チェンジング
────それは約束。
『だいじょうぶ。かならず見つけてあげるから』
たとえ
だから。
『キミを、もう――ひとりにしないよ』
その言葉を信じている。今もなお、変わらずに。
深く息を吐く。僅かに白く染まる視界に、そういえば、と忘れていた寒さを思い出した。この状態になるとどうもあらゆる身体機能が鈍くなりがちで、些細なことから油断へと繋がりかねない。気を引き締めるべく、長らく日を浴びていない冷え冷えとした空気を大きく吸った。
「――――っ」
肺まで凍りつきそうなほど凍てついている。喉に痛みが生じるのと同時に、少しばかり意識が鮮明とした。
「……目標は、もっと下か」
携帯端末を手に、表示された場所へ向かうルートを実際に目の前にある空間と見比べる。物々しい重厚な鋼鉄の扉が立ち塞がり、すぐ近くのコンクリートが剥き出しの壁には怪しく光を放つ何らかの制御装置らしきものが鈍い駆動音を響かせていた。
チラリ、と淡い蒼の瞳が天井へと向けられる。点滅する切れかけの照明と様々な太さの管が張り巡らされる中、注視してみなければわからないほど精巧な監視カメラの存在を捉えていた。死角が発生せぬよう巧妙に仕掛けられており、いまこの場に立っていることなど、向こう側にいる者たちにならばお見通しのことだろう。
そう、
「――フッ」
大胆不敵を体現するかのように笑みを浮かべ、青を溶かした銀の髪を揺らしながら、何の障害もなかったかのように、鴻上了見は扉の横にある装置の前へと立った。
キラリ、と照明の白々しい光を反射して、右手中指の根本に慎ましく存在を主張する指輪が閃いた。上品な金色の細いリングに埋め込まれた紅玉の如き鮮烈なる赤い鉱石がまるで――彼は危険な存在だ、と告げるかのよう。
そして、それは
少なくともこの施設内において、鴻上了見は紛れもなく不法侵入者であり、許しがたき敵対者であり、世間体からみて良くないことを密やかに行ってきた者たちへ慈悲無き終幕を下ろす執行者であった。
「面白い罠も仕掛けも無し、か」
パネルの上で少しの間踊っていた指先が静まるのと同時に、重苦しい扉が従順に口を開いた。驚くべきはその手腕そのものよりも――卓越したハッキング能力ではある――ここまで堂々と侵入、行動しているにも関わらず、誰一人としてこの施設の人間が気付く素振りがないことだろう。
現に了見はその姿を監視カメラに隠すこと無く曝しているにもかかわらず、こうして解除が完了してなお人影や警報のひとつも鳴り響かない。
まるで、彼の存在そのものが誰一人と――機械ですらも
「――――さて、」
紅光が軌跡を描きながら、了見は自らの懐を少し探る。
指先が触れた、確かなる感触にほくそ笑みを浮かべながら悠々と鉄扉の先へと足を踏み入れた。
研究員は恐怖に震える。目の前で起こっている現象に、己が直面している現状に、そして――これから降りかかるであろう現実に、為す術も無く立ち竦むしかなかった。
この研究施設は極秘の存在だった。研究対象そのものがアングラに値するモノであり、取り組みそのものも決して褒められたものではない。だが、そう理解していてもなお、この状況を受け入れられるかはまた別問題だった。
始まりは唐突に。前触れすらなく、リーダーたる存在が血を流して倒れた。一瞬遅れてカラン、と軽やかな金属音が、広いはずの実験室に響いた。音の正体を無意識のうちに目で追うと、照明の白い光を受けて黄金の色を返す空の薬莢が転がっていた。
え、と疑問の声を上げるよりずっと早く。二人、三人と床に血溜まりを作りながら倒れ伏していく。
――――カラン、カラン、と。
それはまるでカウントダウンのように。
刻一刻と迫ってくる順番に、研究員はただ動かなくなってしまった身体を抱え、どうして、と問う言葉しか吐き出せない。
