天使の行方

黄昏の空に、黎明を希む -01-

 ――黄昏時が、嫌いだった。

 逢魔が時、と旧き逸話は語る時間。血の定めに、自分の役割を否が応でも覚醒する刹那。
 暗がりを恐れるほど子供ではなく、昇る月の光に惑うほど異端に落ちてはいない。
 そんなことよりも、もっと単純に。

『――――』

 目の前にいる〝彼〟が私を呼ぶ。
 振り返ったその顔は、影によって黒く塗りつぶされていて。僅かに見える口元が、音無き言葉を紡いでいく。

『――――』

 私の名を呼んでいる。耳を伝わらずとも分かる。知らないはずなのに、分かってしまう。
 その姿に縋るように、恐れるように。
 私は思わず立ち止まる。

『――――』

 〝彼〟が私を呼ぶ。
 それは、あり得ない情景。それは、許されない幻影。それは――焦がれるほど求めた、望みの果て。
 それを。

『――――了見リボルバー

 無慈悲な音が世界を切り裂く。
 夢に浸る権利は無いと糾すように、思い出に溺れることを咎めるように。
 見開いたその先に〝彼〟の姿は無く、ただ〝奴〟が立ち尽くす。
 黄昏のように色鮮やかな紅と暮れる日の色。迫り来る夜の黒と星の軌跡を纏ったその姿は人ならざるモノ。
 唯一、双眸にはめ込まれた翠玉だけが〝彼〟の名残だった。

 ――黄昏時が、嫌いだ。

 目の前にいるはずの存在の姿をも見失ってしまう。覚えの無い(なつかしい)声を、夢幻を追ってしまう。そんな資格もないというのに手を伸ばして、声を掛けてしまいそうになる。

 ――――誰そ彼(きみはだれ)、と。







 デンシティは周辺都市に比べて科学技術先進都市だった。世界的にも有数なVR技術を持つSOLテクノロジー社の大本が拠点を構えることもあり、街中至る所でその恩恵を垣間見る事が出来る。政治的、経済的な流れからは一線離れてこそいるものの、それでいて人口的には国の中心的都市らと引けを取らないのは、まさにその技術のおこぼれを授かろうとする人が有象無象に集まってくるからこそ。
 そんな煌びやかで飛躍した街であっても、人の多さから齎される〝噂〟はどこからともなく現れ、民衆の関心を引きつけてやまない。たとえそれが科学とは相反するものであっても――否、むしろ跳躍した技術が日常であるからこそ、旧きモノに惹かれるのだろう。
 人間は結局、いつの時代も目に見えるものよりも常人では視えないものに心動かされる生き物なのだから。



天使の行方――――エンジェルさん



 憂鬱な朝だった。どんよりとした曇り空が数日に渡って続いている。陽光を浴びねば人間は活動が鈍るというのは本当のことのようで、布団が恋しくなる季節ではないにも関わらず起き上がることが苦痛で仕方が無い。いっその事雨が降ってしまえば諦めがつくというのに、鈍色の空は沈黙を保ち続けていた。
 そんな日常の一瞬。ただの惰性と集団心理に支配された空間を固着させる要因にしかならない、毒にも薬にも成れない時間。
 そこに。

「……ねえ、知ってる? 〝エンジェルさん〟のおまじない」

 顔の見えない隣人から齎された異物。そのたった一声で、周囲を取り巻く空気が一変したのを感じ取る。周りに屯する同じ服装を着飾った者たちがみな、視線ではなく聞き耳を側立てている気配がした。
 立ちこめる目には見えない空気を例えるならば、好奇心だろう。
 その〝噂〟が広がり始めたのは何時のことだったか、とその単語が耳に入るたびにそう思い返す。あまりにもここ最近聞きすぎていて、もはや幼少期から知っている気分になる。
 そう、事の始まりは少し前。それこそまだ太陽が空高くから私たちをきちんと見下ろしていた、数日前程からだった。
 切っ掛けは――――

「美優! 遅刻するよー」

 ハッと視線を前に向けると、同行していたはずの友人たち数名との距離が開いていた。遠くから急かすように告げられた言葉に、反射的に端末を取り出し時刻を確認する。彼女らの言うとおり、門限まであまり間は残されていなかった。
「いま行くー!」
 心配そうにしているのが目に見えて、慌てて返事をしながら駆け出した。しっかりと舗装された大通りを指定の革靴で蹴り上げる。校則ギリギリまで短くしたスカートの裾を気にする余裕はなく、周囲の視線を無視しながら大胆に走った。赤みを帯びた二房の髪が揺れ、視界を塞ぐのが煩わしくて仕方が無い。いっそ短くしてしまおうか、と思った浅はかな考えを即座に切って捨てる。その理由が特にないとしても。
 ダンッ、と力強い足取りで煉瓦造りの大きな校門を通り抜けた。
「遅いよー美優」
「最初のコマって何だっけ」
「数学!」
 ようやく追いついた友人たちに混じり、何事も無かったように会話に加わる。先程聞こえた〝噂〟のことは考えないようにしながら。


 画期的な設備が売りのこの街デンシティにおいてある意味異質な存在である、古き良き学び舎を保ち続ける大型施設――デンシティ高校。聳え立つ校舎の数と向かっていく青が特色の制服に身を包んだ生徒の数から在校生の人数を推し量るのは難しいものの、漠然とした感覚で莫大であることは一目瞭然だった。偏差値的には平均程度だが、有り余るほどの設備の充実さと、SOLテクノロジー社の恩恵をいの一番に受けられる立場を羨む故に倍率はかなりのものである。
 そんなデンシティの特異を縮小したようなその場所に、今水面下でひっそりと、だが確実に浸透しているがあの〝噂〟だった。

「〝エンジェルさん〟のおまじない」

 誰が編み出したのか、言い出したのか、始めたのか。友人から知人へと伝え移り変わっていくうちにそれらの情報は自然と欠落し、残されたのは〝結果〟と〝手順〟のみ。それを不審だと感じられる人間はごく僅か。熱に浮かされるかの如く、只人は無抵抗に噂を受け入れていく。実際に体験をし、そうして起こった出来事を何倍にも脚色して、次は知人から他人へと伝承されていく。
 この現象を異常だと把握するのに必要なのは一種の耐性か、それとも経験か。どちらにせよ、日常をただ謳歌している人間では到底持ち合わせていないもの。

 だが、幸か不幸か。美優は――素質と経験どちらも所持している希有な人物であった。

 カツン、と無数の光と数字で構成された画面を整えられた爪先が撫でる。教員の単調は朗読は普段であれば眠気を誘われる。それでも、ここ数日は久しく意識が覚醒したままだった。
「……ねぇ、聞いた? 隣のクラスの――さん。〝エンジェルさん〟やったらしいよ」
 そんな内緒話が自然と耳に入ってくる教室で優雅に眠れるほど、美優は強かではない。そしてこれらの情報は音だけに留まらず。
 教材が開かれたタブレット画面に、ひっきりなしに新着メッセージ受信の知らせが映る。クラス全体から少数の友人グループにいたるまで、ありとあらゆる所でその単語が踊っていた。

『今日の放課後〝エンジェルさん〟をするつもりです。興味のある方は――まで』
『部活の先輩が昨日〝エンジェルさん〟にお願いしたらしい! 今日来てないからわかんないけど……』
『例のおまじないって本当に効果あるのかな……? 〝エンジェルさん〟だっけ』

 明らかに異常だ。誰一人そう思わないことも含めて、この状況はあり得ない。
 せめてこれが誰かが仕組んだ度の過ぎた悪戯であれば、と願わずにいられない。たとえそれが――自分自身で否定できてしまっても、これは悪い夢だったと言えたなら良かったのに。望まない〝異能〟ほど不要なものはない。
 スッと画面に向けたままだった視線を上げる。教員が立つ壇上から一番遠く、一番教室で高い位置にある今の席から全体を見下ろす。そして、もう慣れてしまった感覚を呼び起こす。

 ――自分の中心にある、青く透き通った湖面に飛び込む様を。

 それが美優にとってのスイッチ。日常から離れ、非日常に出会うためのアクション。
 とぷん、と自分が水の中にいるような感覚が全身に広がる。映る視界は灰がかかり不鮮明で、不定期に揺れ動く。湖底から地上を見上げているかのように。
 その中で。
「〝エンジェルさん〟は本当にいるよ」
 誰が告げたか、語ったか、呟いたか。そんな言葉が聞こえてきた。断定口調のその言葉が水面に映り、美優に残酷な真意を露わにする。

 ――澄み渡る水鏡に嘘偽りは映らない。ただ〝真実〟だという結果が視えるのみ。

 生まれた時から美優の心には真偽を見抜く水鏡があった。
 他愛の無い嘘も、自分や他人の本心を偽った言い分も、それこそごっこ遊びなどの仮面を被ることにすら、水鏡は容赦なく〝否〟を唱える。どれだけ目を逸らしても、頭から否定しても、心が拒んでも。水鏡は真実以外を排除するように、克明に映し出す。
 だからこそ、分かってしまう。

