決戦の時来たれり

其は全てを釈するもの -03-

 現世にサーヴァントとして召喚されてから驚いたのは、まず大気のマナの薄さだった。神代とは比べようもない微量な魔力。そして周囲に無尽に蔓延っていた魔に属する霊族たちの不在。
 ソロモン王の真価は『契約召喚』にある。異なる理に生きる物たちと契約し、従える。逸話としてもっとも有名な七十二柱の魔人に由来するスキル『召喚術:EX』を駆使することで辛うじて体裁を保ってはいるが、それでも【異界から召喚契約】するのと【その場で契約し使役する】のとでは戦略が変わってくる。前案の場合、使用する魔力量も膨大だ。小宇宙を形成してなお有り余る魔力を有していた生前とは違い、いまは器が定められたサーヴァント。その魔力量は時にそのマスターへ負担を強いることになる。それは絶対に避けるべき事態だ。
 だからこそ、このような日を迎える時までに備えた魔術王の神殿には無数の魔族が揺蕩っている。少しずつ、マスターに影響の無いよう細心の注意を払いながら密かに召喚し契約を結び続けた物たち。悪鬼悪霊妖精妖怪精霊にいたるまで、古今東西のありとあらゆる魑魅魍魎を寄せ集め、非活性状態で神殿内に待機していた。あとは王の命令が下るのを待つのみ。

「だけど、きっと意味なんてないのだろうね」

 神殿の最深にして中心部にて、キャスター・ソロモンは目を伏せながら呟いた。

 これからこの地へやってくるものを考えたら、神殿内の霊たちはあまりにも脆弱だ。並クラスのサーヴァントであれば撃破まで視野に入った可能性もあったが、今回の相手はソロモンが対決する存在として、相性がこれ以上ない程最悪だった。
 数刻前から千里眼は常時開放状態にしてあるが、未来視は一向にソロモン陣営の勝利を捉えない。敗北する未来も視えていないのでその点は安心だが、とても楽観視できる状態ではない。

「……ふぅ」

 瞑想をする。自身の取れる選択を再確認。そしてそこへ至る道筋を思案し、演算する。宝具の展開はどのタイミングで行うべきか。かのサーヴァントに対して有効なのはどの演目か。思考は留まらず、泥沼に引きずり落とされていくような錯覚。
 そこまで来て、こんな非効率的なことを考えている自分自身に少しばかり驚愕する。
「私は昔から、勝てる戦にしか出陣しないはずだったのだが……」
 どうしてこんなにも勝率の低い戦闘に、自身が真っ向から立ち向かっているのだろうか?
 相性が悪ければ直接手を出すなど言語道断。アサシンのように影から使いを差し向けたり、相手側のマスターを執拗に狙うという戦法も採ろうと思えば何時でも出来た。それでもなお、ソロモンはここにいる。

 ふと、千里眼が起動する。珍しくノイズの少ない清涼な音と画質。それはごく最近確定したばかりの過去である、と経験から悟った。

『キャスターはさ、きっとあのサーヴァントに■■■■たいんじゃない?』

 聞こえてきたのは今世で契約を結んだマスターたる人物の声。未熟でありながら懸命にソロモンを支えようと全力を尽くす若人。この神殿の前で別れた際にこのような会話を交わした記憶がある。
 自身の微弱ながらも確実な変化による戸惑いを無意識下で感じていたらしく、マスターに過剰なまでの護りを施そうとするソロモンを笑って押しとどめそう告げた。これから死地に赴くものとは思えない、自分自身とサーヴァントたるソロモンの勝利を微塵も疑っていない純真で綺麗な笑顔だった。

『それは当然の思いだ。誇っていい、噛み締めていい。それを心の底から“自分の気持ち”だと刻み込むが良い! ……理解できない? 当たり前じゃないか。人間の感情なんて、過去現在未来の誰一人として理解できない代物なんだから!』