そして、不幸にも。いまこの場で起こっているこの悪夢に心当たりがあった。否定したくとも、無駄に研ぎ澄まされた知恵はその答えを容易に導き出す。
それは、曰く。
声なく、姿なく、気配なく。忽然と現れては敵対者を屠っていく。
残されるのは執行の証明たる空の弾丸のみ。その目的も、手段も、そして正体すら。何者でも捉えることが出来ない。
畏怖からか、いつしか呼ばれた名は。
「お前、が――
――――カラン、と。
答えの代わりに返されたのは、その名の通り回転式拳銃から放たれた鋼の弾丸だけだった。
〝チェンジング〟
それは凡人とは一線を画す、俗に言う異能の力を持つ存在の総称。
攻撃的なモノ、人の精神に影響を及ぼすモノ、時にはまったくの無害であるモノなど、その能力は個々によって多種多様。
その力の目覚めは多くが幼少期。時には赤子の状態からすでにその片鱗を示す者も存在する。
科学技術が発展した今でこそ、チェンジングが持つ力は生来的なモノであると判明しているが、古来、人が自然の驚異の影に人ならざる存在を見いだしていた時代は、まるで幼い子供が突如として人智を超えた力を発現させたように映っていた。
変わり果てた子供を前に、力なき親は。
我が子を
そう、嘆いたという。
軽く息を吸う。冷え切った外気を取り込みながらも急かされるかのように、了見は足早に進み続けていた。
季節柄、夜の帳が下りるのが早い。時計の針が示す時刻と体感する時間のズレを振り払うように、周囲は多くの人々が行き交っている。
そんな人々の波間を、時に押し退けんばかりに力強く突き進む。肩が、背が、手足が。それぞれ周囲と複数回に及んで接触してしまっているにも関わらず、不思議なほど人々は了見の存在を認知しない。そんな光景に慣れきっているのか、抱え込んだ荷物の状態にだけ気を配りながらも、歩みを止めることなく進んでいく。
そして。
海を臨む郊外の丘。そこに佇むように、広大な屋敷とも、厳重な研究機関のようにも見える施設が存在していた。
それを視界で捉えた瞬間。
「――――」
ほぅ、と。思わず安堵の息が零れ落ちた。
そこは了見の生家にして、チェンジングの保護、及びその能力を制御することを主にした研究施設――通称〝ハノイの騎士〟その本拠地だった。
チェンジングの存在は非常にデリケートである。ともすれば凡俗たる人との格差が浮き彫りになる危うき火種になりかねない存在のため、世情では暗黙の了解の内に秘匿されている。
危険な能力を持ってしまったが故に迫害される哀れな子も絶えず、そんな彼らの受け皿となっているこの施設は、おおよそ半数が未成年のチェンジングであり、残りは研究員の割合が多くを占める。
そんなこの場所は静かとはいえど、人の気配は絶えることがない。現に、夜分と呼べる時間帯にも関わらず、遊び足りないのか敷地内を駆け回る児童の姿が認められた。
そんな暖かな光景に帰ってきた、という陽だまりのような熱が全身を包む。無意識のうちに口を開き、帰宅を告げる言葉を出しかけて。
「――――っ、――――」
その行為が
今の了見は誰の目にも留まらず、声は届かず、触れたとしてもそうだと気付かない。
それは決して幽霊のように肉体を持たない訳では無く、その場にいるのに誰もがその存在を認識出来ないという現象を引き起こす能力故に。それが、了見の持つチェンジングの力であった。
だからたとえ今、了見が大声を上げたとしてもその事実を受け止める人間はいない。まるで世界から追放されてしまったような疎外感。本来であればまともな生活を行うことすら危ういだろうに、それをも覆せる鍵は、すでにあった。
そう、ここには。
「――――了見!」
バタン、と。正面扉が大きく開かれた。誰か、なんて愚問である。
冬の夜空に溶けてしまいそうな瑠璃とした髪を揺らしながら、碧玉の双眸が真っ直ぐ了見の姿を貫いた。
