二年生、五月  エピソード1 -06-


「…………む」

 ヒヤリ、と空気が凍りついたような錯覚。常人ならば感じ取ることのできない違和感を、セイズは全身で感じ取った。
 自然と眉間が強ばる。目が釣り上がり、一目で不機嫌だと言わんばかりの渋い顔。
 となりに座る達川が何か言いたげに口を開くが、それよりも早く、

「――っ、もう共鳴まで進んでいるのか」

 僅かながらに焦りを含んだ声色で呟いた。
「タク、リツはまだなのか? あんなにも無防備なのだ、狙われるやもしれん」
「そういやぁ……今日はいつにもまして遅いなあ」
 記憶を遡る。
 そういえば彼、教室をでる寸前、誰かに声をかけられていなかったか……?


 りぃんっ!


「――――!!」

 呼鈴が、鳴った。



* * *



 がちゃん――――

 あっけないほど簡単に、倉庫の扉が開け放たれた。
 抵抗のなさに逆に呆気に取れられかけた律己だが、それよりも早く、視界に飛び込んできたものに意識と視線がそちらを向く。
 薄暗い部屋の中、うず高く積まれた教材にもたれ掛かり、膝を抱くようにして身体を縮こませている女子生徒の姿。かろうじて見えた上履きの色から、彼女が律己より一学年上の三年生であろうとあたりをつけた。
「…………あ、の」
 本来ならこんな場所にいるとは考えにくい。それに様子も普通ではない。全く知らない人である、という事実が律己を僅かながらに躊躇わせたが、それでも、一歩足を踏み入れつつ話しかけようと声を放った。
 返答はない。
 その代わりに、喉を震わせ鼻をすすり上げる微かな音。それは、倉庫前から辛うじて聞こえたすすり泣きと同一であった。
「せ、んぱい。大丈夫ですか?」
 ひとまず声をかける。彼女が律己を認識しているのか、それよりもまず、きちんと意識を保っているかを確認するために。
 少しずつ距離を詰める。彼女と律己の間が、あと一歩を切った。
「……ぁさい。……ごめん、なさいっ――!」
「え……?」
 ようやく聞こえてきた、囁きよりも小さな声は、ただひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。
 抱えられた膝に顔を押し当て、両耳をきつく塞ぎながら、彼女はただひたすらに懺悔の言葉を虚空に投げている。異様、としか言い様がなかった。

「ちがう……わ、わたしのせいじゃ、ないっ! しかたなかったの!」

 いや、正確には懺悔ではなかったらしい。
 言い訳。まるで幼子が自分がしてしまったことを怒られないよう必死に母親に乞うている、そのような幼稚な言い訳だ。
「――――」
 眉間に自然と目が寄る。
 改めて倉庫の中をぐるりと見渡すが、扉のすぐそばにいる律己の周辺を除くと部屋の中は見通せない暗闇が広がっているのみ。
 なのに、彼女は謝罪を繰り返している。まるですぐそばに何かがいて、彼女をひたすら責め続けているのかのように。

 ――――何かが、いる。

 ぞわり、と一気に鳥肌が立った。
 脳裏に警鐘が鳴り響く。

『よいか、リツ。貴様はミテしまった。キヅイテしまった。シッテしまった! ……それは即ち、相手にもお前という存在が認識されるということにほかならない』

 警鐘とともに頭の中で響くのは、セイズからの忠告。

『もう二度と関わらぬよう、術を施す。拒否権などない。まぁ……無かったことには出来ぬ故、簡単がだ解けにくいスイッチを作る形になるな』

 カチャッ、と手に持ったままだったメガネが音を立てる。それを、ゆっくり震える手で目元へ。

『古くから鏡には、この世とあの世の境界線や、別の世界を映すものだとされてきた。誂え向きだな、お前のその眼鏡は。……なに、見えぬだと? そんなこと吾の知ったことか。罵りたければ好きにしろ。死にたいならば、な』

 きっとバレたとき酷く叱られるだろう。彼女はひどく傲慢な口調のくせに、内容は律己の心身のことを思っていたのに、それを破ってしまうことになるのだから。
「うん、ごめんセイズ……約束破るよ」
 届くはずない――いや、彼女の地獄耳を以てすれば聞こえるかもしれない、なんて少しだけ思ってしまった――独り言を言い終える頃には、黒縁のメガネが本来の居場所へ収まっていた。
 いつの間にか閉じていた目を開く。
 ぼんやりとしていた視界がハッキリ色づいていく。これが本来見えているはずの世界なのだと、脳が認識するよりも早く。



 ――――――――――――だぁ、



 目が、合った。
 ドロリといまにも溶け出しそうな、魚の卵を思わせる濁った“黒”と。

「――――っっ!!?」

 時間が凍った。思考の全てをその“黒”に持って行かれた。
 自分でも怖いぐらい立っていた鳥肌や、小刻みだった身体の震えも止まるほどの衝撃。心臓を鷲掴みにされる錯覚。理解不能、としか表せない現状。
 何もかもが――気味の悪いソレは、まるで人間の赤子を真っ赤に染めた豆腐で再現してみたかのような姿をしていた。身体のパーツを捏ねくり回して適当にくっつけたかのように歪な造形。あるいは、基はしっかりとしていたものが水に長時間つけられ、ふやけきったようにも見えた。
 その中でも一際存在感を放つ、唯一黒い一対の瞳。
 ギョロリ、という表現が最も似合う、左右不対称に動くその瞳が律己を捉えている。
 ソレとの距離は彼女を挟んで数メートルほどだろうか。近いわけではないのに、信じられないくらいハッキリと存在を感じ取れていた。メガネをかける前とは比べ物にならないほどの存在感と威圧感――いや、異物感。
「い……『異形』」
 ポツリと零れおちた単語。ソレを表すのに最適な名称。この単語の存在と意味を教えてくれたのは、もちろんセイズ。
「…………ぁっ!」
 彼女の名前が浮かんだ瞬間、連鎖的に記憶が蘇った。

『最悪の事態にはコレを使え。そんなことにならぬ事を願うがな』

 固まっていた右手を必死に動かす。制服の上を滑らせるようにしてズボンのポケットへ。
 早く、速く、はやく――!
 爪の先が固く冷たいものに触れた。間髪を入れず指先だけでそれを取り出した。
 ――使い慣れたスマートフォン。だが、目的はそちらではない。
 手汗で滑り、うまく持てないのをじれったく思いながら、勢いよく、飛び出さんばかりに思いっきりに、振った。


 りぃんっ!


 ストラップの鐘型の鈴が大きな音を響かせる。
 見た目も音そのものも全く違うが、広く部屋に響くその音は何故か、神社の賽銭箱などの上に吊るされている鈴のように清々しく、神々しい力が込められているようだった。
 これでいい、と安堵の息を漏らしながら、無意識のうちに下がっていた視線をつい上に戻し。


 ――――――――――んあ、あぅー……


 目の前に、ふやけた黒い目玉があった。

「ぁ」

 どうなっているのか、理解が追いつかない。
 先程までソレとは放心状態にある彼女と間を挟んで相対していたはずなのに、いつの間にかもう目と鼻の先にいる。
 手も足も顔の表情すらも動かす暇もなく、茹でた蛸のように真っ赤でブヨブヨとした、手のようなものがこちらへ向けて真っ直ぐに伸ばされ――――



 ちりん。

「去れ、水子。貴様の求める者はここにはおらん」



 いまこの現状でもっとも頼りになる、可愛らしい音色と無理やりな低音声に、様々な感情が混じり合って膝が砕けた。