夢見の時来たれり

其は全てを釈するもの -02-


 ――――夢を、視た。


『私は世のすべての人の行く道を行こうとしている』

 老いた背を見ている。彼は赤砂混じりの風が吹く町並みを見下ろしながら、静かに言葉を紡いだ。声はハッキリと、しかし隠し切れない震えを伴っている。
 終わりの時が近づいていた。
 くるり、と彼が此方を振り向く。新緑色の瞳に宿る光のあまりの小ささに、思わず息を呑んで――――


 …………ゆめを、みた。


◇◇◇


 夜明け前、言い知れぬ違和感で目を覚ましたソロモンは、自身の有する魔力の大半を失っていることに気がついた。
 生まれついで芸術的な数と質に恵まれた魔術回路は、ただソロモンが呼吸するだけで幻想種に並ぶほどの魔力を生み出す。無尽に溢れ出る魔力を使って虚数空間を創り、そこに不要な分を貯蔵していたのだが、何の前触れもなくそれらが消失していた。
「術式の誤作動? でもとくになにもしていないしなぁ……」
 しばしの間考えていたが、千里眼も啓示も沈黙し続けていたため、何か考えあってのことであろうと気にすることをやめた。

「ダビデ王が、新たな側女を?」

 そんな知らせが臣下のひとりから持ち込まれたのは、その日の午後のこと。
 ダビデ王の好色は皆知っていた。しかし、ここ最近は老いのためか寒さを訴え寝所に篭りきりな様子を耳にしている。誰も口には出さないが、来年は迎えられないであろうことが明白であった。未だ次代の王が選定されていないこともあり、ソロモンの義兄弟たちは水面下で醜い争いを繰り広げている。
 そんな中、新たな火種を王自ら持ち込むなどと誰も予想していなかったのだ。
「それでは、挨拶に向かわねばなりませんね」
「……母上」
 この離宮の主にしてダビデ王の寵愛を受けたソロモンの母、バテシバ妃はそう微笑みながら告げた。
 本来であれば敵同士、と認識すべき相手に挨拶へ行くのは牽制のためか偵察のためか。そのどちらでもないことはよく知っている。元は国に仕える軍人の妻であったバテシバの感性は民衆寄りで、陰謀渦巻く王宮のやり取りには疎いことが多かった。
 止める必要性も感じなかったため、ソロモンは彼女に付き添ってダビデ王の寝所に向かった。

「やぁ、相変わらず美しいね」
 声色だけは変わらないダビデ王は寝そべったまま、そうバテシバを歓迎した。
 老木のように痩せた手足に、深く刻まれた皺。その姿は昨夜視たばかりの夢での姿と相違いなく、あの映像が遠からぬ未来の出来事であると確信せざるを得ない。
「噂の方はどちらに? 一言挨拶をさせて頂きたく思って参りました」
「それが随分と人見知りの子でね。……ああ、寒いから早く戻ってきてほしいものだけれど」
 どうやら目的の人物は不在らしく、バテシバは残念そうにしながらも王と談笑を続けている。
 ソロモンはこの場にいる必要性を感じず、彼らの邪魔をするのも憚れたので、ふらりと席を立った。
 何処へ行こうか、と思った瞬間。


 ――――夢を、視た。


 朝焼けの髪に、碧玉の瞳。
 真新しい質素な衣服に身を包み、たどたどしく手足を動かすその姿は、まるで赤子のよう。
 空を征く鳥に思わず手を伸ばし、足元で風に揺れる花を愛でる。目に映るもの全てに興味を示しながら、表情は大きく変わらない。纏う空気はどこか異質で、現実感がない。
 そんな非実在的な少女がいた。