 ブツリ、とチャンネルは唐突に終了した。
 ほんの数時間前の過去視。珍しいこともあったものだ、と考える傍ら、マスターに告げられた言葉の意味を模索する。神殿に入ってからはずっと戦闘の準備に明け暮れていたため、思考の範囲外に追いやられていたのを引き寄せた。

ソロモン王(わたし)の、感情……」

 ありえない、と一蹴するのは容易かったが、それにしては耳に残って離れない単語。王の機構として誕生した自分に、人間の感情が芽生えるなどという余分があるとは思えない。だが時折思考に加わる非効率な考案。マスターから向けられた笑顔の眩しさ。そして今この場に自分の意志で立って据えている状態。これら全てが、感情の発芽と呼ぶべき症状なのだろうか――――


『序列二十五位から三十三位。《観測所フォルネウス》より警告。最重要標的を発見、目標の神殿到達まであと十一分五秒。我らが王、指示を』


 一際大きな鼓動が全身を揺さぶった。脳裏に直接響く、唯一起動させていた魔術式からの報告に霊基そのものが震えだす。ついにその時が来たのだと啓示が下された。

「未だ答えは出ず。だが、恐らく……この時を私は待ち望んでいたのかもしれない」

 魔術回路(スイッチ)を切り替える。これより神殿は戦場となり、ソロモンは従順なサーヴァントにして軍勢を従える司令官となった。
 告げるべき命令はひとつだけ。王は玲瓏たる音を紡いだ。

勅命:迎撃態勢(きたるものをむかえうちなさい)

 瞬間、声なきものたちの雄叫びが神殿中に反響した。
 開戦の狼煙は高らかに。対決するはソロモンと縁深いたった一人の英雄。抗戦するは交わされた契約を遂行する数百の霊族と、彼自身が編み出した七十二の魔術式。


「決戦の時来たれり、其は全てを超えるもの――――貴方という存在を、私は超えてみせる」



◇◇◇



 そこは神殿だった。
 生前、自身が建立することが叶わず、神にその役目を選ばれた(むすこ)の為にありとあらゆる手をつくし、死後見事完成させたというエルサレムの神殿だった。
 サーヴァントとして現界した際に与えられた現代知識によって、現代ではその残滓しか残されていないと知ったときは随分と残念に思ったものだ。こうして実物を見上げる事ができた事実に頬が緩む。
「だけど……本当に残念だな」
 カラン、と右手に携えている杖に付いた鈴が乾いた音を立てる。心のこもっていない虚しい音だった。まるでいまの彼の心情のような。
「実に見事で美しい神殿だ。でもそんな場所に“君たち”は良くないと思うよ。……ああ、君たちが悪いんじゃなくて、従えてるアイツの趣味がね」
 あと一歩でも踏み出せば、神殿内に侵入したとみなされる。その瞬間を今か今かと牙を剥き出しに待ち構えている、数百に上るであろう魑魅魍魎の蠢きが見える。よくもこんな数を取り揃えたものだと感心してしまう。
 だが、彼らの主は気づいているだろう。相手が悪すぎる、と。

「さあて……じゃあ、やろうか」

 軽率な口調で、アーチャー・ダビデは開戦を宣言した。

 ゆらり、と陽炎がダビデを中心として立ち昇る。それはやがて香炉を形成し、厳かに聳え立っていた神殿の入口に火が灯された。薫香が炊かれ、紫煙とともに神殿内に侵食していく。紫煙に混じり霧が立ちこめ、神殿の外は暗雲に包まれた。まるで完成されていた白黒の絵画に色を塗りつけるような、鮮やかな侵略だった。
 悪霊たちが異変に気づき、挙ってダビデに向かってきたがもう遅い。