常は年齢よりも落ち着いた雰囲気を纏う大人びた顔に踊る、溢れんばかりの歓喜の表情に、思わずこちらの口角も綻びてしまいそうになる。だがそれを咄嗟に押さえ込んだのは、飛び出ししてきた彼があまりにも薄着だったためだ。夏ならいざ知らず、冬空に繰り出す格好ではない。
「遊作、お前――」
咎めの言葉を放つよりも、彼――藤木遊作の方がずっと早く。
「おかえり、了見」
ぎゅっ、と。誰も見つけることが出来ないはずの了見の姿をしっかりと捉え、全身を使って抱き合った。
背に回された遊作の右手には了見の持つ指輪とよく似たものが小さく収まっている。はめ込まれた宝玉の色だけが、彼の善性を証明するように淡い緑の光を瞬かせていた。
伝わる温もりに、叱りの言葉は霞と消えてしまった。それよりも今、なによりも彼に告げるべき言葉がある。
「――はぁ……ただいま」
その言葉に、瑠璃の花が咲いた。
チェンジングは皆、能力者であるという証明のために専用の指輪の装着を義務づけられていた。特殊な金属で作られたそれは軒並みの攻撃に耐えうる耐久性を持ち、各自の能力の性質が一目で判別がつくように特性に応じた鉱石がはめ込まれている。
例えば了見は、直接的な攻撃性はないが、その特性故にあらゆる危険性を含んでいる。現に、彼はその力を最大限に使って暗殺めいたことすら容易だった。そのため、彼の指輪に輝くのは高い危険性を示す〝赤〟の石。
対して遊作の指で閃くのは〝緑〟の石。これは基本的に無害なものを表す。とりわけ、あってもなくても変わらない力だということを示していた。だが、それをも本来は不要なものであろう。
藤木遊作の能力は――
能力そのものを所持していることは測定器によって証明されているが、彼はその力を発揮出来ずにいた。
だがそんな遊作は、能力によって姿を消した了見の姿を視認することが出来る。それこそが力なのではないか、という憶測も勿論立てられた。しかし、他の隠されたものを見つけだしす、といった行為は不発に終わり。幾度となく実験と測定を繰り返した結果も、その因果関係を見いだすことは出来なかった。
だからこそ、遊作がこの〝ハノイの騎士〟の中での役割はひとつ。仕事を終えて戻った了見を見つけ出すこと。最高位の隠密性を持った了見の力は、それを見破られることで力を失う。それが力なき遊作に出来る唯一のことだった。
「――それで、成果はどうだった?」
寒空から逃れるように施設へと迎え入れられ、一息つく頃合いを見計らうように遊作が期待を滲ませながら問う。
その言葉に了見は、隠すように抱えていた荷物へと視線を落とした。
これは少し前、了見が襲撃した施設にて押収したものであり、この存在が噂されていたからこそ了見は単独で仕掛けに出向いたのである。遊作はこれが何なのか、までは知らないが、了見が能力を行使した理由としてある物品を手に入れるため、とだけは聞いているはずで。それが無事に手に入ったかどうか――そして、その際に何か不手際が起こっていないか、という確認の暗喩でもあった。
「私を誰だと思っている」
「――そう、だな」
くすり、とお互いに笑みを浮かべあった。似合わないことをするのではなかった、とでも言いたげに遊作の耳が僅かに赤みを帯びていた。二人の付き合いは既に十年にも及ぶにも関わらず、未だに面を向かって手放しに心配や好意を見せるには気恥ずかしさが先立つようだ。
そんな遊作に微笑みを向ける裏で、了見は後ろ手で近付いてきていた研究員に手荷物をそっと受け渡していた。
手に入れた手段もそうだが、この物自体、あまり人目にさらすべきではない物だった。とくにこの場には遊作以外にも、チェンジングとしての能力の制御が不安定な者や、自身の力を忌み嫌って殻に籠もってしまった不安定な者も少なからずいる。そうした彼らにこれは劇薬ともなりかねない危険な物だと想定されていたために。それを悟らせることなく、了見は遊作と久々の談笑を交わしながら興味を惹かれないようにゆっくりと離れていく研究員に目線だけで礼を告げた。
