誕生の時来たれり

其は全てを釈するもの -01-

 厳かな夜明けだった。
 満天を湛えた瑠璃の空は白みを帯び始め、昨日が去り今日が訪れる。あと数刻もすれば人々が眠りから目覚め、営みを再開するだろう。
 すべてが予定調和である。天高きところに御座す主の御心のままに。

 いまだ静寂に包まれるエルサレムの街中を、ひとりの人影が歩いていく。
 白髪交じりではあるが若草のように瑞々しい髪をたなびかせ、同じ色の瞳を僅かに揺らしながらもしっかりと行き先を見据える初老の男。今この場に他者がいれば驚愕したであろう。
 彼こそは、偉大なるイスラエルの現王――ダビデ、その人であった。


 預言者が告げた。
 神に祝福を受けし御子が誕生するであろう、と。


 定められし日があと三日に迫っていた。国中がその時を待ちわび、浮き足立っている。密かに神が降臨されるという噂が立ち、異端なものが粛々と片づけられていく。まるで国全体が神殿に様変わりしていくかのように、空気そのものが変化しているような錯覚。
 明け方のまだ冷たい風が頬を撫でていく。少しでも寒さを和らげようとダビデは抱えていた布の塊を一層強く抱きしめた。

「…………ああ、あたたかい」

 安心する温もりだった。身体だけでなく、心の底からダビデをあたためてくれる。春の日差しのように優しい熱。
 少し強く抱きすぎたのか。中身がもぞっ、と身動ぎをした。

「おっと、ごめんよ」

 出口を探し求めるようにもぞもぞと動き続ける。どうするべきか。ダビデは数舜の考慮の末、すっぽりと覆っていた布の一部を開いてやった。
 ぱちり、と新緑色と目が合う。
「やあおはよう。といっても、朝には少し早いかな?」
 赤子がいた。ダビデと同じ色の瞳を見開いた、生まれて間もない嬰児である。赤みを帯びた白い肌、薄っすらと生える髪は朝焼けと同じ色だろう。紛れもなく、ダビデの御子であった。
「寒くないかい? ……ここが、お前の世界になるところだよ」
 ダビデは御子を抱いたまま歩み続ける。行き先は決まっていた。ただ……少しばかり、決心がついておらず、時折道を逸れては御子にそこにあったものと触れ合わせていた。
「よく見ておくといい。王座から見るのとは全く違うからね」
 御子は興味津々に周囲に目を配る。外界に触れるのは初めてなので、何もかもが未知との遭遇だった。
 始めに御子が手を伸ばしたのは、道端で慎ましく咲く草花。続いては豊かに育った甘い果実。次第に視線は街並みへと向けられていくのを見て、ダビデは微笑みを浮かべた。

「ふんふ ふんふーん」

 即興で鼻歌を奏でる。竪琴を弾けないのが少しばかり残念だ。なんなら踊ってもと考えたが、流石に子供を抱えたまま舞踊に興じれるほどダビデの身体はもう若くなかった。
 それだけではない。
「ああ、お前に教えてあげたいことが山ほどある。羊の毛の柔らかさ、干し草でうたた寝する気持ちよさ。かけがえのない友の有難さ、愛する者たちとの営みの愛おしさ。全部、ぜんぶ私たちには必要で、大切なものだ。でも…………」


 ――――(おまえ)には、必要がないのだろうね。


 ダビデの目前に『ソレ』は唐突に現れた。……否、それはもとよりその場にあった。ただ『ソレ』の周囲がまるで結界のごとく、異なる霊気を帯びているため、通常の感覚のままでは認知できないものであった。

契約の箱アーク

 偉大な先祖より受け継がれし、神との契約の証。
 不用意に開くものには災いを。不用意に暴くものには絶望を。
 神からの祝福を受けたダビデでも、血に塗れたその身で許されたのは触れることまで。祀るための神殿を建てることは叶わず、ただこうして安置させていることしかできない禁断の箱。


 預言者は告げた。
 偉大なる王ダビデ、其方の御子を神へと捧げよ、と。


 触れる空気(せかい)が変わったことに気が付いたのか、おとなしかった御子が突然ぐずり始めた。ダビデの腕にしがみ付き、恐れるように顔を布にうずめる。
 この子はきっと聡明なのだろう。ダビデがこれから行うことを知り、本能のまま怯え逃れようとしている。
「……ああ、僕は最低だね」
 一歩、止まっていた歩みを進める。足取りは処刑台へ向かう罪人のごとく重苦しかったが、逃げ出すという選択肢は取れず、謝罪の言葉も口にできない。親として最低だと自覚していたが、王としてはこれが最善であると知っていたから。
 赤子の抵抗は増すばかり。それを震える己の腕で押さえつけ、契約の箱の正面に立った。
 泣いている。悲痛な叫びが聞こえる。生きたいと、全身で訴えかける赤子。そんな人として当たり前を与えてやることができないなんて、なんて自身は罪深いのだろう。

