ひっく、ひっく……ぅっ――!
どこかで、誰かが泣いている。
子供のようだ。声がずいぶんと高い。
――さんっ! どこなの? どこ……?
迷子なのか。
ズキリ、と心が痛む。
昔から子供は苦手だった。無邪気で可愛らしいとは思うが、どうしても――――
ぅ、うわあああああああん!!
子供が泣くのは、耐えられなかった。
「……やめてよ、」
うるさい。うるさい……!
可哀想だとか、同情を感じるよりも先に、苛立ちがうまれた。
ツン、と消毒の香りがしてきた。
……病院だ。この世で一番嫌いな。
――――おぎゃあぁ!
「ヒッ!?」
心臓を、鷲掴みにされたかのような、金縛り。
い……いやだ、いやだいやだいやだ!
子供は嫌だ。でも、それ以上に――赤子は、駄目だ。
ギギギ、と機械のような音を立てて、首が勝手に背後を見ようと動く。
ダメ……いや、やめて!
抵抗の声は虚空へ消え、視界の端に、赤い何かが映り――――
おぎゃあ、
「――――――――!!」
目が、覚めた。
季節は巡り巡って、五月の下旬に差し掛かる頃。
梅雨の気配がひしひしと近づいてきているのが嫌でもわかった。
生まれてもうすぐ十七年が経つというのに、いまだにこの日本の初夏らしい、身体にまとわりつく湿気には参ってしまう。北海道や沖縄に生まれたかったと何度思ったことか。
それでも、朝方はだいぶマシだった。
衣替えのため、指定の青灰色の半袖シャツの上にサマーニットを着た律己は、入学式その日から変わることのない、少しだけ遠回りの通学路を気だるげに歩いていた。
ぼんやりとした視界のせいで、まるで夢の中にいる気分だ。
視力が悪いのに、何故か黒縁のメガネは胸ポケットへ差し込まれ、手持ち無沙汰な左手がいじっている。
メガネを日常的にかけなくなり、空いている手でいじる癖がついたのは、去年の秋頃からだったか。いじるのだけは指紋もつくのでやめなければ、と思っているのだが、なんとなく気持ちが乗らず放置状態だ。
すっかり通い慣れた志伊公園の入口に立つ。ここに寄るのが、完全に日課となってしまった。
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
りん。
と、付けられた鐘型の鈴が鳴った。
時刻を確認。……七時三十分前。この時間なら、もう彼女はいるだろう。
ポケットへしまい込むと、公園内へ足を入れた。
特に整備されているわけではないが、激しく荒れているわけでもない、芝生と地面の中間のような道を進む。
見事であった桜も、いまでは完全に緑色へ。もう一ヶ月もしないうちに、セミの大合唱が始まるだろう。……正直、あれは勘弁願いたいものだ。
ちりん。
少し進んだところで聞こえてきた、可愛らしい鈴の音色。
すっかり慣れてしまい、当初抱いた『女の子らしい』アイテムというより、猫の首輪に付けているようなイメージが強くなってしまった。
おそらく本人――と言ってはいけないのだが――が猫っぽいためだろう。外見だけなら、ウサギなのだが。
「遅いぞ、リツ」
年頃らしいソプラノの声色で、無理にテノールを出そうとしているような、何とも表現し難い低音声で呼びかけられた。
苦笑をこぼしながら、声の持ち主をまっすぐ見据える。
木々に囲まれたベンチに腰掛け、今日の新聞を広げながらこちらを睨むように視線を送っているひとりの少女。
真っ黒な黒髪を腰近くまでまっすぐ伸ばし、律己と同じデザインの半袖ブラウスの上から白いサマーカーディガンを羽織っている、琴寄鈴奈……とは呼べない、彼女。
「おはよ、『セイズ』。今日は何か面白いニュースでもあった?」
「……最悪だ。なぜ朝っぱらから胸糞悪いことばかりなのだ」
どうやら機嫌はよろしくないらしい。
イライラと、セイズと律己が呼んでいる彼女は、広げていた新聞を乱暴に折りたたみ、学生鞄へ無理矢理突っ込んだ。あれでは中でくしゃくしゃになっていることだろう。
「一面から殺人について長々と書くなど……信じられん!」
「あっさり流されるのもどうかとは思うけどな」
「ええい忌々しい! リツ、コーヒーだ!」
「はいはい」
怒り狂っているセイズには何を言っても慰めにはならない。これは今までの経験から骨の髄まで理解している。下手に口答えすればさらに面倒だ。
そんな彼女を静める数少ない手段を行うため、何年もラインナップがかわっていない自動販売機へ向かった。買うのはもちろん、微糖の缶コーヒーだ。
彼女――――琴寄鈴奈が好きだった味。
昨年の夏からずっと続いているこの光景。
今日もいつも通り、彼女に振り回されるんだろうなと、どこか他人事のように思いながら、自販機のボタンを押した。