第三話

魔術

 人の立ち入りを拒むかのように樹木や岩が迷路を作り出しているような、そんな異様な山を一頭の白い獅子が駆け上がっていく。
 障害物を寸前で躱し、裂けた大地を飛び越える。そんな経験もしたことない運転を、ルーカンは麻痺しだした感覚で感じていた。
 手綱と呼べるようなものもないのに、アルスルは獅子を上手く操り山の頂上を目指す。
 ふと、ルーカンは寒さを覚える。
「(さ、さっきまであたたかったのに……)」
 今は獅子とアルスルに挟まれている状態なのに、寒くて体が震えだす。心なしか吐く息が白くなってきた。
 チラチラと視界の端を掠めるものがある。白い結晶――つまり、雪だ。
「くっ、ミルディンめ……」
 アルスルが小声で呟く。その言葉には確かに苛立ちが含まれていた。
 ルーカンは思い出す。アルスルと、獅子を貸してくれた男性ユーウェインが言っていたことを。
『どうせロクでもない歓迎をしてくるに違いない』
『あの方はアンヌヴン一の悪戯好きですからねぇ』
 それは、このことだったのだろうか。しかし、とルーカンは思い改める。
 天候を操作出来るはずがない、と。
「まずい、積もってきた――」
 アルスルの声に、ルーカンは目を周囲に向ける。驚くことに、先ほどまで緑に覆われていた山が、あっという間に雪山へと変貌していたのだ。
 降っていた雪は吹雪となり、二人の視界を確実に奪いつつある。現実なら遭難状態であろう。
「ま、まだなの?」
「そうだな、あと――っ!?」
 急にルーカンの視界が反転した。獅子の温もりが消え、吹雪の冷たさが勢いよく襲いかかる。状況を理解できず、思わず目を強く閉じた。
 ドスッと重いものがぶつかったような音と軽い衝撃があった。それと同時にかなりのスピードで進んでいたはずの動きが止まった。そうっと瞳を開くと、真っ白な世界が覗いた。
「あ、あれ?」
「――っ、だ、大丈夫か? ルーカン」
 後ろからアルスルの声がする。とりあえずルーカンが頷くと、安堵の息が聞こえた。
「……獅子に落とされてしまったよ。まぁ、着いたからよかった」
 どうやら先ほどの衝撃は獅子から振り落とされたものだったらしい。後ろからアルスルの声がするのは、ルーカンを落下の衝撃から庇ったためであろう。
 アルスルの手を使い、立ち上がるルーカン。よく見ると目の前に明かりの灯った木造の家がある。
「あれがミルディンの住む家だ。……用心してくれ。何が出てくるかわからないからな」
「……もう、十分だよ!」
 ガチガチと歯が音を鳴らす。落とされた衝撃で多少忘れていたが、今は極寒の雪山にいるのだ。寒くてたまらないルーカンは、何があってもいいから早く暖かい場所へ行きたかった。
 数歩、雪に足と視界を取られながら家の扉の前に立つ。アルスルが前に出て、ルーカンは半歩ほど後ろに下がっている。何かあっても対処しやすいようにだ。
 アルスルは少し深呼吸をし、ノックもなしに扉を勢いよく開け放った。
「ミルディン! ずいぶんな歓迎の仕方だな!」
「ほっほっほ、これはこれは――迷い子がエランテースを連れて、なんのご用件かの?」
 中には、笑いを堪えながらこちらを見ている老人がひとりいた。

