赤い。
ふらり、と倒れそうになるのを剣で支えながら、少女――いや、王は空を見上げ呟いた。
赤い。どこまでも。
今にも倒れ込みそうな体を必死に堪え、王は自分の背に目をやる。
そこも、驚くまでに赤かった。
無数に、石ころのように転がるのは自分を慕ってついてきてくれた騎士たちと、己に刃向かうことを決めた敵兵。
それが、無残に赤く染まって転がってた。
「ああ……」
絶望に染まった顔で、王は嘆いた。
こんな結末など、望んでいなかったのだ。
「私は、王……なのに……」
言葉を漏らすたびに、体から力が流れ出ていく。
真っ赤な液体が、ボロボロの鎧の隙間からぽたぽたと零れおちていく。
再び王は、真っ赤に染まった空を見上げた。
つぅ、と頬を熱い雫が伝っていく。
周りの赤とは違い、透明で、それでいて何にも染まっていない雫。
一度流れ出たからか、堰を切ったかのようにどんどん溢れていく。
もう、王の瞳には真っ赤に染まった世界しか見えなかった。
「ごめん、なさい……!」
誰に対してなのか、泣きながら王は謝罪する。
何度も、何度も。
「ごめんなさい……兄、さま……!」
顔が歪むほど泣きながら、彼女はもういない人に向かって謝り続けた。
少女アルトリアにとって、己の兄であるアルトリウスは特別な存在だった。
双子であるからか、男女の差はあれど二人の見た目はよく似ていた。
美しい金色の髪に、新緑のような碧い瞳。
生まれたとき――いや、生まれる前から一緒だった二人は、本当によく似ていた。
それが終わったのは、二人が16歳になった時だった。
この国を治めていた王が亡くなったのだ。
王には後継がおらず、誰が次の王になるかを定める『岩に刺さった剣』が魔術師の手によって用意され、国中の騎士が剣を抜こうと競い合った。
そして、その剣を引き抜いたのが、兄のアルトリウスだった。
アルトリウスは、王になった瞬間に、己の名を『アーサー』と変え、瞬く間に国を治めだした。
その手際は、まさに見事だった。
誰もが――一部の貴族を除いて――アーサーを王と認めた。
それを、アルトリアは己のことのように喜び、同時に、言いようのない寂しさに包まれた。
「…………」
ゆっくり、養父から貰った青いドレスに身を包み、アルトリアは歩いた。
行き先はひとつ。
けれど、決して足を踏み入れてはならない場所だった。
木々の間から顔を出し、アルトリアはその建物を見上げる。
大きな城だった。
大きくて、豪華で、それでいて優しい雰囲気を醸し出している城。
ここは、兄――いや、アーサー王が国を治める象徴のキャメロット城。
「……また、来てしまいました」
思わず自己嫌悪する。
彼女がこの場所に足を運んだ理由はただ一つ。
「兄様は、どうしているのでしょうか……」
王となってから、一度も会っていない。
噂話ならいつも聞いているが、それでも実際に会ってみなければ本当のことなどわからない。
いつもいつも、不安に駆られてここまで来てしまうアルトリア。
面会など叶うはずもなく、こうして城の前で佇み続けるしかなかった――――のだが。
「おや、我が妹よ。どうしたのか、そんなところで」
「――ケイ義兄さま!」
背後からかけられた声に振り向くと、そこには馬を引き連れ従者のような姿をした、アルトリアの義兄であり、宮廷の執事長ケイがいた。
執事長というものの、一応は騎士の位を持っている。本人曰く、剣を握るよりは包丁を握る方がいいらしい。
「さては、腹が空いてさまよっていたのか。拾い食いは良くないぞ」
「し、してませんよそんなことっ!」
顔を真っ赤にして否定するアルトリアを可笑しそうに笑うケイ。
