細氷を掴む
────しん、しん。
路地を照らす茜色が弱々しく沈んでいく頃、頭上に重く横たわる空から白い結晶が降り始めた。
「……通りで寒いわけだ」
思わず零れ落ちた言葉も白く、顔に掛かる息の暖かさに目を瞬かせる。急激に冷え込んだものだ、と振り返るが、もとより暦の上ではとうに冬を迎えて久しい。VRとネオンライトに包まれた都市は比較的気温や気候が安定しており、季節を肌で感じる機会はそう多くない。
だから、こうして季節を象徴するような気候の体感も珍しいもので。
────しん、しん。
雪が、降っている。
真白の結晶は肌や服にあたればたちまちに溶けて水となり、それもさらりと流れて跡も無く消えていく。儚い幻想のようだ、と柄にも無いようなことを考えてしまうのは、寒さで上手く頭が働かないからだろうか。
「……さむい」
ひとり呟いた白い息はすぐに消えるものの、その音は意外なほど長く耳に残った。いつもならば雑踏の狭間に埋もれ、自らの耳にすら入るかどうかも分からない細やかな声だったのだが。
そこまで考えたところで、ふと気付く。
「静か、だな」
再び己の声だけが宙に浮かぶ。そう、いま発した音だけが、くっきりと。
いつもならば車の駆動音、人々の足音、周囲の建物から零れる生活音など、何かしらの音が耳を打つはずなのだが、いまこの場にあるのは意志を持って発せられた声だけ────否。
正確には、もうひとつ。
────しん、と。
空の結晶が降りしきる、静かな細めき音が静寂を生んでいた。
「雪は、音を吸収するんだったか……?」
いつ得たのか朧気な知識を脳から引っ張り上げる。雪が空気の振動を吸収するため、雪の日は静謐に包まれるのだという。
だからか、らしくもない感傷が胸に浮かんだ。
「まるで、世界にひとりきり……みたい、だ」
声に出す必要などないはずなのに思わず零れ落ちた言葉は、ただただ静かな白い世界にぽつり、と取り残されて。反響も、相槌も、返事すらあるはずもない。
故に、その言葉を静かに肯定するかの如く。降りしきる雪が夕暮れとネオンライトに照らされて、まるで綺羅星のように輝く都市の真ん中で。
藤木遊作は、ひとり──世界に取り残されている気がした。
「…………」
そんな仄暗い幻想を振り切るように、ゆるりと首を振りながら遊作は前を向き。
────さく、さく。
「あ……」
遊作だけだった世界に、誰かが静かに浸入を果たしていたことに気付く。反対方向から、道端を白く染め上げつつある雪を力強く踏み、足跡でわだちを築き上げながら。
それは、細氷のような男だった。
氷晶の如き瞳に、銀雪を思わせる髪。少しばかり黒を帯びた肌は、雪解けを待つ大地のように生の息吹を強く感じさせる。儚さとは無縁そうでいて、ふとした拍子に何処かへ消え失せてしまいそうな、不思議な人物。
けれども、いつだって彼は遊作の居場所へと唐突に現れる。
「了見」
そんな彼の名を白い息と共に呼ぶ。
応えてくれるだろうか、という欲を帯びた声色なことに気付かれたくない想いと、孤独からの解放を求めた無意識からの願いの狭間に揺れた声だった。
それを受けた彼は。
────さくり、と。
遊作の姿を認めたように、その足を雪の上に留めた。視線は鋭く、それでいて氷のような冷たさは纏っていない。ともすればその場で溶けていきそうなほど無色透明な気配に、音が響かなければ目の前の彼は幻覚であると思い込んでしまいそうで。
「──っ」
咄嗟に伸ばしかけた手を、止める。
そう、彼はまさに細氷だ。一時の夢のような、美しくも厳しい環境下に現れる凍てついた空気の結晶。だからもし、人が触れてしまったのなら──溶けて、この場から消えてしまうかもしれない、と。過った思考が遊作の腕を凍らせてしまった。
それを見届けながら、了見は。
「…………行くぞ」
そう言い放つと、先ほどまで自ら築いてきたわだちを辿るように、ゆるりと踵を返す。
────さく、さく。
白き地を踏み越えて、彼は歩き出した。細氷が、その囁く音と共に遠ざかっていく。その姿に、思わず身体が動き出す。
「あっ……ああ!」
止まっていた刻が進み出すように、足が彼の影を追う。吐く息で視界が埋まりながらも、ただひたすらに前へと。
そして、無意識のうちに伸びた右手が。
────ぱしり、と。
「────あ」
了見の左手を、掴んだ。掴めて、しまった。
「……っ、……」
ぴくり、と少しだけ動揺でもしたのか、了見の腕が揺れた。しかし振り払うような素振りは見せず、咎めるような視線も飛んでは来なかった。足も止めるつもりはないようで、そのまま遊作は了見に手を引かれるような形で歩みを続ける。
「…………」
遊作の視線は、己が伸ばした右腕から離せない。
細氷は、消えずに残ったままだった。触れてしまえば溶けて、流れて、去ってしまうとばかり思っていた遊作の想像を、いとも容易く裏切って。
それどころか。
────きゅっ、と。
「────っ!」
右の掌に自分以外の体温を感じた。握り返されたのだ、と気付くのと同時に、ようやく思い当たった。
「……あったかい」
細氷は、凍てついているわけではなかったのだ。凍てついているのだと遊作が思い込んでいただけで。
だから、もう。
こうして手が触れても、駆け寄ろうとも、そして──隣に並んでも。決して溶けずに、消えずに、共に歩めるのだ。
ようやく気が付いた遊作は、足下の新雪を踏み越えて了見の手を強く掴んだ。じんわりと熱が灯るのは、身体と心の両方で。
「了見の手、あたたかいな」
足音が、呼吸が、心音が、ふたつずつ。空から降り注ぐ白に飲み込まれず、消えるはずもない、確かに存在する、あたたかな音が世界に木霊して。
「おまえが冷たすぎるんだ」
「そうか……そう、だな」
遊作は決してひとりではない、と伝えてくれていた。それが心から嬉しく愛おしいと想う。
────きらり、きらり、と。
静けさと宵闇が都市を包んでいく中、あたたかな細氷の囁きに耳を傾けながら、遊作は小さく微笑んだ。