 ゆらり、と契約の箱から紫煙が立ち上っているのが見える。
 約束の時が来た。
 不用意に触れるものには死を容赦なく与える神の箱は、今この瞬間この子の棺となり、また同時に新たな王を育む揺り篭となる。


さようなら(シャローム)、我が子よ。お前を、ずっと愛していたよ」


 バタン、と何かが閉じた音がした。
 静寂が降りる。腕の重みは跡形もなく、感じていた温もりは冷え切っていた。まるで、そこには初めから何も存在していなかったかのように。




 静謐な朝焼けだった。
 主の威光のごとし太陽が地平線から顔を出し、地上に生きるすべてのものに平等な光と熱を降り注ぐ。
 三日目の朝のことだった。


 預言者が告げた。
 神の寵愛を受けし御子が誕生なされた、と。


 王妃バテシバがその腕に生まれて間もない嬰児を抱き、ダビデへ謁見を求めてきた。
 かの御子は褐色の肌に銀の髪。薄っすら開かれた瞳は黄金を宿し、ここではない何処かを見つめている。
「御子の名は、なんと?」
 ダビデは傍に控えていた預言者に問うた。

 預言者は恭しく告げた。
「主のお言葉を預かりました。御子の名は『神の愛し子エディデア』と」



◇◇◇



「ふんふ ふんふ~ん♪」

 ドクター・ロマンは嬉しさを隠し切れないまま、鼻歌を口ずさみながら廊下をゆっくりと歩いていく。
 彼の誕生日が三日後に迫っていた日のことだった。
 少し前までロマニ・アーキマンの誕生日とは書類上のものだけであった。決めたのはかつての旧友で、それがどんな偶然か、生前(前世だろうか)と同じ暦と気づいた時には驚いたものの、それ以上になにか思うところはなかった。だが、今は共に喜び祝っていくれる仲間がいる。それがとても嬉しかった。
 本来であれば一個人の生誕などを祝っている余裕はカルデアにないのだが、まったく娯楽のない閉鎖空間など監獄にも等しい。そんな誰も口にはしていないが暗黙の了解ゆえに、今やカルデア全体の指揮官であるロマニの誕生日も当然のごとく祝われることになっていた。
 人類最後の希望マスターとその盾たる少女を中心として、ささやかではあるがパーティーが開かれることになっている。すでにサーヴァントたちが数人集まって必要な物資を回収するためのレイシフトが数回実施されていた。

「楽しみだなぁ! ケーキにタルト、お饅頭も欲しいなぁ」

 当日の献立のリクエストを教えてほしいと言われ、食堂に向かう道すがら。厨房に立つサーヴァントの料理スキルを熟知しているため、期待に胸が膨らむばかり。
 そんな時だった。
「やぁ」
 シャン、と澄んだ鐘の音とともにその声が耳に届いた。
 牧草のような髪と瞳を持つ、まだ少年とも呼べる背格好の羊飼い。王になる前のダビデ、そのサーヴァントだった。
 思わずロマニは身を固くした。かの人物とは無縁であり、同時にどうしようもないくらい関係者であるがゆえに条件反射に近い。
「だ、ダビデ王……どうかされました?」
 なるべく平常を装って返答を絞り出す。気づかれてはいないと思っていたが、内心がサッパリ読めない彼のことだ。どこでボロが出るかわからないので用心に越したことはない。そう自分に言い聞かせながら。
 ロマニの動揺など知る由もなくといった風に、ダビデは真っ直ぐこちらに歩いてきたかと思うとニッコリ笑って。

「――――おめでとう。君という存在の誕生を、僕は心から感謝するよ」

 そう告げた。

「………………え」
 言葉を飲み込むのに数十秒。意味を理解するのに更に数十秒。合計して一分強、ロマニの思考は停止した。
 目を白黒させている間にダビデは腕を伸ばし、頭をぽんぽんと撫でていく。そんなことも視界に入らないまま、なんとか言いつくろうと平凡であると自覚している頭脳を高速回転させる。
「ぼ、ボクの誕生日は三日後……ですよ?」
「うん知ってる」
 でもね、と頭を撫でるのをそのままにダビデは小さく呟いた。

「僕が本当に祝いたかったのは、今日だから。だから……おめでとう」

 ロマニはその言葉の意味を理解できず、キョトンと首を傾げる。それでいいよ、とダビデは微笑んで、そのまま何もなかったように霊体化して去っていった。


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