炎よ、転生せよ

黄昏の空に、黎明を希む -02-


 がたん、と規則正しい振動と騒音が身体を震わせる。古くから人間、荷物を問わず輸送することに長けた鉄の箱船――電車に揺られていた。
 時折耳を掠めるアナウンスはどこかピントが合っていないような、他人ではなく自身に言い聞かせているかのように、どこか遠い世界のことを語っているかのような口調。それはまさしく、前時代的な人間の肉声を用いているためだろう。
 視界の約半分を埋める、外の景色を透かす窓からは見慣れないほどの緑と青――VR等ではなく、本物の自然である――が広がり、まるで知らないうちに異世界の境界を跨いでしまったのかと錯覚するほど、自身の常識範囲外の風景が見える。

 ――――否。正確にはこの世界にとって最も異物なのは己自身だ。

 生い茂る木々の合間を縫い、日差しが容赦なく差し込む。夏の気配を受け、その光は時に凶器となり得る鋭さを伴っており、反射的に目を庇うよう腕を差し出す。それに伴って外の風景へと向けていた目線が外れ、視線は自然と己の側で佇む影へ。
 まだ遠い、黄昏を思わせる鮮やかな色彩。人の形をしているのにも関わらず、その在り方は人ならず。交わった先に灯る緑の双極に、重ねられるべき本来の意志は宿っていない。歪で、醜悪で、それでいて――消し去ることができない鴻上の罪を訴える、がらんどうの人型。
『……了見リボルバー?』
 紡がれる言葉は音にならず、ただ結ばれた繋がりから思念となって脳裏に響く。その声色は本来の持ち主と同じなのか、それとも異なるのか。その答えを、確認する術すらも了見は持ち合わせていない。
 だからこそ。
「――――――」
 会話を必要とせず、現状を認めず、その存在を許せず。
 ただひとり、鴻上了見は己が背負うべき罪を抱えながら、断罪の手段を模索する。幾星霜の年月を経ようとも、己の魂をも消費尽くそうとも、たとえ――〝彼〟がそれを望まざろうとも。
 了見は既に、決めていたのだから。



炎よ、転生せよ――――不知火



 そこは電子化が邁進する都心部から大きく離れ、時代に取り残されつつある昔ながらの港町だった。全面には広大な海、背後には守られるように山が立ち塞がっているためか、この町は驚くほど閉鎖的。娯楽は少なく、流行など存在せず、ただ繰り返す今日という日を謳歌するだけでいい、平坦な空間を形成して成り立つ場所。
 そんな世界の狭き入り口に了見は静かに降り立った。
 鈍い速度で先程まで揺られていた電車が走り去っていくのを後ろ髪を引かれる思いで見送るのは、内心はこの町に来ることを拒んでいたからか。己の使命から逃げるつもりなど毛頭無いが、それでも思うことは止められない。
 それを振り払うように、重くしっかりと息を吐く。同時に意識を切り替えるよう、己に課したスイッチを押す。

 ――――ガチリ、と。

 それはまるで、回転式拳銃リボルバーのシリンダーを回転させるように。
 鴻上了見にとって日常と非日常は分かたれているものではなく、光と影のように同時に視界に存在するもの。だからこそ、この切り替えは人間と異形の境界を左右するものではない。
 これは――〝鴻上〟と〝了見〟を切り離すスイッチだ。
『リボルバー、俺はどうすればいい?』
 気配が変わったことを察したのだろう、周囲を興味深そうに見渡していた半透明の人影――プレイメイカーが指示を請うた。
 鴻上了見はこの都心から隔たれた、所謂田舎町に何の目的もなく訪れたわけではない。平時であれば寄りつくことなど、むしろ視野に欠片でも選択肢が入ることはないこの町。それでもここは〝鴻上〟としては切っても切れない関係がある。当代代理たる了見――まだ未成年のため正式には認められていないが、自他共に暗黙の了解として鴻上家のトップを戴いている――として成さねばならない役目が。
 古より、このような閉鎖的な土地と異形の存在は因果のような関係性が発生する。狭いコミュニティは内輪だけの常識なるものが生まれやすく、それらは曖昧な存在である異形を増長させる。それに留まらず、脈々と受け継がれてゆく伝承という名の固定概念は容易に彼らに血肉を与えるだろう。人の往来が激しければ一時の噂として話題に上った後、瞬く間に消え失せる異なる理は、鎖された世界にとってそれこそが真理となりかねない危険をはらんでいる。
 そんな場所をみすみす見逃すことなど許されるはずもなく。遠い先祖たる鴻上家はこの地を支配下に置き、時には分家などを移住させ、黄昏時に揺らぎ出でる異形に対する抑止力とならんとした。
 そして、現代。文明の英知により日暮れの闇を恐れることは少なくなり、著しい発展を遂げたネットワークによりわざわざ現地を訪れなくとも様子を見ることが出来るようになり、海山森谷……この惑星の至る所を踏破し人間に適応する環境を整えた今でも、この地にはまだ鴻上の力が必要とされる現象が発生していた。
けれど、本当なら了見はこの地に入る資格を持っていない。正確には――先代当主の血を色濃く引いた了見には、だが。
 それもそのはず。この地には――――――――
『リボルバー?』
「……っ、まずは情報収集だ。お前は私の感知内で索敵。単独行動、および戦闘行為はまだ許可しない」
 不要な思考に嵌まりつつあったのを振り切るように口を噛みしめると、揺蕩っていたプレイメイカーに命を下す。その傍らで、もう一度脳内でシリンダーを回転させた。通常であれば一度だけで十分な切り離しがこうも簡単に戻るとは、よほど内心は今回のことを拒んでいるらしい。自分のことなのに情けなく、そしておこがましい。そんなことを考える資格など、鴻上了見にあるはずもないというのに。
『わかった。……ひとつ聞くが、この地に俺を探知出来るような人物はいるか?』
 その問いかけに、少しだけ了見は顔を強ばらせた。
「…………可能性は、十分にある。鴻上に連なる家系は絶えたが、先祖返りや偶発的に力を持っている逸材がいるかもしれない」
 なんとか出せた言葉は驚くほど弱々しいものだった。自信が無いわけではないが、正確な情報を告げているわけでもないという、不誠実な言い分。了見らしからぬ言動に、代わり映えのない表情だったプレイメイカーが一瞬だけ眉をひそめた。だが、それ以上を追求できないと知っているため、言いたげな表情のままプレイメイカーは静かに頷いた。
 その反応で十分だと、了見は無言で一歩踏み出す。数歩進んだところで無人の改札が立ち塞がる。それは了見にとって先に見える町――彼にとっての異界と分かつ最後の砦だった。
 待ち構えているであろう出来事に震えていられるほど幼くはなく、使命を果たさんと熱く鴻上の血は滾り、それでも了見は先へ進むことを躊躇う。
 昔からそうだ。自らの意志で進むということ、すなわち未来を選択すること。それに関してだけは了見はいつも間違えてしまう。まるで呪いの如く、自ら選んだ最良は必然的に最悪へと転じる。十年前のあのときからずっと、選択肢を間違えて、誤って、失い続けている。その連鎖を断ち切りたくて――否、逃れたくて足を止めてしまえば、もう了見は鴻上を名乗れなくなるだろう。
 それを。

『……行かないのか?』

 改札の向こう側、境界の先、手を伸ばしても届かない場所で、彼が了見を見ていた。逆光の中、宝石のように煌めく対の碧玉。
 その瞳を、覚えている。
「――――皮肉なものだな」
 あの時誘ったのは了見の方からだったのに、今はこうして彼の方から呼ばれている。
 立場も、関係も、人であることすら変わってしまったことに、了見はただその事実を知るところまでしか出来ていない。認めること、受け入れる選択肢は目前に垂れ下がったまま、選ぶ未来を否定し続ける。
 だから。
「ああ、行くぞ」
 行く手を塞いでいる壁を乗り越えて、了見は正しくこの町へ一歩踏み入れた。
 この選択は最良ではなく、ただ最善を選ぶための過程として。


◇◇◇


 この町には、俗に言う――〝神様〟がいるらしい。


 緑が深く生い茂る山道の入り口。来るもの、去るものを問わず受け入れんと、朱色の鳥居は鮮やかに開けていた。先へ続く道程は人口的な整備こそあまりされていないが、差し込む日差しが延々と照らし続けており、こういった場に多い、人を拒むような薄ら寒さを感じさせない。
 静かに、暖かに、明るく人々を待っている――そんな場所で。
「――――たけるー!」
 少女の呼び声が木霊する。よく通る明るい声は道を通り抜ける一陣の風の如く、ただ真っ直ぐに相手の耳へと届けられた。
「……んだよ、邪魔すんなって言っただろ」
 姿はないまま、森の中から反響するように別の声が木の葉を揺らす。少女の声とは対照的に、低く感情を抑え込むようにどこか重みを感じる年若い男の声。見知らぬ人間が聞けば思わず後ずさってしまいそうになる、不機嫌を隠そうともしない呻き。
 けれど少女――上白河綺久は負けじと、昔ながらのセーラー服を風に棚引かせながらさらに声を張り上げる。付き合いの長さ故に、相手が隠そうとする真意を汲み取りながらも敢えて現状を咎めるように、両手を腰に当てながら。
「尊こそ学校サボらないで、って言ってたのに。もうすぐ夏休みなんだから出なさいよ」
 少女の言葉に感化されたのか、時を止めていた静かな参道に虫の鳴き声が響き渡る。反射的に汗が滴る、騒がしくも風情ある合唱会。都会からは忘れられて久しい、夏の風物詩。賑やかな演奏の内に、まるで潜めるような声で。
「それに先生も言ってたよ。今はちょっと危ないからひとりでいるなって」
 その言葉にがさり、と青い葉が揺れる。
 今は生命が最も活発的になる季節。特に青春を謳歌している若者には外せない行事が目前に迫り、人々は浮つく心を取り繕うことも出来ないまま、気怠げな今日を過ごしていた。
 ――――そう、数日前までは。
「おじさんたちも心配してるし……」
 なおも続けようとする綺久の小言じみた忠告を遮るように、一際大きく目前の大樹の枝葉が揺れ動く。広まる衝撃にざわめきがぴたり、と止まるのとほぼ同時に、頭上から軽い動きで人が姿を現した。
 陽だまりのように暖かなアイボリーの中に力強く紅が尾を引く髪を頭部後ろへすき上げ、その下に君臨する双眸は強固な感情を滲ませながら静かに綺久を見下ろす。視線は熱く、燃えているようだ。怒っているのだろうか、とその感情の元を探ろうとするが。
「危ないってんなら、なんでお前はひとりで来てんだよ」
 そう、苛立ちを露わにした声色に、綺久は思わず迫り上がってきた笑みを漏らさないよう慌てて手で口元を覆った。
「大丈夫だよ。まだ日は高いし……それに、尊がいるって知ってたから」
 なんだかんだ言って、彼は心配してくれているのだ。態度はともかく。
 彼の名は、穂村尊。綺久の幼馴染みであり、この場所に構える神社の神主の孫であり、少しだけ変わった雰囲気を持つ青年だ。一見すると近寄りがたい風貌であり、今は少しだけやさぐれてはいるものの、根本的には心優しいことをきちんと理解している綺久にとっては、まるで猫が毛を逆立てている程度にしか思っていない。
「だから帰ろう? 町長さんが対策を考えるって言ってたし、私たちがどうこう出来る問題じゃないんだから」
 そう促すよう手を差し出すと、尊は苦虫を噛み潰したような表情でそっぽを向いてしまう。目線は参道の奥、山の中へ向けられていた。
「……はっ。どうせ山の中をちょっと見て回って終わり、だろ。そんなんで犯人が出てこれば誰も苦労なんてしないだろうな」
 皮肉げに吐き出された言葉に綺久は思わず頬を膨らませる。昔はもっと素直だったといのに、彼は気が付かないうちに大きく捻くれてしまった、と姉のような心境で悲しみと痛みを覚える。
 それでも。