「――――じゃあ、また明日」
「ああ……おやすみ」
積もる話はまた明日に、と。施設内で隣接している部屋の前で別れると、一度戸をくぐった了見だったが、遊作が部屋に入っていったのを確認した瞬間、音をたてないように再び廊下へ戻る。能力を使っているわけではないため、細心の注意を払いながら向かったのはチェンジング達の部屋が立ち並ぶ区画とは反対方面にある、ハノイの騎士の心臓部たる研究棟だ。
元々、ハノイの騎士の目的はチェンジングの保護ではない。むしろそれは副産物のようなもので、本質的には能力研究の方が主体である。それこそ了見が生まれる以前は、非人道的な実験も常であったという。幾度かの転換点を迎え、今では了見が――前所長の息子のため――実質的なトップに君臨しているので、そういった類いの行為は一切を禁じられている。けれども、研究そのものがなくなったわけではない。
現状、了見の指揮下で行われているのは内部ではない、外部からのチェンジングを悪用する行為に対してのものが大半だった。能力によっては人に多大な影響を及ぼす異能を求める悪しき者は数多く。とくに技術が発展したこの世情では、人智の範囲でチェンジングの力を操作しようと企む目論見の噂が後を絶たない。先に了見が向かったあの現場はまさに、そういった手段を構築している施設だった。
そこから押収した例の物は、おそらくその成果が詰まった物なのだろう、という推測を確かめるために、了見は素早く研究室の扉を開けた。
「了見様?」
「――どうだった?」
少しばかり驚いた様子の白衣姿が三人。幼い頃からの付き合いである彼らに、了見は帰宅の言葉よりも先に結果を尋ねた。心得ているのだろう、僅かに苦笑を浮かべながらも大量の数値が踊るモニターを差し示した。
「おそらくですが、チェンジングの能力を人工的に遮断する類いの物ではないかと」
「遮断というよりは――強制終了ですかね」
そうか、で済ますことは出来そうにない代物だった。
チェンジングの力は非常に繊細で、軽はずみな行為が一瞬にして暴走へと繋がりかねない。そうして命をも落とした事例は残念ながら多数存在していた。
それだけではない。
「あの場でコレを作動されていたら危なかったな」
ぽつり、と。小さく了見は本音を零した。その言葉は他の者たちには届かなかったはずだが、気配を察したのだろう、ひとりが心配を滲ませた。
「こちらも重要ですが、まずは了見様。明日一番で精密検査を行いますので」
「……別に不要だが?」
「いいえ、絶対です。もう少し自覚を持って頂きたい。貴方だけなのですよ――これほどまで《《長く能力を行使し続けている》》事例は」
それは幾分にも含みを持たせた言葉だった。その裏にある本当の意味をも正確に汲み取りながら、了見は。
「十分に理解している。少なくとも、ソレは絶対に作動させてはいけない物だとな」
思わず伏せた瞼の裏に、懐かしい記憶が呼び起こされる。
『――ぜったいに、見つけてあげるから』
あの濡れた美しき瑠璃を、もう見失うわけにはいかないのだから。
けれど。
その決意を、誓いを、約束を――嘲笑うかのように。
――――ピシャン、と。
夜闇を裂くように、突如として霹靂が劈いた。
「――――え、」
それはあまりにも唐突に。一瞬にして視界が白く、そして黒く染まった。
失った平衡感覚に、寄る辺をなくした膝が砕け落ちる。あ、と息を吐く間すら無いままに。
ぐわん、と。耳鳴りのように音が反響する中、了見は気付いてしまった。
――――これは駄目だ、と。
痙攣する瞼をこじ開けた先の視界には、繋がれたコードがショートして黒煙を上げる、開かれた災厄の箱と化した機械の姿であった。
