とある海に浮かぶ、小さな小さな孤島。
そこに自分と、いくばかの人間たちが暮らしている。
私は猫だ。この孤島に唯一いる猫である。
いつの間にかここにいて、いつの間にか人間たちに可愛がられてきた。
たった一人を除いて――――
私を呼ぶ声が聞こえる。
急いで逃げなければ……! そう思った矢先に、首元を捕まれた。
少年だった。
褐色色の肌をし、黒い瞳で私を見つめてくるその少年は、なぜか私に付きまとう。
正直言って、私はコイツが嫌いだ。
なぜか? 理由は簡単だ。
少年は私を掴んだまま、港へ向かう。
この島ではみな、自分用の船を持っている。
男どもはそれで漁に出て行き、女子供は移動や遊びに使うのである。
まったくもって理解できない慣わしだ。
当然のことながら私は水全般が嫌いである。
海なんて最悪だ。逃げ場が無いことほど恐ろしいものは無い。
しかし、そんな私を無理やりコイツは海に連れ出すのだ。
信じられんっ!
私は暴れ、拷問から逃れようとするが、いつも無駄な抵抗で終わる。
小さい癖に力だけは大人顔向けなのが憎らしい。
ぼとっ、と私を船――というかボート――に投げると、少年は楽しそうに船を出す。
今日もまた、拷問の時間が始まってしまった……。
日がまだ出てきておらず、真っ暗な中、私は海の上にいた。
海の上……ここほど恐ろしい場所を私は知らない。
私は必死に船首にしがみついている。
不恰好だが、落ちるよりは何倍もマシだ。
まったく……いつもいつも連れ出されるが、コイツは何が目的なのだ?
少年はあたりを見回す。まるで何かを探しているかのように。
私はそれどころではないというのにっ!
探し物があるなら自分ひとりでやってくれ、といいたいのは山々だが、あいにく私は人間の言葉を話すことができない。
非常に悔しい。どうすれば私の意志がコイツに伝わるのだ……?
少年が口を開く。
波が出てきた、と。
ならば一刻も早く帰らねば! 波にさらわれたらそれこそ終わりだ!
私は鳴き叫ぶ。早く帰せ、と。
――コイツには通じないことに気がついたのは、頭を撫でられたときだった。
反射的にのどを鳴らしてしまった。
仕方が無い。これは猫の本能だ。
少年は満足したのか、船を港へ向ける。
とりあえず、今日は何とかなったな……。
雨が降った翌日の夜明け前。
さすがに雨の日は来なかった。というか、私が出てこなかっただけなのだが。
海の水が非常に濁っている。風も強い。
大人たちは、今日の漁を見合わせているのだろう。姿が見えない。
それが懸命だ。
こんな日に海に出るなど馬鹿以外何者でもない。
しかし、魚がもらえないのは少し寂しい……。
誰かが走ってくる音が聞こえる。
まさか、と思い振り向くと――やはりアイツだ。
しかもいつも以上にうれしそうに笑いながら走っている。
おい、まさか今日も行く気か!?
私の嫌な予感は的中だった。
いつも以上に海が荒ぶっている。
船の揺れ方も尋常じゃない。
いつも以上に船首にしがみつく。船室ぐらいつけておけ!
少年は辺りをいつも以上に見回していた。
そんなに乗り出すと落ちるんじゃないか?
グラリ、と船がひと際大きく揺れた。
それが二回、三回とドンドン大きくなっていく。
……不味くないか、これ?
そう思った瞬間、私は急に浮遊感を感じた。
えっ?
次に気がついたとき、私はよくわからない感覚に支配されていた。
とりあえず、息ができない。
それに視界がはっきりしない。ここはどこだ?
ようやく理解した。
海の中か、ここ。
………………死ぬかも。
その発想が頭に浮かぶと同時に、私の体は動いていた。
前足を必死に動かし、海面へと顔を出す。
ようやく息ができる、と安心した瞬間に波を被った。
ここは、不味い。
私は一心不乱で体を動かした。
泳いだ、というより波にさらわれつつ、気がついたら見覚えのある場所に来ていた。
私のことに気がついた老人が、引き上げてくれたところまでは記憶している。
次に目が覚めたとき、私は真っ白な部屋で毛布に包まれていた。
とりあえず、あくびをした。
我ながら、ずいぶん間抜けな鳴き声だった。
その声を聞きつけたのか、わらわらと人間たちがやってきた。
よかった、といっているのがわかった。
食欲はあるか? といいつつ、魚をほぐしたものが差し出された。
もちろん、ありがたく頂戴した。
食べながら人間たちの声に耳を傾ける。
どうやら私は、三日ほど衰弱していたらしい。
まったく記憶に無い……。
そこで私は思い出す。少年はどうした……?
胸の鼓動が早くなる。考えてはいけない気がした。
その時、外から大声が聞こえた。
見つけたぞ、と。
私が目覚めてから、一日が過ぎた。
島中の人間が、一箇所に集まっていた。
……みな、黒い服を着て。
人間たちが、大きな箱を持ってきた。
中には、褐色の肌をした少年が寝かされていた。
少年の体は、見ていてわかるほど冷たかった。
多くの人間たちが泣いていた。
泣いていない者は、手が震えるほど強く握り締めていた。
……これが、『死』というものなのか。
箱の中に、次々と花が入れられていく。
ひとり一本ずつ。真っ白な、美しい花だ。
不意に、体が持ち上げられた。
少年の母親だ。
あなたからもお願い、と言われ花を差し出された。
花を折らないようにくわえると、少年の顔の近くに運ばれた。
本当に、ただ眠っているようだ。
私はそっと花を落とす。
ありがとう、と泣きながらお礼を言われる。
アイツの母親だけでなく、多くの人間から。
箱の蓋が閉じられようとしていた。
泣き声は、最初よりもずっと大きくなった。
けれど、アイツの母はもう泣いていなかった。
蓋が閉じられたのと同時に、彼女はみなと違う方向へ歩き出していた。
私は、なぜかその後を追っていった。
月が、泣いているようだった。
なぜかわからないが、そう思った。
私がついて来ていることに気がついた彼女は、こちらに振り返り、笑った。
素敵なお話、聞く? そうつぶやいた。
私は無意識のうちに返事をした。
彼女は静かに話し始めた。
明け方の、まだ月が出ている時間。
その時間に海に出ると、亡くなってしまった人と一度だけ会えるの。
そして、こう付け加えた。
あの子は、父親に会いたがっていたから……。
アイツは、父親に会うために海に出ていたのか?
私は、なんとも言えなかった。
彼女は小さく微笑んだ。
あの子の我が儘につき合わせてごめんね。
ひとりで行くのが怖かったから、あなたを連れ出していたみたい。
馬鹿なやつ、と私は思った。
けれど、どうしてか怒りはなかった。
ひどい目に合わされたのに……思った以上に私の心は広かったようだ。
ごめんね、ともう一度謝ると、彼女は戻っていった。
私は戻る気にはなれず、とりあえず月を見上げた。
やはり、泣いているようだ。
それ以来、私は毎日月を見ている。
海に出ることはできないけれど、こうしていれば何時か、もういちどだけ少年に会える気がして……。