「――――っ」

 視えた瞬間、理解した。
 ソロモンは思わず走り出した。走るという行為など生まれて初めてであったのだが、それを気にする余裕もなく走り続けた。普段当たり前のように魔術を行使しているが、いざという時に使えないというのは中々に不便だな、と他人事のように感じながら。
 長い回廊の先、中庭にその姿を見つけた。
「…………?」
 愛らしい容姿をした、無垢な少女がいた。走ってきたソロモンを見つめ、不思議そうに首を傾げている。
「きみ、は……」
 僅かに身体に残っていた魔力が反応している。慧眼たる黄金の瞳に映る彼女の姿は何処か朧げで、その身を構成している正体が肉の塊ではないことをひと目で見抜いていた。
 彼女は間違いなく人間ではない。ソロモンの魔力が自律行動をしはじめた異質な存在である。
「一体何があってこんなことになったのか解らないけど、きみの存在は不要だよ」
 彼女に向かって手をかざす。早急に事態を解決するため、その身体を構成しているであろう術式を解析しようとした。
「――やぁ、アビシャグ。こんなところにいたんだね」
 頭上から降り注いだ親愛なる声に、反射的に手を引っ込める。目線でたどると、ちょうどこの中庭を見下ろせる上階にダビデ王の姿があった。
「ち、父上……」
 寝たきりになって久しいにも関わらず、陽だまりのように暖かな笑みを浮かべて彼女に手を振る。
 まさかこの場に現れるとは露にも思わず、ソロモンは組み立て途中であった術式が霧散してしまうのを止める間もなく、慌てて頭を垂れた。
 王の寵愛を受ける側女に手を向けたと知られれば厄介なことになる。ソロモンが将来的に王位を継ぐとは天の主によって運命づけられた事ではあるが、その過程に不祥事が生じることも出来る限り避けるべきであった。
「ソロモン、彼女の名はアビシャグ。お前と同じ年だ。仲良くしなさい」
 そう、有無を言わせぬ王としての発言に、ソロモンはただ肯定を返すことしかできなかった。


◇◇◇


 ――――夢を、映た。

『おうさま……アビシャグは、なにをすればよろしいでしょうか』
 舌足らずなその口調に思わず微笑みを零しながら、ダビデ王は自身が横たわる大きな寝台を指差した。
『お前は特別あたたかいからね。冷え切った私を暖めておくれ』
 ずるずると長い服の裾を引きずりながら、少女は空いた場所に身を滑り込ませる。やせ細った王の身体に身を寄せ、少しでも自身の熱を分け与えるように全身を使った。
『いい子だ。……アビシャグ、老体を慰めると思って何も聞かずに私の話を聞いておくれ』
『はい、おうさま。アビシャグはずっときいております』
 その手に竪琴は無く、けれども玲瓏たる声から紡がれるそれらは旅語りの吟遊詩人のものよりもずっと臨場感溢れる、ダビデ王の半生たる物語であった。


 夜半の月が輝く中、ソロモンは眠りから覚醒へと移行した。
「…………」
 あれは啓示ではない。千里眼から齎される過去や未来の出来事でもない。
 恐らく魔力元を辿って垣間見えた、アビシャグの現在だ。どういう原理か不明だが、アビシャグとソロモンは使魔と使役者のような関係になっているらしい。
 あの少女が出現して半月ほど。毎晩のように繰り返されるあの光景をソロモンは夢で映し続けていた。
 とくに此方が不利益を被ったわけではないが、何となく目覚めが悪かった。
 ダビデ王の軌跡を本人の口から語られるのをずっと聴き続けている。それも本人たちの知らぬところで。
 千里眼を使って見聞きするものとはまた違った感覚だった。不自然に誇張された箇所や、全く語られなかった出来事。そういった取捨選択に何の意味があるというのか。かの王の真意は全く理解できない。
「いい加減、彼女をどうにかしたいのだけれどね……」
 未だ失った魔力は戻らず。逆に彼女の存在を維持するためか、どんどん魔力を吸い上げられている状態だった。尽きる心配はないものの、貯蓄がないのはいざという時に困る。王位についてから計画している出来事があるため、その時までに全ての魔力を支配下に置く必要性があった。
 強引に事を進めれば、王の不興を買うかもしれない。そう思うと、なかなか行動に移せずにいた。


◇◇◇


 アビシャグ、とバテシバ妃が呼ぶと、彼女は雛鳥のように王妃に駆け寄った。
 ある日の午後のことだった。
 親睦を深めたいとダビデ王に許可を取り、彼女を離宮に招いてささやかな茶会を催したのだ。
「貴方の御髪、とても可愛らしいわ。柔らかくて、ちょっとくるくるしている……ソロモンと同じね」
「はい、バテシバさま」
 朝焼けのような朱色の髪が二人分。偶然か、二人の髪色は一緒であった。並んでいる姿は仲の良い親子に映る。
 ソロモンは両親と似つかない象牙の髪に黄金の瞳を持つ。神のご加護がある証であると信者は称えるが、恐らくバテシバは内心悲しんでいるのだろう。普通は、子はどこかしらは親に似るべき存在なのに、ソロモンはバテシバと似たところが一切ないのだから。
 だからこそ、他人でありながら自身と似たアビシャグを我が子のように思いたいのだろう、とソロモンは考察した。
「アビシャグ、何か困っていることはない? 王は貴方を大切にしてくださっていますか?」
「はい、バテシバさま。おうさまはとてもおやさしいです」
 この光景を、視たことはない。
 ここ最近は千里眼が起動することが少ない。ソロモンの魔力が少ないからか、アビシャグとのラインを断ち切れず混線しているためか。
 視たことがないはずなのに、どこか既視を感じる気がした。それは、まるで夢のように朧げで。


