捻子巻く星の歌

 すっかり日の落ちた街並みを足早に進む。
 デンシティの夜は長い。昼夜を問わずネオンの鮮やかな光で満たされ、小高い建物には大抵大型の中継テレビが備えられており絶えず世間の動きを喋り続けている。発展した情報化社会の行く末は人々から安寧の闇を奪い休息を剥奪するのだろう――と、思わず想像してしまうほど、この街は夜を知らないような振る舞いをする。僅かに行き交う人々にとってもそれは当然のことで、何一つ疑念を抱かないまま手にした携帯端末に視線を注ぐか、面白おかしく脚色された日常を物語るニュースに耳を傾けていた。
 そんな中、ひとり。程々に着崩されたブレザー姿の青年に差し掛かるかどうか位の年頃が、迫り来る宵闇に身を透かすような雰囲気を醸しながら歩みを進めていた。頭部の深い青に差し込まれる薄紅の色合いがネオンに照らされ、まるで溶け込むように同じ輝きを放つ。ほっそりと伸びた手足は最低限の動きで最適の可動を求めるように無駄がなく、その歩みは彼という存在をその場に留めることをよしとしていない。それでも、強い意志を宿した橄欖石の如し双眸だけは凜とした輝きを秘めており、彼が生きていることを問われずとも証明していた。
 彼の名は、藤木遊作。このデンシティに身を置く高校生であり、この情報化社会において知らぬ者はいないとまで有名となったハッカー、プレイメイカーその人である。
 現在もっとも盛況なVR空間――リンクヴレインズだけでなくネット上でも有名人となった彼は、現実世界においては驚くほど存在感が希薄だった。仮にも犯罪に携わる者として意図的に隠しているのが半分、もう半分は境遇故に世間との断絶を知覚しているため敢えて身を引く癖があった。まるで猫のように足音を忍ばせ、月のように静謐な視線を周囲に配り、紡ぐ言葉は最適と真実だけに留める。そんな一見すると効率を重視する機械的な印象の彼だが、実のところ計算よりも直感を重視する傾向があった。
 そして、今日はまさにそんな日で。
 情報収集と作戦会議、そして小腹を満たすためにカフェナギへ立ち寄った帰り道。いつもなら無意識的に自宅へと歩みを進めているはずだったのだが、今日はどうも勝手が違った。人々が集まる広場を離れた辺りからそれとなく感じていた、何かに惹かれるような感覚に遊作は悩む間もなく従って足を進める。
 元より遊作にはネットワークに関する第六感――リンクセンスが備わっている。昔は特段意識することもなかったそれを、VR空間で活動するようになったいまではある程度操作も可能になった。ある意味神経が過敏になったともとれる。そのためか、現実世界においても理由が分からないが何かに気付く場面が多くなったように思う。遊作はそういった時、迷うことなく立ち向かうことにしていた。何かを得るか、それとも傷つくか。その場にいなければ結果は分からない。少しでも利となる可能性があるのであれば選ばない道理は無い、と遊作は今日も理由の分からない感覚に付き従う。 くたびれた弱い光を放つ街灯がまばらに行き先を示している。住んでいる街とはいえ、すべての道筋を的確に記憶しているわけでは無い。どちらかといえば興味は薄く、必要と迫られなければ覚えることすらしない。そのため自分がいまどの辺りにいて、どこへ向かおうとしているのか分からない。きっとこの様子を知人たちが知ったら驚くのだろう。傍目から見た遊作は常に計算して行動しているような人物だ。こんな、まるで好奇心溢れる幼子のように気の赴くまま動いている姿など目を見開いて驚愕するかもしれない。
 そう、思わず自分でも呆れてしまうほど長い間、遊作は歩き続けていた。踏みしめている地表が整備された道なりから見た目重視の煉瓦道へと変化していたことにようやく気が付いた頃。

