第七話

異界の支配者

 重々しい音が響き渡る。
 ルーカンが音のする方を見ると、あの大きな城の門がゆっくりと開かれていく。
 中は真っ暗で何も見えなかった。
「あ、開いた……」
「乙女がお呼びのようだな。行ってこい、アルスル。それにエランテースの子よ」
 目を細め、カイがぶっきらぼうに言う。
 その言葉とは裏腹に、見送ろうとする気配もない。どころか、逆に引き止めかねない雰囲気だ。
「カイ……?」
「行ってきなさい。私たちはここで待っていますから」
 ベトウィルが小さく笑いながらルーカンの背を押す。
 ちらりとルーカンが見上げると、ベトウィルもどこか寂しいような、悲しような笑い方をしていた。
 彼らの様子に不安が募る。
 しかし、ここまで来たのだ。帰りたいと思う意志が、再び湧き上がってきた。
「行こうか、ルーカン」
 アルスルが手を差し伸べる。
 ルーカンはゆっくりと、しかし確実にアルスルの手を握った。

 二人が城門をくぐり抜けると、扉が素早く閉まった。
 まるで、逃がさないと言わんばかりの速さに、ルーカンはアルスルの手を握る強さをさらに強めた。
「歓迎されてるのか、警戒されているのか、わからないな」
 そう、苦笑を漏らすアルスル。
「だ、大丈夫だよね?」
 口調が震えつつあるルーカン。
 扉が閉められたことにより、光源がなく、真っ暗の中を歩いている。
 恐怖と不安で押しつぶされそうだ。
「何かあったら大声で叫ぶといい。カイは地獄耳だから駆けつけてくれるさ」
 そう言ってアルスルは「まぁ、弱いけど」と、要らない一言を付け足した。
「カイって弱いの?」
「口は強いんだがな……」
 アルスルの返事に、ルーカンは納得した。
 あの毒舌に言葉で勝つのは難しいだろう。ルーカンなら、言葉よりも先に力で、カイの口を塞ぎに行くと思った。
「あれ……」
 ふと、ルーカンは気がつく。
 ルフェの姿がない。思えば、乙女の城を見つけたあたりから姿を見ていない。
 そのことをアルスルに伝えようとし、口を開いた。
「アル――」
 途端、ルーカンの体に強い衝撃が走った。
 地面に叩きつけられたような痛みと体勢に、目を白黒させるばかりのルーカン。
 投げ飛ばされたのだと気がついたのは、その数瞬後のことだった。

「ふふっ、ようこそお越しくださいましたわ……エランテースよ」

 地面を踏む音が近づいてくる。ヒールの高い靴を履いているようで、どうやら女性らしい。
 音と同時に近づいてくる声。それはまるで、笑っているようにも――嗤っているようにも聞こえた。
「あなたが、湖の乙女ですか?」
 見えない暗闇の中、ルーカンとは離れた位置から、アルスルの強ばった声が聞こえた。
 そこでルーカンは、自分がアルスルと引き離されたことに気がつく。
「この異界“アンヌヴン”を支配するものを『湖の乙女』と呼ぶならば、確かに私が『湖の乙女』ですわ」
 妖艶な声色が、肯定の返事をする。
 鉄が擦れる音と共に、アルスルの声が再び聞こえた。
「……なぜ、このようなことを?」
 アルスルの姿が、少しだけルーカンの視界に入る。
 しっかりと正面を射るように見て、何故か緊張している様子だ。汗が滴り落ちるのが異様に目立つ。
 アルスルの疑問を受けた乙女が、悪寒を催すような笑い声を上げた。
「ふふっ、あはは! あなたが、他でもないあなたが、そうおっしゃるの?」
 アルスルの目が見開く。
 先ほどから耳にこびり着くように鳴っていた鉄の音が、ひときわ大きく聞こえた。
 反射した光が、ルーカンの目に入る。アルスルの首筋に添えられたその光。
 金属の光沢だと気がついた。
「な、にを……?」
「ああ、失礼。忘れてしまったのでしたね――私のせいで。ですが、忘れたままというのは面白くありませんね……。そうだ」
 何かを思いついたのか、乙女が指を鳴らす。
 瞬間、照明をつけたかのように辺りがはっきりと明るくなる。
「あ――アルスルッ!?」
 ルーカンは見えたと同時に叫んだ。
 アルスルの首筋に光っていたのは、見事な装飾が施された剣。研ぎ澄まされた剣が、アルスルの首を切り刻まんと添えられている。
 そして、アルスルの背後には剣を持つ、全身を鎧で覆った騎士のような者。静かな森を思わせるその者は、黙したまま乙女を見つめていた。
「うふふ……その方に、見覚えがあるのでは?」
 クスクス、と目を細めながら嗤う乙女。その姿はまるで、見世物を品定めている貴族の夫人のようだった。
「……ぇ?」
 呆然と、目を騎士のような者に向けるアルスル。
 対する騎士は、氷のような冷たさを纏い、視線を拒絶した。
「もう、いつまで引きずってるのかしら。……まぁいいわ。目的はそれだけじゃないし」
 視線をルーカンに向ける乙女。
 ゾクリ、とまるで蛇に睨まれた蛙のように、身が竦むルーカン。
「エランテースよ、教えてあげましょう。あなたの、帰るべき場所へ行くための方法を」
 乙女が言った言葉を、ルーカンはすぐには理解できなかった。
 望んで、そのためにここまで来たはずなのに、どうしてか理解することを拒むかのように、頭がうまく働かなかった。
「……えっ?」
「聞きたくてここまできたのでしょう? 教えてあげるわ」
 にっこりと、冷たい笑顔で乙女は言った。