「〝エンジェルさん〟は――本当に、いる」

 その恐ろしい言葉が、紛れもなく真実であることに。


◇◇◇


「ねぇ、美優ちゃん。……お願いがあるの」

 そう切り出したのは、高校に入ってから知り合った子のひとり。自信なさげに目を伏せながら、美優に縋り付く勢いで告げられた。その背後にはもう一人いる。同じような顔持ちで、何かを懇願するかのように。
 彼女たちと美優の関係は簡潔に表すならば〝友人〟ではあるものの、実際の所は少し違う。より正確な言葉を用いるならば〝同類〟――否、もっと単純に〝余りもの〟とすべきだろうか。性格、容姿、不和などの要因で女子の間に発生しがちなグループの輪から外れてしまったもの同士。独りで戦えるほど強かではなく、かといって大多数を占める群れに飛び込めるほどの度胸も無い。誰かに頼らなければ、学校という箱庭にいることすら苦痛な弱き者たち。
 美優はそんな弱小グループに頼られる存在だった。外観や性格からは排他される要因はなく、それでいて過半数が所属する方とは意図的に距離を取り、あえて弱き者たちの面倒を見る方に費やしているためだ。向こうからは白い目で見られることもしばしばあるが、それでも美優は手を差し伸べる方が性に合っていた。
 そんな彼女たちからの呼びかけに美優はしっかりと向き合う。
「私で良ければ。……何かあった?」
 昼休みの教室の一角で、数人と昼食を並べながらなるべく優しげな表情を浮かべる。尋ねながらも彼女たちの相談事が何かは分かる気がした。異能を使うまでもなく。
 彼女らは少しの間固まったままだったが、意を決したように伏せていた視線を合わせ、口を開いた。
「……美優ちゃんが避けてるのを知ってる。けど……どうしても、私…………〝エンジェルさん〟にお願いがしたいの」
 やはり、と彼女の言葉は美優の想定を外れていなかった。未来を読む力は無くとも、こうなることは予想通りで。それでいて、どうすればこの展開を避けられるか必死に考えていたというのに、その努力が実を結ばなかったことを嘆きそうになる。
 元々聞く限りでは〝エンジェルさん〟のおまじないは彼女たちのような存在にとって、とても魅力的なものであった。今まで言い出さなかったのはある意味美優の人徳だろう。この噂が広まり始めてすぐに美優は公言したのだ。
「わたし、〝エンジェルさん〟は怖いからやらない」
 そう、美優にとって〝エンジェルさん〟は畏怖に値するものだと直感したのだ。ただの遊びでは済まされない、本当に得体の知れない存在が関与していると異能によって視てしまった故に。
 だからこそ、美優を頼るような彼女たちは今まで黙っていたのだろう。だが、それも今日で終わってしまった。
 彼女たちにとって〝エンジェルさん〟は何よりも求めていた存在なのだから。
 そして。
「………………いいよ、やろっか」
 そんな支えが無ければ立っていられないほど弱い彼女たちを、美優は見捨てる非道さを持ち合わせてはいなかった。
「ただし、一回だけ。それ以上は絶対にダメ」
「うんっ! ありがとう……じゃあ放課後、ここで」
 わっ、と花が咲いたように綻ぶ彼女たちになんとか笑みを送りながら、美優は必死に胸を貫くような痛みを隠した。吐き出しそうになる、遠い昔の記憶と共に。



◇◇◇



 〝エンジェルさん、エンジェルさん。わたしのお願いを聞いてください〟


 その言葉から始まる〝エンジェルさん〟のおまじない。
 〝エンジェルさん〟は呼び出した人間の願い事をひとつ叶え、その代わりに人間側も〝エンジェルさん〟の頼み事をひとつ叶えなければならないという。
 始める時間は黄昏時。日が完全に落ちきる前、世界が朱色に染まる時。
 準備するものは一枚の紙とペン。真っ白な画面の上部中央に十字架を描き、その下に〝はい〟と〝いいえ〟を、そしてそのさらに下にはひらがなで五十音、もしくはアルファベットで二十六文字を記載する。ペンは青色を用意すること。
 そして、儀式を行う人間を三名。
 ひとりは〝エンジェルさん〟に願い事を言う人間。
 ふたりは〝エンジェルさん〟の頼み事を叶える人間。
 みたりは〝エンジェルさん〟を見届ける人間。
 願いを言う人間と頼み事を叶える人間は対面しながら座り、見届ける人間は立ったまま画面の上にペンを立てた状態で支え合うこと。たとえ何があったとしても〝エンジェルさん〟が帰るまでペンから手を放してはいけない。
 〝エンジェルさん〟は喋ることが出来ないのですべて文字でやり取りをするという。

 そんなどこか古くさく、けれど手先が僅かに震えるような圧迫感を抱きつつ、落ちていく日を背にしながら三人は教室で息を潜めていた。
 すでに紙とペンは机の上に用意されている。言い出した本人が前もって用意していたという。塞ぎ込みがちないつもの様子とは異なり、震えながらも行動に迷いが無い。
 もう一人は用意された席に腰掛けたまま動こうとはしなかった。彼女はただ〝エンジェルさん〟の存在を確かめたいという。そのために頼み事を叶える役を買って出たらしい。
 この二人は平時でも仲が良く、常に二人一組で行動していた。だからこそ、彼女たちは三人目が見つからずに美優に声を掛けたのだろう。そのことに対してどうこう思うつもりはない。了承したのは結局美優自身なのだから。
 カチッ、と時計の針の音が嫌に大きく聞こえる。それに被さるように、自身の鼓動が激しく主張する。今すぐにここから逃げ出したいと訴えていた。それを良心だけで押し殺す。避けられないのであれば、せめて自身の異能を持って見極めなければならない。
 もし〝エンジェルさん〟が美優の想像通りならば、〝エンジェルさん〟の頼み事とはきっと――――

「……それじゃあ、始めます」

 黄昏が迫っていた。日は陰り、朱の光は重く世界を染める。声のした方へ視線を向けても、そこにいるのは本当に知った人間なのか。表情は影で隠され、まるでのっぺらぼうのよう。
 もし、美優に真偽を見抜く異能が無ければ。いまこの空間にいる他の二人の正体を疑ってしまっただろう。口は彼女たちに従う旨を吐きながら、顔の見えない彼女たちが本人である証拠を必死になって探る羽目になっていた。それくらい黄昏時は、他人という存在が曖昧な世界へ変質してしまう。
 そっと自分の胸に手を当て、心の内に広がる水鏡を覗き込む。水面には見知った顔が映し出される。それが救いとなるのは複雑だが、今は何にも代えがたい安心で。
「うん……お願い」
 すでに二人の手が添えられていた青いペンへ、美優も手を伸ばす。
 それを合図に、ひとりが口を開く。

「〝エンジェルさん、エンジェルさん。わたしのお願いを聞いてください〟」

 ――――ザザ、とノイズのような違和感が走る。

 ペンを中心に、まるで世界の輪郭がブレてしまったような。そんな薄ら寒い考えを振り払うように深く息を吐いた。ペンは動かない。
 ひとりは同じ文句をあと二度繰り返した。繰り返す都度に違和感は増していく。
 胸が痛いほど心臓が早鐘を打つ。それは警鐘か、恐怖か、渇望か。定まるよりも早く、青は指し示した。

 〝はい〟

「――――っ!!」
 息をのんだのは誰なのか。悲鳴じみた吐息が、耳鳴りしかしない空間に大きく響く。気を抜けば手を放してしまいそうな、全身が軟体になってしまったかのような錯覚。お互いの顔が見えない暗闇の中、青は大きな弧を描きこちらの声へと答えた。
 次の手順は、とチラリとひとりに視線を送る。〝エンジェルさん〟を待たせてはいけない。機嫌を損ねたら参加者全員に良くないことが起こると言っていたのは誰だったか。
「……っ、あ…………わ、〝わたしのお願いはっ――――〟」
 この瞬間を待ちわびていたはずなのに、ひとりの声は震えて上手く言葉にならない。美優の水鏡には、彼女が泣いているように映った。本当の顔は深まる宵闇へ溶けて分からない。どうして、という疑問は次いでの言葉に掻き消される。

「〝わたしと、お友達になってください〟」

「――――――っっ!?」
 その言葉は、その意味は、その願いは。
 声を上げることも出来ないほどの衝撃と、覆い隠したはずの過去の虚像が瞬時に脳裏を駆け巡る。蠱惑で純粋な、懐かしい声が耳の奥で反響する。

 〝みゆちゃん〟

 全身が、精神が、悲鳴を上げる。
 それは美優の罪。それは子供の夢。それは二人の――――

「〝エンジェルさん、エンジェルさん。あなたの頼み事は何ですか?〟」

 崩れ去りそうな理性の端で、そんなフレーズに触れる。呆然とする美優を置き去りに、彼女たちのおまじないは続いていた。静止していた青が、新たな軌跡を描き出す。
 それはまるで死刑執行人の如く性急に、それでいて荒々しく感情が浮き彫りになった歪な螺旋の動き。寸分の迷いもなく導き出された言葉は、始めからこの瞬間を待ちわびていたように、〝エンジェルさん〟の意志を訴える。

 〝てんしの つばさが ほしい〟

 その言葉に、黄昏の彼方へ記憶が遡る。

 それは、遠い昔の出来事。
『ねぇ――ちゃん、お願いがあるの』
 幼稚さから生まれた羨望と、純粋さから求めた残酷な願い。
『少しだけ! いっしょに……だめ?』
『…………うん、いいよ。みゆちゃんは――だからね』
 無知故に願いの代償を知らず、未知故に頼みの重大さが理解できず――美優が犯した罪。

 その咎を〝エンジェルさん〟は暴こうとする。
 逃れることは許さないと。忘れることは認めないと。決して償えきれないほどの罪状を背負っているのだと、美優を断罪するように。

 〝うばわれた ほしい はやく ほしい はやく はやく〟

 ぐちゃぐちゃと受け止める紙が悲鳴を上げる。手首ごと持って行かれそうな勢いで、ペン先は同じ所を行き来する。
 その文字を読んだふたりが美優の動揺に気づいていないのか、それとも敢えてなのか。〝エンジェルさん〟に問う。
「それは だれが もっていますか」
「どうすれば てに はいりますか」
 まるで文字を音読しているように無機質的な、虚ろな声がふたつ。とても人間のものとは思えない、宵闇のように背後から迫り来る音。
 平時であれば気づけただろう。彼女たちは口を開いていないことに。あふれ出したのは声では無く、悪意であることに。すべてを見透かす水鏡を持ってすれば、この仕組まれた舞台を理解するのには十分で。
 けれど、今の美優にその選択は取れなかった。
 もし、今のこの状況を異能で視てしまったら。もし、水鏡に映った姿と現実が寸分も変わらなかったら。美優は認めなければいけなくなってしまう。
『みゆちゃん』
 あの日以来ずっと目を背けてしまった――あの優しくて、綺麗で誰よりも大切だった〝彼女〟が美優を恨んでいるのだということに。

 〝うばった のは おまえ だ み ゆ〟

「かえして はやく」
「かえさないと」
「〝エンジェルさん〟にかえして」
 黄昏時が終わり、世界に夜の帳が下りる。闇は人ならざるモノを具現化し――悪意が、意志をもって襲いかかる。
 そんな現実に、美優は。
「――――――――っ!!」
 声にならない悲鳴と、つい手を放してしまった。


◇◇◇


 無我夢中で走った。
「はあっ、はあっ、はぁ――――っ!」
 いたたまれなくて、赦しを求めるように、ただ衝動的に廊下を走り抜ける。全身が悲鳴を上げながらも、人体の限界へ挑戦するが如く、手足の動きと脳の制御が一致しないまま。曲がり角に肩を強打し、階段を半ば転げ落ち、壁に挟まる爪を強引に剥がしながら。
 その真後ろを。