「仕方ないでしょ? この神様がいる山に火を放つ、なんてこの町の人がするわけないし」

 それはここ数日の間でこの町に発生している異常現象を端的に表した言葉だった。
 深夜遅く、原因不明の不審火の目撃が相次いでいる。証人は多数おり、複数人が同時に別々の場所から観測したという報告も上がっている。所謂田舎の町だからか、何処の誰が何時どんな風に、といった情報は炎よりも速く町中へ回った。多少なりとも脚色されてはいるだろうが、その証言はほぼすべて同一の事例である。
 ――――あの山に火がついている、と。
 数日前の通報に山火事を疑い、消防が緊急出動した。一晩中サイレンが鳴り響き、付近の住人は念のためと言って避難させ、山中から現場を探し回ったという。しかし、火種どころか燃えかすひとつ発見することが出来なかった。一度だけなら悪質な悪戯や見間違いなどで済まされただろう。しかし、その通報は毎晩のように続いている。
 何故毎晩出火しているという報告があるのか、何故目撃者がいるにも関わらず火の気配がないのか、そして何故――神聖なはずの山に現れるのか。
 明らかな異常、常識範囲外であり、只人には対処の仕様がないと早急な判断を下した町長の伝手により、専門家がこの町を訪れるという。そんな会話が町内で広まり、不安に怯えていた町民は安心したような顔で日常へと戻りつつある。無論、表面上は。
 綺久もその中のひとりでありながらも、他よりも心配している傾向にあるのは偏に尊の存在が大きい。
「そうだ尊、ちょっと顔貸して!」
「……あっちょ、おい――!?」
 ぐい、と返事が来るよりも速く、尊の腕を掴む。勢いよく重さをかけ、バランスを崩しこちら側へ倒れ込みそうになった彼の顔をそのまま引き寄せると、ぺちん、と音がするほど強く額へ手を当てる。じわり、と肌を伝い尊の熱が感じられた。
「……やっぱり、まだ熱下がってない!」
 数値にすることは出来ないが、少なくとも平時とは言い難い熱さに、思わず批難と悲鳴を掛け合わせたような怒声を上げてしまうのも致し方ないことだった。
 少し前――ちょうど騒動が始った直後くらいだった――から尊が発熱していたことを知っているのは綺久だけだった。心配をかけたくないのか祖父母たちに見つからないようにしてか、この参道あたりで突っ伏していたのを偶然にも発見して以降、しつこいくらい注意をしているのだが未だに休む気配も無く、それ故か治る兆しも無いようで何度目かも忘れたため息を零す。
「ちゃんと寝なきゃだめでしょ……何かあってからじゃ遅いんだから」
「……るせっ、耳元で騒ぐな。頭に響くだろ」
 掴まれていた腕を振り払うと同時に頭を軽く押さえる尊の姿に、綺久は反射的に謝罪の言葉を告げながら不安の色を浮かべた視線を向ける。振り払われた力の弱さに、風邪も滅多にひかない健康的な彼が確実に体調を崩しているのが嫌でも感じとれてしまい、普段の強気な姿勢が保てず指が空を切った。
 そんな綺久の動揺に気付いたのか、尊はバツの悪そうな表情を浮かべる。
「……別に、大したことねーよ。それよりも――――」
 不意に、彼の視線が陰る。矛先は遠く、不穏な色を帯び、まるで虚ろを捉えているかのようで。
 ぞわり、と。鳥肌が立つような違和感に、綺久は久々の恐怖を覚えた。

 綺久は知っている。尊には――人には見えない〝何か〟が見えていることを。

 幼き頃、夜闇に怯える彼の姿が脳裏に残っている。悪戯っ子だった同学年は笑いものにされながら動かない尊。綺久はそんな彼らを追い払い、泣きじゃくる彼の手を引いて宵闇の帰り道を歩く。始めは綺久自身も、尊はただの怖がりで、暗がりから今にも飛び出してきそうなお化けの存在を恐れているだけだと思っていた。
 けれど、その認識はひどい間違いだったと知った。そう――――十年前の、あの事件で。
 だから。
「…………許さない」
 小さく、それでいて強く、奥底から響くような彼の言葉。その意味を、理由を、目的を。問う勇気は、もう無かった。


◇◇◇


「夜中、山から火の手が上がるという怪異……か」
 手渡された資料を見て、現状を確認するように了見は呟いた。
 町の中心部にある、昔ながらの武家屋敷風の住居の応接間。土地が有り余っているのか軒並み大きく居を構えている一帯の中でもおそらく一番大きな造りとなっているこの場所は、古くからこの地を治める管理者のものだ。既に鴻上とは血縁ではなくとも付き合いそのものは続けられており、その流れから了見に今回の一件が齎されたのだった。
「敢えて名を付けるならば〝不知火〟というべきか」
『しらぬい……?』
 ふわり、と了見の斜め後ろで部屋と同化しつつあったプレイメイカーが単語を復唱する。
「本来なら、ある地方でのみ現れるという海上に浮かぶ無数の火影のことだが……〝知らぬ火〟が語源とするならば、これほど相応しい呼称もないだろう」
 誰もが目にしたという、存在しない炎。神聖な場所を穢す悪意か、それとも何らかの兆しか。その調査、および解決を依頼する旨が長々と連なる資料を放り投げると、了見は少ない荷物を手に取って屋敷を後にする。
 長居は無用だった。誰も得をせず、立場上馴れ合う必要も無く、お互いにこの地に長く留まることを良しとしていない。
「…………」
 町を歩く。連日の騒ぎのためか、昼過ぎという時間帯にしては人影は少なく、虫たちの熱唱が無ければ痛いほどの静寂がのし掛かってきただろう。そして時折、住民らしき人とすれ違っては意味ありげな視線を向けられる。好奇か、疑念か、それとも警戒か。
『……なあ、リボルバー。お前はこの町に来たことあるのか?』
 プレイメイカーですら気付くほどの違和感に、了見の足取りは自然と重くなる。
 この町の人間で了見の存在を知っているのはどれほどなのか。それについて詮索するつもりはないものの、こうして肌で感じ取るほど視線を向けられれば、意識しないでいることは不可能だった。
 それを振り切るように、了見は定めた目的地へひたすら足を進めていく。
「余計な詮索は不要だ。それよりも――――着いたぞ」
 似通った住宅街を抜け、整備された道路から柔らかな地表が覗く田舎ながらの道を越えた先。開けた視界に突如現れたのは、日に照らされた眩しき朱色。周囲を木々で覆い囲われ、大きく開かれた門の向こうは未知なる山へと続く一本の道。遍く存在を受け入れようとしている風に見せかけ、その実、行き先をひとつに定めてしまっている。古来よりある土地を利用した術式によく似ている気がして、了見は足を止めた。
「…………」
 鳥居の前に立ち、視線を上げる。朱色の背後には青々とした木々に覆われた小高い山が聳え立っていた。この町と外部とを分かつ境のようにこの山は存在している。
 脳裏に過った術式の概要を思い出そうと思考に落ちる、その直前。
『ここ、俺たちは入りづらいな』
 了見の後ろから鳥居を覗き込んでいたプレイメイカーが、淡々とした報告をもたらす。何が起こるか分からない状況下、些細なことでも気付けば報告するよう言いくるめていたことを思いだし、無言のまま先を促した。
『……強制力、だろうか。山の中を突き進もうとしたり、参道から外れようとするのを拒絶されているような感覚がある。この道を外してこの山に入るのは難しいだろう』
「――――そうか。なるほどな」
 プレイメイカーたち――つまり〝異形〟に対して効果があるらしい。集ってきた異形の進行をここで一カ所に集中させ、行き先を固定させる。この道が示す場所は、朱の鳥居が象徴する、神が御座す聖地。目的は明らかである。
 だが、と。ひとつの疑問が浮かび上がる。
「これをつくったのは鴻上ではないな」
 民間にもある程度、魔除けと称した簡易な術式が広まることもあるが、それは精々気休め程度の効力であり、プレイメイカーであれば無視できる程度のもの。少なくとも彼が強制力を感じるほどの術が今なお残るなどあり得ない。ならばそれなりに精通した逸材が仕掛けたもののはずだが、一番可能性が大きい鴻上にはこのような資料は残されていなかった。関与しているならば了見が知らないはずがない。
 この術式が果たして、今回の現象に関係があるのか否か。それも含めて調べるべく、了見は重い足で境界を跨いだ。

 ――――ざぁ、と風が柔らかに肌を撫でる。

 参道を進んで、進んで、進んだ先へ。
 日差しに照らされた一本の道をひたすら進み、たどり着いた場所はちょうど山の頂上に近い場所だった。頭上にあった木々の屋根がぽっかりと穴が空いたように途切れ、丸く切り取られた空を望むことが出来る。広場、と呼ぶには小さいその空間は、虫の喧騒も届かず静まりかえっていた。誰しもが感じ取ることが出来るだろう――ここは、神が御座す場所だと。
『綺麗な場所だな』
 僅かに口角を上げながらプレイメイカーが呟く。彼の言う〝綺麗〟は景観のことではなく、空間の清浄さのことだろう。了見も呼吸をする度に思い知らされる。この場はとても澄み渡っている。例えるならば、悪しき存在を焼き払い消失させたあとのようで。
「確か、例の炎の目撃はこの山頂付近が多かったはずだが……」
 管理者が作成した資料の記憶を辿る。目撃者の身元、証言、目撃時の状況など事細かにまとめられた資料自体の出来は良く、異形に関する事例で多い〝まことしやかに囁かれる実例のない噂〟と断ずることは出来ないのが今回の特異とすべき事例であった。火種がない、ということに関しては実体の無い異形が原因とすればおかしなことはない。
「一先ず、一番の要因になりえるのは――――アレだな」
 凍てついた視線を向けた先。暖かな陽光が降り注ぐこの場所で唯一、巨木の影となる場所にひっそりと佇む小さな祠。古めかしくも確かな存在感を発するそこに、了見の肌――その表面に張る膜状の異物が反応を示す。敵意という程ではないが、歓迎されている様子もない。見定められている、が最も近しいだろうか。
 ここは神を奉る神社ならば、あの祠にいるであろう存在はひとつ。
 どのような謂われある存在かは知らないが、少なからず無関係ではないだろう。了見は背後で警戒態勢をとるプレイメイカーへ手を出さないよう指示を出しながら、ゆっくりと歩みを進めていく。自身の〝殻〟を密かに発動させ、最低限の備えを終わらせると。
「さぁ……教えてもらおうか。連日発生している〝不知火〟の正体を」
 閉ざされている祠へ手をかけて。


「――――――何してやがるっ!!」


 静寂を突き破る怒声。反射的に振り返った了見の視界に飛び込む、その姿。紅が入り交じる髪に、燃え上がるような炎の瞳。ちょうど、そう――了見が希んでやまない〝黎明の彼〟と同じ年頃の人物。
 面識は無くとも、知らぬはずがない。忘れることは許されない。相手が望まずとも、了見は〝鴻上〟として。
 だから。