「〈仮初の名ルーカンよ、あなたは私を信じなさい〉」

 乙女から放たれた言葉は、ルーカンの思考を支配するかのように、体の隅々まで浸透した。
「ま、魔術――っ!」
 アルスルの声が、壁で隔たれたように遠くから聞こえる。
「あ、るす……る」
 ルーカンは何も考えられなくなって、眠るように意識を飛ばした。


「クスッ、あぁ楽しいわ――あなたから、大切な人を奪うのは!」
 乙女がダンスを踊るようにその場で回転し、自らの体を抱きとめる。
 陶酔したような目で、アルスルを見た。
「これで何人目かしら? ふふっ、次は誰にしましょう?」
「あなたは――っ!」
 怒りをあらわに、アルスルは足に力を込め前に出ようとする。
 それを、
「おやめになった方が懸命ですよ。首を切り落とされたくなければ」
 静かな騎士がそう告げ、警告した。
 頭が掻き回されているかのように、気分が悪い。膝をついてしまいそうになるのを、意思をかき集め耐える。
 アルスルの視線は、乙女や騎士ではなく、ルーカンに向けられていた。
 ルーカンは魂を失ったかのように、瞳に光がない。
 魔術によって支配されたものの目だ。

『魔術とは、“魂の名”を知らなければ扱えない。しかし、ここアンヌヴンの支配者である湖の乙女は例外である。彼女はこの地においては、全てを支配できうる力を持っているのだ』

 そう、ミルディンから聞いたことを今更ながら思い出す。
 痛みを発する頭を叩いてしまいたくなる。
 そんなアルスルの姿を見て、乙女の笑いは続く。
「ねぇ、そろそろ思い出してもいいのよ? かの『     』様?」
 乙女の言葉に雑音が紛れ込む。
 切り取ったかのように、アルスルの耳には頭痛を催す不快な音としか聞こえなかった。
「……っい!」
 頭痛が酷くなる。
 まるで、その音の意味に気づいてはいけないと言っているように、頭痛と耳鳴りがアルスルを襲う。
 全力疾走をしたあとのように、苦しくて息ができなかった。
「あーあ、つまんない。……ランツェルト、追い出してちょうだい。もう、この世界に『     』は不要よ」
「畏まりました、グウェン様」
 アルスルの背後から放たれていた鋭い気配が緩み、首筋に添えられていた剣も下ろされる。
 だが、開放感を感じるよりも先に、篭手に包まれた手がアルスルの襟を強引に掴み――
「ふふっ……無様ね!」
 開け放たれたテラスから、アルスルを突き落とした。

 落ちていく最中、ルーカンの泣きそうな顔がはっきりとアルスルに見えた。