 ――――ずずず、と。

 黄昏よりも深く黒い異形の存在が追従する。
 ソレには骨格らしきモノが無く、手足に満たない肢が無数に蠢き、唯一人間と同じ特徴を模した口を大きく開けていた。校舎の廊下を丸々埋め尽くしかねないほどの大きさで、真円を描くようにぽっかりと空いた口の向こう側は、深淵よりも深く恐ろしい黒で塗りつぶされており、飲み込まれたら最後、人の形を保つことは不可能だろうことが直感で理解できた。
 そんな影は。

 ――――おおぉん、と。

 鳴き声なのか、咆哮なのか、叫びなのか。表現しがたい音を発しながら、走る美優に迫る。足も無いはずなのに、その動きは驚くほど俊敏で暴力的。小回りのきかない図体であるにもかかわらず、物理的な障害に阻まれる気配は無い。そして、空いたままの口からは奇怪な音に混じるように、一定の言葉が漏れ出す。

 〝ちょうだい つばさ はやく てんし つばさを〟

 その言葉はまるで子供のように舌っ足らずの言い方。美優の思い出にあるものとは一致しないのに、どうしても重なり合って責め立てる。
「やめて……やめて――っ!」
 熱された息を吐く合間にも、嘆願するかわりに拒絶の言葉が溢れる。認めたくない、と自らを偽れない美優は我が儘と知っていても、肯定することが出来ない。
 ただ、もし。
 本当に〝彼女〟が美優を恨んでいるのであれば。こんな仕打ちを強いるほどの感情を抱いているのであれば。それが、十年前の〝彼女〟に贈る最後の願いになり得るのであれば。
 美優は――――

「――――――あっ」

 不意に、張りつめていた均衡が途切れてしまったのか。本来身体を支えるはずだった片足がもつれ、刹那の滞空を実感する。瞬く間に冷え切った廊下へと身を投げ出す格好になり、美優はただ呆然と床と向き合う。

 ――――ずずず、と。

 異形の動きは止まるはずも無く、正直に空いた口はそのままに、美優めがけて進み続けているのが気配だけでわかった。
 それでも。
「………………ああ、」
 もう動くことも出来なくて。美優は来る裁判の時を待つ咎人であろうと、地に伏せたまま目を閉じた。終わりを迎えるという意識は遠く、ただ漠然とこの恐怖は終わるのだろうという予感だけがあった。そん思考に思わず、自傷の笑みを浮かべる。
 あれほど弱者の救いになれば――として生きてきたのに、最期に思うのが自身の解放だなんて、なんて利己的な人間だろうか。
 十年前に許されない願い事を告げて。それを笑って受け入れた〝彼女〟のような存在になろうと藻掻いて。一方でその残酷な仕打ちからは目を背けて。
 そんな美優への罰がこれだというのなら。
 倒れた美優の身体よりも大きな影が、背後から覆うように迫っていた。あと一呼吸もしないうちに虚の口へと呑み込まれてしまうのだろう。
 だから最後にせめて、と謝罪の言葉を残そうと。決して届かないと知っているからこそ、一筋の涙と〝彼女〟へ贈った最初の頼みと共に。


「…………ごめんね、あおいちゃん」


 刹那の無音の後。



『――――――回路=接続サーキット・リンク元型タイプ光盾エンコード



 金属同士が激しく追突する甲高い音が響く。音圧と共に先程までは感じなかった何かの気配に、美優は顔を上げた。
 そこには。
 人の形を取り、身の丈よりも大きな白き盾を構え、混沌たる異形と美優の間に立ち塞がるソレを、美優はみた。

 それは、黄昏の現し身のような朱を靡かせ。
 それは、宵闇を貫く一筋の星光の軌跡を灯し。
 それは、逢魔が時に相応しき人ならざる存在だった。

 ギチ、と闇の中から覘く歪な歯と盾が拮抗する。異形は身体を波打つように大きさを変えながらそれを噛み砕こうと藻掻いているが、相対するソレは微動だにせず、むしろ押し返しかねない力強さを持って構えていた。
 これは夢なのだろうか、と定まらない思考の中とりとめもなく眺める。疑問は無意識のうちに異能を発動させ、鏡を通して現実を捉える。
「…………っ、あ」
 それは、カラであった。
 すべての人間が持ち合わせる、肉体に内包された中身――所謂〝魂〟と称されるもの。真偽や思考、果てはモノの本質すら見抜く美優の能力で視たソレには、その中身に値するものが無い。形こそ人間と同一であるが、人間たり得ないモノ。
 そんな存在が、まるで美優を守るかの如く異形に立ち向かっている。
 何故、という問いを投げかけるよりも早く。

 ――――カツン、と。

 人の足音が静かに響く。異形が迫るのとは真逆から聞こえたその音につられるように美優は視線を向けた。
 夜闇が支配していた校舎の廊下を今まで忘れていたかのように月明かりが仄かに差し込み、闊歩する一人を照らしだす。その見覚えのある姿に美優は驚愕で目を見開く。
 月光を反射する銀の髪に、氷雪の如く凍てついた眼差し。スラリと伸びた手足を余すことなく使って歩む姿は気品に満ち、高貴なる血筋を想像させる。身に纏うのは見慣れた制服であるにも関わらずこの異常空間と見事な調和を果たしているのは、元からコチラよりの気配を漂わせていたからなのか。
 そんな人物を、美優は一人だけ知っていた。
「こう、がみ……せんぱい?」

 ――鴻上了見。その名を知らない者はこの学校に通う以上存在しないだろう。

 デンシティ高校三年に在籍する、人並み外れた容姿に随一の秀才さを持つ人物。辞退したにも関わらずあまりの推薦の多さに生徒会長を務め、その手腕は歴代に類をみないほど優れたもの。なにより〝鴻上〟はこのデンシティを昔から管理する名家である。
 そんなある種の天上人である鴻上了見を美優は当然ながら認識しており――かつ、美優と同じく異能を有していることも既知であった。どのような力なのかまでは読み取れなかったが、それでも初めて顔を見た時から思わず異能を使用してしまうほど、彼の纏う空気は異質だった。
 もっとも一方的に知っていただけであり、このような機会が無ければ永久に関わることもなかったはずで。
「――――っ」
 なんと声を出せばいいのか。助けてと叫べば、見ないでと泣けば、どうしてと問えばいいのだろうか。混乱した頭ではどうしようもなく、ただその存在を見つめることしか出来なくて。
 そんな美優に一瞬だけ視線を送った後、何事も無かったように鴻上了見はその正面を見据えた。未だ拮抗状態を維持し続ける、理の外側にあるモノたちに。
「……プレイメイカー」
 不意に、その低い声が鼓膜を打つ。 
 その声に反応したのは、盾を構える人形で。
『――リボルバー、コレをどうする』
 人形が発した言葉は鼓膜では無く、脳裏に直接響くような音。感情らしきものが介入していない、純粋な言語の発生に思えた。
「始末しろ。見たところ末端の影の集まりだ。アンカーも必要ない」
『そうか』
 ギチ、と鋭い歯が盾にめり込みそうな勢いを背景にしながら、淡々と事実確認のような会話が繰り広げられる。まるで現実感が無い。
 そんな、突如。

規定コード変更チェンジ

 音も無く、異形と人形を隔てていた盾が消失した。
 均衡が唐突に消失したことで、受け皿をなくした牙がギロチンの如く垂直に振り下ろされる。止めることも、警告することすら出来ないまま、黄昏を模したかの首が落ちる――その光景を幻視する。
 それを。

『――――元型タイプ闇剣デコード

 瞬く間よりも早く、紫雲を溶かし込んだような大剣が具現化していた。丈に見合わないそれを、人形は軽々と構え、そして。

 ――――――キン、と。

 鈴よりも澄んだ音色を響かせながら、すべてを呑み込まんとする虚の円を真一文字に引き裂いた。


◇◇◇


 ――夢を、みている。

『みゆちゃんは何役がいい?』
 それは小学生の頃。秋が深まる時期に開催される学園祭の出し物についてクラスで話し合っていたときのことだ。
 題材は誰もが知る童話をなぞらえたもので、低学年が行うからこそ技術的な面は始めから考慮されず、ただ生徒たちの自主性を重んじるため配役は本人の主張が適応された。
 皆が口々に望む役を発言し、残ったのは美優だけ。
 普段は積極的に手を上げて行動する美優が黙ったままなのを心配したのか、教師がわざわざ身体を屈めて視線を合わせながら問いかけてきた。
『…………いや』
 そんな優しい人に、美優は拒絶の意思を告げる。
 おそらく教師は混乱しただろう。人前に立つことを怖がるような性格をしていないことを知っているのに、何故拒否をするのか。理解の範疇に無かっただろう。
 だが、美優には明確な理由があった。
『どうして、ウソつかなきゃいけないの』
『…………え?』
 せめて美優がもう少し成長していれば。自分と他人は決してイコールで結べないことをきちんと理解できていれば。みんなを困らせずに済んだのだろう。
 けれど、まだ成熟しきれない精神では納得など出来なくて。
『ヘンだよ! わたしも、みんなも〝おひめさま〟や〝おうじさま〟じゃないんだよ? なのになんでそう言わなきゃいけないの?』
 仮面を被る、という行為が理解できない。
 自分を偽る、という行動を許容できない。
 誰も――美優以外の人間は心に水鏡を持っていない、と気づけなった。

 そんな美優の異常性が露わになり、周囲はまるで腫れ物を扱うように遠巻きになった。少なからず仲良くしていた子たちも歳を重ねるにつれ、周囲へ溶け込むために自然と口にする他者への同調へ、美優の鋭い指摘に耐えられなくなり、次第に疎外されていった。
 そんな中で、美優は〝彼女〟と出会った。