「……穂村、尊」

 脳に刻み込んであった彼の名を、口の中で反復する。
 出来ることなら避けたかったこの邂逅へ、最後の抵抗をすべく。了見は必死になって顔を取り繕った。


◇◇◇


 嵐の夜は注意しろ、と言われたのは物心つく頃だっただろうか。
 その意味を考えるどころか、理由を問うことすら出来ない年だったため、ただ促されるまま頷いたのが記憶にある。
『――――大丈夫、この町には神様がいるからね』
 優しく告げたのは、もう記憶の彼方にしか存在しない人の声。あの人たちは知っていたのだろうか。
 この町を守る神様の存在を。そして――――――



 五月蠅い幼馴染みの綺久を振り払い、再び社へ足を踏み入れた先にいた人物は例の騒動を調べるべく、わざわざ都心から訪れたという。
 正直なところ疑う要素しかない。満足に名乗らず――了見、と言っていたがそれが名字なのか名前なのか判断しかねた――素性に関しては追及をかわし、何より貼り付けている表情が嘘くさい。それでも彼の口から語られる、その情報源だという人物はこの町を支える名士のものであり、古くから交流のある尊に生半可な出鱈目は通じない。だからこそ、怪しいことこの上ないながらも、彼は正規の依頼を受けてやってきたのだろう。それが覆せない限り、尊がやたら滅多に噛みついても仕方が無いことだった。逆に下手を打てばそのことが回り回って祖父母の耳に届くことになりかねない。それだけは避けなくてはいけない、と不本意ながらも彼に付き合いながら山を下る。
 その最中。
「――は? 最初の火が出た前に何があったか?」
「そうだ。何か異変、些細な変化……大したことでなくともいい」
 そう問われ、尊は重い頭をゆっくりと振り返る。幾十にも靄が掛かったような思考は、濃霧の中を手探りで進んでいるように目指す場所どころか今いる場所すら朧気だった。それでも彼の問いに最も答えられるであろう記憶を引っ張り出す。
「そう、だな…………久々の嵐だったな」
 締め切った窓を叩く乱雑な風雨。遠くで轟き空を染める雷鳴。そして荒れ狂い踊る海原。あれは数年に一度あるかどうかという程の大きな嵐だった。大人たちの慌てふためく声は風に掻き消され、迫り来る恐怖は荒波に呑まれた。海に面した地形柄、嵐の夜はひどく恐ろしいものだと教え込まされてきたのに、あの日は特別騒がしかったように思う。
 そこまで考えて、ふと。
 今なお苛む、この身に覚えのない体調不良を感じるようになったのは、ちょうど嵐が過ぎ去った次の日からのことだったことを思い出した。
 全身を覆う倦怠感と発熱から起こる意識の不鮮明さ。そして何より、心中に渦巻くのは轟々と音を立てながら盛る使命感。
 その正体、その違和感、その歪さに気付くことなく、尊はふらつく手足を意志の強さで押さえ込みながら健常に振る舞っていた。
「嵐が去った次の日からだ。山に火の手が上がった――ってウチに知らせが来たらしい」
 尊の家はあの山に座す神社を管理していた。山そのものの所有は別なのだが、この町に住む者は皆〝あの山のことなら穂村に言え〟と思っているらしく、あの日も当然のように近隣住民が真っ青な顔で飛び込んできたという。
 そう記憶にある限りのあらましを零すように告げると、聞いてきた彼は少しだけ思案するように伏せていた顔を起こし。
「――――何故、断言しない? 家にいなかったのか」
 その冷えた切っ先は、霧が掛かった頭を一瞬だけ覚醒させる切っ先となった。微睡みを重ねる最中ふと目覚めたように、少しだけ鮮明になった思考に彼から提示された疑問が反響する。
 そう、何故――――あの時も家にいなかったのだろうか。
 今の現状に満足している訳ではなく、それでも自身の中に燻るよく分からない感情を抱えたまま日常に浸れるほど振り切ることも出来ず、ただ無闇に荒れてしまっているこの状態。それでも祖父母は寛容な心持ちで待ち続けてくれている。そのことを決して忘れないため、これ以上迷惑をかけないため、尊は無断で家を離れるようなことは避けている。日中ならいざ知らず、少なくとも深夜の時間帯を出歩くような真似なぞするはずもないのに。
 そんな自問は。
「……何だっていいだろ」
 素っ気ない言葉で有耶無耶になる。そう、肝要なのはそこではないのだ、と頭の中で声が響き続けている。
「消防も、警察も、役所も……散々調査したけど手がかりは無いんだろ?」
「そうだな。少なくとも人の手が入った形跡は残されていない」
 伝え聞く限り、炎は立ちのぼるほど激しく燃えていたらしい。燃え広がるというよりは一点に集中してより煌々と勢いよく。それもまた不自然なことだと、物陰から囁かれる噂話が耳に届く。
 まさに――――〝不知火〟というわけだ。
「……あっ」
 そうしているうちに足は自然と進み続け、気が付けば目前に鮮やかな朱色が映る。尊は咄嗟に隣にいるであろう人物を横目で見た。彼は立ち止まり、尊の背後――聳え立つ山へと鋭い視線を向けていた。探るような、問うような、恐ろしい存在を幻視しているような。
 そんな彼へ、尊は渋りながらもひとつの提案を持ち上げる。
「あー……詳しい話なら祖父ちゃんが知ってるはずだけど、聞きに来るか?」
 親切心からの言葉だったか、驚くほど心が込められていないことが誰でも理解出来てしまった。義務的に告げただけの、お世辞とも呼べない粗末なもの。
「いや、まだ調べるべきことがある。……気持ちは受け取っておこう」
 それを彼は一考にせず断った。その事実にひどく、安堵を覚える。
 熱を感じるようになってから時折、自分の言動が矛盾することが増えた。無意識的に零れ落ちる言葉が果たして、己が真に発言したものなのか確証が持てなくなる。自分自身がチグハグになりつつあることを感じながら、それでも尊は何でもない風を装ってその選択を受け入れる。
「……あっそ」
 これ以上付き合う必要は無い、と尊は碌な挨拶もせずに彼に背を向けた。そのまま立ち去ろうと足を動かしたその矢先。
「お前にとって、あの火は――何だと感じる?」
 そう、投げかけられて。尊は自分のものとは思えなくなってしまった口から、ただ漠然と事実を述べた。
「決まってる…………アレは、――――――だ」
 それはまるで決別の言葉のように。
 尊には、熱に浮かされた頭であっても明確に分かることがひとつだけある。

 ――――彼と尊は、決定的に相容れない存在であることだ。


◇◇◇


 世界が、黄昏に染まる。
 鴻上了見が最も忌むべき時間に、それでも己が役目を果たすべく。

 ――――ガチリ、と。

 〝鴻上〟としての思考へ切り替える。
「…………ああ、私だ。すまないが至急調べて欲しいことがある」
 茜色の空を映し同じく鮮やかに波打つ海を臨みながら、了見は自らの携帯端末へ若き長としての指示を飛ばす。応対するのは父の代より献身的に付き従ってくれる者たち。最低限の言葉で最良の結果を最短で齎してくれると知っていてなお、急いたことを明らかにしていた。
 穂村尊と遭遇し、ある疑惑が浮かび上がった。憶測がもし正しいとすれば、この町で起きている現象の正体は判明する一方、重大な危険性も浮き彫りとなる。それを現状の情報では否定も肯定も出来かねるため、さらに確信へと至るためのものが必要だった。
 だからこそ。
「おそらく、父の部屋にある――〝ハノイ〟のファイルに記載があるだろう」
『そ、それは……!?』
 その単語を口にすることは、それなりの覚悟が必要だった。
 鴻上が――亡き父が犯した最大にして最悪の実験。今なお了見を蝕み、抗わせ、進むべき道筋を決定づけた計画。了見自身が背負うと決めて既に十年。光明はまだ遠く、それでも悪夢のような中を進んでいかねばならなかった。
 なぜなら、その事件で了見は――二つの罪を犯していたから。
「……頼んだぞ」
 そこで通話を切る。優秀な彼らのことだ、おそらく今夜のうちに成果を報告してくれることだろう。
 それを待ちながら、了見は眼前に横たわる広大な海へ視線を向ける。
「前方の海、後方の山――――確かに、条件は悪くない」
『……例の術式か?』
 プレイメイカーの問いに了見は薄く頷く。
 この町に敷かれているのは自然の地形を利用した、ある種の布陣。それは代々受け継がれてきた先人の知恵とも呼べるもの。それが必要とされていた理由があるはずで、すべてを解明すべく時を待つことにした。
 世界が一色になるこの時間、ひとり。了見は少しずつ移ろっていく太陽を望ましそうに見ていることしか出来なかった。

 ――明けない夜は無い、と誰かが口にする。
 けれど了見はずっと探している。黄昏を乗り越える方法を。


◇◇◇


『――――――』
 夜が更け、深夜。
 凪いだ海を見つめるひとつの影――プレイメイカーは、波止場に聳える灯台の上にいた。
 主たるリボルバーの予想では、今夜もまた例の火が上がるだろうとのことだった。そして、その前後に起こるであろう異変を監視すべく、プレイメイカーは黙々と課せられた通り、海側へと陣取っていた。山側は了見が対応するらしい。
 海はすべてを呑み込むように暗澹としており、振り返った町も夜の帳が下り、世界そのものが眠りについているようだ。人であればこの静寂に有らぬ存在を幻視してしまうだろうが、異形であり殻であるプレイメイカーにはそのような意識は無く、ただ横たわる空気の清らかさに身を預けていた。
 そう、この町は澄み渡っている。まるで――悪しきもの、と断ぜられた存在をあらかた焼き払った後のように。
『静かだ』
 不浄が存在しないこの地では、これ以上何も起こり得ないのではないか。そんな懐疑が思考を掠めていく。これでは己が役目を果たせないな、と音にならない言葉を夜に溶かす。
 プレイメイカーは鴻上了見に与えられた〝殻〟だ。人間とは異なる存在から彼を守護するため、外敵を排除するため、危機を未然に防ぐため。ありとあらゆるものから鴻上の当代としての彼を守る――それが使命。たとえそれを当人が、この世すべての悪よりも忌み嫌っているとしても、意志を持たない道具でしかないプレイメイカーに選択の余地は無い。自らに憤り続ける彼に掛ける言葉も持ち得ず、プレイメイカーは頷き一つで従い続けるしか無いのだ。
『――――』
 その事実に。痛みも悩みも苦しみも、感情という存在を知らぬはずなのに、がらんどうたる胸がざわめくのを止められない。刺すような僅かに感じる違和感の正体から、まるで逃げるように灯る対の緑光を閉ざして。


「――――よぅ、こんばんは……カナ?」


 あり得ないはずの、第三者の声が出現した。
『――――っ!?』
 反射的に己が武器たる闇剣を具現化し、声のした方へ突きつける。一瞬にも満たない動作、並の存在であれば対応することも適わない神速を眼前に繰り出された存在は。
「ああ、でも日付変わっちゃったから、おはようのが正しいか? まっ、どっちでもいいケド」
 そう、刃を前にしながらも飄々とした言葉を繰り広げている。眼中に無い、というよりは危機と感じていない。己が傷つくはずが無い、という絶対的な自身を醸し出している。
『――――』
 剣を微動だにしないまま、プレイメイカーは瞳を鋭く細めた。