「主よ、貴方の意に沿わぬ者に制裁を――――《燔祭の火焔(サクリファイス)》」


 ダビデが第二の宝具を開帳した。雷鳴が響くと同時に霧が業火へと変貌する。明確な意志を持った火焔は悪霊どもを舐め、包み、一瞬にして浄化していく。神殿の外壁には一切の傷をつけず、蔓延る異端なるものたちを慈悲深く、残酷なまでに喰らい尽くしていった。その有様は、ダビデ王を中心とした祭壇のよう。
「悪魔とは即ち、主の命に背いた異教徒のことだ。どうか悔い改めることを願おう。主はきっと、それをお許しになる」
 ダビデの言葉に耳を傾けるものはいない。みな身を焦がす灼熱の業火にただ悲鳴を上げのたうち回ることしかできなかった。あれほどいた悪霊の軍勢は壊滅。影の途絶えた神殿の中へダビデは優雅に足を踏み入れた。



◇◇◇



 その様子をソロモンは、遠見の魔術によって全てを見ていた。
「――――――」
 内に潜む魔術式が嘆きと驚愕の声を各々上げている。だが、これは演算によって簡単に導き出されるひとつの結果だった。
 かつてソロモンは神に真の知恵を授かった。そして与えられた指輪の力により様々な生命を支配する魔術を使い、己の魔術式として編纂した。その編纂に使用されたのは悪魔として名高い異形の者たち。これは神に逆らう異教のものを、神の僕たるソロモンが使役することによって、間接的に異端者を主の教えに沿わせるという啓示があったからだ。だからこそソロモンは天使を従えることはしなかった。彼らはソロモンと同じく、生まれてから死ぬまで従順な神の下僕なのだから。
 故に、英霊となったソロモンが呼び出すのは悪に連なる存在ばかり。神の威光をもって焼き尽くすかの宝具との相性は最悪の一言に尽きる。
「霊基を鑑みるところ、かの有名なゴリアテを打ち倒した時期の姿で召喚されていたから、あの宝具を携えていない可能性を期待していたのだけれどね……」
 悲観よりも先に、この英霊召喚儀式を構築したものへ敬意を感じざるを得ない。
 英霊にとってもっとも全盛な肉体で、生前の経験を全て集結させ現世に降臨させる。途方もない時間と術式が使用されている。もちろんソロモンの生前であれば似たようなことは可能だっただろうが、そもそもそんなことを使用するなどとは思わない。それこそ、ソロモン一人で何もかもが事足りた。マナが薄れ、神秘に乏しい現代だからこそ生み出された魔術儀式だ。

『我らが王、如何なさる』

 魔神が、術式がソロモンの命を待ちわびていた。
 そういえばこうやって彼らを使役するのは生前も含め、初めてのことだった。彼らには大役を任せてあった。そのために編纂した。それ以上のことは望まず、ただ課せられた役目を全うするように創っただけなのに、どうしてこんなにも表現豊かなのだろうか。余裕のないこんな状況下で、そんな疑問が湧き上がる。

『情報局、敵の予測行動を提示せよ』
『ご命令を! 貴方が手を出すまでもなく終わらせてみせましょう』

 ただの術式だと思っていた彼らの存在が、どうしてだが意識せざるを得ない。無駄な感傷だ。これより戦争となるこの場において最も不要なものだ。なのに、手放すには惜しいと感じている。

『恐れることはない、王よ。七十二柱全てが揃っている限り、我らは不滅』

「――――“恐れ”? ああ、私は恐ろしいのか」
 まさか教えられるとは思ってもみなかった。そう言われてしまえば、あっさり肯定できる。
 私は、ソロモンは恐れている。かの偉大な王に自身が立ち向かえるのか。自身が負ければそれは自動的にマスターの敗北を意味する。あのどこまでも真っ直ぐで美しい命が失われる。それが……こんなにも恐ろしい。
 だからこそ、彼らの存在は今のソロモンに強く響いた。
 王とは孤独なものだ。人は孤独では生きていけない。王には感情など不要だ。人には感情が溢れている。今の不完全なソロモンはきっとその中間にいて、不安定なのだ。だからこそ孤独を覆す仲間を欲していた。