「ルーカン、コレが魔術師ミルディンだ。……くれぐれも信用するんじゃないぞ」
「コレとは失敬じゃぞ。誰がお前に名をやったと思っておる」
 アルスルは真剣そうなのに、対するミルディンのよくわからない態度にどうすればいいのかよくわからないルーカン。
 とりあえず、体を温めるためと言って手渡されたホットミルク――なぜかいれてくれたのはアルスルだった――を口に含む。ハチミツの甘い味が広がった。
「しかし、こんな寒い山を獅子で駆け上がるとは――相変わらず単純なことだ」
「我々が山に入ったときはまだ雪など降ってなかったんだが?」
 アルスルの怒りを含んだ言い方に、ミルディンは笑うだけだった。
 あとから聞いた話では、ここアンヌヴンは基本的に常春で、雪が降るのはほぼミルディンの仕業なんだとか。
「さて……本題に入るとするかの。迷子のエランテースよ、仮初の名は?」
 じっ、とルーカンを見つめて問いかけるミルディン。先ほどの人を食ったような口調ではなく、正しく賢者という雰囲気をかもし出していた。
 その様子に緊張しつつ、ルーカンは言った。
「……ルーカン」
「ほほぅ。――アルスルらしいの」
 ポツリとこぼされた言葉に、ルーカンだけではなくアルスル本人も目を瞬かせる。
 問いただしたそうなアルスルだったが、既にミルディンの魔術が始まっていることを知っているため、黙り込んだ。
「では、お主の暮らしていた土地の名は?」
「ドーズマリー……!」
 しっかりと、記憶を噛み締めるように言うルーカン。名前とは違い、きちんと覚えていることが嬉しかった。
「ふむ、では最後に――好きな食べ物は何かの?」
「は?」
 思わず転びそうになった。真剣そうで、しかもルーカンが生きてきた世界に関係のある質問が来ると思っていただけに、その質問は意外すぎた。
「これ、重要なことであるぞ? さっさと言わんかい!」
「え、えっと……ウェルシュケーキとか?」
 ぱっと思いついたのが、母のお手製お菓子だった。その中でも特に好きなものの名を上げた。
 それらを聞き終えたミルディンは瞳を閉じ、瞑想状態へと入った。
 時折り口を開いたり閉じたりして、目が開いたのは数分経ってからのことだった。
「……無理じゃ」
「はい?」
 待ち構えていたルーカンの期待を裏切るかのように、ミルディンが発した言葉は明確な否定。簡潔すぎて、一瞬何を言っているのかわからなかった。
「少なくとも“躯の名”程度は分からねば無理である。――以上だ」
「ミルディン!」
 アルスルが鋭く叫ぶ。ルーカンの顔にははっきりと絶望の表情が浮かんでいた。
「仕方ないであろう。ここは異界アンヌヴン。入るには名を差し出し、代わりに楽土を手に入れられる。……それがここの法則である」
「だからといって、言っていいことと悪いことがあるだろうっ! ああ、やはり来るべきではなかった」
 後悔するアルスルにルーカンは抱きつき、会った時と同じように泣き出した。もはや声もなく静かに涙を流すのを、アルスルは見ていられなかった。

 すっかり日も暮れた頃、ルーカンは泣き疲れて眠ってしまった。彼をそっとミルディンの寝床へ寝かせ、ミルディンをきつく睨みつけるアルスル。
 それをミルディンは困った顔で見つめていた。
「……湖の乙女ならば、名を返せるよな――?」
「本気かの?」
 確かめるように問いかけるアルスルの言葉に、ミルディンは目を見開く。
 湖の乙女――ここアンヌヴンを支配する妖精であり、またミルディンと同じく魔術師でもある。この地は、全て彼女の手のひらの内と言ってもいい。
「本気だ。……私とは違い、ルーカンには帰るべき場所があるのだ。それにまだ幼い。帰る方法を探してやらなければ、あまりにも……」
「…………」
 ミルディンの無言を肯定として受け取ったアルスル。ミルディンは悲痛と――どこか笑みに似た表情を浮かべ、アルスルに聞こえないよう囁いた。
「……時が、来たのやもしれんな――」
 そうして音もなく立ち上がると、アルスルの背中を思いっきり叩いた。
「っいつ!?」
「行くなら止めはせん。しかし――怪我ぐらい治さんとな」
 ミルディンの言葉に下唇を噛むアルスル。そう、ルーカンの前では隠していたが、実は獅子から落下した際に傷を負っていたのだ。
「ほれ、背中を出さんかい。こんなんじゃ乙女も幻滅するぞ?」
「だ、だいたいあなたが吹雪なんて起こすからでしょう!?」
 文句を言いつつも、しっかりと従うアルスル。それを優しく見つめるミルディンの姿は、まるで父親のようにも見えた。


 次の日の朝、まだ目の赤いルーカンとともにアルスルが立つのを、そっと見守ったミルディン。
「……さて、儂も準備するかの」
 そう呟いた瞬間、ミルディンの姿は蒼い光となり、地面に吸い込まれるようにして消えていった。