 その存在はまるで――――夜半の形代だ。

 紫檀と瑠璃が混じり合い、その後ろを純黒が支配する髪。纏う衣装は中世の貴族を思わせる、煌びやかに装飾された影のよう。そして、暗がりに仄かに浮かび上がる双眸は、妖しき黄金を放つ対の月。半円を描いた口元から紡がれる言の葉は、幽幻と真実の境界を異にせず訴えかける波動のように、聴くモノすべての感覚を狂わせる。
 明らかな異物。具現化した眩惑。実数へと浸食した虚数。そんな不確かで恐ろしきモノだと知識の上では理解しているのにも関わらず、プレイメイカーは困惑を身を以て覚えている。
 そう、目前の存在を――敵対象として認識できない。
 それはまるで対面したことの無い自身のオリジナルを見たような、手にした己が武器を相手にしているような、むしろ――主である了見を前にしているような。そんなプレイメイカーと地続きの存在のように、他のモノとして見ることが出来ない。
 惑うプレイメイカーを認識しつつも、ソレは口角を更につり上げながら恭しくマントを翻しながら一礼する。堂に入った仕草のような、見様見真似のような、軽率な雰囲気と表情が内情を有耶無耶にさせていた。
「さて、プレイメイカー様? そろそろ海を注目した方が――イイモノが見れるぜ?」
『貴様、どうして――――っ!?』
 何故名を知っているのか、という当然の疑問と驚愕は、突如として沸き起こった異常によって飲み込まれる。

 ――――ざぱぁん、と。

 海が荒れる。波止場に叩き上げられるように、大きくうねった波が激突する音。風は無くとも海は絶えず波揺れるため、それ自体に不審なところが有るはずも無く。
 だが、その波の狭間から

 ――――ずずず、と。

 黒く蠢くモノが這い出してきた姿を、捉えてしまった。
『――――! アレ、は』
 波に煽られ、流れに這わせ、潮に導かれ、波打ち際にゴロリと打ち上げられたもの。碌な形状を保っておらず、平時であれば海藻の塊か削り取られた大岩程度にしか映らない。だが人とは異なる理に身を置く存在には、とてもそんな楽観的な思考は抱けない。手足無くもぞもぞと生理的嫌悪を催す動きで、砂浜を穢しながら藻掻いている。そうしている間に、次から次へと波が打ち付けられ、その度に黒の塊が現れた。
 ソレを端的に表すならば――そう、なり損ない。
 生命の母たる海より現れた、新たな命――に、なり得なかった存在だ。それらを形容する呼称を、プレイメイカーの持つ知識に刻まれた言葉が有る。
『〝ヒルコ〟か……!』
ご明察ピンポーン!」
 それは神話で語られる、原初のなり損ないの名。不出来故に海に流され、いずれ海から流れ着き還り来たるであろう、とされた忌み子。その名を冠す存在は、やはり海から湧き出でる〝異形〟の総称。時に〝死に損ない〟とも表され、常世や黄泉に通ずるとされる。そのためかヒルコが現れた土地は、まるで異界へと転じてしまったように異形が跋扈するという。
『――くっ! 規定・変更、元型:水射!』
 一瞬の判断で、プレイメイカーは苦肉ながらも目前の正体不明な存在から剣を下ろし、即座に武具を中遠距離用の弓へと変更する。間髪を入れず放たれた必中の矢は二体のヒルコの中心を穿った。
 だが、とてもそれだけでは間に合わない。その刹那の空白時だけで、倍は数を増している。一を刈り取れば十が湧くかの如く、まるで何かに引き寄せられているかのように。奴らは際限なく波間から現れては、ずるり、と蠢きながら次第に町中へ向かっている。
『――――っ』
 プレイメイカーは判断に窮する。所詮、殻に過ぎない身。特殊な経緯から意志めいたモノを宿しているものの、そこまで機敏にはなれない。確実に一体ずつ処理する今の手法では、敵が市街地に繰り出てしまうのを防げず。数で圧倒する敵に対する殲滅法も持ち得ているが、闇雲に放てば町へと被害が及ぶ。ならば速さを重視しての戦法を選択するには、相対したままの正体不明な存在を無視して浜辺に降りなければならない。せめてこの場に主がいたのであれば適切な判断が出来ただろうが、今は指示を請う思念を送る余裕も無い。
 ならば。
『アレは……貴様の采配か』
 町中へ出る寸前の個体から排除しつつ、閃く緑瞳は夜半を模した存在を射貫く。姿は人のそれだが、真っ当な存在であるはずが無い。質量を持たない故に足場の有無をものともしないプレイメイカーと目線を合わせたまま、重力の存在を認知していないように宙に浮きながら超然と振る舞うなぞ、希有な才能を持つ了見でもおそらく難しい。
 ならばこそ、プレイメイカーは奴こそ此度の原因であり元凶たる異形か、と問うた。
 それに返答するかのように、孤月めいた笑みを浮かべる。
「――――さぁ? お好きな解釈でどーぞ。オレは折角だし顔合わせしとこうかなって思っただけだしィ……それに、そろそろ」
 不意に、ずん、と夜が深まったように周囲の空気が一段と重みを増す。強烈なまでの重圧に、思わず動きが止まる。何が起こったのか、視線を逸らさないまま神経を張り巡らせるが、それすらも押し負ける程の威圧感。
『なに……?』
「さぁさ、お立ち会い! この町の名物イベント、ついに開幕だ!」
 その言葉に応えるように。

 ――――轟、と。

 炎が空を割いた。


◇◇◇


 プレイメイカーとは反対に、ひとり山の中で身を潜める了見。参道から少し外れ、頂上より十メートルほど下った場所にある巨木の上に身を置き、静寂な夜の空気に気配を滲ませていた。眼下には殆ど消灯され、人の気配が途絶えた町並みが広がっている。
 無辜の民を異形から守るため、鴻上の力を持ってこの異常現象を解明し、原因を速やかに排除する。そのために、了見は時を待っていた。
 おそらくもう少し。憶測が真実であれば、この山か向こうの海、どちらかで反応があるはずだった。
「……さて、アレは上手くやるかどうか」
 今回プレイメイカーには限度を付けた戦闘行為まで許可してある。つまり、そういったことが起こりうる、と了見は想定していた。元より今は常夜。人の時間はとっくに終わり、既に異形が支配する時間だ。とくにこの町の地形を垣間見る限り、そういった類いの存在は海より来たる傾向にあるのが読み取れる。そう、まるで狩猟罠のよう。海から誘われた異形は必然的にこと山へと集うよう強制する、それがこの町に敷かれている術式の内幕だ。被害を局地的にするためか、それとも一点に集めてから封印及び殲滅するためか。どちらにせよ、この地では異形が外から来ることは確定的であり、それに対応する存在がいなくてはならないということを示唆していた。
 つまり、この町にいるはずなのだ。異能を持ち、民を守る手段があるモノが。鴻上では無く、遙か昔からこの地に根ざした存在が。そしてそれに最も近しい人物は、了見の知る限り――ひとりいる。

 ――――ゆらり、と。

「――――っっ!」
 その姿を、了見は直視することを咄嗟に拒んだ。
 夜露に濡れた髪は力なく下り、その足取りは幽鬼の如く、けれどその双眸に灯るのは何よりも燃え盛る炎のように滾り揺れていた。
「やはり、か」
 出来ることなら認めたくは無かった。せめて了見が非情に徹しても問題ない人物であればやり用は幾らでもあったというのに。相も変わらず、了見が選ぶ未来への選択は予想を軽々と最悪へ叩き落としてくれる。
「……穂村尊」
 思わずその名を零してしまった。昼間出会ったときからこうなる予感は――否。彼は十年前、了見の父が起こしたある計画に名を刻まれた被害者であるが故、こうなるのはもはや必然だったのだろう。
 危なげな動きで、その人影はゆるりと山の頂上へと登り詰めた。そして静かに、ただそこに座していた小さき祠へ手を伸ばし。

 ――――轟、と炎が爆ぜる。

 闇夜を焼き焦がすよう、天高く火柱が打ち上がる。強く、激しく、魂すら焼き尽くす勢いで。清廉すら感じさせるほど、熱くも輝かしく燃え上がる炎。
 確かに何も知らぬ無辜の民からみれば、突如として噴き上がったこの火は得体も知れず、結果的には何も残さない不可思議な現象〝不知火〟の如し、と映るだろう。
 けれど了見は異能を知り、用い、そして――決して逃れることが出来ぬ〝鴻上〟の者。故に、避けることや逃げること、目を背けることは許されず。今目の前の現実を受け止めるために、彼の身に起こっているであろう真実を口にする。

「お前の〝殻〟は――――暴走している」

 猛々しき炎を前に、了見はそれ以上の言葉を失った。


◇◇◇


 ――――炎が揺らめいている。

 細々と、煌々と、赤々と。
 それは懐かしき熱。それは新たな息吹。それは遙か彼方にて待ち構える終の定め。
 心を燃やし、身体を焦がし、いずれ魂が灰に成り果てようとも。

 〝人の可能性を、私は信じている〟

 その声を肯定するため、証明するため、その夢を叶えるため。
 尊は、手を伸ばしたのだ。


猛る炎よ、転生せよサラマングレイト――――!」


 山の頂きより燃え上がった炎は、一直線に灼熱の軌道を描く。空気を焼き焦がし、人智を易々と飛び越した動きで、まるで流星の如く自らをも炎に巻かれながら跳び上がる。
 たどり着いた地は、数多にも群れを成す人ならざる存在で埋め尽くされた浜辺。大切なものがたくさん、たくさんあるこの町を穢すことなど。
「――――許さない」
 炎が轟く。深き夜の闇を消し飛ばすほどの火炎が輪となり、まるで太陽を偽るかの如く、大輪を咲かせ周囲を遍く照らし出す。
「炎よ――――」
 その言葉をも糧とし、火がうねる波のように彼の姿ごと飲み込む。人が耐えられる熱量を遙かに凌駕した灼熱は、その肉体を一瞬にして焼失させてしまう。あらゆる苦からの解放、そして生命としての死――――否。
「転生せよ――――!!」
 それは彼自身が、己が魂へ命じた叫び。触れることの出来ない過去、それを根底に刻まれた残滓を呼び起こし、その猛りを取り戻すために。それを阻む肉の殻を焼き、剥き出しになった意志を燃やし、それをもくべて手を伸ばす。遠くに揺らめく炎、其処へ至るにはまだ足りない。
 けれど、確実に一歩――掴んだ。
 炎が螺旋を描く。青と赤の対となり、ここに遙かな過去の命の灯火を謳う。
「〝篝火くべる猫ベイルリンクス〟」
 それは穂村尊という存在が持つ魂に残留していた、宿世の形。人の身を知るよりも遙か遠い日々の残響。数多の輪廻転生を経て繋がっている本能の根源。

 ――――自分は、何にもなることが出来ない半端な存在だ。

 過去に縛られ、無力に憤り、屈託した感情に支配される日々。そこから進むべく、道を示しすため。大切な存在が生きるこの場所を守るため。そして、この想いに気付かせてくれたモノの夢を形にするため。
 穂村尊は生まれ変わった炎を身に纏い、眼前に映る敵を屠るべく本能キバを剥いた。