 ――――夢を、視た。


 バテシバ妃が頭を垂れ、ダビデ王に謁見している。
 地に伏せてなお美しくある彼女が、かの王にこう告げた。

『我が主ダビデ王が、とこしえに生きながらえますように』

 それはただの世辞の言葉であって、本心からの言葉ではないと分かっていた。
 だが――――

「アビシャグ、どうしましたか?」

 意識外からの声で、ソロモンは覚醒した。一瞬だけ、千里眼が視せた映像に飲まれていたようだ。
 ふと見ると、楽しそうに談笑していたアビシャグが顔を伏せている。それを心配そうに声かけるバテシバ。
 声をかけられ、恐る恐ると言った風にアビシャグが顔をあげると、碧玉の瞳は潤みその頬は濡れていた。
「バテシバさま……」
「どこか痛いのですか? 大丈夫ですよ、私はここにいますから」
 はらはらと零れ落ちる雫を拭いながら、バテシバが優しく声をかける。大きな泣き声こそ上げないままであったが、アビシャグは静かに泣き続けた。
 日が少しばかり傾いた頃、赤子のようにバテシバの胸に顔を埋めながら、ようやく涙が止まったアビシャグから小さな呟きが零された。
「おうさまは、とこしえにいきてくださいますか……?」
「…………アビシャグ」
 髪を撫で付けいたバテシバの手が止まる。
 その答えを、簡単に告げるには彼女は幼かった。
 ソロモンにとって、永久など存在しないことはとっくに承知済みである。
 多くの死を視た。悲劇を視た。運命を視た。そして、これからも視続ける。千里眼によって、あるいは自身の王命によって。そのことに何か感じる必要はなく、そういうものである、と受け入れている。
 だが、何の因果が突如生まれいでた彼女は、あまりにも人間じみていて、当たり前のようにそう受け入れることが出来ないでいる。何処にでもいる、普通の幼子のように。
「お聞きなさい、アビシャグ」
 思慮深く、バテシバが語り始める。
 彼女の本来の夫であった者は既に戦で亡くなった。愛するものを失う恐怖を、辛さを、悲しみを、誰よりも知っている彼女は、どこまでも美しく気高さに溢れていた。
「王は、お役目を終えた後に天上へと招かれることでしょう。ですが王は貴方を愛しておりましょう。愛は、永久に続きます。だから、恐れることはないのですよ、アビシャグ」
「あい、は……とこしえですか?」
「ええ、もちろん。夢のように儚くても、愛はずっと残り続けます。貴方が想い続ける限り、ずっと……」
「じゃあ、わたしはいまをあいします。いまが、ずっとつづくように」
 やっと笑顔をみせたアビシャグは、そう言った。
 それが、どこまでも夢物語でしかないことに皆気づきながら。そして、それは誰もが夢見る理想であったゆえに。


◇◇◇


 そして、最期の時が来た。

「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている」

 白髪を風に靡かせながら、ダビデ王は静かに告げた。
 ソロモンは視た通り、巨木のように老いてなお真っ直ぐ立ち上がるその背を、じっとを見つめていた。
「あなたは強く、男らしくなければならない」
 此方を振り返り、色褪せることない新緑にソロモンの姿が映っているのを見る。