ハノイの騎士の施設内は未成年、とくに十歳前後の年頃が大半であり、彼らに合わせて消灯時間などは厳しく決められていた。
ただでさえ年若く精神的にも不安定な頃は、それだけチェンジングの能力も揺らぎやすい。健全なる精神を養うためにも健康的な生活が義務づけられていた。
それでも遊作はその中でも年長の部類であったため、眠気の到来は遠く、かといって外出は憚られたために、自室で静かにパソコン画面と向き合っていた。
――――否。それすらもどこか上の空である。
理由は言うまでもなく。
「――明日、か」
年甲斐も無く気持ちが浮ついている、と自覚しているがここには咎める人もおらず、遊作はいつもより仕事をしている表情筋をそのままに、大人しい笑みを湛えていた。
了見と遊作の付き合いは既に十年。
事故でチェンジングとして覚醒した遊作は、その後遺症にそれまでの一切の記憶を失っていた。それをずっと隣で支え続けてきた了見の存在は、遊作を構成する最も大切で大きなピース。本音を露わにするならば常から彼の役に立ちたい。
だが、と。
「――――」
遊作は己の右手を凝視する。指に収まる、慣れた金属の感触、その中に埋められた光の脆弱さが、まるで自らの無力さを見せつけるかのように心を刺す。
何度も自問した、遊作の異能力。あるはずだ、と機械は正確に証言するにも関わらず、自意識では雲を掴むよりも得体の知れないことだった。
それに加え、何故か能力ではないものの、姿を消した了見の姿を捉える理由も。彼の役に立てている、という僅かな想いだけで今は成り立っているが、その実態は未だ判明していない。
もしも、何かの切っ掛けでこの力すら失われてしまえば――今度こそ、無能力者として此処を出なくてはならないかもしれない。
「――――いや」
そこまで考えて、遊作は首を振った。
これ以上、生産性の無い話を考えても無駄な行為だと思考を否定する。
ひとつだけ確かなことがあった。記憶を失う前後、朧気ながらもその言葉だけは心に刻まれている。それがあれば充分だと遊作は自らに言い聞かせて。
「もう、寝よう」
その宣言通り、パソコンの電源を落として寝台へと視線を向けた、その矢先。
ピシャン、と。閃光が迸る。
それを認識することが辛うじて出来たのは奇跡だった。ぐにゃり、と視界が大きく歪む。あらゆるモノの輪郭が失われ、まるで世界に固形を保つのは自分自身だけだと錯覚するほど。回る目に身体が不調を訴え、込み上げる吐き気を堪えるために咄嗟に手を口に当てた。唇に触れた指輪が異様に冷たく感じる。
「――――」
壁を隔てた向こうから無数の悲鳴じみた声が上がっている。安否を叫ぶ大人の声、パニックで奇声を放つ幼い声、そして複数の破壊音じみた衝動も加わる。
混乱する中、ようやく遊作は施設内で停電が起きたのだと理解した。突発的な落雷のためか、それに誘発されるようにチェンジングの暴走が始まってしまったらしい。
「――――っ、了見は……!?」
ハッ、として遊作は無謀に部屋から飛び出した。
下手をすれば廊下で出会い頭に暴走したチェンジングと遭遇するかもしれない、なんて普段なら考える間もなく判っているのだが、目眩のように上手く働かない思考ではそう結びつけることも出来なかった。
勢いよく開いた扉の先は特段大きな変化は無く。それでも少し奥の廊下からは衝撃音が緩まず響いている。それを気にもとめず隣の部屋を無言で開け放った。
――――誰もいない、それは想定通りだった。
「研究棟か――!」
了見が素直に休むとは遊作も思っていなかったため、すぐに意識をそちらに向ける。おそらく事態の原因となったのもそちらの方なのだろう。続々と届く悲痛な声は研究棟に近い所から来ているようで。躊躇いを覚える間もなく、遊作は駆け出していた。