「………………あ」

 思わず驚嘆の声が飛び出した。
 街外れにある、海を望む丘へと続く道筋。知る人ぞ知る名所であるその場所に、遊作以外の影がひとつ佇んでいる。纏う空気の異質さでその人物が誰なのか即座に見抜いてしまったため、驚愕の度合いが跳ね上がった。――鴻上了見。その名を知ったのはごく最近であるが、彼との関わりは十年にも及ぶ。遊作という人を語る上で欠かせない人物であり、同時に軒並みならぬ想いを双方抱きながらも未だ手を取り合えない複雑な間柄であった。
 そんな彼が、ひとり。洒落た街灯に照らされながら、まるで来たる人を待ち続けているかのように立ち尽くしていた。淡い蒼の瞳は海を見据えたまま動かない。けれど彼のことだ、遊作が近づきつつあることを既に悟っているだろう。
 ふらり、と誘われるがまま了見の隣へ身を置く。意味は無く、言葉も無
く、拒む理由も無く。ただふたり、海面から揺らぎ出でる夜の姿を並んで見つめる様は、きっと客観的には可笑しなものに映るだろう。
 それでも構わない、と遊作は気の赴くまま横に寄り添うだけに留めるつもりだった。何よりも信用している自身の直感が彼の元へと誘った。立場上、連絡を取り合えるわけもなく、ただ逢えたという事実――たったそれだけで十分過ぎるほど遊作は嬉しかった。
 喜びを噛みしめながら、視界を深い蒼の海で満たす。
 その時。

「……お前は何かを〝美しい〟と感じたことがあるか」

 そう、唐突にも思える問いかけを投げかけられ、遊作は反射的に相手である了見へ視線を送り返す。
 無意識のうちに均衡を保ち続けなければいけないと感じていた遊作を逆手に取るかのように、沈黙を破って発せられた了見の言葉に驚きと、何より意図が読めず疑問の意思を返した。
「それは物に対してか?それとも概念的にか?」
「どちらでもいい。少しでも感傷を抱いた覚えはあるか」
 視線は交わらないまま、返ってきた答えを頭の中で繰り返し意味を呑み込もうとする。正直なところ、彼からこれほど曖昧な問いかけがあるとは予想だにしていなかったため、衝撃が強く上手く脳が働いていなかった。了見との付き合いはある意味長いが、その人柄や思考をすべて把握するにはあまりにも選んだ道が違いすぎた。本当ならいまこのように語り合うことすら信じがたいほど、ふたりの立場は相反する。それなのに了見の口調は穏やかで、ともすれば独り言のように鮮明さが欠けていた。
 戸惑いつつも遊作は、自分自身を振り返り思案する。
「〝綺麗〟と〝美しい〟は違うのか?」
「人によるだろうが……私は違うな。綺麗は客観的で、美しいは主観的だ」
「そうか」
 まるで詩人のように、疑問に対する答えはなだらかに彼の口から齎される。まるではじめから問われることを見越していたかのように、予定調和とでも言いたいのだろうか。その真意を探ろうと視線を向けても、横顔では――更に今日は月の無い夜で、星明かりと古ぼけた街灯しかないこの場所では、その表情もよく見えない。
 仕方なく、数瞬の黙考の後に結論を出した。
「…………分からない。そもそも考えたことも無い」
 思えば遊作はそういった感覚的な面を考慮したことがない。
 他人が大切にしているモノ、大衆が好むであろうモノ、客観的に美醜と評されるモノ。それらの存在を認め、それに対し人が抱くであろう感情を理解することはできる。だが、いざそれを自分自身に当てはめようとすると、想像することが出来ない――否、考えたことも無かった。
 きちんと応えることが出来ず少しばかり愁いながら告げる遊作に、了見は遊作を見ないままそうか、と感情の入っていない言葉で迎える。そこには落胆も感嘆も無く、凪いだ海の如く静かなものだった。
「私はある」
「そう、か……やはりスターダスト・ロードか?」
 了見に向けていた視線を再び地平へ。肌を撫でる優しき風に靡かれ、水面は一定の間隔で波間を描きだす。そこに淡い輝きは無い。遊作も一度だけ見たことのある現象――スターダスト・ロード。海面に星屑を並べたように煌びやかに光るその光景は、まさに彼の言う〝綺麗〟に相当するものだと知っていた。
 故にこの海と共に過ごしてきた了見にとって、かの現象は美しいものに想定するものだろうと思っての言葉だったのだが。
「……確かに、あれは綺麗なものだ。しかし、本当の美しいものでは無い」
 予想外の言葉に遊作は目を瞬かせて驚いた。
「アレですら綺麗なら、美しいなんて……難しいな」
「だからこそ、だ。思い出深いのは事実だが、感情を揺さぶられるとはまた別だ」
 そう言って、再び沈黙が降りる。
 再び了見の求めているであろう答えを探そうと自身の内面へ振り返るが、浮かび上がるものは見つからない。あるのかもしれないが、いままで意識すらしてこなかったものを見つけ出すのはまるで夜空に瞬く星のひとつへ手を伸ばし掴もうとするが如く、とてもとても遠くて難しいことだった。
 それでも彼に失望されたくなくて、必死になって頭を震わす遊作を窘めるかのように了見の息を吐く音が鮮明に響く。それにつられて顔を上げると、ちょうど彼は懐から何かを取り出そうとしているところだった。
 それは、片手の半分程度の小さな小箱のような外観で、出された拍子にぽーん、と軽快な音が木霊した。四角く閉ざされたそれから唯一伸びた金具はちょうど指で捻るような形状をしており、用途は不明だが使用方法は一目瞭然だった。初めて見るその小箱を興味深そうに覗き込む遊作を構うこと無く、了見は小箱を乗せた手とは逆の手で器用に金具を回していく。