 ――――夢を、視た。


『寒いなぁ……』
 そう呟きながら、王は寝所に横たわっていた。
 幾ら寝ても、どれだけ布を重ねても、身体を凍えさせる寒さから逃れられぬ夜。ダビデは眠ることを諦め、人気の絶えた王宮を歩き出した。何となく、そんな気分になったのだ。
 そして、静まり返る宮殿の隅に微かだが気配を感じて、ゆっくりと近づいた。
 そこには、朝焼けの髪に碧玉の瞳を持った、儚い少女がいた。
 幾ら夜更けであってもここは王が身を休める王宮の中心部。ただの人間が忍び込めるような場所ではない。だが、彼女から醸し出されるどこか懐かしい雰囲気が、ダビデに警戒を抱かせなかった。
『……娘よ、こんなところでどうしたんだい?』
 優しく問うと、少女は焦点の定まらない瞳を向け、はらりと雫を零した。
『……ゆめを、みました。こわくて、つらくて、かなしいゆめを。でも、【わたし】はこわいと、つらいと、かなしいと、おもうことができなくて。おもうことはゆるされなくて。……きがついたら、ここに』
 そう、一粒一粒透明な雫を流しながら、少女は淡々と告げた。
 ダビデ王の表情が陰る。少女の涙を拭う権利を、彼は持ち合わせていなかった。
 噤むダビデに手を這わせながら、でも、と少女は再び口を開いた。
『【わたし】にはじゆうにゆめをみることはできないけれど、いまここであなたとあえた。……わたしは、まだゆめをみているのでしょうか?』
『……ああ、そうだね』
 きゅっと少女の体を抱きしめる。とても暖かかった。
 まるで柔らかな陽だまりのように心に染み渡る温もり。これがただの夢であるのならば、醒めてしまうまで見続けてもだれも文句は言わないだろう。彼とは違い、彼女はただの少女であるのだから。

『君に名前をあげよう。君という【誰か】が見た夢に。だから、この老いぼれた心身を暖めておくれ。……少しでも長く、この夢が続くことを祈って』


 ――――夢を、映た。


「貴方は始めから、全て解っていたのですね」
 ソロモンの問いに、王は小さく笑うだけだった。
 日暮れが近づいている。夢の時間が始まるとともに、ひとつの夢が終わりを迎えようとしていた。
「私はもう王ではない。私の所有するものは全て、お前に譲与された。……あれをどうしようが、お前の自由だよ」
 それが、本当に最期の言葉だった。


◇◇◇


「――――ゆめを、みました」

 生まれてから半年ほど経った。
 少女は少しばかり上達した言葉を必死に使って、溢れ出る涙を拭いもせず語り始めた。
「あの方が亡くなるゆめを。すべての人が行く道を行く、と言ったあの方は、本当に万人と同じ道を辿り、主の御座へとまねかれました。わたしは、それがこわくて、つらくて、かなしくて。少しだけ、ゆめをみたんです」
 流れた涙は風に舞い、王宮を越えエルサレムへ。
 王が亡くなる数日前、預言者の手によって頭部に香油を注がれた者が現れた。予てより多くの者からそう望まれ、天上からもそうあれと定められた者。かの存在に皆笑みを浮かべていた。
 いま眼下に広がる町並みは悲しみに包まれている。だが、絶望はない。一声、新たな王が命を下せばたちまち元の活気付いた営みを取り戻すだろう。だから、一時の悲壮に暮れるのを誰も咎めはしない。
 だが、ひとりだけ悲しむ自由を持たないものがいた。

「……でも、夢はもう終わり。目覚めの時だよ」

 第三代目イスラエルの王に選定されたソロモンは、普段と何も変わらない表情のまま、泣き続ける少女アビシャグに手を翳した。
 もしソロモンが人であれば、彼女を人として留める選択もあったかもしれない。王であれば、彼女の地位を利用して交易の要とする方法も選べたかもしれない。
 だが、ソロモンは機構であった。最善を、最適を、啓示によって定められた道筋をただ黙々と辿ることしか許されない、共感性を剥奪された非人間。
 故に、彼はアビシャグという少女を不要と判断した。
 指先から光が奔る。無機質な魔術は淡々と、彼女の身体を構成していた術式を解いていく。出鱈目でぐちゃぐちゃな彼女の身体は、どこまでも人間じみていた。神によって最適化されたソロモンと対比させるかのように。
「最後に、ひとつだけ聞いていいかな」
 ソロモンがそう尋ねたのは、そうすべきと啓示が降りたのか、ただの気まぐれだったのか。未だ答えは出ない。


「君は……良い夢を見れたのかい?」


 夢を見る自由のない王は、夢を見る少女にそう問うた。
 少女は少しばかり驚きながらも、


「――ええ。とても、とても幸せな夢でした」


 そう、本当に幸せそうに笑った。



 ――――夢を、視た。



 流星が降る、終局の神殿。
 死にたくない、と口にしながら、これでいい、と呟くどこまでも人間じみたその姿を。
 朝焼けの髪に碧玉の瞳を、恐怖と辛さと悲しみと……少しばかりの勇気を宿して立ち上がる、その光景を。



 …………未来(ゆめ)を、見た。


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