『ⅠからⅧ、全ての座、全ての柱が貴方の趣くままに』

「うん……じゃあ、始めようか」



◇◇◇



「やぁ、ソロモン。久しぶりだね」

 シャン、と鈴を鳴らしながらダビデ王は神殿の中心部に向けて笑った。身のこなしは軽やかに、何も知らない人間が見たらただの挨拶回りと錯覚しても可笑しくないほどあっさりとしたものだった。
「ご機嫌麗しゅう、父上。……この神殿はご覧になられましたか?」
「ああ、折角の機会だからと見てまわらせてもらったよ。……うん、いいね。僕が想像していた以上に素晴らしいものだよ。でも警備のものはちょっと趣味悪すぎやしないかい?」
「あれが私の最善だと選択したまでです」
 親子の再開と呼ぶには冷え冷えとした、敵対者同士とするには馴れ馴れしい、不思議な会談だった。お互いの容姿の違いに目を瞑れば生前の続きにも思える、事務的な会話。

「よし、それじゃあ一応聞くけど……ソロモン、改心する気はあるかい?」

 それは警告だった。改心とは悔い改めることではない。この戦を放棄しダビデに勝利を譲る気があるか、と問われている。彼はソロモンを嘗めているわけではない。そう問いかけることが、かの寛容さを指し示すことであり、同時に宝具開帳の手順の第一歩だ。

「……いいえ、父上。――――否、アーチャー。私は貴方をここで全力で迎え撃ちます」
「そうか。それは残念だな」

 少しだけダビデが目を伏せる。その瞬間、ソロモンの千里眼が起動した。待ち受ける未来の映像。その内容を吟味する間もなく、ソロモンは直感に従い身体を僅かに逸らした。
 音もなく顔面の真横を弾丸が飛び抜けた。身体を逸らしておらずとも当たらなかった位置に正確に投擲された、ただの石。
「5(ヘー)」
 ダビデ王の逸話、巨人ゴリアテを討ち取った際に投げられた五つの石。そのカウントダウンが始まったのだ。それに伴い、アーチャーらしく矢が襲来する。宝具ではないため必中の加護はないはずだが、それでも先程の石よりは遥かに正確にソロモンを狙い撃ってくる。
「《重力制御:浮上(くさばなをふみつけぬようにわたしはうかぶ)》」
 ふわり、と魔術で重力に逆らい浮上したソロモン。常に彼の頭上から俯瞰することで戦況を見極める。思考をする、演算をする。どうしたらかの王に手が届くのか。
 高速詠唱によって撃ち込む魔術はクラススキルの対魔力によってほとんど効果がない。生前であれば勝手も違っただろうが、信仰によって形作られた英霊の器ではソロモン王の逸話から外れた魔術はランクが落ちているようで思った以上に威力が出ない。
「4(ダレット)。そろそろいいかな」
 再びワザと外された石が投擲された。
 瞬間、ダビデがソロモンの眼前に立っていた。――否、急加速で接近されたのだ。
 神の加護を受けたダビデはライオンや熊を素手で叩き殺す俊敏さと腕力がある。知識としては知っていても、対峙するその瞬間まで意識が回らなかった。
 遅まきながら千里眼が起動する。振るわれる杖によって自身が深刻なダメージを受ける未来。耐久性には問題があると自覚している自分では到底受けきれるものではない。

「《廃棄孔アンドロマリウス》我が盾となり給え!」
『序列五十四位と五十六位から五十八位、六十八位から七十二位。差し向けられた全ては我が孔に!』

 咄嗟に術式を叫んだ。
 ソロモンとダビデの間に虚数空間が展開される。全てを飲み込む廃棄孔は豪腕から繰り出された強烈な一撃をすっぽりと飲み込んだ。
「おおっと、危ないなぁ」
 ダビデの腕にも伸ばされかけた虚無への孔を、杖を犠牲に躱された。ダビデは再び地上に戻り、軽く悩んでいるような素振りを見せる。恐らく次の一手を考えているのだろう。
 ……今のは本当に危なかった。千里眼がタイミング良く発動しなければあの一撃で全てが決していた。
 千里眼は便利なものだが、効果が強大な分発動の自由が効かない。魔力を通せば多少の融通はきくが、それを常に行うのは魔力消費や、思考の隙を生む弊害になり得る。
 ならばどうする? 答えは一瞬で導き出された。そのために生み出したものがある。