 ――――きりり、きりり。

 金属同士が絡み合う、不思議と調和がとれた音だった。ただ回しているだけなのに楽器を奏でていると錯覚をするほど、その響きは柔らかで心地よい。聡明な遊作はその小箱が何なのかは分からないまま、おそらく歯車などが組み込まれた仕掛けの類いだろうと察した。数回転された後、了見は少しだけ躊躇うような素振りを見せた。だがそれを疑問にするよりも早く、彼の整った指先が金具から離れた。金具は一瞬だけ動きを止めると、今度は時間を巻き戻すように了見が回した方向とは逆に回り始める。
 そして、星空しかない世界に音楽という存在が降臨した。
 一音一音を正しくかき鳴らすように、手ずから用意された道順を辿るように。金属同士がつま弾く音色が響き渡る。
「オルゴール……?」
 遊作にとってそれは知識でしか知らない存在だった。いまや殆どのものが電子化されたこの情勢で、これほどアナログで慎ましやかな遊具などお目にかかる機会は無いに等しい。あらかじめ定められた音色を奏でる絡繰りの小箱は、世事に疎い遊作でも聞き覚えのあるフレーズを打ち鳴らしていた。曲名こそ思い出せないが、誰もが一度ならず耳にしたことがある曲であることは間違いない。
Twinkle, twinkle, little starきらきらぼしだ」
 了見が曲名を口にした途端、脳内で知識と繋がった。有名な童謡だった。
「これが、お前の思う〝美しい〟ものか」
 電子音では表現しきれない繊細な金属の合唱音。確かにこうして耳にするとどこか引き込まれるような印象を覚える。曲名にあるように、頭上で瞬く小さな星のようにその音色はあまりにも儚く人の手には届かない領域のものに思えた。
 それを、了見は小さく首を振って否定する。
「……少し違うな。間違いでは、ないが」
「そうか。……俺にはやはり難しい」
 そう会話をする内に奏でる音は弱々しくなり、少しの間を経て小箱は沈黙した。巻かれた捻子が戻りきったのだろう、と遊作が気付いたのは再び了見が金具に指を掛けたときだった。

