第四話

ゲームの仕返し

 行きとは違い、晴天の山を歩いて降っていく二人。未だにショックが抜けきらないルーカンをアルスルは必死に慰めていた。
「湖の乙女なら、きっと名を返せるよ。だから……な?」
「…………ん」
 期待していただけに、ルーカンの悲しみは大きかった。怖い思いをしてまで行ったのに、返事が簡潔すぎたのも心に強く傷を残していた。
「……アルスルは、さ。帰りたいとか、思わなかったの?」
 話をそらしたくなったルーカンは、自分の手を引く彼へと疑問を問いかけた。正直に言えば不思議だったのだ。
 自分と同じくエランテースであるというアルスルは、もうずいぶん長い間アンヌヴンで生きてきたらしい。彼が記憶を失っているということをまだ知らないルーカンにとっては、それが不思議でたまらなかった。
「あ、言ってなかったか。私はこちらへ来る前の記憶がないんだ。だから帰る場所なんて見当もつかないし、帰る必要も感じない」
 呆気からんと言い切ったアルスル。記憶がないことに何の疑問も抱いていない様子だった。
「――え、でも! もし誰かがアルスルの帰りを待ってたらどうするのさ?」
「……あぁ、そうか。……すまない、考えたこともなかった」
 ルーカンの疑問に、純粋に驚いたアルスル。彼の様子からして、本気で考えたこともなかったのだろう。そんな彼を信じられない顔で見つめるルーカン。
 ルーカンの脳裏に浮かぶのは家族の姿。続いて友人や先生など身近な人物たち。大切な彼らにもう会えないかもしれないという不安を抱き続けるルーカンにとって、アルスルの思考は理解できないものへと変わった。
 それを非常に困った顔をしてアルスルは言った。
「しかし――こちらにはずいぶんと良くしてくれる者たちがいたから、嫌だとは思ったこともないし……。まぁ、ミルディンは除くが」
 そんな人がいるのか、とルーカンが口を開きかけたとき、聞き覚えのあるカラスの鳴き声が響いた。
「あ、ルフェ! こんな近くまで来るなんて、珍しいな」
「どういうこと?」
 そういえば、とルーカンは思い返す。ミルディンを訪れるために獅子に乗せられたとき、既にルフェの姿がなかったことを。常にアルスルと共にいると聞いていたので、今更ながら不思議に思った。
 そのことに気がついたのか、アルスルはルフェに向かって腕を出しつつ答えてくれた。
「ルフェはミルディンが嫌いらしくてな、彼に会いにいくときは絶対について来ないし、家の近くに寄ろうともしないんだよ。だからこんなに近くまで来たのは初めてじゃないか?」
「カァッ!」
 アルスルの腕に掴まりつつ、不満げな声を上げるルフェ。意味はわからないが、なんとなく好きで来たんじゃない、と言っているように聞こえた。
「カ、カァア!」
「え? あ、こらルフェ!」
 バサリ、と大きく翼を広げたかと思うと、ルフェは急に飛び上がった。アルスルの袖口を掴んだままに。意外なほど強い力でアルスルを引っ張るルフェ。初めての行動に戸惑いを隠せない。
「あ、アルスル……!」
 慌てて駆け寄ろうとしたルーカン。一歩踏み出すのと同時に、謎の浮遊感に襲われた。
「あ、れ?」
 声を出そうと思った瞬間、非常に強く口を塞がれた。鉄と鉄がぶつかり合うような不快感を催す音と、喉元に冷たいものが当たる感触、そしてやけに視界を占める緑色が、ルーカンの五感を支配した。
「見つけたぞ……! ゴーヴァン!!」
 背後、いや真上から憎悪と狂気を孕んだ声が放たれた。ここでようやくルーカンは、この声の持ち主に捕まっているのだと理解した。
 大きな手で視界すらも遮られたルーカンは、アルスルの姿を求め暴れだす。しかしこの巨漢の人物には効果がないようで、誰かに向かって叫びだした。
「仕返しだ――! ゲームの仕返しだ!」
「貴様――ルーカンを離してもらおうか」
 声だけだが、アルスルから怒りの感情があらわに伝わってきた。それすらも彼には伝わらないようで、続けにこう言った。
「日が落ちる頃、我が屋敷に来い、ゴーヴァン! あの時のようにはさせんぞ――」
 そう言って、彼は狂ったように嗤った。

