二年生、五月

エピソード1 -04-

 さすがに実習初日から授業を受けもつはずもなく、午後一番初めの授業の公民を、廊下側最前席横にひっそりと立って真剣に見学をしている和泉の姿があった。
 大学ノートとペンを構え、担当教師がチョークを走らせたり口頭で説明するたびに決して逃さぬよう書きとっていく様子は、どこから見ても真面目に取り組んでいるようにしか思えない。
 これがセイズの言う通り取り繕っているだけならば、彼女は相当な演技派であろう。ハリウッドも夢ではないのでは。
「…………はふ」
 そんなことを頭の端で思いつつ、止まらない欠伸が殺しきれずに漏れた。
 この授業は、淡々とした口調で教科書をほとんどそのままなぞるだけの内容であり、満腹であることも相まってか、生徒たちにとって絶好のお昼寝タイムとなっている。起きている生徒の方が圧倒的に少ない。
 律己と鈴奈――セイズは最前列ということもあり、目だけなんとか開いている状態だ。
 これでテストが難しいだとか成績に大いに関わってくる、といった問題があれば少なからず態度は変わってくるのだが、この教師は面倒なのかテストは問題集をほぼそのままそっくりに、成績はテストの点で九割がた付けている。そのせいで余計、授業に取り組もうと励む生徒がいないのだ。

 ちりん。

 隣から鈴の音が。
 ヒマ過ぎてなのかイラついているのかは分からないが、セイズが自分の机にかけてある鞄を蹴ってしまったようだ。
「――――――っ」
 続いて控えめな舌打ち音。
 目立ってしまったことにたいしてだろう。
 いくら大半の生徒は眠っているといっても、授業を聞いている極々少数派の生徒もいるし、なによりひたすら黒板に板書している教師の耳に先ほどの鈴の音が聞こえなかったとは考えにくい。これが携帯のコール音だったら注意されていた可能性もある。
 目立つのが大の嫌いな彼女のことだ。今ので機嫌はさらに悪くなっただろう。
「…………はぁ」
 コーヒーを買うだけのお金を持っていたか自分の財布の中身を思い返しているところで、授業終了のチャイムが鳴った。



「おぅ、律己」
 朝とほぼ代わり映えのないHRがあっさりと終わり、多くの生徒が部活や帰宅のため立ち上がっていく中。鞄の中を整理していた律己に担任である達川巧タツガワタクミが声をかけてきた。
 平均程度の律己より少し低めの身長に、わざとなのか坊主の頭である達川は、教師一筋の五十代半ば。着慣れたスーツがいかにもな貫禄を醸し出しているのにも関わらず、とっつきやすいほどほどな適当さと冗談めかした毒舌トークが特徴で、生徒の大半から好感を持たれている数少ない教師である。
 そして、律己や鈴奈が気軽に相談できる、これまた数少ない人物であった。
「何ですか、先生」
「ん、」
 おおよそ内容は予測できているが、念のため尋ねると、グッと拳をこちらに突き出された。
 やはりと苦笑し、拳のしたに右手を広げる。チャリ、と金属同士がかち合う音がした。
「部活行くやろ。オレも行くから開けといてくれ」
「はーいっと」
 手のひらに乗せられたのは明らかに鍵の形ではなかったが、律己も慣れたもので周囲に見られぬよう手のひらで隠しながら受け取る。
 それを確認したらしい達川はスタスタと教室の外へ。
 流れるような動作で、これでは周囲には顧問が部室の鍵を預けたようにしか見えないだろう。
 右手の中に、円状の金属が三枚。何を意味しているのか……もう慣れっこになってしまった、部活前の準備である。
 今日は何にしてやろうかと思った視界の端で、鈴奈が目立たぬように教室の戸を開けているのを見た。
 普通に開ければいいものを、音をあまり立てたくなくてゆっくりと動かしているのは、傍から見ていると何故か笑いを誘う。おそらく彼女の中身を知っているせいだろう。なんだかとても似合わない。
 クスリ、と思わず漏れた笑い声。それとほぼ同時に、敷居を跨ごうとしていた彼女と目がかっちり合ってしまった。
「――――あ」
「…………」
 おぼえておけ、と素早く唇が動いていた。目が悪いのにも関わらず、しっかりと見えた。
「あっ、ちゃー……」
 頭を掻いた。
 まさかバレるとは露にも思っていなかったのである。地獄耳よりもよく聞こえる耳を持っているんじゃないかと本気で疑いだしながら、彼女とは別方向の、昇降口の方へ向かった。