◇◇◇


「あーあ……確かにあれは〝憑依〟を越えて〝転生〟って言いたくなるもんだ」
『――――っ』
 荒ぶ炎を見つめる、二つの影。
 突如として現れた彼――穂村尊の存在に唖然とするプレイメイカーと、物見遊山とでも言いたげに含み笑いを浮かべたままの夜闇を纏う異物。
 眼下に広がる光景は、さながら煉獄とでも称すべきか。
 穂村尊は紅蓮と蒼炎に身を包み、人間の領域を越えた獣の如き動きで、群がる異形を灼熱に焼き尽くしている。そこにはまるで〝意志〟の存在を忘却してしまったかのように、嵐のような本能しかない。極限まで高められた闘争本能、それを具現化し纏い、視界に映った動くモノすべてに食らい付く様は、まさに知性を欠如した獣。
 ヒルコの声なき叫びか、穂村尊の身を焼く苦悶か。咆哮じみた轟きで世界が揺れる。だが、不自然なほど只人が気付いている様子は無い。おそらく周辺住民たちの意識は、先程山の方で発生した火柱による不審火騒ぎに注意が向いているのがひとつ。そしてもうひとつは、大量の異形が集中すると時空の乱れなどが発生し、一種の空間断絶が起こりそれが肥大化すると異界を形成する。この浜辺はまさに、異界一歩手前といったところであり、異なる視点を持つモノで無い限り、この場を認識することを無意識ながら拒絶する。つまるところ、救世主や邪魔者は現れないということだ。加えてあの異形どもはおそらく、穂村尊の起こした炎に引き寄せられて現れている。夜道の電灯に集う蛾の如く、強大な力は否が応でも惹きつけてしまう。だからこそ、この連鎖は異形の数が尽きるか、それとも穂村尊の力が燃え尽きるか――どちらかが負けない限り、永遠に終わらない。
 そんな地獄を見つめる対の黄金は、ニタつく笑みをそのままに狂える炎の仕組みを解剖する。
「ぱっと見は――魂に残っていた前世の情報を抽出し、擬似的な〝殻〟として纏う異能。だがそれすらも過程であり、本質はそうじゃない……おお、恐っ!」
『お前……何故知っている?』
 プレイメイカーの無機質めいた問いが僅かに震えていた。人間ではない、異形側だからこそ分かることもある。
『あれは異常だ。殻の領分を越えている』
 異能の別称たる〝殻〟の本質は防衛本能だ。人間が人間たる所以のひとつであり、自身から生じた外界への守り。肉体を、意志を保護するためのもの。攻撃性の高さや多岐にわたる機能など、ひとつとして同一のモノは無いと言わしめる個性の象徴。
 確かに身を削って行う術もあるだろう。だが何事にも限度というものがあってしかるべきだ。本能であればなおさら、自らの生命が危ぶまれた時点で必然的に停止しなければならない。
 それなのに、穂村尊は――己が炎で心身ともに焼き焦がしてしまっている。このままではたどり着く未来はひとつしかない。
『絶対的な破滅を招く。こんな状況、おれたちにはあり得ない』
「はーん……つまりプレイメイカー様はオレを疑ってるわけだ」
 その返答は言葉の代わりに剣を突きつけることで示した。紫雲を溶かした大剣が喉元を掠めてもなお笑みを壊さない存在に抱くのはやはり、拭いきれない違和感。こうして相対しているにも関わらず、プレイメイカーは完全に敵意を持てないでいた。強く意識しなければ照準がズレてしまいそうになる。そんな困惑を露わにしないよう、見開いた緑瞳を鋭く差し向けた。
「でも残念。アレはオレじゃない……もっともっと上の方の為業さ」
『だが、無関係ではないはずだ』
「そりゃ否定しないケド」
 咄嗟に振りかぶった軌跡は熱せられた空気だけを切る。まるで影のようにつかみ所もなく、少し離れた位置にマントを翻しながら再び出現した。浮かべる笑みは嘲りというよりも、何かを訴えているようにも映る。
「オレはただチャンスをあげただけ。まぁ演出はちょっと凝ってみたけど……選んだのは当人たちだし? そうカッカするなってー」
『黙れ。もういい、目的を言え』
 あくまでもはぐらかすつもりなのが目に見えて、少しでも情報を引き出すべくプレイメイカーの語尾に自然と力が入る。ピクリ、と無意識に目尻が釣り上がり視線に鋭さと冷ややかさが加わった表情。
 それを易々と受け止めると、闇は芝居がかった動作でしなやかに指を動かす。
「オレの? オレのはもう達成しちゃったからなァ」
『認めるというのか。お前が一連の元凶であると』
「イヤ違うし。というか……その〝お前〟って呼び方やめない?」 
 突如、ワントーン下がった声色で告げられた言葉は明らかな苛立ちが含まれていた。それはプレイメイカーに向けられたもの、というよりはどうにもならない世情や自らを取り巻く環境そのものに対する、諦めを帯びつつも譲れぬ意地のようなものに聞こえた。
「大体サ、異形だからとか人間だからとか、そういった括りで何でも決めつけるの良くないと思うんだよね~……だから」
 すぅ、と夜闇に浮かぶ妖しき月のように、黄金の瞳が仄かな光を放つ。瞳孔は機械のように微動だにもしないが、眼光は人間の持つ意志のように角度によって無限に変化していくよう。
 異形とも、人間だとも言い切れない存在としか言い表せない、歪な存在。
 一瞬にして目と鼻の先に迫っていたそれを、プレイメイカーは反射的に覗き込んでしまう。鮮やかな黄金に映る自分自身が、どこか別の人物のような気がして。
 動きを止めてしまったプレイメイカーに、影は囁く。
「オレは自分の名前を自分で決めた。オレは――〝アイ〟だ」
『――――あ、い?』
 カチリ、と。何かのスイッチが入るような音がした。その事象が幻聴なのか現実なのか。どちらにせよ、誰にとっても悪手になるであろう予感が駆け巡る。
 自称だけであるならば名前になり得ない。他者からの呼びかけがあり、それに応えた瞬間から、その単語は名称として機能する。そのことを何故、知っていたはずなのに口にしてしまったのか。
「……そう、オレの名は〝アイ〟だ。さすがプレイメイカー様」
 戯けるような雰囲気の中、少しだけ貼り付けた笑みが崩れる。純粋たるひとつの感情を浮かべながら、それを必死に押し殺してしまったかのような、そんな悲しげな笑み。まるで、夜道にひとり取り残された子供のようで。
 だがそれは刹那にすぎず、瞬きする間もなく月のような弧を描く。
「では、そろそろショーも終演らしいし、今回はこの辺で。じゃあな――リボルバー先生にもどうぞよろしく!」
『――――っ、待て!?』
 半歩下がる動きを見せた彼を追うように手を出すが、ふたりを分かつように火柱が隆起する。異形を容易に焼き尽くす炎を前に、思わず二の足を踏む。直接触れていないにも関わらず、全身が痛むほどの熱と轟く炎に目が眩んだ。
『くっ――!』
 振り払うように一閃と剣を振るう。割かれた炎と空気の間を掻い潜るが、既にそこには何一つ残されていない。すべて夜闇に溶けてしまったように、残滓すら消え失せていた。
 朱の色に染まりかけた夜空を背に、ひとり。
『アイ……か』
 それは〝愛〟か〝哀〟か、はたまた〝私(I)〟か。その音に込められた想いを知る由も無く。けれど、そう呼ぶことには驚くほど納得がいく。その音は自然とプレイメイカーの中に納まり、不確かな存在であった彼を迎え入れ定義する。
 彼は夜半の闇にどんな〝アイ〟を知り、見て、名にしたのだろうか。
『…………』
 ただの殻であるプレイメイカーには、考えることも感じることも情を覚えることも出来ない。
 それでも。
 一度抱いた違和感を言葉にせずとも残し続けなければならない、と。それだけを刻んで、未だ燃え続けるかの炎と、数を減らしつつも残る異形へ対処をすべく、音も無く浜辺へと降り立った。


◇◇◇


 夜が明ける。地平線の彼方から尊大な太陽がゆるりと姿を現していく。凪いだ海に光が差し、地上への架け橋を結ぶ。その入り口たる渚と真砂が入り乱れる浜は、凄惨たる夜の景色から一転し、澄み渡るほどの静けさを湛えていた。
 その中に、ひとり。立ち尽くす影が伸びる。遠くから見れば、まるで陽炎のように身体の輪郭がブレている。近づき触れれば、あまりの発熱に手が弾かれるだろう。きっと、彼を知らぬ人間ならば勘違いしてしまう。あれは人ならざる存在なのではないか、と。
 彼は――穂村尊は一夜の間、猛り狂う炎となる。それが昨日明らかになった事実。
 それを。
「…………」
 悲痛な顔持ちで、山の麓に身を潜めたままの了見は見つめていた。眠るなど、休むことなど出来るはずもなく、自身が想定した最悪の形がそのまま現実となった結果を受け止めることで精一杯だった。側にプレイメイカーの姿は無い。今の了見に、かの姿を直視する余裕がなかったため、あらかた焼失したと思われる異形〝ヒルコ〟の爪痕が残されていないか確認するよう言付けてあった。何か言いたげだったのは思念越しに感じていたが、奴自身も察していたのだろう、とくに抵抗する素振りもなく町の方へ向かっていった。
 了見が見つめる中、穂村尊は動こうとしない。むしろ立ち続けている方が不思議な状態だった。彼の技法はあまりに純粋で、信じがたいほど高度な、何故まだ生きているのか問いただしたくなるほどの異常。魂に直接作用する異能など類を見ず、ましてやそのために一度自身の身体を焼き尽くすなど、正気の沙汰ではない。
「死して、再び蘇る〝転生〟が彼の持ち得た殻だというのか……?」
 千差万別たるのが異能。頭ごなしに否定することは出来ないが、それでも説明のつかないことがある。
 了見は才能を持って生まれてきた。歴史有る鴻上の中でも最上だと謳われるほどの能力だという自負もある。そのため、この力を完全にコントロールするべく、知識と経験を人一倍深め己が武器としてきた。だからこそ解せない。穂村尊の力は人間のキャパシティを軽々と飛び越えた先、それこそなりふり構わぬ異形じみたものである、としか思えないのだ。
 その証拠に。
『――――お待たせ致しました、了見様。件の調査結果ですが』
「ああ、すまない」
 タイミング良く端末から報告が届く。優秀な部下に労いの言葉を贈りながら、内心で想定より時間が掛かったことに気付く。彼らの腕であれば昨夜にでも報告があってもおかしくないと考えていたのだが、予想を裏切る展開に目が細まった。彼らが悪いわけでは無く、おそらく膨大なはずの資料から事細かな注文を付けて探して欲しい、と無理を言った了見に非があるのだと理解していた。なので決して口にすることは無く、それでも早く確認することを選び、言葉少なめに通信を切った。
 送られてきた電子ファイルを開くまでの間、再び遠くに映る穂村尊の姿を見ようと視線を上げるが、いたはずの場所には既に影ひとつ無く。咄嗟に索敵用の神経を尖らせると、彼はゆっくりとした歩みで自宅方面へ向かっているのを確認した。意識があるのか、無意識なのかは分からないが、少なくともここ数日連続で〝不知火〟が起こっている事実と、日常における穂村尊の生活態度に逸脱した行動がそれほど見受けられない点から、日中の活動に支障は今のところ起こってないとみている。
『プレイメイカー、穂村尊を監視しろ。捕捉されないよう距離は探知圏内の最大まで離れてかかれ』
『――――了解した』
 近くまで戻ってきていたらしいプレイメイカーに再び思念で指示を出す。何がトリガーとなって穂村尊が殻を纏うかまだ掴めないため、出来うる限りの距離をとらせる。あの炎をまともに受けるのは危険すぎた。
「…………これで、しばらくは良いだろう」
 それでも事は急を要する。此度の現象を一刻も早く解消し、穂村尊の身に起こった異常を解明するべく、了見は届けられた調査報告へと向き合った。

