Merus Dea

 その女神は、人間に恋をしてしまった。
 
 偶然、地上に降りてきたあの時。
 近くにいたひとりの青年に、心を奪われてしまった。
 理由なんてない。
 ただ、その空のように碧い瞳に私を映してほしい。
 そのことで胸がいっぱいだった。
 けれど、『私』という存在が邪魔をする。

 ――神は人間と触れ合うことができない――

 そんな、今までは気にしたこともない定めを、深く憎んだ。
 私は、ただあの人に愛してほしいだけなのに……!
 行き場のない感情が、私の体を蝕んでいく。
 どうすれば、あの人に愛してもらえるの?
 一瞬のような、永遠のような時間を悩み、私はひとつの答えを見つけた。

 彼は人間だから私を見ることができない。
 なら、彼を神にしてしまえばいい――!

 そう考えた私は、ある果実を創造した。
 人間が好んで食す、紅い果実を。
 これを食べれば、彼は神にも等しい存在へとなれるはず!
 私は創造した果実を手に、地上へと降り立った。


 彼は、初めて見つけた場所にいた。
 泉の水が、彼を美しく映し出していた。
 急かす気持ちを抑えて、私は彼の近くにその果実をおいた。
 そして、そっと距離をとる。
 はやく、見つけて……!
 私の気持ちが届いたのか、彼は果実を見つけ、手に取った。
 そして、しばし見つめた後、一口ほお張った。
 その瞬間、私は歓喜の涙を流していた。

 これで、彼に私を見てもらえる!
 私を愛してくれる!

 わざと足音を立てて、彼に近づいていく。
 彼は驚いたように、こちらを見た。
 彼の瞳に、自分の姿が映るのを見た

 あぁ、やっと……やっと見てもらえた!

 一歩、また一歩と進んでいく。
 あと少しで、触れ合える……!

「君は……」

 彼が信じられないような目で私を見る。
 そうか、まずは名乗らないと。

「私は……メルス。ずっと、あなたをお慕いしてました……!」

 そっと、彼の顔に触れる。
 夢じゃない。本当に触れられる!

「そうか……」

 そう言うと、彼は私を抱き寄せた。
 うれしさで顔が紅くなるのがわかった。
 そのまま、彼は私だけを見つめてくれた。
 うっとりとして、私は瞳を閉じる。
 そして――



 胸が裂けるぐらいの熱が現れた。

「えっ……?」

 視界が紅く染まった。
 口から、何かがあふれ出す。
 体がゆっくり倒れていく。
 地に伏せたとき、全身が濡れていることに気がついた。

 なに? なんなの!?

 体が動かない。
 胸はひどく熱を持っているのに、手足は信じられない速さで冷たくなっていく。

「ふぅん。女神でも紅いんだな」

 身も凍りそうなほど、冷たい声が聞こえた。
 彼の手には、真っ赤に染まった剣が……。

 どう……し、て……?

 口からは言葉ではなく、紅い液体しか出てこない。
 私は必死に手を伸ばした。

 ねぇ……どう、して……?

 彼は無言で立ち去っていく。
 そのすぐそばには、真っ黒な影があることに気がついた。
 影が、くすくすと笑う。
 私は、薄れいく意識の中で思った。

 私は……愛しては、もらえないの?


『当たり前じゃない! 自分からは何もしないで、ただ愛して! って言うだけじゃ無理無理』

 影が言う。

『それに、彼は……ワタシのモノだから!』


 私は、間違ってたの……ね。




 ある森に、不思議な果実が生るようになった。
 紅くて美しいその果実は、こう名づけられた。




『メロスディア――純粋な女神――』