「遅いっ!」
「おお、待っとったぞー」

 昼食をとっていたのと同じ、四階の空き教室。
 気持ちばかり重ための戸を引き開けると同時に、真正面から言葉が投げ飛ばされてきた。
「そんなこと言うけど、あそこ、放課後は混むこと知ってるだろ?」
 律己の腕にはまだ冷たい缶とペットボトルが合わせて三つ分。宿利高校の昇降口前にある自動販売機で購入してきたものだ。あそこは昼休みや放課後にしか動かないが、代わりに学割価格になっているため、一般的なものよりも少しばかり安い。そろそろ暑くなってきているこの頃は、部活前の生徒を中心とした溜まり場になりやすく、中々度胸がないと購入には時間がかかるのだ。
 それがあるため、めんどくさがりなこの二人は律己に押し付けてくるのだが。
「だいたい……セイズはともかく、たっくんは自分で行けばいいじゃん。毎回文句言うんだからさ」
 “たっくん”というのは達川の愛称だ。誰が呼び始めたのかは知らないが、いまでは全校生徒に広がっている。もっとも、好んで使うのは女子が大半だが。
「ええやん、オレはちゃんと金払っとるし。……セイ、お前も払えよ。律己の財布が泣いとるぞー?」
「タク、一つ言わせてもらおう。吾が金を持っていると思うか? 小遣いなんてあると思うのか――!?」
「ただ単にセイズの浪費グセが酷いだけだろ」
 教室ではありえないような、フレンドリーな会話。
 この三人は唯一、『セイズ』を知るものたち。だからこそ、なんの気兼ねもなくこういった会話を繰り広げることができる。
『セイズ』とはなんなのか――それは、律己では上手く説明することができない。
 達川ほどの長い付き合いならともかく、まだ律己とセイズはせいぜい半年程度。しかも、完全には受け入れられているとも言えない関係なのである。

「さて、今日の部活はじめるぞー」

 イマイチやる気のない、達川の言葉。
 それを合図に、三人は教室の中央にセットされている既に定位置となった席に座り、律己は買ってきた飲み物をそれぞれに手渡していく。
「はい、セイズ。たっくんは烏龍茶ね」
「うむご苦労」
「今日は抹茶な気分やったんやけどなぁ」
「……買う前に言ってよ」
 照らし合わせたわけでもないのに蓋を開ける音が重なり、揃って笑った。

『セイズ』を知る三人が所属するのは、宿利高校でも忘れ去られた幽霊部――情報処理研究部。
 かつては資格取得などに励む勤勉な部活動だったらしいのだが、律己が入部した頃には廃れきっており、正直部活と言うのもどうかと思うほど小規模であった。
 いまでは活動らしい活動といえば、こうして放課後に飲食物を持ち込んで適当に過ごすという、ただの駄弁り場と化している。
 そんな自由奔放な空間だからこそ、思うがままに素を出していられるこの時間は、律己にとって――そして鈴奈にとっても――貴重でかけがえのないものであった。

「そういえば……たっくん、あの教育実習生についてなくていいの?」
「本格的なのは明日以降だからなぁ。教科も違うし」
 サイダーを一口飲んでから、ふと思ったことを口にした律己。
 達川が受け持つ教科は、数学。生徒から好評を受けている彼だが、授業内容はあまりわかりやすいとは言えない。公式を理解していることを前提に進んでいくため、根本がわからないとついていくことも難しかったりする。そのせいか授業内容そのものは不評である。……もっとも、時たま挟まれる毒舌トークや雑学、昔の教え子の話などが、それを帳消しにしてしまうほど面白いのだが。
「しっかし……あいつが、なぁ」
「――? もしかして、和泉先生のこと知ってる?」
「ああ。元教え子だぞ」
 達川のその言葉に、無言でコーヒーを啜っていたセイズが反応を見せた。缶から口を離し、興味深そうにこちらに視線を向けてきた。
 律己も少しばかり驚いた表情になる。元教え子、という意味に対してではない。
 生徒に好かれる達川は、卒業した元教え子と連絡を取り合っていることも多いらしく、よくそのエピソードを聞かされるため、和泉がそうであること自体はなにも驚くことではないのだが。
「珍しい……たっくんが教え子のことをそんな風に言うとか」
 たいていニヤッとした笑みを浮かべていることが多い達川が、苦渋の色を浮かべながら心底信じられなさそうに言っていたのだ。
 それが本当に珍しくて、律己は驚いた。
「――――ふっ。よほどの問題児だったとみた」
「ちょ、ちょっとセイズ?」
 嘲笑うかのようにセイズが毒を吐く。それはもう、嫌悪感たっぷりと。
 さすがに不味いだろうと焦る律己を後目に達川は、
「あぁ、そうだったな……今からは信じられんが」
 なんと肯定したのだ。
「えっ…………えぇ!?」
「そうであろうな。どんなに努力しようと、過去の罪からは逃げられん。ああいった輩は本気で腹が立つぞ」
「人は見かけによらんからなー、勉強だぞ律己」
 それは最もだと思うが、どうしてもあの真面目そうな和泉の姿とセイズの言葉がイコールで繋がらない。
 信じられないと思う気持ちと、焦らされたせいで芽生えた好奇心。それに背を押され、訊ねた。
「セイズ、あの人は何をしたんだよ?」



「――――――――殺人だ」




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