第二話

獅子のに跨がり

「……ぁ」
 少年ルーカンが気がついたのは、ちょうど日が昇る瞬間だった。
 体にかぶせられていた上着をそっと横に置き、立ち上がる。そのまま辺りを見渡し、これが夢でないことにショックを受けた。
 心のどこかで夢だと思いたかったことは、夜明けの刺すような寒さや相変わらず思い出せない本名からして、全て現実だと無情に告げていた。
「……ひどいや」
 止まったはずの涙が再び溢れそうになる。それを振り払うように、強引に首を振った。
「あ、起きたな。おはよう、ルーカン」
 差し込まれる朝日の中を歩いてきたのは、ルーカンを見つけた青年アルスル。手にはリンゴのような果実をいくつか手にしていた。
「お、おはよう……ございます」
「腹は大丈夫か? 私は正直、空腹というのがわからないからな……」
 そんなことを言いながら、アルスルは持っていた果実を差し出す。ルーカンはここで自分が空腹であることに気がついた。何しろ昨日はパニックとなっていたため、空腹どころではなかったのだ。
 おずおずと差し出された果実を受け取り、一口かじる。ほのかに酸味があるが、基本的にはハチミツのように甘いその味は、やはりリンゴを連想させた。
「おいしい――」
 ポツリとこぼされた言葉に、アルスルは笑みを浮かべた。
「それはヴァルと呼ばれてるものだ。ここではそれが一般的な食事になるな」
「……え、肉とか食べないの?」
 ルーカンは驚きで目を見開く。確かにこのヴァルという果実は美味しいが、これで腹が満たされるとは思わない。
「少なくとも私は必要だと思ったことはないな。……もともとこの世界では、食事という行為は娯楽の一種にあたる」
 小難しい単語に理解が追いつかないルーカンを見て、アルスルは慌てて言い直した。
「つまり、ここでは食べること自体が少ないんだ」
「へぇー……。変なの」
 ルーカンにとって食べるというのは本能である。それが必要ではないということがイマイチ理解しきれないまま、ヴァルをほお張る。
 それを見ていたアルスルも、ルーカンに渡したヴァルよりも随分と小ぶりのものを少しずつ食べ始めた。

「じゃあ、いいか? これから君を助けられそうな人のところへ行こうと思う」
 ルーカンが食べ終わるのを待ってから、アルスルがそう切り出した。
「か、帰れるのっ!?」
「あくまで可能性がある、という程度なのだが……」
 歯切れの悪いアルスルをよそに、ルーカンは心の底から歓喜した。
 同じエランテースという存在であるアルスルは、この異界でずっと暮らしていると聞いた時から、もう戻れないのではないかという不安でいっぱいだったのだ。
「だれなの? その人」
「ミルディンという……まぁ、変わった人だが魔術師としてはかなりのものだ」
 なぜかアルスルの言い方に、行きたくなさげな気配を感じた。だが、それよりも帰りたいという意思の方が強いルーカンはアルスルの腕を引っ張る。
「連れてって! その……ミルディンのとこに!」
「あぁ。……ではそのための“足”を用意しに行くか」


 曲がりくねった獣道を難なく進んでいくアルスル。ルーカンは獣道に入ってすぐ、迷子になりかけた。そのため現在はアルスルの背中に背負われている。
「カァー!」
「うるさいぞ」
 ルーカンの文句は、彼の頭上に居座るカラス――ルフェに向けて発せられた。
 アルスルによると、ルフェとは彼が異界で気がついた時からずっと一緒にいるらしい。ルフェという名はアルスルが付けたのではなく、なんでも彼女――ルフェはメスらしい――が名乗ったのだとか。
「カラスがしゃべるわけないじゃん」
「喋った、というよりは……そんな感じに鳴いたんだ」
 それこそありえない、とルーカンはルフェを睨む。睨まれてる本鳥は涼しい顔でルーカンの頭に居座ったが。
「まだなのー? その、“足”があるところは」
「そろそろだな……。あ、ユーウェイン!」
 森の中にできた広場のような場所。その中心あたりに人影が見えた。アルスルはその者に向けて声を上げた。
 こちらを振り向いたその者を見て、ルーカンは驚きで口をパクパクと動かす。
 初老になるかどうかと思われる年頃のその男性は、一頭の白い獅子を連れて歩いてきたのだ。獅子は男性を守るかのように寄り添っている。
「これはこれは、アルスル様。どうかなさいましたかな?」
 優しそうな笑みを浮かべ、男性はアルスルに言った。様付けで呼んだことに、ルーカンは疑問詞を浮かべる。
 背負ったルーカンを降ろしつつ、アルスルはため息を吐いた。
「様付けはやめてくれ、ユーウェイン。……“足”が借りたいんだが、いいか?」
「お安い御用ですぞ。何がよろしいですかな? 獅子に蛇にグリフィン、なんでしたらカラスの大群でも呼び寄せますぞ」
 カラスの大群という言葉にルフェが嫌そうな声を張り上げる。爪がルーカンの頭を襲う前に、アルスルが腕へと移動させた。
「獅子、それも一番強いのだ。……ミルディンのところへ行かなくてはいけないのでな」
「し、獅子ってライオンでしょ!? のれるわけないじゃん!」
 黙っていたルーカンだが、思わず不服を唱える。“足”と聞いたとき、馬だと思い込んでいたために衝撃は大きい。
 アルスルは、困った顔をしてルーカンに言った。
「しかし、相手はあのミルディンだ。どうせロクでもない歓迎をしてくるに違いない」
「あの方はアンヌヴン一の悪戯好きですからねぇ」
 獅子を連れた男性ユーウェインも、同意を示す。
 それでも、ルーカンは己が持つ価値観から、獅子に乗るということが受け付けられなかった。獅子――即ちライオンは、ルーカンの世界では肉食獣としてあまりにも有名なのだ。抵抗がない方がおかしい。
「大丈夫ですよ、エランテースの少年。この子は人は食べませんから」
 ユーウェインが寄り添っていた獅子のたてがみを優しく撫でる。獅子はまるで猫のように甘えた鳴き声を出した。
 けれど、ルーカンは納得できなかった。
「でも――!」
「ルーカン、いざとなったら私が庇うさ。だから、ダメか?」
 結局ルーカンは、ユーウェインが連れていた白い獅子とアルスルに挟まれる形で跨ることとなった。
「では――お気を付けて」
「ああ、またな。……行くぞ、ルーカン!」
「ま、待って! これ――う、ぅわああ!?」
 これでもか、というほど強くたてがみを握り締めながら、ルーカンは叫んだ。
 不安定な獅子の背中に、驚くほど速いスピード。思わず暴れだしそうになるのをアルスルがそっと押さえ込む。
 そしてそのまま――変人魔術師ミルディンの住む山を登りだした。