  ――――きりり、きりり。

 捻子が巻かれる。無垢な演奏を響かせる前準備に過ぎないその音が、どうしてか耳に残る。ただ捻子が回転するだけの、特に意味も無い音に、何故か胸が締め付けられるような錯覚が生まれる。それはきっと、巻き続ける彼が唖然とするほど無表情だからなのか、それとも。

  ――――きりり、ぎりり。

 先程よりも多く巻かれた金具から、鈍い音が響きだした。まるで締め上げるように、悲鳴を上げるように、許しを請うように。
「どうして、そんなに巻くんだ」
 ただ音を聞きたいだけならそこまでする必要は無いはずだ、と言葉にはせずとも遊作は告げる。捻子を巻くにも限度があるだろうに、了見はそれを敢えて無視するように指を止めない。
「……巻き続けないと、曲が止まってしまうだろう」
 そう呟く彼は、やはりどこまでも無機質で。まるで感情というものを捻子に託してしまったのかと思うほど、鳴き声のように叫ぶ捻子とは真逆だ。
  ――――ぎりり、ぎりり。

 あと一回でも多く巻いてしまえば捻子は行き止まりから反発して跳ね返ってしまうだろうところまで巻き上げると、了見はようやくその指を放した。解放された金具は少しだけ躊躇うように停止すると、ようやく歌うことを許されたと気付いたのか再び夜闇に音色を届かせようと動き始めた。
 響き渡る星々の歌。遊作はフレーズこそ覚えがあったが、その歌詞は知らないことを意識する。様々な替え歌などがあるはずだが、脳裏に広がるのは音の並びだけ。この曲は何を歌っていたのだろうか。先程の捻子の悲鳴が離れず、思考をのばすと星の囁く嘆きが聞こえてくる気がした。
 先程よりも長く、それでも刹那に。役目を終えた小箱は沈黙する。それでもなお指をあてがおうとする了見に、遊作は咄嗟に待ったをかけた。
「次は、俺が巻く」
 これ以上、あの痛々しい音を聞きたくなくて。了承の返事が来るよりも早く、その掌から小箱を拾い上げた。見た目よりも重さを感じさせる箱は、中に多くの仕掛けが入れ込まれているのだろうと想像させるには十分なほど。ずしり、と遊作の掌の中で縮こまっているようにみえる。
 視線を向けても了見は相変わらず心ここにあらずのようで遊作を見ようとしないまま、置き場の変わった箱を見つめている。取り返そうという意志は感じられず、また遊作の行動を咎める気配も無い。許されたのだろうか、と様子を伺いながらも恐る恐る指先を金具へ伸ばす。日の無い時間故、金属は冷ややかに体温を奪おうとしてくる。それを振り切るように、先程の了見の行動をなぞるように捻子を巻こうとした。
 だが。

 ――――きりきり、きりきり。

 違う、と思うよりも早く小箱が歌い出す。急かされるように、追い立てられるように。歩調の合わないまばらな音は、早巻きをしているように正規の順路を駆け足で巡る。
 唐突の不和に目を瞬かせて遊作は動きを止めた。何が起こったのか、理解しかねると言わんばかりに了見へ視線を投げる。
「何故だ……?」
 それを。
「――――――フッ」
 初めて、彼が笑った姿を見た気がした。自虐を含んだ嘲笑は見覚えがあれど、このように思わず溢れたという笑み。余計な想いが無く、ただ純粋に微笑みを浮かべた了見の顔はやはりというべきか、いまは見えない月を思わせる細やかで温もりこそないもののとても綺麗だと感じる。
「時計回りに回すんだ。それでは逆巻きだ」
「ああ、なるほど……」
 気が付かなかった、と遊作は手元へ視線を落として改めて小箱を見る。確かに指先は反時計回りに動かそうとしていた。こういった形式のものは基本的に時計回りだろう、という認識が無かったのだ。
「お前はそれを逆巻くのだな」
 感慨深そうに了見が呟いた。どういう意味だ、と問いただす声は闇に溶け返ってこなかった。期待もしていなかったため、遊作は気にすることをやめて、掌に収まったままの小箱へ手を掛ける。
 もう一度、今度こそはきちんと時計回りに。