だが。
「――――?」
突き進む中で感じた違和感に、ふと。思わず遊作は立ち止まった。
遊作の横を駆け抜けていく白衣の姿、恐怖と混乱で涙を浮かべる幼い子供達、震えを隠すように自らの腕を抱え込む年長者。皆、遊作がこの施設に来たときからずっと生活を共にする仲間たち。碌に能力も無い遊作に対しても変わらず優しく接してくれた人たち。
なのに、何故――
緊迫した状況下だから、という言い訳は成り立つ。
だが、遊作には自衛手段もないことは誰もが知るところ。特にこんな、危険な能力がどこから飛んでくるかも判らない状況ならば、認めるのは癪だが庇護されるべき対象だ。ひとりやふたりがスルーするのは仕方が無いが、既に少なくない人数を遊作は視認していた。それでも皆が一様に遊作を気にもとめていない。肩が接触しようとも、足を取られようとも、声をかけても。
これでは、まるで――――
「あ――――」
浮かびかけた想像から振り切るように、足は勝手に何処かを目指して動き出す。研究棟へと繋がる道すがら、玄関ホールは避難場所のように大勢が集まっていた。
そこに、僅かな希望へ縋り付くように踏み入れて。
「……了見は?」
最後の力を振り絞るように囁いた声はあまりにも小さく、それでもその瞬間は奇跡的に、一切の音が消えた刹那で。
だから、理解してしまった。
この現象を、状況を、能力を。
『――じゃあ、キミの力を――僕にくれる?』
誰よりも知っていたという、既視感よりもずっと確かな真実に辿り着いてしまった。
その発端は十年前に遡る。
当時、複数の子供が誘拐されるという事件――通称、ロスト事件が発生した。被害者の共通点は、世間一般的には無いとされているが、実際はチェンジングとしての資質を持つ子供を狙っていたことが判明している。
実行犯は異能の悪用を目的とした集団で、ハノイの騎士は事態収拾のために被害者を保護するために現場へと赴いていた。
遊作も被害者のひとりで。けれども、その時点では彼に異能の兆しは無かったという。犯人が誤ったのか、それとも資質を見抜いて攫ったのか。判断はつかない。
その最中、手酷く扱われた他のチェンジングの子が反発からか能力を暴発させてしまい、連鎖的に能力が発動していく地獄のような光景が繰り広げられた。
そして、遊作も。
誘発されるようにその力を目覚めさせ――誰にも知られることのないまま、目覚めた能力によって、遊作と世界の間は断絶してしまった。
そう、本来の遊作の異能力こそ了見が持っている力。
存在を世界から無かったかのようにしてしまう断絶の崖。
それを。
「――――遊作」
了見が意識を取り戻した瞬間、既に手遅れだと気付いたのは同時だった。
正常に戻った平衡感覚と、
「了見様」
気遣う部下達を蔑ろにすることなどしたくなかったが、時は一刻を争っていた。了見は這うようにして研究室から転がり出た。
少し向こうから無数の叫び声が響いている。
厄災の箱と化したあの機械は、無差別に異能力を暴走させる作用を齎したらしい。そしてそれが了見にとっては、最も忌避していた事態へと至ってしまった。
了見が持つ本来の異能は〝取り替え〟だった。
〝チェンジング〟の元型に最も近しいのではないか、とも言われ、けれども父親の意向で限りなく人道的な範囲で研究に付き合っていた。了見自身、父の役に立てるのであれば、と積極的に取り組むことに何の疑問も持たず。
そんな彼が八歳という若さでありながらロスト事件に関与したのは偶然で。おそらく被害に遭った子供達を安心させるためにも、同じ年頃だった了見を連れていくことに多少の意味があったのだろう。
そして、その偶然が偶然を呼んだ。
「――――っ」
バタン、と大きな音をたてて遊作の部屋が開かれる。殆ど物が無い質素な部屋は、一目しただけで探し人がここにはいないことを明確に告げていた。
