二年生、五月  エピソード1 -05-

 和泉の教育実習が始まって、早三日。

 カリカリとシャープペンがノートの上を走る音でいっぱいの二年六組。よくある授業風景だ。
 そんな中、例に漏れず律己もいつもどおり授業を受けていた。
 ――しかし、集中しているとは言い難い。
 黒板とノートを交互に見ているその端で、ふと視線がズレて右へ。そこには初日からほとんど変わらない、相変わらず真面目に授業を見学している和泉がいた。

『あいつは吾が最も嫌いな人種“殺人鬼”だ。むやみに構うなよ。……死にたくなければな』

 そう、静かに怒りを秘めながらセイズは言っていた。
 …………正直なところ、まったく信じられない。詳しく理由を訊ねたものの、またもや面倒なプライドが発動してしまい、さらに事情を知っているような達川も「個人情報やからアカンぞ」と言って結局教えてもらえなかった。
「――――はあ」
 漏れたため息は思ったよりも大きく、深い。何に対してのため息なのか、自分自身でもよくわからないのだが。
 セイズの意味深な言葉は今に始まったことではないので、本来ならこれほどまで気にする必要もないのかもしれないのが。
「………………はぁ」
 最近、妙に空気が重く感じることが多い。
 まるで重力が倍になったかのような錯覚に陥っている。ため息が多いのも、半分はこれのせいと言っても差支えがない。気のせいだと割り切るには、少々おかしすぎる。
 これはまるで――――
「本当に、空気が重いみたいだ……」
 終了のチャイムが鳴った。



「えっと、永瀬くんだよね?」
「…………は、い?」

 放課後。生徒が次々と席を立ち、部活なり帰宅なりで移動していく中、突然予想だにしていなかった相手からの声に驚いて立ち止まった。
 横から聞こえてきたその声はようやく覚えてきた彼女のもの。意図が掴めず、恐る恐るといった動きでそちらを向くと、小首をかしげたスーツ姿の女性――和泉がいた。
「ごめんね、突然。……えっと、達川先生の場所って知ってる?」
「あー…………」
 天然なのかわざとなのか判断がつかないが、ずいぶんと可愛らしい仕草で訊ねてくる。年の割には幼い行動だ。そんなに違和感もない。
 だがそんなことよりも気に障ったのは、質問の内容だ。
 達川がいるとすれば部室か、稀に職員室の自分のデスク。職員室にいればそちらへ行くだろうから、消去法で部室しかありえない。
 つまり、まったくの他人である和泉を、律己たちが大切にしている半ばプライベートな部分に踏み込ませなければならないということだ。
 それは――とても簡単に受けいれられることではない。
「……なんでしたら呼び出しますよ?」
 ポケットからスマートフォンを和泉に見せつけるようにしながら取り出していく。達川は嫌がるだろうが拒否はできまい。意地でも交渉するつもりである。
 だが和泉は軽く首を振って、
「いいよいいよ! 永瀬くん部活行くんだよね? ついていくから」
 一切悪意のない笑みでそう告げられた。
 肩が自然と下がり、無音の深いため息を吐き出す。何を言っても無駄だろうと悟った。
 おそらく和泉は、一度決めたことはよほどのことがない限り曲げない頑固なタイプだろう。責任感のある教師向きの性格なのだろうが、こういったことを好まない律己やセイズには相性が悪い。
「わかり、ました……」
 内心二人に謝罪しつつ、小さく了承の返事を出した。上手い言い訳も浮かばないため、断るのは無理だろうと諦めた結果だ。
 嬉しそうな和泉とは対照的に、うっすらと微笑みながらも目が全く笑っていないセイズの姿が脳裏に鮮明に浮かび、こっそりと項垂れた。



 教室棟二階にある二年六組の教室から、特別棟四階にある情報処理室までの道のりはなかなかに長い。階段を二階分と渡り廊下を経由していくためだ。
 大半の生徒がいなくなった教室棟の廊下を二人きりで歩いていく。他者とコミュニケーションをとるのが得意とは言い難い律己は、妙に長い移動時間をどうやって乗り切るか密かに悩んでいたが、心配は無用だったらしい。
「達川先生はね、私がここの二年生だった時にこの学校に来て、三年生の時担任だったんだ。だから進路のこととかでよくお世話になってねー……懐かしいなぁ」
「へー…………」
 和泉はおしゃべりの方だったらしく、先ほどから会話がほとんど途絶えない。律己は相槌程度にしか話していないのに、である。
 別の意味で感心しながら、和泉の話に自然と耳を傾けた。
「三年生の夏休み明けたくらいだったかな? ちょっといろいろあって、急に教師になりたいーって言ったら『冗談も大概にしやがれ!』って怒られちゃって。でも頑張って、あとちょっとでなれそうだし、先生きっと驚いてるよ」
 クスクス笑う和泉には大変申し訳ないのだが、ただ驚いているとは思えない反応であったことを律己は知っている。信じられないものを見てしまった、というような感じであった。

 ――本当に、この人何をしたんだろう……?

