。


「――――――しかし、だ。このままヤツらの暴走を見て見ぬふりというのは目覚めが悪い。……気は乗らんが、根本を叩くとしよう」
「……! セ、セイズ――君は」
 今までとは打って変わった彼女の言葉に、思わず律己の目が輝いた。
「勘違いするでないぞ。吾は視界を遮ってかなわん水子供が煩わしいだけだっ!」
 プイ、とそっぽを向きながら彼女はそう言う。だが僅かながらに見えた。真っ赤に染まった頬が。
 プライド高い彼女のことだ。きっと原因となった人に対しては、精神的に追い詰めるだろうが身体的には何ら問題なく解決させられるだろう。
「“異形の存在は大衆に明かすべからず”――これが魔術師の常識でありルールである。吾はそれに従うのみ!」
 何を恥ずかしがっているのか、相変わらず明後日の方向を見たままセイズは胸を張って言った。

「では行くぞ――――哀れな赤子の、生みの親元へ」