「遊作――何処だ?」
探せども見つかる保証を――残念ながら了見は持ち合わせていない。彼の能力の凄まじさは身に沁みていた。
その断絶はあまりにも深刻で、その能力はあまりにも無慈悲で、その恐怖はあまりにも大きすぎた。
少なくとも、ひとりきりで耐えられるようなものではない。遊作が異能を使った了見を見つけられたのは、偏にその力の源が遊作自身だったからだ。
了見は自身の能力で遊作の力を〝取り替え〟たが、完全に自分のモノに出来たわけでは無い。
故に、本来の所有者である遊作が行使した場合――しかも現状はおそらく暴走状態だ――では、出力の桁が外れていてもおかしくはない。
ならば、了見では
「――――っ、思い出せ――!」
否、と。了見は必死に過去を振り返る。
一度だけ、偶然だったけれども、了見は遊作を見つけたことがある。二人が出逢った、最初の邂逅で。
――――それは、本当に偶然で。
子供達の大小ある悲鳴が飛び交う現場。慌てて走り回る大人たちの邪魔にならないよう、遠くへ遠くへ、と足を伸ばして。ゆらゆら、と身体を左右にゆらしながら壁や上ばかり見ていて。曲がり角の先、そこに誰かがいるなんて想像もしていなくて。
「――――わっ」
「――――っ」
ごちん、と。思いっきりの正面衝突だった。お互いが認識していない存在との接触。発現したばかりで不安定な能力は、その衝動に大きく揺らいだのだろう。
「ごめん――!」
咄嗟に口をついて出た謝罪の言葉と同時に目線を向けた、その先に――瑠璃の花が咲いていた。
一瞬にすぎなかったが、了見は自らの視界に捉えたその色のあまりの綺麗さに呼吸を忘れるほど惹かれたのだ。黎明のような鮮やかな青と、新緑の如き双眸。見間違えだと言い張るには目に焼き付いて離れない光景に。
思わず了見は。
「――ねぇ、キミ――――」
そう、姿を消した人へ声を掛けたのだ。
それが悪戯好き妖精の魔法を破るための唯一の手段だと知らないままに。
「――――」
ならば、もう一度。
姿無き遊作の存在を刹那でも捉えれば、良いのだろうか。了見は自身の考えに自問する。
視界には映らない、気配も感じられない、知覚する手段は一切届かない。
けれども、そんな彼をいま見つけなければ。
『キミを、もう――ひとりには――――』
あの約束を、果たせなくなってしまう。
「――――っっ!」
衝動のまま、了見は走り出した。
「何でも良い――少しでも痕跡を!」
自らの本当の能力を十年ぶりに発動させる。
あらゆるモノを取り替える力で、施設内にいる人間の視界を片っ端からジャックしていく。本当であれば許可無く他人に能力を行使するのは処罰対象だが、そんなことを気にする余裕は既に無い。後でいくらでも償う覚悟はあった。
だから、今は。
「玄関ホール――違う。研究棟か? ……いや、人が多い区画にはいないだろう。ならば何処だ?」
遊作の心情へ思いを馳せる。混乱しているだろうが、賢い彼ならば状況の理解に時間はかからないだろう。
ならば、了見がその立場であったらどうするか、という視点で追っていく。
「人が少ない――被害もあまりない、迷惑が掛かりにくい場所だな……最悪、ここを離れることすら視野に入れて……」
その時。
適当に選んだ視界の端で、見覚えの薄い場所の扉がちょうど人ひとり通り抜けられるほどに開かれているのを見つけた。
玄関ホールを抜けた先、普段は倉庫として扱われている空き部屋だ。
「――――そこか――!」
狙いを定める。違うかもしれないが、今は少しでも可能性があればそれに賭けるしか方法がない。向かう最中、視界を借りた人々に口早に謝罪を告げつつも、了見は一目散にその扉の前へ向かった。
肩で息をする。人波を越えた先、不自然に開かれた扉の向こうは明かりひとつなく、沈黙の闇を湛えているよう。
「…………」
