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04

 ふと気がつけば、澄み渡る空の青と切なさを覚える黄昏の赤が広がる世界にアスベルは浮いていた。浮くことになんの違和感も覚えないのが不思議な気分だったが、ここが精神世界であるということを思い出し、そんなものかと納得する。

『随分と落ち着いているな。我に乗っ取られたとは思わんのか』

 前方からの声に顔を上げる。
 初めて見た時の赤黒い光を纏った姿とは違い、柔らかな紫と淡い金の光を発しているその存在――ラムダが、呆れたような口調で語りかけてきた。

「言ったろ、信じてるって。それに、本当に乗っ取るつもりならそんなこと言わないさ」

 そうラムダに微笑みかけた。
 これは紛れもない本心である。もっとも、ここで虚実を告げたとしてもラムダには全てお見通しだっただろう。いくらこの場所が二人の精神が接する中立地点だとしても、相手の精神を操ることに長けたラムダと何の知識も抵抗手段もないアスベルでは、必然的に優劣は定まってしまう。
 それを気にすることなく真正面からぶつかりあえる人間など、アスベルぐらいなものだろう。だからこそ、多くの存在が心を許せるのだろうが。
「お礼がまだだったな。俺たちを助けてくれてありがとう、ラムダ」
 見えているのに何もできないというもどかしさはあったが、アスベルたちを助けるためにラムダが表に出てくれた。そのことを素直に感謝すると、ラムダはふん、とそれを感受した。
『我の力は完全には程遠い。いま器の貴様に死なれては困るのでな、それだけだ。他意はない』
「それでも、ありがとう。……調子良くないのか?」
 ラムダの光が揺れる。どうしたのかとアスベルが目を瞬かせていると、呆れ返ったようなため息が聞こえた。
『……何故、お前が心配する。我の力が戻らない方が好都合だろうに』
「そんなわけないだろ。弱っているなら心配の一つや二つ、して当然だ。だって俺たちは――――友達だろ?」
 あっけらかんと言い切った。
 半年前、アスベルとソフィ、リチャードは七年ぶりにラントの裏山に集い、再び友情の誓いを行った。その時、ラムダの名前も同じ大樹に刻んだのだ。三人が出会った切っ掛けであり、切っても切り離せない大切な存在として。ラムダは眠っていたため知らなかったかもしれないが、アスベルの中ではもう立派な友達なのだ。たとえいま否定されたとしても、根気負けするまで言い続けるだろう。
 しばしの沈黙。ラムダの光が不規則に揺れているのをアスベルは見つめていた。
『…………フォドラのことだが』
 なんの前触れもなく切り出された言葉にアスベルは身体を固くする。
 ラムダが例の魔物を滅した後、リチャードたちに告げたことを思い出した。
 フォドラが動き出した――アスベルの記憶では、あの場所に生命の存在は確認できなかったはずだ。いたのはヒューマノイドが数体とラムダが過去に生み出したという暴星魔物の生き残り。あとは物言わぬ無機質な建物と、保管されていた数種の植物ぐらいなもので、動けるものなど他にはいなかったはず。新たな生命が生まれたのか? それとも……など考えるが、アスベルの頭では到底解りそうもなかった。
『お前たちが足を踏み入れたお陰で、停止していた核が目覚めたらしい。こちらの都合も聞かず、勝手な言い分を投げかけてきて、いい迷惑だ』
「ど、どういうことだ……?」
 正直、さっぱり理解できない。詳しく、もう少しわかりやすい説明を求めようと口を開き。


《フォドラの子――》


 突如、どこからともなく声が響き渡った。
 アスベルのものでもラムダのものでもない、どちらかといえば女性的な、静かにこちらを諭す冷え切った声。
「誰だ?」
 この空間にアスベルたち以外が立ち入ることなど出来るはずかない。驚愕に目を見開く。
『来たか……フォドラの端末』
「端末?」
 ラムダの言葉をオウム返しにつぶやくが、やはりなんのことかわからない。
 すると、アスベルとラムダがいる場所からちょうど三角形を描くような一点に、光が集いだした。ラムダのものにも似た紫と生い茂る森林を思い浮かべる緑。それは次第に形を形成し、人型を象った。
 初めて見た、名も知らぬ女性の姿――なのに、アスベルの脳裏には別の少女が浮かび上がった。

 …………ソフィ?