彼は常にこんな感じだ。人をからかうか、馬鹿にするか、そうでなければ毒舌を吐く。
王宮勤めになってからも、それは変わらなかったらしい。
「……とまあ、我が妹で遊ぶのはこれぐらいにしようか」
「むぅー」
納得がいかず、頬を膨らませる。
そんな彼女に、ケイは優しく語りかけた。
「……アルトリウスに、会いたいのだろう?」
「――っ! で、でもそれは……」
ケイの言うとおりだった。
会いたくないはずがない。少し前まではほとんど一緒にいたのに、今は一目見ることすらかなわない。
それが嫌で、何度もここに足を運んできたのだ。
そんな彼女の心を読んだかのように、ケイはにっこり笑って言った。
「よし、私に任せろ! 可愛い妹の頼みだからな」
「え?」
『……ですので、ここは……』
『王、先日の大戦の……』
『ああ。それは……』
大人たちの声がよく聞こえる。
みな、美しさと強さを兼ね備えた鎧に身を包み、ある一点を見つめ、発言している。
彼らが座るのは、円形のテーブル。
位を気にせず、全てのものが平等に座れる『円卓』だ。
それを、アルトリアは高い位置から見つめていた。
「に、義兄さま? ここは梁の上ではありませんか!? こんな――」
「静かにせんと、下に声が届いてしまうぞ?」
腹を抱えて、声を出さず笑う義兄に、思わず怒りがこみ上げるアルトリア。
そう――二人は今、円卓のある部屋の梁の上に乗っているのだ。
見つかったらタダではすまないだろう。
「構わん構わん。今は戦の後始末でみな忙しいからな。こんな場所まで気を配るやつなどおらんよ」
「そういう問題ではありません!」
言いたいことは山積みだが、見つかるかもしれないし、何より足場が良くない。
殴りつけたい気持ちを必死に押さえ、アルトリアは再び下を見た。
「(兄様……)」
発言する騎士に指示を出しその場を治める、アルトリアによく似た顔立ちの彼。
アルトリアの記憶にあった姿と何も変わっていない。
強いて言うならば、青と白の美しい鎧と、黄金に輝く剣を腰に差しているぐらい。
「……お元気そうで、よかった……」
ぽつり、と無意識ながらこぼれたのは、心からの本心。
雰囲気は『王』であったが、時折見せる表情は、以前のままだった。
それが嬉しくて、思わず涙ぐんでしまう。
「そろそろ終わるかな。……アルトリアよ、しばしここで待っていてくれ」
「……はい。早く戻ってきてくださいね」
ケイが言うやいなや、円卓に座っていた騎士たちが次々に立ち上がる。
彼らに目をやりながら、アルトリアは軽く睨みつつケイに言った。
イタズラとして、彼女をここに置き去りにしかねないのだ。
彼女の言葉に、ケイは肩をすくめるにとどまった。
ケイが立ってから、数分。
一人が不安で、アルトリアは円卓に目を向けた。
もう誰もいない。
「(……これで、最後なのでしょうか)」
一国の王に会えるなんて、いまのアルトリアはただの少女なのだから、そんな機会あるはずもない。
胸に、再び寂しさが溢れてきた。
「妹よ、降りてきなさい」
ケイの声がした。
ちゃんと約束を守ったらしい。
入った時と同じように、ゆっくりと降りていく。
「(まずは文句を言わなければ! ……そして、礼も)」
もう会えないとしても、このような機会を作ってくれた義兄には感謝でいっぱいだ。……方法はともかく。
足が地面につき、ようやく安心する。
最初になんと言ってやろうかと考えながら、義兄の方を向き――
「――――ぇ」
思考が停止した。
「久しぶり、アルトリア」
どうして、兄がここにいるのだろう――?