「刮目せよ《覗覚星アモン》、《管制塔バルバトス》演算の補佐を」
『序列一位から七位と五十二位、五十五位。数多の残像、全ての痕跡を我らは捉える!』
『序列八位から十五位と五十三位。全てを知る貴方の灯となろう!』

 覗覚星に連なる九つの柱が周囲に無数の目を散らす。これでこの場においての限定的に現代視を獲得した。だが、それらを同時に視覚処理するのは思考が疎かになるおそれがある。それを補佐するために管制塔がソロモンとは別途に魔神へ指示を出す。完璧な統制だった。生前、この魔術式たちを編纂した際に想定し、結局一度たりとも用いられなかった使い方。彼らが歓喜に身を震わせているのがわかった。
「まだまだ余裕そうだね、ソロモン。……3(ギメル)だ」
 嵐のように吹き荒れる矢と魔術の合間を縫って、カウントが進む。
 ――――なんとしても宝具発動前に止めなければ。ソロモンにあの宝具を防ぐ手段はない。五つの石は技の威力よりも、狙った相手に必ず当たり意識を奪う効果が重要な意味を持つ。ソロモンが一瞬でも意識を失えば術式は結合不全を起こし、神殿は崩壊する。その隙を常勝の王と謳われたあの人が逃すはずもなく。

「《情報室フラウロス》、《兵装舎ハルファス》開拓の準備を」
『序列五十九位から六十七位。我らが備えた全ての情報を持って開廷しよう!』
『序列三十四位から四十二位。全ての兵は貴方の命に従います!』

 ソロモンが持つ、最大火力を持って発動前に打ち砕く。
「んん、またすごそうな魔術だなぁ。2(ベート)!」
 内部で編み上がりつつあるものに気付かれたのか、カウントの進みが早くなった。急がなければ。焦る気持ちを抑えながら、術式を回転させる。こんなところでミスを生むのは許されない。冷静に、正確に、迅速に。魔神たちに同調しながら急速に術式を構築する。
「《出力演算:最大(わたしのすべてをもって)》、《魔力装填:完了(ここにいぎょうをなしとげる)》――――」
 準備は整った。ソロモンの背後に眩い光を伴った超巨大魔法陣が出現する。すべての工程を完了し、それは発動の産声をあげようとしていた。生まれたばかりの新たな術式。名付けるとすれば。


「《焼却式(アルス・ノトリア)》」


 閃光が奔った。それを認識する間もなく、轟音と灼熱の暴風が降り注ぐ。
 これは原理としては単純な魔術だ。ただの熱線を対象に撃ち出すだけの、とくにこれといった神秘もない初歩的な魔術。だが、そこにソロモンが知り得たありとあらゆる威力増大の魔術を掛け合わせ、更には攻撃性の強い魔神たちを熱量に変換させ上乗せした、悪趣味極まりない強烈な一撃である。その威力だけ鑑みるなら、かの音に聞く星の聖剣の煌めきにも至るだろう。
 サーヴァントとして現界したソロモンの放つ、最大火力の魔術式。それを――――

 ポロロン、と優しい竪琴の音色が吹き払った。爆音が静まり、豪炎が霧散していく。
 ダビデの竪琴には破魔の効力があり、聴くものの精神を平穏に保たせ、互いの攻撃は命中しなくなる。