 ――遠い日の夢をみた。


◇◇◇


「何をもって〝人間〟を定義するか。分野によって様々な答えがあるだろうが、我々のような異能を持つもの達の認識は――――三つの要素を所持しているもの、としている」

 教鞭をとるかのように、自身の有する知識をひけらかすのではなく諭すように、鴻上了見は語る。
 結果的に助けられた美優は彼に説明を求めたのだ。現状を、あの存在の正体を、そして根本的な〝異能〟とは何なのかを。周囲に理解者などおらず一人で抱えて生きてきた美優には基本知識というものが欠落している自信があり、彼もそのことを知っていたのだろう。了承の言葉は無いまま、彼は話を続けた。
「ひとつ、肉体。ふたつ、意志。魂でもいいが。そしてみっつ……これの呼び方は多種多様だが、我が鴻上家は〝殻〟としている」
「カラ……?」
 その言葉に思わず視線を彼の背後へ向ける。
 そこにはふわり、と重力に縛られず数十センチほど空中に漂った状態で辺りを見渡している人型の姿があった。極限状態を脱してからもう一度だけその姿を水鏡で捉えてみたが、やはり映し出されたのは中身が無い空っぽの姿で。
「肉体よりも外側――外界から意志を守るために備えられた防衛機構。通常の人間であればそれを意志によって操ることはできず、本能と反射によって作動する目に見えない障壁だ。……だが、稀にそれを自らの意志で操作することが出来る者がいる」
「あっ……」
 外界からの防衛機構。その言葉に美優は己の水鏡を連想する。すべての虚構を剥ぎ取り、紛れもない真実を齎すこの異能はまさに自身を守るためのもの。
「霊力、魔力、超能力……そういった無意識をコントロールする異能を我々は〝殻〟と呼称している。そして、お前を襲った存在――あれは〝異形〟。三つの要素のどれかが欠け、人になり損なったモノ。悪魔、妖怪、精霊、そして……天使。これこそ見た目や能力によって捉え方は千差万別だな」
 ハッ、と吐く息が詰まる。息が苦しくなるほどの情報を詰め込まれて、美優はクラクラした頭を抱えながら思考の海に身を投げる。
 鴻上了見の話は何も知らない人間が聞けば狂ったかそういう想像に耽っていると揶揄されてもおかしくないほど滑稽で、それでいてこの上なく美優の求めた真実を突いていた。理解はまだ及ばないが納得は出来る。
「……さて、お前が行った例の〝エンジェルさん〟のおまじないだが――」
 独り言のように鴻上了見は続ける。いや、実際の所本当に独り言なのだろう。正確に理解させようという気概は感じられず、ただ知らなければならない事項のみ最低限耳に入れば良い――むしろ聞き逃して危機になろうとも自己責任で、ということだろう。
 冷たい人間だ、と思わざるを得ない。癖のように水鏡を通して視ると、彼の内情は氷河期の如く荒び凍てついていた。まるで人間味が無い。
「結論から言えば、この行為自体に特異性はほぼ無い。昔から繰り返されてきた古典的な降霊術式だが、科学的解明もされているほど陳腐化し尽くされたもの。――だからこそ、あれほどのモノが出現した原因はお前にある」
「…………っ」
 ばさり、と鴻上了見は手に持っていた一枚の紙――〝エンジェルさん〟を呼ぶために美優達が使用した、ひらがな五十音などが記入された用紙を開く。
 本来であれば真っ白であったその紙は酷く劣化したように変色しており、なにより中央部分がごっそりとくり抜かれたように欠落していた。端には強く握りしめたような皺が寄っており、まるで何かが這い出てきたかのよう。

 ――否、まさしくその通り。美優を襲ったあの巨大な異形はその穴から出現したのだ。

 ペンから手を放した瞬間、ペン先から墨のように黒い何かが滴り落ちて紙の中心へと集い、それは円を描いた。
 そして。

 ――――――ずるり、と。

 一本の手が、まるで挙手をするように真っ直ぐ伸びてきた。真っ黒な影のように実体感が無い腕。瞬く間に腕は二本になり、円の縁を掴むように動き出し、そのままずずず、と下から何かがせり上がってくる気配を感じ取り、美優は恐怖とパニックでその場を逃げ出したのだ。
「……心当たりなんて、」
 思い出すだけで鳥肌が立つ光景から目を逸らすように、そして美優を責め立てるような口調に反論しながら、視線を足下へ向ける。転んだ拍子に痛めた足は簡易な手当が施されてある。だがまだ痛むのも事実で、これを口実にこの会話が終われば、と淡い希望を抱きながら。
 だが。
「確かにあの異形に関しては無いだろう。――だが〝エンジェルさん〟とも関係が無いと言い切れるか」
「――――――っ!」
 美優は嘘がつけない。嘘が認められない。嘘をついた自分自身が、どうしても許せない。だから、どれほど忌避しても藻掻いても、問われれば答えるしか無い。たとえそれが、自身のトラウマを掘り起こす自傷行為であり、贖えない罪の告白であっても。

「…………天使を、知ってるわ。素敵で、優しくて……大好きだった、青い天使を」

 血を吐くような思いで、それだけを告げる。
 数秒に渡る沈黙の後、鴻上了見はそれ以上を聞き出す素振りを見せずに氷雨のような視線を少しだけ和らげた。
「……そうか」
 彼は否定も肯定も、追求さえもしなかった。ただ美優の言葉を受け止めただけ。
「プレイメイカー」
 鴻上了見は虚空を漂う人形――否、〝殻〟と称すべき存在を呼ぶ。夕焼け色の髪が風もないのにふわりと揺れ、鮮やかな緑の双眸が覗く。
「しばらく此奴を付ける」
 美優を見ながら、そう確定事項のように鴻上了見は告げた。
「……え?」
「お前の〝殻〟は視ることに特化しすぎて能動的な防衛能力は無い。おそらく現状の原因はすべてお前という存在に繋がっているはずだ。……野放しにするほうが面倒だ」
「…………、――――はぁ」
 つまるところ監視と、護衛も一応兼ねてとの事だろうか。あまりにも理解が及ばなかったため思わず異能を使用してしまった。相手の内情まで踏み込める力にこれほど感謝したことはない。
 彼の言い分が理解できたところで、疑問がひとつ浮かぶ。
「〝殻〟って自分から遠ざけられるんですか?」
 本能にあたる機能という説明を受けたばかりなのに、彼の提案は不可解極まるものだ。美優の力はオンオフは容易であるものの、存在そのものを切り離すことは出来ない。昔は何度忌々しく思って消そうと躍起になったことか。もし方法があるなら知りたいと思う。
 そんな心情を察したのか鴻上了見は残念だが、と枕詞を置いてから告げる。
「〝殻〟の性質による部分が大きいが、基本的に自立できる能力は稀だ。……コレは特別製だからな」
「そう、ですか」
 残念に思うも期待はしていなかったためにショックは少ない。そうそうに思い浮かんだ浅はかさを闇へ葬ることにする。
 それよりも、と改めてその存在に向き合った。
「……プレイメイカーって、呼んでいい?」
 不思議な存在だった。空っぽだと美優には視えているのに、その姿はあまりにも人間そのもので。暮れゆく日を思わせる髪に、暗い緑と黒を纏う身なり。身体に走るのは星の灯りにも似た軌道。美優を見つめる緑の瞳は意志ではない、けれども無感情と呼ぶには憚られる何かがあるように思えた。
『ああ、好きにするといい』
「ひとつ忠告だ。コレと……異形共と相対する時、正直に名乗るな。必ず字(あざな)を使え」
「あざな……?」
 聞き覚えの無い言葉に疑問の意味を込めて反復する。
「別名、偽名。何でもいいが、決して本名を使うな。……難しければ、自身の殻に名を付けるとでも思えば良い」
 ふと思い出す。わずか数時間ほど前の出来事を。
 巨大な影と対立しながらプレイメイカーは鴻上了見のことを〝リボルバー〟と呼んでいた。未曽有の体験に頭が完全に麻痺していたため気にもとめていなかったが、今思えばおかしなことだった。
「何か意味があるんですか?」
「……奴らと我らの境界は曖昧のままでなければならない」
 素っ気なく、まるで自分自身に言い聞かせるような口ぶりだった。引っかかるものの、嘘では無いことは読み取れたので追求はしないことにした。
「じゃあ、呼び名を決めた方がいいですね」
 緊急事態に呼び合うことも出来ないのではきっと困るだろう。たとえ使用することが無いとしても決めておいて損は無いはずだ。
 自身の別名など考えたことも無かったたため、どうしようかと美優は自分の記憶を遡る。

『……わたし、みゆっていうの。あなたは?』

 懐かしい、思い出の日が蘇る。
 青い天使と出会った、最初の時間。

『人間に名乗っちゃいけないの。あなたが好きなように呼んで』
『えっ……そうなの? じゃあね――――〝あおい〟ちゃん!』
『〝あおい〟?』
『うんっ! あなたのかみとめ、とってもキレイなあおいろ! だから、あおいちゃん』

 人間と人間ならざるモノとの境界は曖昧でなければならない、と鴻上了見は言っていた。ならば、美優のこの時無邪気にした行為がきっと今回の事件の始まりなのだろう。曖昧なはずのモノに明確な形を与えてしまったという。
 それでも、彼女が大切で大好きだった。その思いと後悔を受けて、美優は名を決めた。
 青い天使と己の水鏡になぞらえて。


「〝アクア〟……それが私の、殻の名前」


◇◇◇


 プレイメイカーと行動を共にすることとなって、早三日。
 彼――この名詞は不相応かもしれないが、あえてこう呼ぶ――は持ち主である鴻上了見がいっていたように確かに特別製だと感じた。

『回路=接続、元型:風刃エクスコード

 その宣言を合図に、彼の腕に淡い緑の光が纏う。鎌鼬のように鋭い烈風が吹き荒れたかと思うと、次の瞬間には彼の姿はそこには無く。今まさに美優へと襲いかかろうとした異形の真上で、両手に装備された鉤爪のような刃が夕闇を反射しているのをようやく捉えた。
 瞬く間に、音も無く黒き巨体は無様に切り刻まれたあとだった。
「……早い」
 思わず口から飛び出たのは恐怖でも感謝でもなく、感嘆にも似た呟き。度重なる襲撃の末、すでに美優は異形に耐性を得つつあった。その代わりに、ようやく彼の存在の違和感に気付きつつある。
「ありがとう、プレイメイカー。……それにしてもすごいね」
 賛頌の言葉を受けても彼の表情は変わらない。無表情――ではなく、キョトンという表現がよく似合う子供じみた顔。
『アクアを守るのが今の使命だ。当然のことをしているに過ぎない』
 そうカラである彼は言葉を返した。

