二年生、五月  エピソード1 -02-

 律己の自宅からおよそ十五分。志伊公園から十分ほど歩くと見えてくるのが、二人が通う宿利シュクリ高等学校だ。
 古くから日本の東西を結ぶ、重要かつ便利な土地を利用し、宿町として栄えた宿利市。
 今でも大都市の近郊に位置しているため、ベットタウンとなっている。それゆえ、交通の便が非常に良いことで有名であり自慢だ。
 そんな地方都市唯一の公立高校である宿利高校は、交通の便に加えて学力偏差値も中の下と誰でも入りやすいこともあり、生徒数が非常に多い。全校生徒が体育館に集合すれば、ギュウギュウの缶詰状態である。
 そんな生徒たちが一斉に登校などすれば、混雑は避けられない。毎日HR開始二十分前あたりからずっと満員電車に近い状態だ。わかっているのだから避ければいいと思うのだが、多くの生徒は睡眠時間を重視しているらしい。
 その中に好んで入ろうという気は二人ともない。ゆえに彼らはHRの三十分前には登校するようにしている。

「あ、そういえば……今日からだね。教育実習生」

 まだ人の気配も少ない校門を通り、昇降口に差し掛かろうとしたとき、律己がつぶやいた。
「あぁ、どう考えても教師になるつもりのない輩のつまらん授業を受ける、面倒な期間か」
「セイズ……もう少しオブラートに包もうよ」
「本当のことを言ったまでだ」
 どうやら彼女の機嫌はまだ良くないらしい。普段の倍は毒が詰まっている。……いや、普段からこんなものだったか、と思い直す。
「大体だ、教師になる気のない者に一体何を学ばせる気なのだ? こちらも迷惑、あちらも嫌々、学校側とて仕方がなく、などやるだけ無駄。時間と労力をドブに捨てているだけではないか」
「……本当に教師になるつもりの人がいたらどうするのさ」
「そういう奴“だけ”ならば認めようではないか。だけ、ならばな」
 ガラリ、と自分たちの教室である二年六組の引き戸を律己が開けた。
 なかには当然誰もいない。いくつかの机の上に朝練に出ている生徒のバックが無造作に置かれている、それだけだ。
 学年が変わり、教室も移動してもうすぐ二ヶ月。もう自分の席に迷うこともなく、出席順の窓際から三列目の一番前の席へ、肩にかけていた学生鞄を下ろす。僅かにしか荷物は入っていないとはいえ、重みがなくなり開放感に包まれた。
「よし、そこまで言うならば賭けようではないか。このクラスの教育実習生が、一体どちらなのかを、な」
 律己の真横、右隣へ学生鞄を下ろしたセイズが、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら提案してきた。
 結果がどうなるか――これまでの経験からほとんどわかったも同然とはいえ、あえて強気に出る。やられっぱなしというのは、男子として少々情けない。
「やる気のある方にジュース一本。今回こそは当たる気がするさ」
「言ったな? ならば吾はコーヒー一杯に……そうさな、昼食をつけよう」
「じゃ、結果は最終日の授業の様子を見てってことで」
「構わん。……ふふっ、楽しみだなぁ」

 ちりん。

 りん。

 まるで勝負開始の合図と言わんばかりに、お互いの持つ鈴が同時に鳴った。 





「本日より二週間、このクラスを担当することになりました、和泉眞子イズミマコです」

 HR開始早々、教卓に立ち自己紹介を始めたスーツ姿の女性。
 いかにも大学生らしい茶髪をひとつに結び、うっすらと化粧をした姿は、いかにも真面目そうだが、浮かべている人懐っこそうな笑みが上手く調和し、元気で明るいイメージを抱かせた。
「教科は社会科ですが、それ以外のことでもなんでも聞いてください! よろしくお願いします」
 一礼とともにクラス中から拍手が沸く。律己も軽く手を合わせながら、横にいる彼女をのぞき見た。
 いかにもやる気のありそうな人だ。無理をしている感じもなく、今回ばかりは自分の勝ちだろうと確信したため、彼女がどのような表情をしているか気になったのだ。
 悔しそうにしているのか、まだわからんぞ、と言って強気でいるのか……。


「――――――っ!」


 一瞬、空気が割れた。

 拍手の音によりほとんどかき消されてしまったが、律己の耳にかろうじて届いた振動に近い音。
 苦虫を大量に噛み潰したかのように渋い顔で、理性によってギリギリまで押さえ込まれた舌打ちを放っていたセイズ。
 それも一瞬のことで、瞬きをする間もなく、いつも通り――琴寄鈴音の、何を考えているかわかりづらい無表情へと戻っていた。
「…………?」
 賭けに負けて悔しい、とは別物であろう表情に驚きと疑問が浮かぶ。
 よほどのことがない限り彼女は教室という“誰かに見られている場所”で『セイズ』としての顔を見せることはない。大半は無表情、ごくたまに喜怒哀楽を出すが、それは全て『琴寄鈴奈』としての表情だ。
「――――んで、連絡事項は終わり。お前ら、授業サボんなよー」
 そうこう考えているうちにHRが終わったらしい。
 担任の、本気とは思えない声とほぼ同時に、HR終了のチャイムが鳴った。みな慣れたもので、日直の掛け声が掛かる前に次々と起立していく。のんびり座っているわけにもいかず、律己もそれに倣った。
 次の授業開始まであと十分少々。
 セイズに先ほどのことを尋ねるには時間も無いし、なによりここでは話しかけることも許してはくれないだろう。人前では余計な接触をしないのが約束だ。
「……早く昼休み、来いよ」
 つぶやきは口の外に出ることはなく、代わりに落胆の色を含んだため息を吐いた。