二年生、五月  エピソード1 -08-


「はぁ――――」

 胸の中に溜まった気持ちの悪い空気を全て吐き出したくて、和泉眞子は意識して息を大きく吐いた。
 規則正しくパンプスが軽い音を鳴らす。それよりもずっと早く、この身体から抜け出そうと暴れるかのように脈打つ心臓。その痛みと重さに思わず、胸から掻き出したい衝動に駆られそうになる。
 唇や手足は相変わらず震えが止まらない。覚束無い足取りで、まっすぐ歩くこともままならない。
 明らかに尋常ではない己の身体。わかっていながらも眞子は決して足を止めようとはせず、早足で帰路を進む。
「はやく……はやく、しないと……!」
 歯が鳴りながらも紡ぎ出すのはそんな言葉ばかり。
 眞子は恐怖していた。今まで必死に隠し通していた自身の過去が、自らを絶望の淵へと追い詰めようと迫ってきていることに。
 確証なんてない。現実味なんて皆無。全て妄想にしか思えない。けれど――時折、耳元で囁かれるあの声がただの幻聴だとは到底思えないほどハッキリとしていて。


 ――――あぅぁ、うぅー…………


「っ!?」

 全身の筋肉が一瞬で硬直した。

 まるで背にしがみつき、そっと耳元から話しかけてくる赤子の姿が容易に想像できるほど近く。真後ろから聞こえた、赤子特有の理解できない嗚咽。
 そしてずしり、と身体にかかる重み。背中や肩だけではない。腕や脚からも感じられるその重みは、どうとっても人の形にしか思えないものであった。
「…………っ!!」
 悲鳴をあげようと喉が動くも、金縛りにあったかのように筋肉が微動だにもしない。体中のありとあらゆる機能が停止したかのようだ。酸素を求める魚のように、パクパクと口を動かすことしかできない。


 ひたっ……


 水気を吸ってふやけきった皮膚のようなものが首筋に当たる。辛うじて五本の指があることがわかる、固体より液体に近い感触。それが、眞子の首を挟み込むように――言い換えれば、締めるように――左右から触れらている。
 耳の真横から聞こえ続ける、理解できない言葉の羅列。
 客観的に聞けばそれは、赤子が懸命に親の背から話しかけている……そんな微笑ましい光景が目に浮かぶであろう声色だった。
 だが、それには足りないものがあった。
 眞子の背には当然ながら――――誰もいない。赤子どころか人っ子一人としてその場には居ないのである。


「ぃ、いや――――もう、いい加減に……してっ!!」


 心の底から叫んだ。もう、我慢の限界を超えていた。
「どうして……どうして、今さらっ!」
 よみがえる記憶。思い出したくもない、自身の恥。忘れようとすればする程に意識してしまい、鮮明になっていく。

 始まりは高校に入学してすぐのことだった。
 ただ遊びのつもりであった。できるわけがない、と無意識のうちに決め付けていたとも思う。バカだったと後悔した頃には教師にバレており、説教会になった。
 といっても当時はたいして罪悪感も持たず、話半分に聞き流していた。呼び出されたのが自分一人だったのも拍車にかけ、必要以上に食ってかかった気がする。
 医者にかかったものの、医師も両親も何故かため息一つで深くは追求されず、あっさりと終わってしまった。だからこそ、何かを感じるまもなく忘れていた……はずだった。
 大学生になり、高校までのお遊びとは一線を画す、本気の出会いと巡りあった。このことを切っ掛けに心を入れ替え、真面目に過ごすことを決めた。公務員だからという理由で選んだ教師の道もそれに拍車をかける。
 子供相手というのが僅かに引っかかったものの、小学生より上であれば問題ないだろうと思い、そのまま順々にことは進んでいき――――この時を迎えた。
『教育実習』
 母校で行われると聞いたとき、心臓が鷲掴みにされたような錯覚を覚えた。だがそれもほんの一瞬のことであり、すぐに気のせいだと無視した。学校自体は好きだったし、なにより……あの人が応援してくれたから。悪夢で魘されることもあの人と付き合い始めてからは激減し、いまではすべてが嘘だったかのように何事もなくなっていたこともあり、過去と向き合い、前へ進むつもりで校舎へ足を踏み入れた、はずが。


 ――――――んぎゃぁ、


 死刑宣告を受けた罪人になったかのように、世界がひび割れた。

 日に日に近づいてくる影。赤子のなりそこないのようなソレは、眞子の精神をズタズタに引き裂かんと確実に蝕んでゆく。
「――ぃ、やっ!」
 全身にまとわりつく水の塊を振り払おうとがむしゃらに全身を動かしながら、ただひたすら走った。
 周りを気にする余裕などない。涙で霞んだ風景の中を、靴が脱げそうになるほど激しく足を前へ踏み出しながら、一直線に自宅へ向かう。
 ゆえに気づかない。ここ一帯が不自然なほど誰もいないことに。
 手探りで鍵をねじ込み扉の中へ身体を滑り込ませた。

 バタンッ!

 勢いにまかせ閉められた扉は必要以上に大きな音を立てた。そのまま背中を扉に預け、ズルズルと足腰から力が抜けていく。
 ついさっきまで眞子を苦しめていた幻聴も重みも感じられず、ただ静寂と恐怖だけが取り残されていた。
「う、ぅぅ……っ!」
 声が漏れないよう口に手を当てると、そのまま泣いた。