第十話

かつてにして、未来の

 どこかで薄いガラスが割れたような音がして、ルーカンは目を開けた。
 自分のものではないような感覚だった体が自由に動く。魔術が解けたのだ。
「う、嘘よ……私の魔術が、解けるはずないっ!」
 見ると、目の前に湖の乙女が悲鳴を上げていた。
 さっきまで怖かったはずの彼女が、とても小さく思える。
「やれやれ、過信はいけないよ? グウィネヴィア王妃」
「その名で呼ばないでちょうだい! 老いぼれジジイの分際で、今更なにをするおつもり?」
 怒りで身を震わす彼女を守る様に、騎士が剣を抜きつつマーリンの前に立つ。
「まったく、ランツェレト……君も、もう少し良い選択は出来なかったのかい?」
「…………責任は、自分にあります」
「そう。ならば――」
 ニヤリ、と口端を持ち上げ笑うマーリンの姿に、さらに乙女が激昂する。
「なんなのっ? 私は、私はただ――愛する人とここで永久に生きていたいだけなのに!」
「そういうのはせめて合意を得てからにするものだよ。他者を巻き込むなんて以ての外だ」
「勝手に入り込んだのはあなたがたの方でなくて!? もう、邪魔しないで――!!」
 彼女の叫びとともに、湖が波を荒げる。巨大な水流が生まれ、彼女を囲むように自在に動き回る。まるで蛇のようだ。
「……邪魔はさせない。もう『     』はいない! あとは貴方がたと、忌々しい魔女だけよ!」
 乙女の言葉にノイズが混じった。
 そのことに疑問の声を上げる前に、乙女の口から甲高い声で、騎士へ向けて命令が下された。
「ランツェレト! 最強にして私だけの騎士よ! 彼らを排除なさい。この異界――いえ、輪廻の輪へ送って差し上げなさい!」
「――御意」
 騎士が剣を構える。静かに、鋭く、澄み渡った氷のように。最強の名に恥じぬ動き。
 けれども、その姿はどこか虚しさを感じられた。
「ま、マーリン……どうするの!?」
 少なくともルーカンでは、ランツェレトと戦うことなどできない。乙女の魔術と思われる水流など、逆立ちしても無理だ。
「そうだな、もう少し――――いや」

『待たせたね、ジジィ』

 空気が震えた。
「あっ! ルフェ!」
 ボスッ、と音を立てて、真っ黒な翼を持つカラスがルーカンの頭に降り立った。久しぶりに見るその姿に嬉しさが溢れるも束の間、鋭い爪が頭皮に容赦なく突き刺さり、痛みの声が出た。
「モルガン、久しいね」
『あんたの顔なんか一生見たくないと思ってたんだが……今回だけは許してやろう』
 ルフェの嘴から響いてきたのは人の言葉。妖艶に微笑む女性のような雰囲気を持っている。
「モルガン・ル・フェ……!?」
 唖然とした表情で、声を震わせながら乙女が言った。
 その名――モルガン・ル・フェには、ルーカンも聞き覚えがある。マーリンと同じ物語に登場する、魔術師にして湖を守護する乙女……。
『あぁそうだ。“湖の乙女”の名を返してもらいに来たよ』
「っ! ……ランツェルト、やりなさい!!」
 騎士の剣が一瞬にして消え失せた。
 何が起こるのか予想もできず、反射的に瞳を閉じようとしたとき。

 ――――視界が急激に暗くなった。

「え……?」
 闇に飲まれたわけではない。辛うじて目の前の騎士や乙女の姿は見えるし、頭の上には相変わらずルフェが居座っているし、すぐ真横ではマーリンが微笑んでいるのが何故か分かった。
 そう、いうなれば……太陽の光が何か巨大なものによって遮られた、そんな暗さだ。
「――上?」
 上を向こうと思い、首を動かす。ルフェが羽ばたかせ、自分の頭から退いた。
 暗く、大きな物体の影。
 逆光になっているのかよく見えないが、どこかで見たことがある形。それは赤みを帯びていて……。
「うそ、よ――!?」
「――――っ」
 乙女と騎士が驚愕で目を見開いている。
 彼らにはわかったのだろう。
 巨大な影――それはかつて見た『白き竜』にとてもよく似た、けれど真逆の『赤き竜』であり、その背には一人の存在があることに。

「『王を選定せし剣を抜きし者。かの王は赤き竜の化身である。故に滅びを知らず、死にもしない。傷を癒すために異界の楽園へと身を寄せた王は眠りにつく。己の国と民を、再び訪れるであろう滅亡の危機から救うために』」
 マーリンが謳う。
 知っている。その文章は、自分でも完璧に言うことができるほど、大好きな物語のラスト。
「――――――――」
 竜の背にいる彼とめが合った。彼は悠然と微笑んでいた。
 フッ、と頭の中に浮かんだ言葉。
「……なんだ、簡単じゃないか」
 どうしてこんなにも苦労したんだろう。自分の名前なんて、あの話を思い出せばすぐにわかったのに。

「『その、偉大なる王の名は――――』」



「「小さき偉大な王レグルス!!」」