 彼は〝殻〟である。人間が持ち得る防衛本能、それを具現化した存在。

 なのに、彼は美優の言葉に返事をした。定例文じみてはいるものの、きちんと意味の通った会話を行える。これで自意識がないとはとても信じがたいことだった。
 それだけではない。彼の行動は多様性をみせていた。
 初めての遭遇時には盾を、次いで剣を、先程は鉤爪のような刃を。それぞれ見事に使いこなしていた。それも主である鴻上了見の意志を通じてではなく、自ら必要な武器を選択しているようだった。
 無意識の象徴とも言える存在が、そのような行為をすることが出来るのだろうか。疑問は尽きない。
 それでも。
「役目であっても助けてもらったらお礼を言わせて。あなたがいなければ私、きっともう何回も死んでるわ」
 それだけは紛れもない真実であった。

 例のおまじないを行ってから三日。
 あの時出現した巨大な異形――同一か別個体かは判断しかねる――は絶えず美優を襲い続けていた。
 沈みゆく大陽の残光によって伸びきった影から現れる奴らは、姿形には頓着していないようでぐにゃぐにゃとした不定形のまま、ただ美優を求めるように手と思わしき部位を無数に伸ばす。そして口になり損なったような、これまた無数にある歪んだ洞からは。

 〝てんし つばさ ちょうだい〟

 と、不協和音で綴られた楽譜を奏でるように口々に歌う。
 何度も足を取られ、髪を掴まれ、悲鳴を上げる口を塞がれそうになり、そのたびにプレイメイカーが即座に対処する。その繰り返しだった。
『……だが、根本的な解決をしなければこれは延々と続くぞ』
「そう、だよね……」
 彼の言い分は、何の飾りも脚色も感情さえも無い唯一無二の回答。
 事態がこうでなければ、彼の存在は美優にとって第二の救いとなり得たかもしれない。人間は、世間はあまりにも嘘で出来過ぎている。諦めこそついているが、美優はこんな世界に長くいることは出来ないことを理解していた。理性は嘘を容認しても、本能がそれを否定してしまうから。そんな中で、彼のような無機質でありながら誠実な存在はまさに、泥沼の中で咲き誇る一輪の華に思えた。
 けれど、現実はそれを許さない。
『天使の翼……アクアは本当に知らないのか?』
「………………」
 核心を突くプレイメイカーの問いに、美優はこの日も答えることが出来なかった。



「――――これで二件目だ」

 ばさり、と大きな音を立てて広げられたのは大きめのコピー用紙一枚。広がった反動で少しの間滞空した後、ようやく全貌が美優の視界に入る。
 それは。
「え、エンジェルさんのおまじない……!?」
 十字架とひらがなが五十音、そして〝はい〟と〝いいえ〟の文字が記入され、所々が青いインクで印し付けられた紙。見間違えようもない、自らも行った〝エンジェルさん〟のおまじないだ。
 だが、その用紙を持つ鴻上了見の言い分には明らかにおかしな部分があった。
「待ってください。これで二件目ってどういうことですか?」
 今なお学校中で噂になっているおまじない。時間場所を問わずその話題が聞こえないことなど無いくらいなのに。
「みんな噂してます。誰かがエンジェルさんを呼んだとか、願いが叶ったとか……」
 たかが二件しか行われていない、なんて到底信じられない状況だ。しかもそうなった場合、一件目は美優達が行った時になってしまう。辻褄が合わない。
「では聞こう。その噂――本当に真実だと思っているのか」
 そう、鴻上了見は冷ややかな目線で疑問では無く断定口調で迫る。
 人気の無い昼休みの生徒会室。生徒会長の席に悠々と腰掛ける様は、眼光も相まって絶対王政の君臨者の如く、一切の温情も欺瞞も許さない気配を隠そうともしていなかった。
「そ、れは……」
 美優はただ閉口するしかない。確かめる手段はある。だがそれは、美優の罪を露わにするのと同意であり、危機的状況下においてもなお踏み出せない最後の一線だった。
「お前の都合は知らん。私は己の領域内での愚行を粛正するだけだ」
 おまじないの紙を机に置き、鴻上了見は何事もないように人差し指でとん、と軽く叩く。瞬間、青白い閃光が走ったかと思えば同じ色の炎がゆらりと立ち上がった。息をのむ美優を尻目に炎はみるみるうちに勢いを増し、二呼吸を終える間にはすっかり燃え朽ちて何も無くなっていた。
「……これにはお前の時とは違い、アレが実体化した形跡は無い。だが何かが出現した名残はある。これであのおまじない――引いてはあの異形の存在が一歩深まったな。おそらく襲撃回数が格段に増えるぞ」
「どういうことです?」
「これまで奴らは噂をばらまく程度の力しか持っていなかった。曖昧である存在故に曖昧にしか主張できない。だが、お前と今回の件で〝おまじない〟を実行し結果、〝エンジェルさん〟が擬似的な召喚呪術として確立した。……名を与えてしまったと同じことだ」
 これまでの噂は、思い返せば不自然さが目立っていた。手順の説明、願いが叶うという結果、そして〝実行した〟という知らない人の話。誰も彼も会話は尽きないほどなのに、誰一人として正確な所――どういった願いが叶ったのか、具体的な参加者の名前などは聞いた覚えが無い。ここまで広まっておいて、実際に行為を実行した人間がいないという矛盾。それも曖昧な噂によって惑わされ、作為的に生み出されたものだとしたら。
 また美優は――引き金を引いてしまったのだろうか。
「精々気をつけることだ。黄昏は奴らの領分であるが――おそらくもうその時間に捕らわれない」


 その言葉通り。


 ――――ずずず、と


「――――――――っ!!」
 悲鳴を上げなかったのは理性がすんでの所で留めたからだ。
 昼休みが明けて、午後の一コマ目。燦々と太陽の光が降り注ぐ、美優を含めたクラス一同が集結した校庭にて体育の時間。
 そこに、影があった。
 徒競走の順番待ち。あと一巡で美優の出番というその最中。ソレは鈍い音を立てながら侵攻していた。一般的な認識として、幽霊など肉体を持たないモノは光に弱いとされているにもかかわらず、ソレは動きこそ単調だが確実に迫りつつある。
 周囲が気付いた様子は無い。気付かないからこそ、青々と変色していく美優の表情に何も思わず背中を押す。
「次、美優ちゃんだね。頑張って」
「……っ、うん」
 スタートラインとして白く引かれた境界線。そこまでの距離が途方もなく遠く感じる。今すぐこの場から逃げ出したい衝動と、美優が離れた場合に起こりえる最悪――他人が犠牲になるという可能性を天秤に掛け、震える足を叱咤しながら歩みを進める。
 プレイメイカーの気配は無い。昼休みに鴻上了見に会いに行った際、損傷確認をするといって預けたままなのだ。一日に数回襲われていたため致し方ないとは思っていたが、なんとタイミングの悪いことか。

 ――大丈夫、走り始めたら見失ってくれる。それまで耐えよう。

 そんな根拠の無い考えに縋りながら、美優は線の前に立つ。背後の走者を気にしながら、それよりも影の動きを注視して。
 先駆者が伸ばした腕の先にあるバトン、そこに己の手を重ねた瞬間。

 ――――どぷん、と。

 泥沼に足を踏み入れたような不快感が踏み出した右足下から広がる。
「――――――っっ!!」
 すぐさま反対の足を伸ばして走り出す。右足はなんとか引き抜けたが、足首を鷲掴みにされているような痛みと感覚がそのまま残留する。それを振り払うように足を動かす。
 だが。
 じわじわと身体を這い上がってくる悪寒。見てはいけない、と必死に目線を行くべき方向へ向けるがチラチラと視界に映る自らの足は黒く変色している。そして身体を震わすように低く響く声。

 〝つばさ を ちょうだい〟

「――――っ、そんな!」
 遂には右足は美優の意志を離れ、完全に動きを停止させてしまう。引きずられて美優は砂埃が立つ地表へ叩きつけられた。
 迫り上がってくる影。抵抗する手段も無く、あっという間に太腿を越え、背中にまで無数の腕の影が這う。
 その時。

 ――――ずぶ、と。

 腕が美優の背中に沈み込んだ。
「ひっ――!」
 弄られているなんて表現が生易しいほどの嫌悪感。次から次へと手が伸びて、美優の内側へ入り込んでいく。それはまるで、砂糖に群がる蟻の如く。
 そして、何かが〝ソレ〟を掴んだ。
「――――――――あ」
 ぐっ、と引っ張り上げられる。駄目だと口は動くのに、声になる前に息が抜けていく。止めないと、とどこかで叫ぶ自分がいるのに、身体はちっとも動かなかった。真っ白になっていく思考の中で、どこかこの瞬間を待ちわびていたような気になる。
 そして。


 ――――――ふわり、と。


 真っ黒に染まった美優の背中から、ソレは産声を上げるように軽やかに広がった。
 純白の片翼だった。根本付近に青い雫を模したマークが施された、美しき姿。誰もが見れば思うだろう――天使の翼だと。
 抜け落ちた羽根から視線を辿り、美優は己の背から生えた片翼を映して。

 ――――ああ、そんなところにあったんだ。

 と、ようやく気付いたように安堵の息を零した。
 だが、影の侵攻は今なお続いていた。待ち望んでいたであろう存在を目にした異形の腕は更に、と白銀に煌めくその翼へ伸びる。
「駄目……ダメ!!」
 それだけは、絶対に許せない。
 美優は必死に逃げようと、翼を影から守ろうと這いつくばりながら動き出した。たとえ僅かであろうとも抵抗し続けなければ。
「この翼は――あおいちゃんは、穢させないっ!」
 その時。

『――――元型:水射シューティングコード

 遠くから、彼の声が聞こえた。
 瞬間、水波のようなものが三本、美優の頬を撫でるように通り抜け、背後の影を貫いた。射られた方へ目をやると、校舎の上で大きな弓らしきものを構えるプレイメイカーの姿があった。
 だが、それよりも美優の視界に映ったのは。
「………………あ、」
 ふわり、と。彼の背中に、一対の青い翼が出現していた。
 その姿に。

 〝みゆちゃん〟

 思わず彼女の姿を重ねて。
「………………っ、あ……ぅ」
 ぽたり、と雫が伝う。
 美優はまた、天使に助けられたのだ。


◇◇◇


 彼女との出会いは突然だった。

 学校祭で盛り上がっていくクラスの中にいるのに耐えきれず、ひとり家の近所の公園でブランコを漕いでいた。深い意味は無く、ただ早く家に帰ってしまえば、家族に祭りの準備をサボっていることがバレてしまうと思い、少しでも時間を潰そうとした結果だった。
 あたりは鮮やかな茜色に染まる中、ひとりさみしくブランコを動かしている時。