【ハノイ・プロジェクト】

 それは十年前に開かれてしまったパンドラの箱。関わった者すべてに消えない傷を負わせた〝鴻上〟の罪。二度と訪れぬ黎明、悠久の黄昏を迎えた言葉。

 ――――当時の鴻上家は没落の危機に面していた。

 当主となった鴻上聖には鴻上の者としてあるまじきほど、殻の能力に窮していた。土地を民を血筋を、異形の存在から守護するための異能。それに恵まれず、暗黒時代とも称されるほど鴻上は荒れていた。科学が邁進する時代について行けず、家そのものが衰退しつつあったため、挿げ替える首を用意することもままならず。蔓延る異形の悪意に曝され、知らぬうちに怪異の闇に呑まれる人々。
 故に、鴻上聖は決断した。外法へ手を出すことを。
 彼は異能こそ才が無かったが、こと頭脳に関しては歴代を凌ぐほど優秀な逸材で。研究に対する熱意は同士だけでなくパトロンをも獲得し、地盤は確実に築かれていった。

 ――――異能と科学の融合、という愚かにして最先端を突き抜ける企て。

 それを導くために真っ先に生け贄となったのは、集められた六人の幼い生命。
 異能を最初に発芽させるのは平均にするとおよそ六歳程度とされている。家族の庇護元から外界へ一歩踏み出す、一種の通過儀礼の時期。様々な善悪問わない意志に曝され、身を守るべく持ち得た防衛本能が発揮されるのだ。
 だからこそ、そのくらいの年頃の少年少女を集め、異能を呼び起こさせ、そしてそれを――――引き剥がす、という悪魔じみた行為。
 異能者にとって、人間の定義とは〝身体〟〝意志〟〝殻〟の三つが揃っている存在のこと。その内のひとつを剥奪するのは、その存在を人間以下に貶めるというあってはならないもの。そんな下劣なる行為が許されるほど、当時は緊迫した情勢であったということだ。当然、異能――つまり殻を使う以上、異能者だけでは他人の能力に干渉するのが精々なところ。科学の力が無ければ乖離させることすら出来なかっただろう。否、科学があったからこそ人間を構成する三つの要素が分かたれる原因になってしまった、と言うべきか。
 そんな愚行に付けられた名称が【ハノイ・プロジェクト】だった。
「被験者名……穂村尊」
 資料に記されたその名に、思わず息が零れる。穂村尊は選ばれてしまった六人の内の一人だった。
 プロジェクトの理念から始まり、該当するページにたどり着くまで。回想した悪夢の残滓に取り憑かれたように、全身から拒絶の意が唱えられていた。
 この事件と了見は決して切り離すことが出来ない。あの愚行はある意味、了見のために取り計られたもの。本人の意志を見向きもしない独りよがりであっても、首謀者が実の父親であれば、責任は自ずと負わねばならない。拒む権利など、最初から有りはしないのだ。

 たとえそれが、了見に罪を犯させる切っ掛けになったとしても。

「IGN003……コードネーム、炎獣」
 それはハノイ・プロジェクトに用いられた被験者に与えられた実験名称。観測した異能を明示するため付けられたらしいその名に、了見は自身の憶測を振り返る。
 無数に存在する異能だが、個人が持ち得る機能は一つから二つ。純粋たる己の分身と、血脈から受け継がれた業の二種になる。片側しか発揮できないものが大半だが、了見のように双方を自在に操作するのが可能な逸材もいる。
 だが、穂村尊の場合――二種では説明できない、と了見は疑問を抱えていた。
 その違和感が本物なのか、それとも別の理由があるのか。その答えはいま、目の前にある。あらゆる手段を使い、被験者の異能はすべてつまびらかにされていた。普段は硬くロックがかけられている資料だが、此度の全貌を解明するのにこれは必要なことだ、と自身に言い聞かせて。
「奴の、異能は――――」
 穂村尊という人物、そしてその分身アバターたる殻、まだ見えぬ未知なる力。そのすべてをいまここで、解剖する。


◇◇◇


 それは本当に、取るに足らない日々の一ページに過ぎない出来事だった。

 前日、数年に一度あるかどうかと言われるほど大きな嵐が町を襲った。視界を覆う土砂降りの雨に、空を妖しげな色で染めた雷。吹き荒ぶ風の唸りに混じって恐ろしい存在が町へ降り立ったのではないか、などと想像を膨らませてしまうほど、その夜はまるで――この町が異界へ変質してしまったような空気が漂っていた。
 否、本当は気付いていた。その想像が――真実であるということに。
『この町には神様がいるのよ』
 そう、夜の暗がりに怯える子供を寝かしつけるため、母が囁いた秘密の言葉。昔から人ならざる存在に敏感であった自分をよく知っていて、折れないための支えにするべく教えてくれたのだろうか。
『この町を、人を――守るのが役目だ』
 そう、まだおぼつかない口先で幼稚な問いを投げた時、父が告げた誇りある言葉。その意味を今更ながら知ることが出来たことを、どう思ってくれただろうか。

 雨が、降っていた。

 昨夜の嵐の残り香のように、痛んだ土地が流す涙のように、穢れてしまった空気を浄化するように。しとしと、と生暖かい雨粒が真っ直ぐに降り注ぐ。
 そんな中、ひとり。尊はふと、山頂に静かに佇む神社の存在が過り、何をするわけでもないが足を伸ばそう、と思い立った。後で綺久が煩く言うのは想像できていたが、学校に行こうと思えるほど吹っ切れてはいなかった。もう少し幼い頃は面倒を見てくれている祖父母の願いもあり、普通に戻ろうと自分なりに足掻いてみた。しかし、どうしても周囲との間に生じる意識の差は、年を重ねるごとに肥大化していき、いまでは乗り越えることを諦めてしまうほど。
 十年前、尊の身に起きた失踪事件。そのことは正直なところ、よく覚えていない。ひとつだけ確かに目にした、と言い切れるものはあれど、それ以外のことは濃霧の彼方の出来事のようであり、深くは考えないことにしていた。
 それよりも大事な――失踪中に亡くなってしまった両親のことで、尊は自責の念に押しつぶされかけていた。
 不慮な事故であった、と祖父母も警察も言っていた。状況からみても、本当にただ間が悪かったとしか言いようのない、悪意らしきものが見当たらない現場で起きた交通事故。それでも、両親はいなくなってしまった尊を必死に探していた、という事実がある限り、尊は己を責めるしかないのだ。それしか、もうこの想いを吐き出す手段が、思いつかないのだ。
 責めて、蔑んで、落ちぶれて。何処にも行けない、どうにも出来ない、何者にもなれないまま、穂村尊は燻る罪の炎に巻かれ続けていた。

 霧雨の中、祠の前で倒れ伏せた小さな影がひとつ。

 山頂へ至った矢先、目の前に飛び込んできたその姿に、考えるよりも先に手足が飛び出していた。それが人間か、動物か、はたまた領域外の存在か。そんなことは二の次以下で。ただ真っ直ぐ、直感よりも素早く浮かんだ感情に従うこと。それがきっと、何よりも正しいものだと教わったのは、もう満足に思い出すことも出来ない両親から受け取ったこと。

『誰よりも命を尊ぶ人になってほしい』

 ただ、それだけで十分だった。
 濡れそぼった身体を抱く。冷え切って温もりを感じないことに最悪が過るが、僅かに反応を示した身体に一縷の望みをかけ、尊は必死に自身の熱を分け与えた。服で水気を拭い、生い茂る巨木の下で雨を避け、震える小さな命へ呼びかける。

 それは、まるで生まれ落ちたばかりの小鳥のようで。

 美しい黒の艶に混じり紅が引き立てるように引かれた翼は小さく畳まれ、所々見逃せない傷が目立つ。大きな動物に襲われてもしたのだろうか、と尊は思わず周囲を見渡すが、この山にはあまり大きな動物は生息していない。元々そう大きいわけではなく、どちらかと言えば小高い丘に近いこの地では、野生が息づく空間は築けない。ならば何故、という疑問を抱く余裕は無く、尊はいまにも消えてしまいそうな命の灯火を必死に引き留める手段を模索していた。

 次第に、鳥は尊の熱を帯びていった。

 ぎゅっと、懐に抱え込まれたまま、長い時間を共に過ごした。思い返せば、怪我を治療したり他人へ知恵を求めに行けば良かったのだろうが、この時は動転していたのか、ただひたすら自らの熱を分けることしか頭になく。仄かな温もりと、降りしきる細やかな雨音に誘われるように、尊はいつの間にか目を閉じていた。
 そこで。

 ――――遙か遠く、いずれ至るであろう高みに揺らめく炎の輝きを見た。

 巡り巡って、いつかたどり着く終の果て。人間が、生命が、魂が征く、久遠の旅路。始まりから宿した命という火を、姿を変え、可能性を辿り、そしていつか必ず永き時の果てにその輝きへと至る。それこそが輪廻転生。意志あるモノすべてが等しく巡る螺旋。
 その終着点で待つ、猛々しい炎。
 煌々と輝きを放つ紅と、それを引き立てる影たる黒。そして静かに、尊というちっぽけな存在を捉え、見下ろす陽光の眼差し。超常たる威圧感はあれど、その視線はとても暖かで、そうまるで――懐で休まる小さな命の熱のよう。
「なんだ、お前……全然大丈夫そうだな」
 手を貸す必要なんて無かった、と尊は安心と少しばかりの失望を覚えた自分自身をあざ笑う。助けた心境に間違いは無くとも、自己満足的な欲求が皆無なはずもない。そう思ってしまったこと自体が、弱い自分を突きつけられているようで嫌気が差す。
 失意からその炎を直視できず、視線を逸らす。
 遠すぎて、眩しすぎて、届きそうもなくて。一瞬でも、あの美しき火のようになれるなら、と手を伸ばしかけたことを悔いる。あれは、尊のような半端な存在には絶対に得られない至高の輝きなのに。
 それを。

 ――――人間の可能性を、私は信じている。

 虚空に響くその声は、立ち止まったままの尊の背をそっと押すように、とても強く凜とした熱を孕んでいた。燃え盛る炎を巻き上げるように吹いた一陣の風。それに導かれるように顔を上げると、目の前に小さな鳥が懸命に羽ばたこうとする姿が映る。傷を負っても、雨に打たれても、地に這いつくばろうとも。小鳥はその身にあまる炎を宿し、尊を見つめていた。

『たとえ闇に覆われようとも、隣に誰かがいる熱は伝わる。目をこらせば遠くで揺らめく火の存在を知れる。いまは届かなくとも、諦めず手を伸ばし続ければ――いつか必ずたどり着く』

 それが、意志あるモノの強さだと、遠き頂で燃え続ける炎は説く。
 上からの視点で見た、ある種の理想。只人には重すぎる夢物語。それでも、そこに込められた情熱は紛れもなく本物で。
「……けど、俺には出来ない」
 弱き心から否定の言葉が零れ落ちる。尊に巣くう、どうしようもなく屈託した過去への後悔。それがある限り、踏み出すことは出来ないと諦めの嘆き。
 それを。

『――――ならば、生まれ変われ』

 それは天啓の如く、尊を根本から覆す。
 胸元から熱が沸き起こる。次第にソレは火となり全身を駆け巡り、燻っていた火だねを揺り起こし焚きつけ、猛る炎と化す。
『悔いた過去を燃やし、責める現在を焦がし、目指す未来へ火を掲げ――』
 熱いなんて言葉は灰になり、痛いと思う身体は崩れ去り、辛いと嘆くままだった意志が焼き尽くされる。
『転生せよ、猛る炎の如く。それが――君の、本当の姿だ』
 そのための力、術を託そう、と。美しき炎の化身が翼をはためかせる。
 そういえば、と。尊はとある記憶を呼び起こす。祖父が言っていた、穂村の家が奉る神様の正体を。