意を決して、大きく音をたてながら扉を更に開く。僅かでも反応があれば、という想いからだったが、仮に反応があったとしても了見が認識することは叶わなかっただろう。
遊作の持つ異能力とはそういうモノであると、誰よりも了見が一番理解していた。
「――――」
コツン、と。暗闇へ一歩踏み出す。
廊下から入り込む光では僅かにしか部屋を照らせず、奥がどうなっているのか一目では判断できない。その闇の中、遊作がどこにいるのかも当然ながら見つけられない。
けれど。
「――――いるのだろう、遊作」
漠然とした、確信。
本来の持ち主たる遊作よりもずっと長く、了見はその力と付き合ってきた。ならば、了見にも判るはずだ。遊作が必ず了見を見つけ出すのと同じように、了見にも見つけられるはず。
チェンジングの力は精神力に直結する。十年間、一度も取り替えを解除したことは無く、周囲にも悟られないよう張り詰めた中、ずっと。
それは偏に、約束したからだった。
誰にも気付かれないまま、置き去りにされかけた幼い姿。やっと見つけてもらえた、と泣きじゃくる遊作に、了見は。
『――――じゃあ、キミの力を僕にくれる?』
自分の異能を使えば、もうこの綺麗な瑠璃を見失わずに済むのであれば、と。
『これで、キミを――もう、ひとりにしないよ』
その誓いは、どれほど経っても変わらずに。
「――――遊作」
直感とも呼べない、不確かな感覚。それでも、見知った揺らぎを覚える虚空へ、そっと手を伸ばした。
沈黙が降りる。一秒が一日のように長く感じられた。待てでも代わり映えのない暗闇に、焦りと怯えが全身を覆っていくのを止められない。
それでも了見は自分を、そして遊作を信じるしかない。
そして。
――――とん、と。
「〝必ず見つける〟――その言葉を、おまえを、ずっと信じていた」
雫に濡れながらも輝く、瑠璃の花が咲いていた。
十年前からずっと、変わらぬままに。
数日もすれば、施設内は落ち着きを取り戻していた。
チェンジングの能力暴走、として括ればある意味よくある事でもあり、幼い子達のケアだけが多少残ってはいるが、日常を送るには問題ない程度にまで回復していた。
そんな中、了見は扉の前で少し張り詰めた表情で、一度深く息を吐くと意を決したように遊作の部屋の戸を叩いた。
「――遊作、いいか?」
「了見か!」
カチャリ、と開かれた先には笑みを溢れさせた遊作がいた。目立った外傷もなく、もう少ししたら本格的な能力制御の訓練が始まることになっており、緊張しているのではないか、と了見は予測していたがそれほどでもないらしい。
「何かあったか?」
「ああ――指輪の件だが」
キラリ、と。了見の指にはまだ赤の石が光っている。
遊作も以前のまま、淡い緑が静かに収まっている。能力証明にも使われているこの指輪を偽ることも当然ながら処罰対象であり、緊急時だったからと罰則こそ受けなかったが、いつまでも偽りのままではいられなかった。
「お前にはこれまで私が使っていた物でいいだろう、とのことだ」
「……わかった」
名残惜しげに遊作は、いままで嵌めていた指輪を抜き、代わりに、と了見に向かって左の掌を差し出す。そのまま渡して欲しい、という意図を正確に読み取って。
――――ふと、了見は。
「そう、だな」
クスリ、と意味ありげな笑みを浮かべると、自らの赤が閃く指輪を抜き取り、遊作の左手に恭しく触れた。
「――――?」
何をするのか、という視線を向ける遊作。僅かに小首を傾けていた。
そんな彼に笑みを深め、了見は片膝を床に着けると、触れていた遊作の左手――その
そして。
「――――
それは、最上級の誓いの儀式に準えての言葉。
あの約束を、決意を、覚悟を。永久に天へと誓う了見の行為に、遊作は。
「……大げさだな」
と、気恥ずかしげながらも、美しき瑠璃を咲かせた。