ロローグ

「知ってるかい? すべてのモノには『名前』が存在する」

 何もない真っ白な世界。そんな中、声だけが響き渡る。
 青年のようにも老人のようにも聞こえるその声は、誰かに諭すかのような口調で声を響かせる。
「その『名前』には、二種類あるんだ。ひとつは――“(カラダ)の名”」
 突然、真っ白な世界に人が現れた。蒼いローブを身にまとい、古めかしい杖を持ったその人は、声と同じく老人のようにも青年のようにも見えた。
「この世に生を受け、生みの親より賜った名。それが“躯の名”。そして、もうひとつ――」
 次の瞬間、彼の姿が歪み出した。気がつけば、彼がいた場所に蒼く仄かな光を放つ球体が浮かんでいた。
 よく見ると表面には文字が刻まれている。まるでその光を縛り付ける鎖のように。
「これが“魂の名”だ。何度転生しても決して変わることのない『名前』。確か真名(マコトナ)とも呼ばれていたね」
 強く光が瞬く。球体は再び人の姿に戻っていた。
 ふと、どこからか鈴を鳴らしたかのような澄んだ音が聞こえた。
 リン――、と響くその音はどうしてか、人の声を連想させた。
「ふむ、どうして『名前』が二つあるのか? ……そうだね、確かに不思議なことだ」
 彼は何もない空間を見つめ、返事を返す。先ほどの鈴の音を疑問の言葉として受け取ったかのように。
「しかし、答えは意外と単純だ。教えてあげよう――はるかな昔、人間はみな“魂の名”を知り、呼び合っていた」
 彼が杖で何もない空間をコツンと叩いた。すると、叩いた杖の先から絵の具を流したかのように色が吹き出した。
 色はグルグルと円を描きつつ、少しずつ絵画へと形作っていく。
 絵画に映るのは決して多くはない数の人間たち。見た目からして、まだきちんとした文明を持っていなかった頃であろう。
 すると絵画に、他の人間とは違う雰囲気を持つ者が現れた。
「“魂の名”は文字通り、そのモノの本質を示すもの。……それを知り、操ることができた人物がいたんだ。人々はその者達を《魔術師》と読んでいたよ。畏怖を込めてね」
 絵画に映る魔術師が何かの言葉を発すると、空が裂け雷が降り注いだ。それを控える人々が恐怖を宿した表情で見つめている。
「あるときひとりの魔術師が思ったんだ。他人を操ることはできるのか? と。そして彼は実行した……」
 魔術師が人を指差し、叫ぶように何かを言った。すると、指された人間は急に表情をなくし、操り人形のように魔術師の言われるがまま動き出した。
「これを知った魔術師たちは、大勢の人間を操った。力のない人間たちは、いつ自分が支配されるか怖くてたまらなくなり――“魂の名”を言うのをやめてしまったんだ」
 絵画は場面を早送りするように進んでいった。ようやく鮮明に映ったところは大きな町並み。かなり現代に近くなっている。
 先ほどとは打って変わって、たくさんの人間が行き来している。
「“魂の名”の代わりに“躯の名”を使い出した人間たち。いつしか“魂の名”を知る者はほんのひと握りになってしまったよ。……私かい? 知っているよ。これでも魔術師の端くれなのでね。まぁ、そんなわけで――嫌われてしまった魔術師たちは行き場を失い、各々で“異界”と呼ばれる場所を創り上げたんだ」
 彼が杖を振り上げた。すると映っていた風景が一変した。
 緑が生い茂り、動物たちは歌い、水は水晶のように透き通っている。まるで楽園のような場所だった。
「ここは異界“アンヌヴン”。数ある異界の中で最も美しく――最も酷いとされる場所だ」
 フッと照明を消したかのように辺りが闇に包まれた。はじめの真っ白な世界とは逆の、真っ黒な世界。
 その中で再び光る球体となった彼が、地面に吸い込まれるようにして消えていく。
「では、少年よ。異界“アンヌヴン”で待っているよ。そして――」
 最期の言葉を言い終える前に、彼は闇の中へと飲み込まれていった。



***



 その少年は、ごく普通にどこにでもいるような、特に目立った特徴もない。
 歳はちょうど七歳になったばかり。家族構成は両親と妹がひとりいる。
 性格はどちらかというと消極的。外に出て遊び回るよりは、家の中で本を読んでいることの方が好き。
 そんな、どこにでもいるような少年だった。


 ある日のこと。少年は妹と共に近所にある湖畔へ遊びに来ていた。
 木陰で本を読もうと腰を下ろしかけたとき、妹が言った。
「おにいちゃん! かくれんぼ、しよ。わたしがつかまえるから、おにいちゃんはかくれてね!」
 彼が了解の返事をする前に「いーち、にーい……」と数を数え始めたので、仕方がなく本を持ったまま隠れられる場所へと歩き出す。
 少年は特に慌てる素振りもなかった。というのも、ここで遊ぶのはいつものことなので隠れられる場所は把握済みである。
 それに、妹は数を数えているはずなのだが、先ほどから数字が行ったり来たり。
 無理もない。なにせ彼女は四歳になったばかり。数を覚えたのもつい先日だ。
 だからこそ、少年は余裕の表情で目的地へと足を進めた。
 ――ふと、足を止める。目的地に着いたのだ。
 少年の目の前には桟橋と、それに寄り添うボートが一隻。ボートには青いビニールシートがかけられていた。
「よしっ」
 嬉しそうに拳を握る。ゆっくりとボートへ近づき、かけられていたシートを少しだけめくり上げる。そして、するりと身を滑り込ませた。
 今度は外から見えぬよう、自身を覆うようにシートをかける。これで少年の姿は簡単には見つからないであろう。
「もーいいーかーい?」
 遠くから妹の声がした。ようやく十の数を数え終わったのだろう。
 少年はシートを少しだけ持ち上げると「もーいいよー」と大きな声で返事をした。そして素早くシートを戻す。ここでようやく人心地ついた。
 妹に見つかるまでかなり時間があるだろうと思い、少年は手に持っていた本を開く。
 シートの中は薄暗いが、何度も何度も読んだお気に入りの本なのだ。多少読みにくくても頭の中で勝手に文字が浮かんでくる。
 そして浮かび上がった文字はいつの間にか形となり、少年に見せてくれるのだ。
 現実ではありえない、不思議な世界たちを。
「(どこから読もうかなぁ……)」
 パラパラとページがめくれていく。チラチラと視界に入ってくる文字が形を作っては消え、新たに作られては消えるのを繰り返す。そうしているうちに、あるページで動きが止まった。
 そこには他のページよりも強く、何度も開かれた跡がついている。少年が一番好きな物語だ。
 クスッと少年は笑みを浮かべ、ページの題名に目を通す。

『The Once and Future King』

 この動作だけで、少年の頭の中にはひとりの人物が形作られた。この物語の主人公であり、少年が最も好きな英雄である。
 彼の名は――――