「ハッハッハ、驚いただろう?」
にっこりと、イタズラが成功して喜ぶ少年のように、ケイが笑った。
けど、アルトリアにはそれさえ大して耳に入らない。
ただ目の前にいる存在に――意識を奪われた。
「あ、ああ……に、兄様?」
かすれた声しか出ない。
カッチコッチに固まってしまった彼女に、王――いや、兄アルトリウスは微笑んだ。
「うん。本当に、久しぶりだ」
スッ、と兄は手を伸ばし、固まっていたアルトリアの頭に乗せ、優しく撫でた。
「――あ」
知っている。
この手の大きさを、力強さを、優しい温もりを。
懐かしいこの感覚に、少しの間だけ、身を任せた。
「相変わらず甘えんぼだな」
クスッ、と笑うアルトリウス。
「だ、だって……もう、してもらえないかと……」
夢ならば覚めないで欲しい、と願ってしまうぐらい、嬉しかった。
「おいで、アルトリア。見せたい場所がある」
そう言って、アルトリウスはアルトリアの手を引いて、迷路のように入り組んだ城の中を進んでいく。
「み、見つかってしまうのでは!?」
「大丈夫だよ。仮に見つかっても、マーリンがどうにかしてくれるさ」
呆気からんと言う。
マーリンとはこの国随一の魔術師。
アルトリアは会ったことはないが、噂はよく耳にする。
安心していいのかよくわからないまま、二人はある部屋を訪れた。
「……ここだよ。僕の部屋」
大きな部屋だった。
円卓があった部屋にも劣らない、豪華な部屋。
けど、所々の小物からは、昔目にしていたものによく似た物が多くあった。
それに。
「この部屋、同じですね」
「気がついたか」
そう、二人が共に過ごした部屋とそっくりだった。
違うのは、大きさと豪華さだけ。
あとは昔のままで、アルトリアが今生活している部屋と変わらない。
「無理言ってこうしてもらったんだ。……一番、落ち着くから」
「……っ」
変わらない。
アルトリアは嬉しくて、もう泣きそうだった。
兄はもう『アーサー王』だから、自分のことなど忘れているのではないか? と思ったことなど、数え切れないほどある。
だから、今この部屋の存在が、彼が言った言葉が嬉しくて仕方がない。
「お兄様……!」
溢れ出した涙を拭いつつ、アルトリアは言った。
いつの間にか、兄の胸の中にいて、もう涙は止まりそうもない。
思いっきり、久しぶりに感情を声に出して泣いた。
「……見てごらん、アルトリア」
兄が示したのは、部屋にある大きな窓。
そこからは、この国が一望できた。
「わぁ――!」
夕暮れが、美しく国を染めていた。
窓の側に立ち、身を乗り出すような勢いでアルトリアは見た。
その横にそっと立ち、アルトリウスは静かに言った。
「僕は、この国を――『理想郷(アヴァロン)』にしたい」
赤い夕日を見つめながら、兄は言った。
「誰もが笑い、助け合って……円卓のように平等な、そんな国に」
静かに、強い意志を込めて。
アルトリアは、兄を見た。
真っ直ぐ国を見つめ、決意に身を固める兄の姿は、とても尊かった。
「私も――」
知らないうちに、口が動き出す。
「私も! この国を、アヴァロンにする手助けをさせてください!」
強く、高らかに宣言した。
兄の理想は、とても困難な道のりだと、言われなくとも分かった。
一見平和的に見えるこの国も、争いは絶えることがない。
アーサー王を快く思っていない貴族たちの反乱や、他国から侵入する蛮族たちを退ける大戦が、ずっとこの国を苦しめている。
それを知っていてなお、理想を語る兄は、本当に『王』だった。
「確かに私は女です。でも、できることはきっとある。だから――!」
そこまで言ったアルトリアの頭に、アルトリウスが再び手を置いた。
本当に嬉しそうに笑って、
「ああ。共に、理想郷を目指そう」
と、アルトリアに言った。
「――はい!」
美しい夕焼けに見守られながら、二人は理想を掲げた。
遠い、遠い、ありえないような理想だとしても。