「ねぇ、ルーカン? 本当に『名前』は思い出せないの?」
魅惑の女性――グウェンが、柔らかく笑いながら、無表情で佇むルーカンに話しかける。
笑っていながらも、彼女の目に浮かぶのは、焦り。そして、思い通りにいかないことに対する苛立ち。
その二つの感情が、美しい彼女の顔に影を落としていた。
「…………」
無言のまま、首を横に振るルーカン。光のない瞳は、彼がグウェンの支配のうちにあることを明確に表している。
魔術によって支配されたものは、魔術師の完璧な傀儡だ。
もはやルーカンには己で考えられる意思というものがない。いや、あるにはあるが、全てグウェンに操作されているのとほぼ同意な状態だ。
古代、“躯の名”を持たなかった人間たちが数多の魔術師によって支配されたのと、同じ現象。
しかし、グウェンは焦り、苛立っていた。
そう――彼女は確かに異界“アンヌヴン”の支配者である。異界に暮らすものは、彼女に逆らうことができない。
しかし、エランテースという存在は特殊だ。
彼らは異界に招かれた来訪者。異界で暮らしているものではない。だから、彼女は直接魔術をかけることができないのだ。
それに、本来魔術とは“魂の名”を縛る術。そしてエランテースとは、“魂の名”を失った子らといっても過言ではない。
故に、グウェンはルーカンを魔術で縛れない。仮初の名では、精々意識を奪うぐらいが限界だ。
だからこそ、ルーカンを完全に支配するために、グウェンはルーカンに問いかける。
「本当に? ……隠さないで、言ってごらんなさい」
焦りを隠せず、苛立ちが見え隠れしながら。
なぜ彼女が焦燥感に苛まれているのか。
グウェンの脳裏にチラつくのは、一人の男性の後ろ姿。
ギリッ、と奥歯を噛み締める。思い出すのも嫌になるほど、グウェンはその者を嫌悪していた。
かつてその者は彼女を愛すると誓い、けれどそれは彼女の望んでいた愛ではなかった。彼女が望んだ愛をくれたのは、最強の騎士。
そこまで考えて、彼女は己の発想を振り払うように瞬きをした。
「……」
それを、騎士――ランツェレトが、悲しみを湛えた顔で見つめていた。
彼にとってグウェンとは、仕えるべき主人であり、恋焦がれるまでに愛した人であり、裏切りの象徴だった。
首を横に振るルーカンから目をそらし、ランツェレとは窓へと視線を移す。
窓からは、この城を囲うようにして湖が存在していた。
この湖の存在があったからこそ、グウェンは『湖の乙女』と呼ばれ、ランツェレトは『湖の騎士』として名を馳せることができた。
……それは、もう遠い昔の話だったが。
ランツェレトの脳裏に浮かぶ、ひとりの姿。
誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも『 』たらんとした――彼の者の姿を。
ゴポゴポ、と己が沈んでいくのを、どこか他人事のように感じていた。
うっすらと瞳を開けると、そこは見通しのきかない青の世界。
体に押し寄せる液体の感覚から、ようやく自分が水の中にいるのだと認識した。
息もできないのに、空気を求めようとする気にもならず、そのまま沈んでいく。
死ぬ、という感覚ではない。アンヌヴンでは“死”というものは存在しないらしい、というのをどこかで聞いた気がした。
再び瞳を閉じる。もう、何も見たくなかった。
思い出したかのように、頭が鈍い痛みを発し出す。先ほどの出来事を忘れたがっているように。
事実、そうなのだろう。心が悲鳴を上げる寸前だった。
思えば、エランテースとしてアンヌヴンに招かれてから一度も、自分が何者だったかを考えようともしなかった。
ルフェやミルディンなど、信頼における者たちに囲まれていたからだろうか。自然と自分とはアルスルである、と認識していた。
ルーカンと出会ってから――正確には彼に言われてから――ぼんやりと己が何者であったかを考えた。……一度として答えは出なかったが。
そして、乙女と騎士に出会い――心の底から恐怖を覚えた。
ルーカンは気づいていなかったが、あの二人、とくに騎士の方は、会った瞬間から敵意――もっと言えば殺気を向けてきたのだ。
乙女の口ぶりから、異界へ来る前の自分を知っているらしい。そして、そこでの関係が殺気につながるのだろう。
何をしてしまったんだろうか、と沈んでいく体と思考の中、心に浮かべる。
思い出したくないと全身が叫ぶように痛みを上げる。それでも、思い出さなければならないとも感じる。
申し訳ない、と思う気持ちが湧き上がる。かの騎士に、乙女に、心からの謝罪を述べたかった。どうしてなのか、わからないのに。
……ふと、ルーカンの声が聞こえた気がした。
ポロポロと涙を流しながら、声にならない悲鳴を上げるルーカン。それはまるで、わからないことを無理矢理言わさているようだった。
アルスルは、ようやく手足に力を込める。
相変わらず痛みが襲ってくる。それでも、今しなければならないことを、ようやく思い出した。
あの子を、迷い子ルーカンを、帰してあげなければ。
『まったく、いつまで湖に沈んでるつもりかい? 助けるこっちの身にもなっておくれよ』
聞き覚えのないはずの、けれど知っている気がしてならない女性の声が、妙に耳に響いた。
グイッ、と腕を掴まれた。そのまま水面へと引き上げられる。
女性の細い腕なのに、そうとは思えないほど強い力。アルスルはさして抵抗もせず、身を任せる。
あっという間に水面へ顔が浮かぶ。
「っは!」
口に溜まった水を吐き出し、精一杯の空気を吸い込む。望んで沈んでいたはずなのに、体は空気を欲していたようだ。
「はぁ。……頭は冷えたかい?」
溜息とともに、呆れた声がアルスルの頭上から降ってきた。
動きの鈍い頭を上に向けると、そこには、漆黒に包まれた女性がふわふわと浮かんでいた。
黒い髪に、肌を最低限隠しているだけの黒いドレス。湖の乙女にも劣らない麗しい顔立ちには、呆れと慈愛に満ちた小さな笑みが浮かんでいた。
アルスルは、自分でもわからないうちに安堵の息を吐く。まるで、彼女に気を許すかのように。
「その様子だと、あと一歩ってとこか。……アルスル、アタシが誰だかわかるかい?」
「――――あ、れ?」
彼女の問いに、無意識のうちに口を開き答えようとする体。しかし、肝心の名前の音が出てこず、もどかしくて仕方がない。
そんなアルスルの様子に、彼女は口の端を釣り上げた。
「忘れるなんてひどいじゃないか。……ずっと、一緒にいてやっただろ?」
ニヤニヤと笑う。馬鹿にしている風なのに、あまり怒りはこみ上げてこなかった。
「……ずっと……? あ――ルフェ?」
こぼすように言ったアルスル。それを聞いて、彼女は「正解」とにっこり笑って言った。
「ようやくあのくぞジジイが動き出したからねぇ。久しぶりだよ、この姿に戻るのは」
清々した、と言わんばかりに体を伸ばす彼女――ルフェ。
アルスルはその姿を見て、確かにあのルフェに通じるものがあると思った。
「さて、こんなことしてる場合じゃないだろ? さっさと〈思い出し、成せ〉」
「っ!?」
洪水のように、記憶が弾けた。