「…………1(アレフ)」

 静かに、最後の石が投げられた。当然ながら、それはソロモンに当たらない。
「最後の警告だ、ソロモン。お前にも改心する権利がある」
 思考が働かない。視線が動かない。身体が震えている。持てる手は出し尽くしたのに、あの人は未だこちらに対して笑みを向けている。
 どうすればいい。啓示が下らない。千里眼は沈黙している。生まれて初めて、次の一手が思いつかない事態に直面した。なんと恐ろしいのだ。呪いをかけられ精神が赤子まで退化してしまったかのように、ソロモンには何もわからなかった。
 ソロモンわたしは、ダビデあなたに敵わない――――そんな愚考が脳裏に過る。それを覆す妙案を、ソロモンは持ち得ない。

 だが。

「貴方の寛容さに感謝します。……けれど私は、まだ諦めません」

 不思議な気分だった。恐怖を感じているのに、ここで諦めたくないと何処かで叫ぶ声が聞こえた。それはマスターのものだったか、それとも千里眼で知った過去か未来の名も知らぬ者たちのものだったか。もしかしたら、自分自身から湧き上がったものなのか。それはあまりにも小さな光で、絶望という暗黒を照らし切るのには不十分だったが、道標にするにはちょうどよい光源になる。
 自身の状態を再確認する。
 身体、霊基へのダメージは微々たるもの。魔力の貯蓄は心もとないが、細くも確固たるラインで繋がれたマスターからの供給は絶えることなく続いている。先程変換した術式たちの再生は完了した。戦闘続行になんの問題もない。ならば、取るべき選択肢はひとつだけ。

「今度は私が、貴方の一撃を乗り越える番だ」

 決意を掲げ、ソロモンは高らかに宣言する。
 それを聞き届けたダビデは小さく肩を竦めると、困ったように笑いながら投石機を振るい始めた。

「まったく、いつの間にそんなに強くなったんだい? ……ああ、本当に子供って知らない間に成長するんだね」

 風を切る音だけが空間に響く。狙いを定めるようにダビデがソロモンをしっかりと捉える。思えば、こうしてお互い真剣に向き合ったのはこれが初めてになるのだろう。王位を受け渡すものと、王位を継ぐ定められたものとして必要最低限のやり取りしか交わさなかった生前。

 ――――今なら、あの時マスターが告げた言葉を理解できるかも知れない。

 ソロモンは目を瞑った。内に潜む七十二柱の術式へ声をかける。チャンスは一度。これで駄目ならばソロモンの敗北が確定的になるだけだ。ならば最後くらい、大博打に出てみるのも悪くない。

 数秒に満たない長い沈黙の後、口を開いたのは、照らし合わせたかのように同時のことだった。



「《五つの石(ハメシュ・アヴァニム)》――――!」
「第■宝具、初演――――《■■■■■・■■■》!」



◇◇◇



『序列一位から七十二位。全ての柱、全ての魔神よ! 我らが王の礎とならん!!』

 ソロモンに向けて真っ直ぐ投げられた聖弾を阻むように、七十二全ての術式が一斉起動する。一切の手順を飛ばした強制召喚は、術式の大半はただの影に成り下がり、的にもなれず消失していく。僅かに構築できた数柱も、必中の加護を受けた軌道を逸らすことが叶わず倒れていった。稼げた時間は先程の沈黙よりも劣る。

 決着は一瞬のことだった。
 全ての柱を乗り越えた先に中ったことを確認した後、ダビデは身を翻した。

 もうここにいる意味を持たない。神殿は遠からず崩壊する。厄介な術式は先程あらかた消失したのを確認したし、残っていたとしても敵対者を追うより主を守護する方へ向かうだろう。ダビデの五つの石は敵を屠るのには些かランク不足なので、恐らくソロモンも完全消滅までは至ってない。本来であれば今のうちに生死の確認をし、生きていれば首を断つまでが宝具の内容なのだが、ダビデにそこまでする義務もない。
 ダビデが今世のマスターに命じられたのは、あくまで強敵ソロモンの足止め。あわよくば撃破といったところ。役目は十二分に遂行した。

