第一話

名無しの二人

 ひとりの男性が森の中を歩いている。二十代半ばと思われる彼は、肩に一羽のカラスを乗せ慣れた足取りで森の中を進んでいく。
 木々の間からやわらかな日差しが、彼の金髪を輝かせるように降り注ぐ。それを肩に乗ったカラスは煩わしそうに「カァー」と不満の声を上げた。
「あ、ゴメンな。ルフェ」
 気がついた彼が慌てて日差しを遮ろうとするが、ルフェと呼ばれたカラスは翼を広げ飛び上がった。飛び立つ際、彼の肩に深く爪を立てるのを忘れずに。
「痛っ!? わ、悪かったって。ルフェ!」
 上空に向かって大きく叫ぶが、返ってきたのは翼を羽ばたかせる音だけだった。
 彼は深く息を吐き、痛む肩口を押さえながら再び歩き出した。大地を敷き詰めるかのように複雑に絡み合う木々の根の上に乗り、時折り飛び跳ねるようにしながら進んでいく。

 そうしているうちに、急に視界が広がった。森を抜け、海岸のような場所が見える。足場にしていた根から飛び降り、大きく伸びをした。
「はぁー。いい天気だな……」
 そう彼は言うが、ここでは滅多に悪天候にはならない。この地を支配する何者かが、天候をも操作しているのだから。けど、そのことについて彼はよく知らないままだった。
 というのも、彼には一般的に言われる『記憶』というものが欠如していた。いつからこの地にいるのか、そもそも自身は何者なのか。そんな基本的なことすら彼からは消え去っていた。そして、そのことに大して疑問も持っていない。
 むしろ――それが“この地”では普通のことだとすら思っている。
「カァー!」
 ひときわ大きくルフェが鳴いた。彼が空を見上げると、青と白のコントラストの中に、一点の黒が旋回をしていた。彼のすぐ上空を三回ほど旋回したあと、海岸を沿うようにして飛び始めた。まるでついて来いと言わんばかりの飛行に彼は、疑問よりも先に従った。
「(どうかしたのか? ――っ、あれは)」
 砂浜に、ひとりの少年が倒れている。ルフェはその少年の近くに降り立ち「カァ!」と鳴いた。ルフェの意図に気がついた彼は、少年のもとへ駆け寄る。見た限り怪我はないようだ。
「まさか、エランテースか?」
 そうっと少年を抱き上げ、自身の上着をかけてやる。そのままゆっくりと木陰へと運んでく。
「カァー」
 ルフェが何かを語りかけるように彼を見つめる。それを読み取った彼は小さく頷いた。
「ああそうだな。もしエランテースなら、ミルディンに頼むしか――」
 そこで言葉を切る。少年が身じろぎしたためだ。
 ふるふると目蓋が震え、ゆっくりと少年の瞳が覗く。寝ぼけているようで、半目の状態だ。
 彼は少年を極力驚かせないよう、優しげな口調で話しかける。
「大丈夫か? 安心して――とは、言い難いが……」
 彼の顔に浮かぶのは苦笑。“ここ”がどんな場所かを思い出し、言葉に詰まった。
 後ろでルフェが不満そうな声を上げたが、彼は肩をすくめるにとどまった。
「…………え? えーっと――ここ、どこ?」
 何度も瞬きをし、ようやく意識が覚醒してきた少年は戸惑いをあらわにした。
 そうだろうな、と心の中でつぶやき、彼は少年の問いに答えるため口を開く。
「ここは異界“アンヌヴン”。おそらく君の生きていた場所とはかけ離れた世界だ」
 彼の返答に、少年は
「――――――――え、えぇええっ!?」
 予想よりも大きな声で叫び、そばにいた彼とルフェの耳に強い衝撃を与えた。
「ぅっ! ……す、すまない」
「カァ!」
 怯みつつ、少年を落ち着けるための言葉を探し出す。が、その前に怒ったルフェが少年の頭を自慢の翼で叩いた。
「ひっ!?」
「ル、ルフェ!」
 驚いた彼が慌てて抑制の声を上げる。少年は何が起こったのか理解できず、目を瞬かせるばかり。
 ルフェはそんな二人を見て、イタズラが成功したのを喜んでいるように「カァ!」と笑うように鳴いた。
「……はぁ。とりあえず、落ち着いたかな?」
 再び彼は少年に語りかける。未だ事態についていけない少年は、訳も分からず頷く。
 そんな少年の心情を感じ取った彼は、笑顔を浮かべて――一番に確認しなければいけないことを訊ねた。
「ところで……君は、自分の名前はわかるかい?」
 彼の問いに答えようとして、少年は口を開いた。しかし、その瞬間表情が凍りつく。
 やはり、という顔をして彼は深くため息をつく。
「やっぱり君はエランテースのようだね……」
 エランテースというのは、この異界“アンヌヴン”にごくごく稀に現れる存在である。
 何かしらの要因によって異界へと招かれた、大半は子供であることから『迷い子(エランテース)』と呼ばれている者たち。その子らに共通する点は『名を失っている』ということだ。中には名だけではなく、ほかにも様々なものを失った子もいた。
 そして、彼自身もまたエランテースである。彼は名どころか、記憶と呼べるものすべてを失ったが。
 だからこそ、人一倍少年の今の気持ちが理解できた。
「とりあえず、名がないのは不便だな……」
 彼自身も名はないが、アンヌヴンに住む者たちから仮の名を与えられている。もとの名などあったかどうかもわからない状態だったため、抵抗は一切なかった。
 しかし、見たところ少年の記憶はあるようなので、仮名などで呼ばれるのは辛いだろう。
 どうしようか考えていると、少年が小さく呟いた。
「名前、つけて」
「えっ?」
 驚いて彼が少年を見つける。少年は今にも泣き出しそうな顔をして、瞳には恐怖の光を宿していた。
「名前……ないのは、こわいよ」
 ああ、と彼は納得した。経験があることだったから。
 自分が誰かわからない――というのは、かなりの恐怖なのだ。今でこそ彼は気にしていないが、それは周りの者たちが助けてくれたからである。記憶がないといったこともあったため、少年よりは衝撃が少なかったのもあるが。
 おそらく少年は、己の記憶を振り返り、家族や友人が少年の名を呼ぶ場面を思い出している。……名を呼ぶ音だけを切り取られた記憶を。
 彼よりも恐怖は大きいであろうことは、想像に難くない。
「……いいんだな?」
 彼の問いに、一度だけ首を縦に振り返答する少年。
 ならば、と彼はここに来てからの記憶を掘り起こし、ある単語が思いついた。
「では、ルーカン……と呼ばせてもらおうか」
「ルーカン……」
 与えられた名を確かめるように、少年――ルーカンは何度も繰り返す。
 その様子にかつての己の姿を重ねる彼は、そっと笑った。
「私のことはアルスルと呼んでくれ。君と同じくエランテースだ」
「アルスル……うん」
 そうして、落ち着きとともに少しずつ嗚咽を上げる少年。
 少年の心を埋め尽くすのは、不安の一言に尽きる。それを知っている彼は、静かに少年を包み込んだ。