 ルーカンが気がついたのは、ちょうど夕日がよく見える時間だった。あのあと、どうやら狂った男はルーカンを捕まえたまま、自分の屋敷に戻ってきたらしい。
 薄い絨毯が申し訳程度に引かれた、大広間のような場所にルーカンは寝かされていた。体を縄で縛ってあり、動くこともままならない。
「(アルスル……)」
 ポツリと心の中で呟く。この異界でルーカンが頼ることのできる人物は、彼しかいなかった。
 大きな金属音が近づいてくるのがわかり、ルーカンは目をゆっくりと開いた。助けに来てくれたことを期待しつつ。しかし、現れたのはあの巨漢であった。
 狂ったように笑みを浮かべ、古びた緑の剣を磨いているその姿は、悪魔を連想させた。
「今度こそ……。今度こそ、落としてやるぞ。ヤツの――」
 耳を塞いでしまいたかったが、あいにく腕は縛られていて動けそうもない。再び目を閉じようとした。
 その時、金属音なのだが、巨漢が発しているのとは比べ物にもならないほど綺麗な音がルーカンの耳に届いた。まるで鈴を鳴らしたかのようだ。
 そうっと目を開けるルーカン。いつの間にか、大広間に別の人物が現れていた。
 太陽のような輝く剣を持ったその人物は、見た目からアルスルを思わせたが、雰囲気が違っていた。アルスルは柔らかな雰囲気をまとっているが、今いる者はもっと研ぎ澄ませた空気を持っている。
 まるで――騎士のようだ、と状況も忘れてルーカンは見惚れた。
「きたな……! ゴーヴァン!! この時を、一年も待ち続けたぞ!」
「そうか。ならば――もう一度、決着をつけよう」
 グワルッフマイと呼ばれた者は、巨漢の言葉に興味も持たない様子で、いきなり剣を振るった。それを、巨漢が乱暴に跳ねのける。たったそれだけで、空気が痛いほどに震えを上げた。
「ルーカン、大丈夫か?」
 小声で囁く聞きなれた声に、ルーカンは泣きたくなるほどの安心感を覚えた。夢中で首を縦に振ると、縄がゆっくりと外されていく。完全に外れた瞬間に抱きかかえられ、そっと大広間から抜け出す。
 アルスルが苦笑を浮かべているのを見て、ようやくルーカンは力を抜いた。
「怖かった……」
「すまないな。私の知人があいつに因縁があったらしい」
 その知人というのが、先ほどの騎士のような人物なのだろう。耳をよく澄ますと、金属同士が激しくぶつかり合う音が鈍く響いている。
「さっきの人……アルスルに似てるね」
「ああ、よく言われるよ。そのせいで間違えられたんだけどな――」
 はぁ、とため息をつくアルスルだが、ルーカンはそれほど気にしてもいなかった。確かに怖かったが、それ以上に――先ほどの騎士の姿に心を奪われたのだ。ルーカンのいた世界では騎士は既に過去のものとなっている。しかし、誰にも話したことはないが、ルーカンは騎士になりたいという夢を持っていた。
 だから、怖い思いをしたかいがあった――とまではさすがに言えない。それでも騎士のような人に会えたというのは、ルーカンにとってこの異界に来てよかったと思える程の嬉しさだった。
 嬉しさのあまり笑みがこぼれるルーカンを見て、アルスルはホッとしたように息を吐いた。
「じゃあ、先に行こうか。彼――ゴーヴァンとは、明日話をすればいいだろう?」
 もう日も暮れているのに加え、いきなり襲われたのだ。今は興奮しているためそうでもないが、体には疲労がある。ルーカンが彼ゴーヴァンと話したがっているのに気がついたアルスルは、休む方が先だと、ルーカンを促す。
「うん……」
 少々名残惜しそうだが、疲れているのも事実で、ルーカンはわりと素直に従った。