「ねぇ、もっと高く飛ばないの?」

 と、頭上からした声に思わず顔を上げた。
 そこには。
 青い髪を二房に結び、可愛らしさを強調する華やかな衣装。美優へ真っ直ぐ向ける瞳も青く、背には一対の白き翼がはためいていた。
 そんな存在に対する敬称は、一つしか知らない。
「…………てんしさま?」
 読み聞かせで語られる、空に住まうという神の御使い。
 ぱちぱち、と何度も目を瞬かせても彼女の存在は消えず、その場にいることが美優には分かった。
「へぇ、わたしが視えるんだ。いい目だね」
 そう言いながら彼女は空から軽やかに舞い降りると、驚きで動きを止めた美優の側に寄ってきて。
「もっと高く飛ぼうよ。空はとっても気持ちよくて、嫌なことなんて忘れちゃうよ」
 そう笑った。
 きっと涙を浮かべる美優を哀れんだのだろう。その表情は慈愛に満ちていた。
「……ダメだよ。みゆには羽なんてないもん」
 けれど、美優は真実に縛られすぎていて、その笑みを真っ直ぐ受け止めることは出来なかった。
 うつむく美優に、彼女は。
「……じゃあ、こういうのはどう?」
 突然美優の背後に回ったかと思うと、彼女はブランコの鎖に手を伸ばし、くっと力を込める。ゆっくりと振り子のように揺れ始める。次第に揺れは大きく、今までやったことが無いくらい高く舞い上がっていく。
 ずっと視界に映っていた、人工物がひしめく公園が姿を消し、代わりに。
「――――わぁっ!」
 一面に広がる、美しき紅の空。
 そこには何の嘘も、心ない言葉も、偽りの姿も無くて。ただ漠然と広がる大空だけがそこにあった。
 その事実に、それを教えてくれた彼女に、お礼を言いたくて。
「……わたし、みゆっていうの。あなたは?」
 純粋な疑問を尋ねる。
 それを聞いた彼女は少しだけ寂しそうに笑いながら、人間には名乗れないと告げた。
 その意味を理解出来るほど美優は聡明では無く。呼び名がないのであれば、好きに呼んでもいいだろう、という幼稚さからの傲慢で。
「じゃあね――――〝あおい〟ちゃん!」
「〝あおい〟?」
「うんっ! あなたのかみとめ、とってもキレイなあおいろ! だから、あおいちゃん」
 それはまるで、大切なぬいぐるみに名前を付けるような感覚で。単純で、愚かで、どこまでも純粋な子供の行為。
 それに。
「…………ぁ」
 ぽたり、と彼女はその蒼穹の如し瞳から雫を零す。恵みの雨のように、次第にその量は増していき、どうしたのかと美優は慌てふためくことしか出来なかった。
「イヤだった? ごめんね、べつの名前考えるから――――」
 必死に覚えの少ない形容詞を探そうとするのを、彼女は首を振って止めた。
「違うの。嬉しくて……こんな素敵なモノを貰えるなんて思ってもなかったの」
 そう言って、再び彼女は――あおいちゃんは笑った。


 それから毎日、放課後の夕暮れの中あおいちゃんと遊んだ。
 彼女が人間では無いことは水鏡が示していたけれど、そんなことよりも重要な――彼女は嘘をつかなかった。
 自分が天使であること、普段は空の上で暮らしていること、人間が気になって内緒で降りてきていること。全部美優に教えてくれた。空の上がどんなところなのか、彼女の説明では美優には理解出来なかったが、嘘だけはついていないことが分かっていたから気にしなかった。
「あおいちゃんとみゆは……友達、だよね」
 降り注ぐ雨の中、ふと不安を覚えた美優は思わず呟く。あおいちゃんは笑って。
「みゆちゃんがそう望むのなら」
 と、偽りの無い言葉を返してくれる。
 それ以外にも、美優のささやかな願い事を聞き入れ、それに対する正確な助言や手段を提供してくれることもあり。
「どうしてあおいちゃんはみゆのお願いをきいてくれるの?」 
 不思議に思って聞くと。
「みゆちゃんはわたしにとっても大切なものをくれたから、わたしはその分だけお返ししてるんだよ」
 その意味は、やはりよく分からなくて。
 ただ美優はこの時間がずっと続くことを口にはしないまま願った。

 けれど、終わりは突然に。
 何気ない日々のやり取り――そのはずだったのに。

「いいなぁ、あおいちゃん。空をじゆうにとべて」

 その日は美優が公園に着いたとき、彼女は空中でふわふわと舞い踊っていた。何にも縛られず、自身の意志一つで浮かび上がることに憧れを抱くのは、年頃であれば誰しも通る道。羨ましく思う気持ちはあれど、僻むつもりは無く。決して叶うことのないお伽噺を読み上げるように、何気なく呟いた言葉。
 それを、彼女は。
「――――ねぇ、みゆちゃん。本当に空、飛んでみない?」
 地に足を着けぬまま、あおいちゃんは美優の眼前まで迫りながらそう問いかけた。
「ムリだよ。あおいちゃんみたいに羽もないし、人間はとべないんだよ」
「確かにそうだね。でも……みゆちゃんが心から望むなら、私は叶えてあげられるよ」
 その声色はどこか蠱惑的で、確かな真実を内包していた。
「天使はね、人間のお願い事を叶えて……代わりに天使の願いをそれに見合うだけ人間に叶えてもらうの。でもみゆちゃんは先にわたしのお願いを叶えちゃって――しかも、今までの小さなお願いじゃ全然釣り合わない。けど――――」
 美優があおいちゃんに頼んだことは多くない。
 〝一緒に遊んでほしい〟 〝友達でいてほしい〟 〝嘘はつかないでほしい〟
 そんな些細なことばかり。それでは足りないと彼女は言う。
「人間じゃあ絶対に飛べない。けど、それでも飛びたいという願いでようやく一緒くらいになるの。だから……」
「みゆ、あおいちゃんに何もしてないよ?」
 懇願にも似た感情を向けられる意味が分からず、美優は彼女の言い分を否定しようとする。それに彼女は首を振った。
「名前をくれたよ。天使にとって、人間からもらう名前は本当に大切なモノなの」
 だから、そのお礼がしたいと。
 美優はしばし思い悩む。人間が空を飛ぶことは出来ない。紛れもない事実である。だが彼女の言葉にも嘘は無い。嘘ばかり視てきた美優にとって初めてのケースだった。
 悩んで、悩んで、悩んで。
 そして。



 ――――美優は、このとき初めて〝嘘〟をついた。



「……空を、飛んでみたかった。それは本当よ」

 視界の端で、白い翼が揺らめく。
 あのときと同じ黄昏色に染められた、放課後の保健室。人気の無い部屋の中、ベッドの上で膝を抱えながら、美優は静かに告白していた。
 聞き入れるのは、彼女と同じく人ならざるモノ。差し込む茜の光と同じ髪が、思い出の中にある彼女とは別物であると主張していた。
 それでも、美優はすべてを吐き出すように続ける。
「あおいちゃんは笑って……『じゃあ、これを貸してあげる』って、自分の背中から私に翼をくれたの。その時はちゃんと両翼揃ってた」
『…………』
 相槌も、余計な同情も、疑問すら口にせず、本当に人形のようにその場にいるだけ。そんな彼の存在は、まさに教会に立つ聖像のよう。そこに向かってひたすら後悔の過去を語る美優は、断罪を乞い懺悔する罪人だった。
「ふわって身体が浮き上がったの。どんどん地面が遠くなって、本当に空を飛んでた。嬉しくて、楽しくて、夢中になった…………それが、きっと間違いだったの」
 思い出す。飛び上がった空の広大さと、地上のちっぽけさ。夕闇が迫る空はどこまでも自由で、ひとりで飛ぶには寂しすぎる色をしていた。その時の記憶は決して色褪せずに、今も美優の中に残っている。その後の絶望も一緒に。
「日が完全に落ちた時――フッ、と翼が消えてしまったの。もう降りなくちゃって思って、地上のすぐ近くだったから怪我は無かったけど。そして、公園に戻ったとき…………あおいちゃんの姿が何処にもなかった」
 お礼が言いたかったのに。きっと暗くなったから帰ってしまったのだろう、とその日は何の心配もせずに美優も家に戻って。そして明日こそはちゃんと言おう、と。
 なのに次の日から、彼女は現れなくなってしまった。
「何度も考えて、自分を問い詰めて…………気付いたの。私が、あおいちゃんの翼を盗ってしまったから――――彼女は、消えてしまったんだって」
 天使の象徴たる、純白の両翼。
 一時的とはいえ借り受けたまま長い時間を過ごしてしまった代償に、彼女はその存在を保てなくなってしまったのではないか。否、子供ながら思ったのはもっと単純なことで。
 ――――美優の我が儘が、天使を殺してしまったのだ、と。
 彼女からの提案だったことは言い訳にしかならない。たとえ言い出したのが向こうでも、それを望んでお願いしたのは間違いなく美優自身なのだから。
「ずっと謝りたかった。毎日探し回って、寝ている夢の中でも……。でも、あおいちゃんはどこにもいない。もらった翼も視えなくなって、どうしたらいいか分からなくて――――」
 ずっとその思いを抱えたまま、気が付けば十年という歳月が過ぎていた。
 時間が経つにつれ罪を犯したという意識に苛まれ、それに対して成長せざるを得なかった精神は必死にそれを取り繕う。誰にも言うことが出来ず、ひとりで。
「忘れようって、私は悪くないんだって――――そう思い始めたとき、あの噂が聞こえてきた」
 〝エンジェルさん〟のおまじない。天使の名を冠した存在がどんな願いでも叶えてくれる――その代わり、天使の頼みも叶えなければいけない、なんて。彼女の存在を意識するしかなかった。
「…………きっとあおいちゃんが、忘れるなって言いに来たんだなって。だからこんなことに――――」