 まともに会話をしたのは今日が初めてであるが、少し天然というか子供っぽい部分が目立つものの、普通にいい人にしか思えない。
 セイズが毛嫌いし“殺人鬼”とまで言い放つほどであり、とても友好的な達川までどこか避けているような雰囲気を感じさせる彼女は、一体何をしてしまったのだろうか。

 そのとき。



 ――――――――――――――んぎゃあ。



「ぇ?」
 ふと耳をかすめた強烈な違和感に、無意識のうちに立ち止まる。
 そう、例えるならば、獣特有の甲高い鳴き声を人間の声帯で無理矢理発声しようとして失敗したかのような、酷く耳障りな不快音。
 しかし、それも一瞬のことであり、一秒に満たないうちに違和感も消失したため、気のせいだと思い改めた。そして何気なく、彼女もこのことに気がついたかどうか気になり、横にいるはずの和泉の方へ目をやった。

「ぁ――――い、ぃや……」

「せっ……先生!?」
 そこには、真っ青を通り越して真っ白な顔をした和泉が、自身の肩を抱きかかえるようにして震えていた。歯と歯がぶつかり合う音が律己の耳にまで届くほど大きく震えている。前かがみ気味に上半身を押さえ込んでいるのに、何故か視線だけはまっすぐ前を向いて凍りついているように見えた。
「せん、せい……」
 尋常ではない怯え方に、どう声をかけていいのか、むしろどうすればいいのか、焦りと疑問が頭の中で飽和する。半端に伸ばした手は行き場が分からず、何もない場所へ。
「――――っ!」
 数秒後、ハッとして驚いた表情を浮かべた和泉。ようやく意識が戻ってきたらしい。なんと言おうかと律己が口を開く前に、まだまだ青い顔をしながら引き攣った笑みを浮かべて、
「ごめんなさい。先生に今度伺います、と伝えておいて?」
 と言って、逃げるように立ち去ってしまった。

 ぽつん、とひとり取り残された律己。
 何も知らなければ、不思議な顔をしつつも部活へ直進していただろう。深く追求するには、和泉のことをよく知らないし親しいわけでもないからだ。

 だが、律己は知っている。この世界には、“異様な存在”がいることを。

「――――――すぅ」

 大きく息を吸い込み心を落ち着ける。そして、ゆっくりゆっくりと胸ポケットへ手を伸ばす。
 カチャッ。久しぶりのような気分で、入れてあった黒縁のメガネを手にとった。メガネ自体は毎日触れているのに、まるで数ヶ月ぶりのような錯覚だ。

「…………はぁあ」

 息を吐きながら、注意深く、周囲のかすかな異常をみつけようと五感を持てる限り使い、慎重に前へと進む。
 ここは、いつも通りの学校ではない――という意識が次第に強まっていく。
 わざとらしいほど大きく、意識しながら呼吸を繰り返す。そうしなければ、気のせいとは思えなくなってきた凄まじい重圧感を持つ空気を身体に取り入れることさえ困難であった。


 ――――――――ぁぎゃあ。



「っ!」
 再び耳をかすめた高い声色。その、背筋が凍るほどの不気味さに思わず立ちすくむ。
 今度はそれだけではなく、同時にすんすん、とすすり泣いているような微かな音が一緒になって届いた。
 聞こえてきた方向が正しいのならば、正面一番奥。教室棟と特別棟を結ぶ渡り廊下のその先。確かそこは倉庫があり、様々な教科の普段あまり使われていない教材などが保管されている場所。人の立ち入りはほぼ皆無に近しいはずだ。
「………………」
 冷や汗が首筋を伝っていく。わずかに震える手を、拳を握ることで押さえつけ、そのまま強く汗を拭った。心臓が痛いほど鼓動を行っているが、深呼吸だけで忘れようとした。
「はああっ」
 気合を込めるために息を吐き、止まっていた足を再び動かした。


 コッ、コッ、コッ…………


 自分の足音が嫌なほどよく響き渡る。
 だが、少しだけ安心もできた。足音は一種類だけ。ほかの誰かが近くにいる様子はない。これで背後から突然襲われる、という事態は避けられるであろうと安堵した。
 …………もっとも、それは相手が足のある場合に限るのだが。


 コツン――――


 眼前に立ちふさがる、普段の倍以上ありそうな倉庫の扉。教室の引き戸とは違い、これは押し開けるタイプのものだ。
 何度目かになるかもわからない深呼吸。
 震える両手をゆっくりと伸ばし、ドアノブに手をかける。
 中からは相変わらずすすり声が聞こえる。けれどあの異様な鳴き声はなく、少しばかり落ち着けた。
「頼むからな……」
 中にいるのは『人間だけ』であってほしいと心底祈りながら、全身から吹き出す恐怖を扉にぶつけるかのように勢いよく開け放った。