 山の頂に降り立った、炎を纏う神。蠢く悪しきモノを焼き、民を守ることと引き換えに神は――人の灯火を絶やすことなかれ、と要求したという。

「…………ああ、なら俺は――――」


◇◇◇


 拒む理性に鞭を打ちながら、了見は決死の覚悟でその家の前に立ち竦む。表札に踊る文字列に胸を抉られながら、それでも行かねばならない理由があった。
「…………」
 深く息を吐き、ともすれば震え出す指先をそっと這わせ、小さく存在を背景に溶け込ませていたインターホンに添える。
 あと一息、力を込める直前に。
「ああ……やはり来られたか」
 背後から経験深さを滲ませる重みある声がかけられた。ハッと身を翻し、直面する。老いてから少しばかり年を重ねてなお生気に溢れる健康的な心身を持つ男性が、表面上は穏やかさを醸し出しながら了見を見据えていた。知り合い、とはお互いに呼ぶことは出来ない。けれども無視することは憚れる間柄。
「……申し訳ない。少しばかり、教えて頂きたく馳せ参じました」
 そう、言葉にした以上に深々と頭を下げる。それを制止することなく、目を逸らしながらも老人は感嘆のような息で応えた。
「あの火なら、知らんよ。山の神のもんじゃない」
「ええ、存じております。……知りたいのは、別件です」
 了見の言い分に老人の眉が釣り上がった。おそらくあの一言をもって了見を追い返す算段だったのだろう。彼らの心境を思えば致し方ない。けれど、今回ばかりは怯んでいる暇はもう無いのだ。あらゆる糾弾を覚悟の上で、事を急くように問おうと口を開く。
「あの不審火騒ぎの前。穂村尊……彼の周辺で変わったことがあれば教えて欲しい」
「――――っ!? 何を、馬鹿な……!」
 鴻上たる了見が言ってはならないであろう、その言葉。予想通り老人――穂村尊の祖父の顔色が瞬時に変わる。それでも、これはもう確定事項である。
「此度の現象、その根幹にいるのは彼……穂村尊に間違いありません」
 昨夜、山から火を纏いながら飛び出した彼の姿を見ている。求められればすぐに証拠となる物――彼が夜、家を抜け出す映像など――を提示できる準備はしてあった。
 だが、問題なのはそんな事では無く。
「今の彼はおそらく、半ば〝殻〟に意識を持って行かれている状態。あらゆる箍が外れ、境界が曖昧になり、鮮烈な感情に支配されているはず」

 穂村尊の持つ、生来の異能は〝火〟と〝獣〟の二種であった。

 方向性が定められていない純粋な属性を宿しており、本人の努力次第では様々な応用を利かせることが可能だっただろう。だが、単純故に了見の父にはあまり魅力的には映らなかったらしく、彼に対する実験は比較的緩やかで後遺症らしきものも無かった、と資料には残っていた。捏造した可能性は否定できないものの、十年の間とくに目立った瑕疵の露見が無かったことから、異能そのものに影響は殆ど無かったはずだ。
 それ故、今回の事態は外部からまた別の影響があったからこそ起こっている、と了見は推測した。
 異形は世間一般で言うところの幽霊にも該当する。幽霊として生きた人間に憑依する、といった事例も少なくない。けれど、そういった場合でも、基本的には人間側に優先権がある。睡眠中など意識が沈んでいる最中、夢遊病のように周囲を彷徨わせたりあらぬ言葉を口にさせたりするくらいが精々で、それこそ異能を改変・付加させるなど、一種の権能だ。並の異形が行えるはずもなく。
 つまり。
「山の神は関係ない、と仰いましたが、それこそ不可解だ。神如き存在が関与していなければこんなことは起こり得ない」
「…………!」
 了見の鋭き指摘に言葉を失う老人。その心境を、痛いほど理解していた。
 次に口にするのは了見に対する非難か、それともこの期に及んでも無関係を主張するか。受け止める覚悟はしてきたが、一刻を争う事態故に了見は更に畳みかけようと言葉を選択する。
「もし本当に神に影響されているのであれば、危険です。昔ならいざ知らず、今を生きる人間に神の力は大きすぎて――何より身体が保たない」
 おそらく既に身体の方からは危険信号が出ているはずだ。それを顧みない状況に陥っているため、余計に事態は加速している。迷っている時間は無い。
「彼の居場所を教えてください」
 苦渋の選択だろうと分かっている。了見は、穂村尊を拉致して実験対象に選んだ先代当主の実の息子。そんな身分の人物に軽々しく教えるなど、悲劇を繰り返すのかと言わんばかり。だが、おそらく最近の様子を垣間見てきたことにより、了見の言葉にも引っ掛かる部分があるのだろう。即切り捨てられないのはそのせいだ。
 朝の静けさに、胸を刺すような緊張感が立ちこめる中。
「おじさん、おはよう!」
 そんな空気を一蹴するかのような晴れやかな声が響く。
「き、綺久ちゃんか……おはよう」
 反射的に声がした方へ目を向けると、着飾らない素朴な装いの少女がひとり、手を振りながら此方へ歩いてくるところだった。野に咲く花のように、主張せずとも芯の強さを秘めた表情と三つ編みに結われた髪が綺麗に調和して、彼女の存在を引き立てている。近所に住むのだろう、何の気兼ねもなく寄ってくる姿に了見は一歩下がる。
「おじさん、尊はだいじょう――――あっ……お話中でした? ごめんなさい」
「構わんよ。それより、尊がどうした?」
「そうそう! 尊、ずっと熱あるみたいだからいい加減お医者さんに行けって言おうと思って」
 聞き捨てならない言葉に、思わず了見は食ってかかる。
「何時からだ? 熱が出たのは」
「え? ええっと、この前のおっきい嵐の後で……雨の中、怪我した小鳥を温めてたら山で寝ちゃったって言ってたから、たぶん風邪を引いたんだと――――」
 咄嗟に彼女の腕を掴んで、半ば問い詰めるように尋ねてしまったにも関わらず、少しばかり戸惑ったような表情でありながらも素直に応えてくれた。
 彼女の言葉に、了見は断片的に持っていた情報のピースが嵌まっていく感覚に瞳孔が開いていく。

 この町に敷かれた術式は、海から現れる異形を山へと導くもの。山頂には神を奉る神社があり、その管理をしているのが穂村の一族。
 山には神がいる。そんな神のお膝元で穢れを発する動物が現れ、それを穂村尊が介抱したという。
 不知火が発生し始めたのは、少し前の嵐が過ぎた後。穂村尊の体調が優れなくなったのも同じく。

 これらが意味するところを、了見が察するより一瞬だけ早く。
『――――リボルバー!!』

 ――――轟、と。

 爆華が視界を埋め尽くした。


◇◇◇


 身体を蝕まれながらも微睡みを享受し続けていた尊は、ふと耳に入った音で瞳を開いた。深く馴染みのある、日常の象徴とも言える存在の朗らかな声。その声が聞こえてくるという事実に、どれほど尊は救われただろうか。何も知らぬ彼女は、知らないからこそ日常を謳歌し、立ち止まっていた尊の背を軽く押す。そこには強勢さはなく、それでも動けないと分かるとそっと背中合わせで他愛のない日常の会話を零す。まるで影に寄り添う陽だまりのようで。

 そんな日常かのじょに――――悪魔の手が、掛けられている。

 その見開いた眼差しは、決して忘れられぬ顔に酷似していて。
『――IGN003の状態は』
 一切の感情を持たない顔の中、金色にギラつく双眸。思考の読めない表情で、唯一意志が露わになった眼光。背筋を刺し貫く、無機物を見るかのような視線。
 非日常の象徴が、すぐそこに。大切な、大切な日常に手を掛けて。無力なままでは、また――――
 ならば。

猛る炎よ、転生せよサラマングレイト――――!!」

 生まれ変わろう。過去に得た力を呼び起こし、現在を打ち砕く炎に変え、未来を手にするために。
 これは、そのための〝殻〟なのだから。

 ――――轟、と。

 胸を突き破らんとするほどの勢いで迫った炎は、寸でのところで立ち塞がった障壁に阻まれる。ゆらり、と煙の中から白亜の盾が姿を現した。
『――くっ』
 向こう側から苦悶の声が聞こえたことにより、仕損じたことを認め尊は熱い息を吐く。見かけは鉄壁を思わせる強固な造形。
 しかし。

 ――――今で無理ならば、更に上を目指せばいい。

 尊の魂に刻まれた、数多の〝転生〟の記録。その中から、自らが宿した〝獣〟を伝って道程を辿り、眠れる本能へ〝火〟を灯す。
 それこそが、穂村尊の〝殻〟たる異能。

「転生せよ――――〝陽光輝く狼サンライトウルフ〟!」

 既存の殻を焼き捨て、新たに生まれ変わった獣の殻を被る。より強く、より激しく、より高く。燃え上がる炎から腕が伸びた。その先端には、鋭く研ぎ澄まされた鉤爪が光る。
 ガンッ、と金属を激しく叩く音が反響する。それに従ずるように、白銀の要塞が黒く抉れた。一撃で破壊までいけなかったことに、冷静さをとうの昔に欠いた思考の中、苛立ちを覚えた。
『うっ――、く……!』
 まだそこに存在することすら許せない。だが幸いなことに、腕は二本ある。宙を舞いながら空気を焦がす火の粉を足場にして、尊は更に高く跳んだ。次こそは仕留めるべく、理性を侵食する獣性の本能に支配されたまま、片腕を大きく振りかぶる。
 それを。

「プレイメイカー――――行け」
『リボルバー!?』

 真っ正面から、受け止められた。
「貴様の狙いは……私だろう」
 悪魔が、立ち塞がっている。十年前、尊を見下ろしていた金色によく似た形の目が。薄らと膜のようなもので自らを遮断させながら、尊の怒りを顕著に表す炎をすべて受け止めていた。正気であれば気付いただろうが、周囲に広がるはずだったうねりすらも引き寄せ、自身へ一点に集めてなお防ぎきっている。
 先程まで障害となっていた盾は消え失せていることにも気付かないまま、尊は目前に躍り出た存在に、勇む熱量を向けた。
「お前が……お前がっ――!」
 荒れ狂うままに鉤爪を振るう。纏った炎と高さを交えた衝撃で、一瞬だけ透明な膜に亀裂が生じたが、中へ火を送り込む間もなく閉ざされる。
「聴け、穂村尊! 貴様はこのまま力に振り回され続ければどうなるか、分かっているのか!」
 その問いに対する答えは既に、尊も知っていた。
 とめどなく溢れる炎は〝転生〟という行為を辿るために、自分自身をも燃やしてしまう。遠くない先、魂は変わらずとも身体の方は燃え尽きる。激情に飲まれた思考でも、それだけは確かだと理解していた。
 けれど。
「まだだ……足りない!」
 それがどうしたというのか。
 少し前の、何者にもなりきれず燻る感情の炎で炙られる、そんな生ぬるい地獄で一生を過ごすよりも、一瞬でもあの炎の輝きに至れるよう、魂を燃やすことを選んだのだ。
 尊を信じてくれたアイツのためにも。
「もっと、もっと――――転生せよ!」
 炎が猛々しく燃え上がる。理性をくべて、思考をくべて、始まりの想いすらもくべて。大きな大きな火を咲かす。

「――――〝灼熱纏う獅子ヒートライオ〟!!」

 百獣の王たる殻を得て、荒ぶるままの咆哮はそれまでのすべてを受けた障壁をも突き抜け、周囲を炎で埋め尽くした。


◇◇◇


 少しだけ、仕方が無い――と思っていたのは事実だ。

「お前らがっ! 町を、日常を、俺の家族を奪ったんだ――!!」

 その言葉はまさにその通りで。
 鴻上が犯した事件。首謀者は既に物言うことが適わない。そうなった原因は、了見にある。だから背負って、謝罪して、受け止めて。そうしたところで、被害者の傷は一生癒えない。全部承知の上だった。
 だから。