「はぁ……人に跪かれるのも面倒だけど、従順になるのも大変だなぁ」
 できれば次回はもっと気楽な環境が良いと思う。美しいアビジャクを口説いたり、夢である牧場経営にまで手を伸ばせたら完璧だ。こんな……辛くて悲しく、虚しい戦争などもう十分だ。
「じゃあねソロモン。この勝負、悪いけど僕の――――」



「――――――ええ、私の勝利です。父上」



 途端、ダビデの足元に魔術円が形成された。人ひとりが立てるだけの小さな円陣。反射的に飛び退こうとするダビデは、しかしなんの前触れもなく膝を折った。
「なっ――――!」
 溶けている。サーヴァントとしてこの身を構築している魔力が急激なスピードで円陣に吸い込まれていく。まるで空腹の竜の胃袋に滑り落ちてしまったかのように、全身が一斉に溶け出しているような感覚に陥った。
「《溶鉱炉ナベリウス》消滅させてはいけないよ」
『序列十六位から二十四位。全て我らが王の意向のままに』
 ふわり、と上空から優雅に舞い降りてきたのは紛れもなくソロモン自身だった。五つの石を被弾したとは思えないほど健全なその姿に、ダビデは目を見開く。
「これは……驚いたな。ソロモン、一体何時から君は手品師になったんだい?」
「ご安心を。父上の投石は確かに“ソロモン”へと命中していました」
 視線を促すようにソロモンは手で指し示した。ダビデが投げ打ったその終着点。衝撃によって神殿の壁面が一部倒壊し、砂埃が舞っているその場所に確かに人影があった。
「大丈夫かい? ……まだ動けないか。《生命院サブナック》よ、彼を頼むよ」
『序列四十三位から五十一位。我らの力全てを持って、かの存在を証明しよう』
 治癒の力に特化した術式が人影へと向かった。淡い光が影を包み、その全貌が明らかになる。

 それは、ソロモンの姿をしていた。五つの石が命中したと思われる右半身がごっそり削げ、血の代わりに乱れた術式が溢れ出ている。
 ただの身代わり人形や幻覚などで構成された存在ではなく、元からその形を取って生まれ落ちたのだと直感した。

「彼は、私の第四宝具《人理補正式・統括局(レメゲトン・ゲーティア)》。七十二柱の魔術式全てを内包し統括する、意志を携えた魔術式。すなわち、ソロモンわたしそのものです」

 英霊とは召喚される時代の人々の信仰によってそのあり方は変化する。現代においてソロモン王の逸話といえば、七十二の魔神を使役した魔術師というのが最も有名であり、それがサーヴァントとして現界した際に霊基の核となった。魔神を統括するものこそ“ソロモン王”なのだと。

「この宝具は私が英霊へと至った後にうまれたもの。一度も使用したことがない術式でこんなことが出来るのか不安でしたが……うまくいってよかった」
「思い切ったことをするなぁ……お前本当にソロモンかい?」
「マスターのお陰で、私は感情というものの鱗片に触れたのです。だからこそ、ただの機構であったあの頃とは違う選択をしてみようと思うことが出来た」
 そう言ってソロモンは――――笑った。
 染み付いた聖者の微笑み(アルカイック・スマイル)ではなく、自身の内海から零れ落ちた、本当の笑みだった。
「……そんな風に、お前も笑えたんだね。――――ちょっと残念だけど、僕の完敗だよ。お前の勝利だ」
 常勝の王の看板を取り下げないとなー、なんて軽々しく言うダビデ。


『キャスターはさ、きっとあのサーヴァントに“認められたい”んじゃない?』


 あの時マスターが告げた言葉が反響する。
 ようやく、ようやくソロモンは理解できた。
 ソロモンが即位した後ダビデはこの世を去った。ソロモンの成し遂げた偉業は全て、父の死後の出来事。生前からずっと尊敬していた、目標にしていた、偉大な王たる父に、自分自身を肯定してもらいたかったのだと。

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