 ――――きりり、きりり。

 捻子が巻かれる。了見が鳴らしたのと全く同じ金属音が響く。澄み切った音とは裏腹に、遊作の精神はまるで縛られるかのような圧迫感を訴え始めた。金具を回せばその分、何かが絡んでくるような幻覚を浮かべてしまうほどに。それから逃れようと反射的に指を放せば、小箱はあどけない歌を披露し始める。単調なはずなのに耳に残って離れない、頭上の星々を歌った曲。
「この曲は……このオルゴールは、きっと美しいものなんだろうな」
 綺麗ではないかもしれない。万人がこの音色を好むわけでもなく、自ら捻子を巻かなければ奏でない仕様を拒む者もこの時代は多いだろう。それでも遊作はこの小さな小箱に、複数の感情を抱いたことを自覚した。
 鳴り響く曲には憧憬を、巻き上げる捻子には一抹の愁傷を、そして持ち主に対する救済の意を。
 感傷を抱くような物が美しきものであるのなら、間違いなくこの小箱は遊作にとって美しいに値する。
 けれど。
「捻子を巻く音が、苦手だな。……逆巻く方がいい音がすると思う」
 そう言って、遊作は敢えて金具を逆巻き始めた。

 ――――きりきり、きりきり。

 歌い声はけたたましく痛ましいものになってしまったが、それでも遊作の心を締め付けるような金属の悲鳴は聞こえない。けれど美しいと感じた囀りを奏でるには捻子を巻くしかなく、捻子を巻けば心が締め付けられるような悲鳴が響く。
「でもこうしてしまうと曲が聞こえない。ままならないな」
 何が違うのか、説明しろと問われても満足に答えることは出来ない、自分でも不思議な感覚だった。
 その言葉に了見は何を思ったのだろうか。ひょい、とまだ鳴っていた小箱を遊作の掌から取り上げてしまうとそのまま動き続けていた金具へ指を伸ばし。

 ――――きりり、きりり。

「……これでいいだろう」
 と、何事も無かったかのように再び遊作の元へ置いた。あまりにも唐突で一瞬の出来事だったため、遊作は一切の反応が出来ず了見の奇行を見つめるしかなかった。何故、と疑問を抱きつつも返ってこないことが既に今日のやり取りの中で理解していたため、口に出すつもりは無かった。
 それを。
「私は、巻く音の方が良いと思っただけだ」
 遊作とは真逆の感想をもってこたえた。まさか返ってくるとは思わず、目を瞬かせてみるがやはり視線は交わらない。
 それでも。
「……巻きすぎて何度も壊した。何度も改良を重ねているから多少逆巻いても大丈夫だろう」
 そうやって、本来なら必要ない情報まで付け加えるのはきっと、彼の良心からの言葉だ。以前、彼は自分自身を善人では無いと自称した。目的のためなら非道に手を染めることも厭わない張り詰めた決意を持つからこその発言だっただろうが、それでも全く良心を持ち合わせていないわけではないのだ。むしろ逆に、性質的には決して無視できずに苦悶する方で。板挟みの隙間から零れ落ちる言葉はきっと彼の本心なのだと、本人は認めないだろうが知っている。
「ああ、そうか」
 音色に合わせて回転している金具をみる。
 了見の生き方はきっと、この捻子のようにきつくきつく締め上げるようなものなのだろう。世界という綺麗な曲を奏でるためには最善の選択。けれどそれにはどうしても誰かの悲鳴と隣り合わせだ。それは被害者である遊作たちのか、生まれてしまった意志か、それとも彼自身の感情か。
 ならば。