 違うと理解していた。見た目も瓜二つというわけではない。声だって、ソフィのものとは違っていた。けれど、何故かソフィの姿が頭から離れない。
 唖然とするアスベルをその女性は一視し、まるで仇を見たかのような嫌悪に満ちた表情をした。そしてその顔のままラムダに向き直り、無感情に――しかし明らかな憎悪を含んだ声色で言った。

《フォドラの子よ。何故ヒトを器とするのです? ヒトは醜い。あなたはそれを知っているはず》

 告げられた言葉にアスベルは絶句した。
 思わず何かを言おうとして身を乗り出したが、口を開く前にラムダが心底嫌そうな声で応えた。
『我の勝手だろう。今更お前たちに指図される謂れはない』
 少女にラムダの声は届いていないのか、彼女は構わず語り続ける。
《ヒトは滅ぶべき存在。フォドラの子よ、共に往きましょう。あなたの永遠を、わたしが癒してあげる》
 そうして、女性は手を差し伸べた。柔らかく慈愛に満ちた、聖母のような微笑みを浮かべ。
『――――――』
 次の瞬間、雷が閃いた。
 思わず目を閉じたアスベルが再び瞳を見せたとき、彼女の姿はどこにもなかった。ただ、声だけが取り残されたように残響する。

《待っています、フォドラの子。共にヒトを滅ぼすのです――――》

『くだらぬ』
「今のは……」
『フォドラの意志、と呼ぶべき存在であろう。よほど執念を燃やしているようだ』
 人間を滅ぼすために――そう音もなく告げられた。
「……どうしてだ?」
『さあな。我は興味がない。知りたければ、貴様が勝手に行動すればいい』
 ラムダのその言葉に不安と困惑が浮かび、同時に――嬉しくもなってアスベルは笑みを漏らした。
『何故笑う』
「あ、ごめん。だって……お前が、あのひとの手を取らなかったから」
 星の核で対決した際、ラムダはリチャードの口を借り言い放った。【人間を滅ぼすことで安寧を得る】と。それは彼がこの世界で生きていくために導き出した間違った答え。けれどあの時――いや、コーネルさんが亡くなった時からずっとそう信じてきたものだっただろう。なのに、いま彼女が告げた、昔の彼と同じ【人を滅ぼそう】という提案を容赦なく切り捨てた。そのことが、たまらなく嬉しく思った。
『……アレは、フォドラから生み出されたモノ全てに影響を及ぼせる。アレについていけば、我とてこの意思を完全に保つことは難しい』
「そんな……! 大丈夫なのか? なにか悪い影響が……」
 何度目かわからない、ラムダのため息。やはり調子が悪いのはそのためなのかと、アスベルは心配を顕に駆け寄った。
「ラムダ、辛かったら言ってくれ。俺はお前を護りたい。けど、お前自身の意志も尊重したいから」
 昔のアスベルなら【守りたい】で終わっていただろう。相手の気持ちは二の次で、ただの自己満足として守る。そんなものは救いにはならないと気づいたのは、旅をしてリチャードとの敵対やソフィの葛藤を見続けてきたおかげ。
「あ、でももう一回世界を滅ぼしたい、なんて言われたら断るからな。その時はここでお前を止めてみせる」
『…………くだらぬ』
 すぅ、とラムダが纏う光が弱く拡散していく。同時に、アスベルの身体が上へ浮き上がっていく感覚が齎された。身体の主導権が移り変わり、アスベルに戻されようとしているのだろう。
 瞳を開けば目覚めるだろうと言われずとも分かり、アスベルの意識は外へと向かっていく。