『……それは、違うと思う』

 ずっと黙したままだった傍聴人が、始めて口を開いた。
『アレは天使じゃない。アクア、お前が無意識に自分の殻に宿していた天使の欠片を奴らは嗅ぎつけて、お前の罪悪感を揺さぶってそれごと喰らおうとしてるだけだ』
「…………え?」
 その言葉は美優を慰めようとする心ない無意味な羅列なのではないか、と涙で覆われた瞳を彼に向ける。流した感情の水はそのまま、ただただ真実だけを映す鏡と成す。
 そこには一切の偽りはなく、曇り無きエメラルドの輝きが美優の弱々しい姿を反射していた。
「だって……わたし、はねがほしいって言われた――」
『それこそ不自然だ。仮に、本当に天使だったら〝ほしい〟ではなく〝かえせ〟と言うだろう』
「でもわたし、あおいちゃんのつばさを盗ってしまったのは本当で――」
『それでも、きっと彼女はお前を責めない。それくらいしないと、オレたちに〝名を与える〟という代償に釣り合わないから』
 断罪を求める美優に与えられる言葉はどこまでも淡々と、それでいてどこか優しさを感じさせるもの。これは幻聴なのではないか、と耳を塞ぐがプレイメイカーの声は鼓膜では無く脳に直接響き渡る。
『オレもリボルバーに名を貰った。だからアイツの命に従うし、アイツを守る。……きっとその天使も』
 それはただの推測で、誰も本当かどうかは見極められない。天使に再び出会うまでは。けれど、そんなことが許されるのだろうか。
「…………あおいちゃんに、謝りたい。そして…………本当の、わたしの願いを、きいてほしい」
 叶えて欲しいわけじゃ無い。あのとき咄嗟に口から出た言葉は完全な嘘ではないが、本心はべつの所にあったのだ。ただ、それだけを言いたい。
 もし、本当にゆるされるのであれば――――


 ――――――――ガンッ!


 荒々しく、白い扉が殴られたような破壊音が鳴り響く。視線を送ると、そこには人間の顔ほどの大きさのへこみが出現している。扉がひしゃげる寸前まで歪むほどに。
 それは断罪の開始か、それとも食前の挨拶代わりか。
『アクア』
 いつの間にか見覚えのある大剣を構えたプレイメイカーが諭すように美優を見つめる。
『見極めろ。お前の目で――――アイツの真実を』
 視てしまえば定まってしまう。あの影の異形が、本当に天使なのかどうか。その力はずっと美優に備わっていて、確かめるのが怖くてずっと逸らしてきた。
 けれど。
「…………………………うん」
 美優は、決めた。


◇◇◇


 黄昏時は、側にいる者が誰なのか分からないくらい暗く、世界の境界は曖昧だ。その隙間を突くように、不確かな存在は己を誇示しようと暗躍する。存在を知らしめるほど力は増し、次第に〝人間〟へと近づいていくから。
 だから、それは。

 ――――――おおぅん、と。

 雄叫びを上げる不定形。数多の人間のパーツ、その影の集合体のような形状。今までと同じく、人ならざるモノ――だったのだが。
 一本の腕が空を切り裂く。がむしゃらに伸ばされた腕は何も掴むこと無く振り回される。だがそれに付随するように空気が振動し、その鋭利さに敵わず廊下の窓ガラスが悲鳴を上げながら割れていく。
「そんなっ!?」
 アレは今まで物理的に攻撃を仕掛けては来なかった。見た目通り、影のように何でもすり抜け美優に迫ってきたというのに。
『――おそらく例の儀式を行っているな。存在が強化されている』
 剣から盾へと持ち替えたプレイメーカーが上階へ視線を向ける。いまいる場所は校舎の一階だが、おそらく上の階――教室棟に生徒が残っているのだろう。あのときの美優達と同じく。
『アクア、翼は仕舞えるか』
 美優の背には未だに片翼が仄かな光を灯しながらたなびいている。重さなどは感じないが、少しずつ精神力のようなものが吸われているような感覚があり、それに伴って美優の動きはどこか鈍い。
「…………ダメ、よく分からない」
 力を込めようと意識をするが、上手く繋がらない。元が自分の所有物ではないからか、無理矢理引きずり出されて接続が乱れているのか。
 首を振る美優にプレイメーカーは特段変化も無く、そうかと小さく零す。
『なら、いっそ囮になってもらうぞ』
 プレイメーカーの語るところによれば、こういうタイプの異形に効果的なのは全体を一気に消し飛ばすこと。ちまちま切り刻む程度では致命傷を与える前に逃げられてしまう。だからこそ、その力を貯めるまで。
『幸い実体化しているなら逃げるのは容易いだろう』
「…………いいよ」
 選んでいる場合ではない。美優は自分を鼓舞させる意味も含めて、震える口元を無理矢理動かして不敵に笑った。

 ――――――おおぅん、と影が啼く。

 それを合図に、美優は背を向け走り出し。プレイメイカーは。

『規定、変更――――元型:風刃』

 目にも留まらぬスピードで、一瞬にして巨体を細切りにする。影は切れた端から互いに吸収し合い、再び同じ――否、広がる宵闇の黒をも取り込み更に大きく顕現する。
 だがその時点でプレイメイカーの姿は無く、ギョロリと複数の目をまばらに動かしてようやく階段を駆け上がる美優の姿を捉えた。
 その後を追いかけるように、ずりずりと音を立てながら影は動き出す。

「はっ、はっ、はあっ――――!」

 詰まる息を必死に吐き出しながら、美優は校舎を駆け上る。足取りは重く、迫り来る恐怖は未だに心を蝕む。
 けれど。
「はっ――、大丈夫」
 まだ立てる。足は動く。行き先は分かっている。成すべき事を、きちんと自分の意志で視ることを決めたから。
 二階へたどり着く。そのまま階段から離れ、更に廊下を走る。人の気配は無い。

 ――――ずりずり、と。

 足を手を、無数に伸ばして身体を支えながら異形が視界の端に映る。瞳孔の開ききった目が美優の背後を見据えているのが手に取るように分かる。視線はどろどろとした欲に塗れ、視られるだけで翼が色を失ってしまいそうだ。
「させない、から――!」
 振り払うように蛇行しながらも走り続ける。無駄に広い校舎を今日ばかりは恨みたくなった。廊下の端から端までの距離が途方も無い。
 ため息を零しそうになる、瞬間。

 ――――――ダンッ!

 地面が揺れた。危うく転倒しそうになるのを、寸での所で壁にもたれ掛かり耐える。何事かと思わず肩越しに背後を見やると、影は二足で立ち上がっていた。
「う、そ……!?」
 大きさに似合わない、細々した黒い二本の足。踏みしめるたびに床が軋み、衝撃が廊下全体に伝わる。
 また一歩、人間に近づいている。
「――――っ、行くよ」
 恐れている暇は無い。立ち止まっている場合では無い。やるべきことが、しなければいけないことが待っている。
 だからこそ、美優は背後の足音から逃げるように更に上を目指す。

 三階も、ガランとして人気は無いように見えた。
 だが、一歩足を踏み入れた瞬間に何かの膜を通り抜けたような感覚が走る。それは不快なモノではなく、どちらかと言えば清いモノのようで。
「……あ、鴻上先輩かな」
 姿を見せていない、一番該当するであろう人物を思い浮かべる。
 詳しくは聞いていないが、彼はこういった現象に対するスペシャリストであることは言動から察することは容易で。創作でよく見るような結界のようなこの膜を使えることに疑問は湧かない。
 お膳立ては済んでいるということだ。
「――――――さぁ、来て」
 廊下の中心、美優の教室の前で立ち止まり振り返って影を待つ。覚悟は、正直なところまだ出来ていないけれど。それでも、受け止めなければいけない。
 あおいちゃんに、謝るためにも。

 ――――おおぅん、と。

 ソレがのっそりと姿を現す。まるで黄昏時に隣に立つモノのように、顔は見えずとも人の形をしていることだけは分かる姿。
 頭は二房に結わえられ、不安定に揺れている。華奢な手足に女性的なシルエット。背後には翼のような影が伸びる。

 ――それはあの日の〝天使あおい〟か、それとも〝人間みゆ〟か。

 その姿を。


「――――――海晶はすべてを見通す鏡なりアクアブルー・マリンセス


 知らぬ間に内から溢れ出した言霊を経て、真実を照らす鏡で映し出した。


◇◇◇


 たくさんの人が集まってくる。口々に思いの丈を叫ぶ。我先にと手を伸ばす。

 〝救いを〟 〝加護を〟 〝願いを〟

 傲慢で、欲深くて、哀れな姿。それでも、それに応えるのは価値があるから。
 ――――天使には個体名が無い。
 力の強さ、どれほど主の威光を授かったかによって位が変わり、呼び名が決まる。ただそれだけ。個ではなく群としての存在。
 けれど残酷なことに、天使には意志がある。自己は分かたれているのに、それを区別する名が無い。そのことを天使はひどく嘆いている。
 だからこそ。
 天使は人間に干渉する。願いを叶える代償に、己に見合う名を寄越せと。

 そう、あの日までは思っていた。


◇◇◇


 影が剥がれ落ちる。幼い少女のような姿が崩れ、逆再生をするように始め顕現した形に巻き戻っていく。数多の人間、そのパーツを無茶苦茶に溶け合わせたような、なんともおぞましき姿。

 ソレは、無数の人間の〝願い〟だった。

 天使に縋る、弱き無辜の人たちから溢れだした願望。どこにもいけないはずの、心の内にしまい込んだままでいたかった純粋な夢の数々。それが学校という閉鎖空間で集い肥大化し、いつしか形を得たのだろう。それだけなら何も起こらなかった。
 けれど、偶然にもこの学校には〝天使〟の力を宿したものがいた。
 行き場の無かった願いは、彼女の存在で叶えて貰えるという希望を見いだしてしまった。ただ、それだけ。

「……私は、天使じゃないから…………あなた達を救えない」

 なおも追いすがる彼らに、美優はただ事実を告げる。

 ――――おおぅん、と異形が泣き叫ぶ。

 それに応えることは出来ない。ただの人間に、彼らの願いは重すぎる。
 だから。
「あとは、お願い」
 この方法はもしかしたら間違っているのかもしれない。それでも、美優は他の方法など知らなくて、ただ任せることしか出来ない。美優の水鏡は真偽を見定めるだけ。それが正しいか否か、決めるのはもっと上位の意志なのだから。
 異形から視線を逸らし、美優は真っ直ぐ自分の教室へ飛び込んだ。
 それを追おうとする影に。