  ――――きりきり、きりきり。

 奏で鳴り響く中、遊作はそっと捻子を摘まみ逆巻くよう力を込める。その手つきは先程よりも繊細に、演奏を強制するためではなく助力するために。少しばかりテンポアップした曲調は不快感を感じさせない軽やかな響きで違和感なく溶け込んだ。それはまるで、吹き溜まりで立ち往生してしまった者に背中を押すための一陣の風の如く。
「これなら良い」
 曲が終われば了見が捻子を巻き、流れる曲に合わせて遊作が捻子を逆巻く。こうすることでどちらも満足いく結果に落ち着けると導き出せ、満足げに遊作は呟いた。
 思えば逆巻く捻子は、遊作自身の生き方なのだろう。生きるため、戦うため、成し遂げるため。立ち止まる時は許されず、ただ進み続けることしか出来ない。世界という曲を足早に響かせるために風に乗って。それでもきっといつか救われることを信じて、救えることを信じている。

 ――――きりり、きりり。

「好きにするといい。私にはもう必要ないものだ」
 そう言って最後にもう一度だけ捻子を巻くと、了見はもう用はないと言わんばかりに遊作へ背を向けた。
「そんな、駄目だ」
「必要ないと言った」
 了見の背に向かって小箱を差し出すが、見ようともしない彼からは強い拒絶が伝わってくる。数秒のやり取りの後、演奏が終了したのを皮切りに遊作は一先ず預かる、とだけ口にした。それで本当に良かったのかは分からないが、ただこの場に置いていくようなことは出来ない。それを認めた了見はそのまま足を進め始めようとしていた。だが、ひとつだけ。遊作は了見に問わなければいけないことが残っている。去りゆく背中に、最後の言葉を投げかける。

「……お前にとって、本当に〝美しい〟ものとは何だ?」

 了見は確かにそれがあると告げた。このオルゴールではあるが、それだけではないと。まだ完全に美しいの定義を理解出来ていない遊作には分からなかったが、彼が出した答えを知れば掴めるかもしれないと思ったのだ。
 深まる闇よりも重く沈黙がのしかかる。静止した了見は、そのまま溶け出してしまいそうな雰囲気を纏いながら、ゆっくりと頭上へ視線を動かしていた。見つめる先に広がるのは、星の海を湛えた遙か遠き果ての宙。その無数の輝きこそ、と言いたいのだろうかと遊作も釣られるように顔を向
ける。
 その時。

「この曲は私にとって――――問いであり、支えであり、想いを巻くものだった」

 それはまるで歌うように。
 オルゴールは状態こそ綺麗なものだが改めてよく見ると外観はどこかくたびれていて、金具は何度も交換されたのか不自然なほど真新しい。調律もされているであろう演奏は滑らかで、どこかチグハグな印象を覚えるのはこれが年季の入ったものだと示唆しているのか。了見が何時からこの小箱を所持していたのかは不明だが、少なくとも年単位であることは間違いない。その間、それこそ何度も改良を重ねるほどには捻子を巻き、ずっとずっと――――宝石のように煌めく小さな星の名を問う歌を聴き続けていたのだとしたら。
 捻子を巻き続けた先で運命に囚われた片割れの名を知った瞬間、このオルゴールは了見にとって本当に美しいものに成ったのだろうか。
「……お前は、それをどうする?」
 そう言って了見は、今日初めて遊作と視線を交えた。月の無い夜にぼんやりと浮かび上がる双眸は、まるで歌われる星々のように煌めいている。その名を問う必要は無く、だがそれ以上のことは何も知らない。ここから始めようと伸ばした手は、未だ行き場を見失ったまま。

 ――――きりり、きりきり。

 巻いて、逆巻いて。
 ふたりの距離は星と星よりも近く、けれど目指す場所は夜空よりも暗く不透明で。想い合うのは同じでも、いま歩んでいる、進むべき道はどうしても重ならない。
 だからこそ。
「わからない……けど、俺は諦めない。何度だって逆巻き続けてみせる」
「そうか」
 このオルゴールはいつかきっと遊作にとっても本当の美しきものへと変わるだろう。すべての苦難と想いを受け止めた先、手を取り合える未来を導いたその末に。
 その往くべき道を、名も無き小さな星の輝きだけが照らし続ける。


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