『――――フォドラの影響を受けているのは我だけではない。気づかなければ、手遅れになるぞ』

 そう、不吉な予言を聴かされながら、アスベルは覚醒した。


◇◇◇


「……ぅ」
「アスベル! 気がついたんだね」

 目を開ければ、緑がかった洞窟の風景が見えた。王都地下の遺跡入り口のようだ。
 壁にもたれていたアスベルが軋む身体を動かすと、気がついたリチャードが駆け寄ってきた。顔に貼り付けているのは【心配】の文字。
「ごめん、心配をかけた」
「全く……突然ラムダが出てきたときは心臓が止まるかと思いましたよ」
 ヒューバートが苛立った口調で言う。メガネをしきりに動かし、目元を見せないようにしていた。
「アスベル、身体は大丈夫なの? どこか痛むところとか……」
 シェリアが手をペタペタと這わせつつ聞いてきた。救護活動をしているので医学知識も増えているのだろう。医者の診察を思い浮かべる手つきだった。だが、心配しているのはそれだけではないだろう。
「いや、とくに異常はない。自分で動かせている」
 暗にラムダの意思では動いていないと告げ、シェリアはホッとしたように微笑んだ。
「それでラムダはなんと言っていた? 魔物のこと、そして――」
「フォドラだね」
 教官とリチャードに促され、アスベルはどう説明しようか先ほどのやりとりを思い返す。
「フォドラの意志、という存在に会った。ラムダに【一緒に来い】といったことを言っていて……」
「ラムダに?」
「詳しいことはわからないけど、どうやらその存在がフォドラから生まれたものに影響を与えているとか」
「フォドラから生まれたもの……ですが、それに今回の魔物は当てはまらないはずです」
 全員で頭を悩ますが、やはり納得のいく答えが出てこない。
「ここはパスカルに聞いてみるべきだな」
 教官の案に皆が頷いた。
 仲間たちの中で一番フォドラに精通しているのはアンマルチアの末裔であるパスカルだ。彼女にラムダから聞いた言葉を伝えればなにかわかるかもしれない。
 そこまで考えて、いま彼女のもとにソフィがいるであろうことを思い出した。
 ラムダが最後に告げた、不吉な言葉が頭に再生する。
 フォドラから生まれた存在で、ラムダ以外に影響を受けている可能性がある存在――アスベルが知る中では、たった一人しかいない。
「…………ソフィ」
 思えば、ここ最近のソフィは様子がおかしかった。時折、心ここにあらずな表情で虚空を見つめている彼女に声をかけたのは、決して少なくない回数だ。詳しく聞こうにもはぐらかされてしまい、結局話してくれるまで待とうと決めた。けれど、もしそれが間違いだったとしたら……?
 ぐるぐると頭の中で不安が降り積もっていく中、聞き覚えのある機械音が洞窟内にこだました。
「あれは……パスカルさんの通信機?」
「今は俺が預かっている。…………どれどれ」
 しばらく教官は液晶画面と見つめ合い、そしてアスベルに視線を向け言った。
「ソフィのことで相談したいことがあるらしい。できればすぐスニーク研究所に来て欲しいそうだ」
「パスカルが、ですか……?」
 恐らくソフィが彼女に相談した事についてだろう。彼女の知恵だけでは解決できないことなのか、その方法に対する相談なのか。
 事情を話しておいたリチャード以外に、ソフィが思い悩んでいたこととパスカルを訪ねにフェンデルに単身向かったことを説明した。
「そう……それでソフィがいなかったのね」
「おかしいとは思っていましたが」
「ごめん。リチャードには話したんだが」
「いや、僕が悪いんだ。ソフィのことよりも魔物のことが気がかりだったからね」
 互いに謝り合い、これで説明の件は解決ということにした。
「とりあえずフェンデルに向かうということでいいな?」
「魔物やラムダの言っていたフォドラのことでも、パスカルさんの助けが必要だと思う。僕も向かうよ」
「あ……でしたら少し待ってください。部下にこの件の報告を任せてきます」
 ヒューバートが控えていたストラタ兵の元へ向かっていく。
 そんな中、アスベルは言い知れぬ不安に動悸が抑えられなかった。ソフィに似た面影を持つ、フォドラの意思という女性の言葉が離れない。

《待っています、フォドラの子。共にヒトを滅ぼすのです――――》

 もし、ソフィにも彼女が語りかけているとしたら。
 ソフィは強い。あんな声に耳を貸すとは思えない。けれど、彼女はラムダとアスベルの精神世界にも侵入できるほどの力を持っていた。かつてのラムダのように、他者の心を操ることも可能かもしれない。そうなったら……ソフィはどうなる?
 それに、とアスベルの苦悩は止まらない。

 ――――俺は……ソフィが悩んでいることに気づいていたのに、何もしてやれなかった。

『――気づかなければ、手遅れになるぞ』

 もう遅いのか。もし手遅れになったらどうなるのか。
 考えても答えが返ってくることはなく、アスベルはぐるぐる渦巻く不安を胸に押しとどめ、仲間たちに続き地下から出た。


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