 ――――ギリギリ、と。

 防御を破られた衝撃で倒れ込んだ了見に加減無しで飛びかかり、喉元を絞め上げられていても。間一髪、身体に沿う防壁を張ったが、度を超した熱量に長くは持つまいとしても。迫った炎の波に炙られ、無間地獄に突き落とされようとも。
 これは仕方が無いことだ、と受け止めようとした。
 〝鴻上〟である限り、被験者――穂村尊の怒りは正当であり、拒む資格など存在しない。最初の抵抗は周囲すらも顧みない暴走に一般人を巻き込まないよう、そして了見の側にいて被害を受けそうだった二人をプレイメイカーによって避難させるための時間稼ぎ。そんな僅かな間の攻防も、これで十分だろう。
「――ぐぅっ、ぁ……」
 首を絞められる純粋な痛みと、力加減によって少しだけ開いた気道から流れ込む灼熱の空気に焼かれる苦しみ。そして精神を抉り続ける、罪悪感と途方もない虚無感。
 酸欠からか、どうすれば穂村尊を救えるだろうか、と考えることすら遠のいていく。彼のような人物を出したくない、という想いで了見は鴻上の宿命を背負ったというのに。
「……許さない。お前らだけは、絶対に――!」
 そう、何より被害者がそう望むのであれば、贖罪者は応えなければならないのか。
 了見は罪人だ。だからこの炎はまさに、断罪のため。鴻上の罪も、了見の罪も。すべてくべて、何も残さず焼き尽くすというなら――それでもいいのかもしれない、と。
 息苦しさに視界が歪む。目の前の赤と青の炎が揺れて交わり遠くなっていく中、中心に灯る淡いエメラルドの輝きが、まるで――――


 〝了見、俺はお前を――――――〟


 未だ届かぬ〝黎明の彼〟と、重なった。
「――――――っ!!」
 それは了見が未だ犯していない、三つ目の罪。

 ――――ガチリ、と。

 了見は己が持つシリンダーを力強く切り替えた。
 それは〝鴻上〟と〝了見〟を切り離すスイッチ。決して私情を挟まないと誓った購いの仮面を脱ぎ捨て、世界を敵に回そうとも己が意志を貫くと決めた鋼の弾丸。
 そう、了見は既に決めていたのだ。

「起動せよ……〝聖なるバリアミラーフォース〟!」

 それをトリガーとして突如、了見を起点としてあらゆるものが跳ね返った。
「――――なっ!?」
 穂村尊自身は勿論、彼から無尽に湧き起こっていた炎すべてが渦となり、纏った獅子の殻ごと燃え上がる。
「…………悪いが」
 その言葉は〝了見〟が持ち得た本来の殻を発動させるもの。今まで炎を受け止めていたのは周りへの被害を無くすために敢えてだったが、もう取り繕うのはやめると決めた。

 元より了見が持つ異能は二種。鴻上の血筋に色濃く刻まれた〝使役〟と、もうひとつ――生まれ持った異能である〝守護〟の力。

 守るには多彩な手段がある。あらゆるものから隔離させること、すべての攻撃を自身へ熱め受け止めること、刃向かってきた攻撃をそのまま跳ね返すこと。すべて何かを守る行動に繋がっている。守るために敵を倒す、それをも可能にしたのが了見の力だ。
 そして。
「確かにお前の言うとおり〝鴻上〟として、私はお前の炎に焼かれるべきなのだろう」
 ゆらり、と立ち上がった了見は、その薄氷の瞳に絶対たる意志を宿す。これだけは世界が滅びようとも譲らない、唯一無二の希み。
「だが……〝了見わたし〟を断罪する存在は既に決まっている。十年前のあの日から、ずっと」
 十年前、了見は二つの罪を犯した。

 ひとつは〝護れなかった〟罪。
 ふたつは〝守らなかった〟罪。

 黄昏へと消え失せた黎明。一瞬過った愚考によって奪われた命。そして、みっつめの罪を了見は望んでいる。

 ――――黎明による断罪を。

 恨んでいるだろうか。彼を底知れぬ闇へと手を招いてしまったのは了見に他ならない。
 悲しんでいるだろうか。彼は優しいから、了見が行ってきた所業に心を痛んでいるやもしれない。
 忘れたいと願うだろうか。凄惨なあの事件を、失われた十年を、すべての元凶たる了見自身をも。
 たとえどんな選択になろうとも――了見は、断罪を受けたかった。お前が悪い、と穂村尊のように憤ってほしかった。たとえ許されなくても、もう一度あの瞳に逢いたかった。
 だから。
「〝鴻上〟としての私なら幾らでも焼けばいい。だが、私自身の命だけはお前に渡すわけにはいかない――!」
 我が儘で、独裁的で、矛盾をはらんだ叫び。

 けれど、それは両者とも同じ事だ。
「……巫山戯るなっ!」
 自身を焼き焦がしながらもまた立ち上がった尊。今の彼を突き動かすのは、激しい怒りと狂える闘争本能。自らの獣性に飲まれ、可能性を見失っていることにも気付かないまま、ただ現状を打開するためだけに生まれ変わろうと炎に巻かれる。
 もう彼には見えていないのだろう、荒ぶ炎によって周囲が焼け野原に変わりつつあることを。
 もう一度、淡く光る防壁へ食らい付く。先程までとは打って変わり、向かった先から全く同じ力で押し返されていく。反射することに傾いた性質は、刃向かった尊の炎をそのまま弾き、熱く滾った炎が自身を覆って焦がしていく。
 足りない、と言うのであれば。
「転生、せよ――――」
 輪廻の輪を巡りながら、尊は限界を知る。過去の炎では、憎き悪魔には届かない。
 ならば、求める先はひとつしかない。遙か彼方、あの時垣間見た輝きであればきっと届くはずだ、と。
 そのためにもっと燃やし、焦がし、変えようと手を。

「――――〝彼方の不死鳥へパイロ・フェニ――…………」

 伸ばした指先は、燃え朽ちていた。
「…………ああ」
 身体はとっくの昔に限界を越えていたらしい。失墜していく炎を呆然としながらも、意外なほどあっさりと受け入れられた。不死鳥へ至るために、あまりにも多くのものを焼いてしまったようで、何故あれほどまでに怒り狂っていたのかすら曖昧だった。気が付けば足も灰に変わりつつあり、尊は静かに崩れ落ちた。遠くなる意識で、輪廻の輪が回っているのを見た。このまま導かれて、再び生まれ変わるのだろうか。
 せめて。

 ――――もう一度、あの火を……アイツと逢いたかったな。

 信じてくれた大切な存在を想いながら、尊の意識は深く沈んでいった。








「――――取引だ、不死鳥よ」



◇◇◇



 海と山に囲まれたこの町で、唯一と言える外へと通ずる駅。覚悟を決めて跨いだその境界を、再び了見は越えた。
 異常現象――〝不知火〟はもう起こらない。原因を取り除いた今、異分子たる了見の存在は日常を謳歌するこの町には最早不要。早々に撤退するため、傷ついた身体を隠しながら次の電車を待っていた。
『……痛むのなら、バイラたちを呼べばいいのに』
 プレイメイカーの気遣いから目を逸らす。
 了見は少なくない手傷を負った。怪我の多くは火傷で、それは〝守護〟に秀でた了見の守りをも突破するほどの熱を浴びたことに他ならない。隠蔽の術を張っているため一般人には気付かれなくとも、動きに支障がある程度には大きなものだった。
「彼らの到着を待つ時間が惜しい。……それよりも、修復は済んだだろうな」
 それは、穂村尊によって損傷したプレイメイカーの武具に対しての言葉だった。あれはプレイメイカーの力を具現化したものであり、四肢と同じように構成の一部でもある。了見が満足に動けない今、すぐに使える武器はプレイメイカーしかいない。鴻上を付け狙う不遜な輩がいつ現れるか分からない身分上、道具の状態を正確に把握する必要があった。
『問題ない。次はもっと強度を高めてみたいが、構わないか?』
「好きにしろ」
 そんな、ある種の日常になった会話を繰り広げていると、遠くから電車がやってくるのが見えた。
 ようやく、この町を離れられる。
『そういえばリボルバー、折角の報酬を受け取らなくて良かったのか?』
 唐突に掛けられた問いの意味を悟り、感嘆を零す。
 この町に了見が訪れたのは、怪奇現象の解明と終結のため。町の有志による正式な依頼によるものであり、当然ながら少なくない報酬も用意されていた。穂村尊との対決後、ある程度の事象を記載した資料を提出した後、了見はあろうことか、差し出されたその金一封をその場で突き返したのだ。
「……鴻上は金では動かない。それに被害を出した。その修繕に使えばいい」
 そう捨て、了見は足早に退席した。
 今の鴻上を統べているのは了見なので、あらゆる選択権は了見の意志の元にある。だからこそ、受け取らないことを決めたのも紛れもなく鴻上の選択だ。
 こんなことで罪滅ぼしになるとは、思っていないけれども。
「そんなことを気にしなくていい。お前は――ただの殻で、道具なのだから」
『…………そう、だったな』
 元々言動が人間じみてはいたが、今回は輪を掛けて不思議な問いをする。穂村尊と出会って何かしら感化されたのかもしれない。プレイメイカーは、ハノイ・プロジェクトで唯一の成功例だ。了見が知らないだけで、もしかしたらオリジナルと被験者であった穂村尊はあの時出会っていた可能性もある。そこからの影響もあるのだろうか。
 そこまで考えて、思い当たった――穂村尊という存在を、再び思う。
 そして。

『リボルバー……どうして不死鳥に、あんなことを言ったんだ?』

 不死鳥――それは遙か過去、この町の山に降り立った神の如き異形の正体。
 古くから海より流れ着きし異形から町を守り続け、穂村尊に〝転生〟という殻を与え、了見との取引に応じた高き知性を持つモノ。
 此度の騒動における火種とも言うべき存在。死して再び舞い戻る、輪廻転生を司るモノ。
「……別に、他意は無い。穂村尊を救うにはアレしか方法が無かっただけだ」
 そんな高次の存在に取引を持ち込ませたのは、鴻上が殻――異形の扱いに長けた異能であったことが大きい。曖昧で悪意ある異形を従わせるための〝使役〟を活用したのだ。
 それでも、了見がしたことは大したことではない。異形が人間に求めることはひとつしかないのだから。

「私は、神という象徴だった奴に名を与え……代わりに穂村尊の生存を約束させただけだ」

 それは不死鳥を神ではなく、穂村尊の殻として固定させることに繋がった。これまでは外付けでしかなかった〝転生〟の異能は、強大すぎる力故に暴走させる結果になっていた。だがこれで、その大きな力はそのまま防衛本能として穂村尊を生かす方向へ導ける。不死鳥という存在であったことも幸いに、おそらくより強固な結びとなって蘇るだろう。
 それでも、依然と穂村尊が鴻上了見を憎むのには変わりない。
「……然るべき時、また」
 〝了見〟を裁くべき人はもう決まっているが、〝鴻上〟を糾弾する存在も必要だ。我らが罪を犯した事実に、一切の偽りはない。
 だから。
「また会おう――穂村尊ソウルバーナー
 遠い黎明を希んだ先で、次こそはその炎を受け入れよう、と。
 三つ目の罪を背負った未来、また相見えることを誓う。
『………………』
 決意を固めた了見の背を見つめる、黄昏の憂いに気付かないまま。


 ――――黄昏を越え、夜半の時が近づいていた。黎明はまだ希めない。



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