『回路=接続――――元型:地砲トランスコード


 銃口はすでに向けられていた。


◇◇◇


『アクア、大丈夫か』

 校舎全体が揺れ動くほどの衝撃の後、プレイメイカーが何事も無かったかのようにひょっこり教室へ顔を突き出した。当然、彼の身体は半透明なので壁を貫通している。
 半ば転がり入った形の美優は腰が抜けたまま、それでも気丈に笑みを浮かべて返答する。
「うん、なんとか……」
『まだ動かない方が良い。残りがいないかリボルバーが調べている』
 まるで狙ったかのように鴻上了見は姿を現さない。別に思うところは無いけれど、きっと隠し事の多そうな彼のことだ。無意識にでも美優を避けたとしてもおかしくはない。そう思うと、なんだか少し笑ってしまいそうだ。
「あ、そうだ。ありがとうプレイメイカー。貴方のおかげで助かったし…………私、ちゃんと視れたよ」
 結局アレは天使ではなかった。その事実と向き合えたのは紛れもなく、彼が美優の告白を聞いてくれたから。そのお礼だった。
『そうか』
 彼の返答は素っ気ないもので、でもどこか人間味溢れる答えだった。本当に、彼が殻でしかないだなんて信じられないな、とぼんやり考えていた。
 その瞬間。

 ――――――ずず、と。

「………………え?」
 右足から、影が噴き出した。
『――――――回路、』
 ずっと潜んでいたのか、昼間の残滓か。
 即座に反応したプレイメイカーが動くが、少しだけ遅い。それよりもずっと早く、美優の身体は覆われてしまう。誰も間に合わない。
 すべてがスローモーションの景色の中、美優は。

 ――――ああ、やっぱり謝れないのかな。

 と、何度目かも忘れた後悔に瞳を閉じる。




「――――――――――――みゆちゃんっ!」




 来ると構えていた衝撃の訪れの遅さに、美優はゆっくりと片眼を開く。
 そこには。
 ふわり、と頬を撫でるのは禍々しき黒では無く、柔らかな調べの白。美優を守らんと展開された一対の翼と、立ちはだかる人影がひとつ。
「…………あ」
 栗色のショートカットの下、背中に美優とは反対の片翼を生やした人。同じくらいの背格好に落ち着きある服装を身に纏った姿がどこかアンバランスで、とても懐かしい後ろ姿。
 対が揃った翼から放たれる神々しい輝きに、影は音を上げる間もなく溶けていく。
 そして。

「…………みゆちゃん」

 動くことが出来ない美優に、彼女はゆっくりと振り返った。
 髪と同じ色の瞳。表情も大人びて、控えめながら凜々しい印象を与えるその人。あのとき時とは何もかもが違うのに、美優の瞳は本当のことだけを映し出す。

「……ぁ――――あおい、ちゃん……?」

 問いかける美優に、彼女は。
 あのときと寸分違わぬ満面の笑みを返した。


◇◇◇


「〝名〟を得た天使は天使にあらず――――か」
 ぱたり、と手にした分厚い本を閉じながら、鴻上了見は文字をなぞるように言う。
 あれから数日が経過した。
 学校中から噂の影は泡のように消え去り、人々の記憶からも忘れ去られようとしていた。元々曖昧なモノは現れるのも一瞬だが、消え去るのも刹那の如く。初めからこの結末は想定されていた。
「名を得て、力を失えばそれは〝人間〟と同じ。幾つもの奇跡が重なった結果だろうがな」
 あれから、たくさん話をした。
 鴻上了見の言うとおり幾つものあり得ないことが重なり合い、天使だったあおいちゃんは美優の願いを叶えた後、人間と同じ身体を得ていたという。ただその衝撃で天使だった記憶を――名前以外のすべてを失い、何も分からない状態だったところを保護され、これまで人間として過ごしてきたという。
『今の名前はね〝財前葵〟なの』
 引き取ってくれた家族にも恵まれて、自慢の兄がいると教えてくれた。
「どうやって見つけたんですか?」
 そんな彼女を見つけ出したのは、やはりこの鴻上了見で。力も覚えも無い状態の彼女を連れて来たという。
「業界機密だ」
「……そうですか。ありがとうございます」
 はぐらかされたのは気にくわないが、彼のおかげで美優はようやく言うことが出来たので、ぐっと堪えて礼を言う。

『あおいちゃん、あのとき……わたし、嘘ついた。空が飛びたかったのは本当だけど――――本当は、あおいちゃんと一緒に飛びたかった』

 自由に飛び回る彼女と、肩を並べて共に空へ。それが本当の願いだった。
 もしかしたらその願いを叶えるために、翼は片翼にわかたれていたのかもしれない。
「…………さて、今回の件はこれで終わりだ。今後、我々はお前に関与しないし、お前も我々の存在をひけらかす真似なぞするな」
「分かっています」
 今なお翼は美優の殻に宿っている。葵がそれを望んでいるからだ。それでもその力は微々たるもので、異形に対する防御には到底なり得ない。二人揃ってこそ、この翼は機能するのだ。
 だからこそ、美優はこれ以上深入りをしない。
 今まで通り見極める目をもって避けていく道を進む。今度は懺悔のためではなく、しっかりと前を向いていくために。
「……今日はプレイメイカーいないんですか? お礼言いたかったんですけど」
「生憎だが、普段は連れていない」
 ならばこの場にもう用はない。
 もう二度と来ることが無いことを願いながら、生徒会室を後にするべく背を向けて。
「…………あ、でも最後にひとつだけいいですか?」
 これだけは聞いておきたいことが有ったことを思い出し、扉に手を掛けたまま問いかける。
「なんだ」
 相変わらず冷ややかな視線が突き刺さるが、それに負けじと美優は真っ直ぐ鴻上了見を見据えて言った。
「プレイメイカーって、本当に貴方の〝殻〟ですか?」
「………………そうだが」



「――――――――――それは嘘です(・・・・・・)



 断言した。
 美優の水鏡はどんな虚飾をも見透かす。どんな屁理屈を捏ねようと、その本質を見抜く。

「彼は貴方から生まれた存在では無い。貴方は彼を使役しているに過ぎない。持ち主は別にいる――――違いますか」

 その問いではない、断定に。
 彼の内に渦巻く感情が、大きな嵐となってうねり狂っていくのを視た。それはまるで、あの影の異形よりも美優が抱いてきたものよりもずっと純粋な、名状しがたき感情の塊。
「そうだとして……何が言いたい」
 地獄の底から響くような、酷く冷たく荒ぶった声。その様子に、美優はようやく確信を得た。前から抱いていた、鴻上了見に対するこの思いを。

「……ずっと思ってましたけど、私たち――――同類ですね」

 きっとこの人も誰かに狂おしいほどの感情を抱いていて、それを吐き出す先を失ってしまったのだ。そのことで自分自身を永久に責め続けている。
 本当に、似たもの同士だ。
「……………………」
 それだけ言って美優は静かに退出した。
 救われた身として、彼の行く末を祈りながら。



◇◇◇



 黄昏時が、嫌いだった。


 鴻上の家は代々、このデンシティにおいて人ならざるモノから人を守護する役目を担ってきた。
 〝殻〟と称した異能――とくに鴻上は〝使役〟に特化した力をその血に刻んでいる。異形に敢えて名を付け、自身に服従させる。その力を振るい、遍く魑魅魍魎を相殺させるようにぶつけ合う。それが常だった。
 転機は先代だ。先代は正当な世継ぎであるにも関わらず、歴代に類を見ないほど力が劣っていた。周囲から蔑まれ、事情を知らぬ民衆は異形の牙にかかって多くの死を招いた。
 そんな先代は、力では無く知恵で補おうと科学へ手を伸ばした。
 当時は禁断とされていた、異能と科学の融合。長い研究を経て、それはついに実験段階へ入った。
 そんなとき、鴻上了見が誕生した。
 了見は先代とは真逆に、歴代でもっとも優れた能力を発芽させた。
 それを知った先代は、こう考えたのだろう。

『力の無い私より優れた者がこの技術を行使すれば、神にも至る力となるのではないか』

 そしてそれは彼の意志通り、実行されることとなる。




 街全体を見渡せる小高い丘に位置する鴻上邸。
 その最深部にて、鴻上了見はとある扉に手を掛けていた。
「…………」
 その扉は一見普通の扉のようだったが、少し様子を見ていればそうとは言っていられない。物理的な錠前が一つ、電子ロックが二つ、そして呪術の封印が三つ。六重にも及ぶ鍵がかかった、異質な場所。生半可な者では永遠に、力あるモノでも解除に半年はかかるであろう。殻であるプレイメイカーですら、この場所に立ち入ることは出来ない。
 それを無意識にも近い、諳んじた手順を身体は勝手になぞる。まもなくして音も無く扉は開かれた。
「…………」
 中に踏み入る。目が眩むほどの鮮やかな朱色の光が差し込む。
 そこは大きく開けた空間で、巨大な窓からは海を一望できた。
 そんな場所にぽつり、と不釣り合いなほど小さな白いベッドがひとつ。部屋の中央に鎮座していた。
 こつ、とわざとらしく足音を立てながら了見はそこへ近づいていく。落ちゆく太陽に照らされながら、横たわる一人分の影。
「…………」
 その人物は、プレイメイカーによく似た顔立ちをしていた。

 プレイメイカーが黄昏の化身であれば、彼は黎明の象徴だ。

 深い海の青と、地平線から差し込む朝日を模したような髪。閉ざされたままの瞳は、異国で見られるという、特別な太陽の光と同じ緑。その色を、もう二度と見られないと認められなくて、了見は今なお足掻き続けている。

 先代が提唱した、新たな技術。
 突き詰めた知識で殻と異形の本質は同位だと知り。科学をもって、他人の殻を測定させることに成功した後に導き出された、鴻上家に最善の選択。

『優れた〝殻〟を鴻上の技法を持って使役する』

 何もかもが劣っていた先代だからこそ思いつけた外法。
 殻とは人間を構成する三つの要素のひとつであり、ひとつでも失えば人間はその命を保てない。それを知恵ばかりは天才的だった先代は科学と異能を組み合わせ、ついにその三つを分離させることに成功した。
 肉体はここに。殻は優れた才能を持った了見に。そして、もうひとつ。

「お前の〝意志〟は、どこにあるんだろうな」

 最後の一欠片を、了見はずっと探し続けている。
 黄昏の空に、夜明けを待ち侘びながら。



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