瑠璃の花を手折る夢
2019.09.23発行のWeb再録版
本編103話前後からのIF
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◇断章 唯識
――――きらり、きらり。
零れていく金の尾を引いて。砕けていく身体から目を背けて。虚空に翼をはためかせて。
一羽の鳥が蒼穹を往く。行き先はひとつ、けれどもその道程は果てしなく険しいもの。長い時間をかけ、己が持てる力を全て費やし、愚直なまでに正直に、真っ直ぐにその場所を目指す。
その最中、ふと。
不意に地上へと向けた視線の先、遠い遠い世界であるその場所で。
一輪の花が、咲いていた。
瑠璃の空を映した花弁を綻ばせ、細い茎と葉を新緑色に彩り、孤独でありながらも大地に力強く根を張って。
懸命に咲き誇る、名もなき花があった。
天を仰ぎ見ながら自らの存在を、生き様を訴えかけるように強き意志を宿したその眼差し。可憐で稚い姿からは想像も出来ないほど、花は生きる力に満ち溢れていて。
天と地、それは遠く離れすぎた世界。伸ばした程度では永劫に届かず、刹那の邂逅では記憶に留まらず、微睡んだ夢でのみその存在を知っていたと悟る。
――――そう。それだけで良かったのに、と。
先の見えない空を裂き渡る鳥は己自身にそう嘯く。
知らなければ、出会わなければ、運命を拒めば。この身が砕けることもなければ、継いだ金を零すこともなければ、こんな悪夢に苛まれることもなかっただろうに。
それでも。
ふわり、と羽を休めに地に降りたって。気まぐれに嘴を伸ばして。揺さぶられた感情のまま。
「――――――――」
食む。空を目指した茎を、朝露に濡れた葉を、全てを受け入れる瑠璃色の花弁を。すべからく手折り、喰らい尽くした。
花は悲鳴を上げることもなく、ただ視線だけは鋭く睨み、強く何かを告げていたようだったが、鳥の耳に届くことはなく。花は無残にその身を散らした。
その残骸を見て、鳥は。
――――きらり、きらり。
砕け、継いだ金すら零れ落ちていく自身の欠片を思い出し、幾度目かも分からなくなってしまった後悔に沈む。
「……どうして」
虚空に呟かれた疑問は波紋となりながら、静かに際限ない空間に溶けていく。
追憶するのはすべての始まり。地に咲く名もなき花のことなど知らないまま、運命だと気づかずにいれば。何処までも広がる蒼穹を、心のままに飛んでいけてたのであれば。
――――きっと、お前は幸せなままでいられたのに。
これは、砕け散った鳥の欠片が見た、愚かな夢の話。
◇壱 舌識
数字で構築された虚構世界、電脳空間からの帰還は時折、フラッシュバックという障害が発生する。没入するタイプのVRが主流となった今、大半の人間は身体と精神が分離した状態で様々な体験をすることになる。リアルな感覚を追求し、脳にそのような刺激を与えることは出来ても、休眠状態にある肉体に直接ダメージがあるわけではない。その辻褄合わせの為に起こるのがフラッシュバックだ。技術が未完成であった頃ならば、受けた衝撃がそのまま跳ね返り、心身共に重大な影響を及ぼしていただろう。だが既に時は巡り、全てのVR機器にはある程度の抑制プログラムが組み込まれた今、日常活動に支障が出る程のダメージは脳に残らないようになっていた。勿論、その仕組みを突破する違法プログラムも無数に生み出されており、逆に刺激を求めて自ら制御を飛び越えるほどの愚行に走る者も存在する。
だが、それらをも上回る事態に遭遇するとは、誰しも想像していなかったであろう。
「………………っ」
意識が浮上し、現状を把握すべく目を開いた瞬間、鴻上了見は名状しがたい違和感に襲われ荒い息を吐き出した。
それは乗り物酔いのように地に足がついていない感覚と、まるで脳を掻き回されたように定まらない視線と揺れ動く視界。込み上げる吐き気を抑えるべく咄嗟に口元へ当てたはずの手は空を切り、あらぬ方向へ伸びていく。鳴り止まない耳鳴りに、冷や汗が滴る嫌な感触。胃酸の味が広がった口内に、極彩色にギラつく世界。
五感全てが変調を訴えている、と気付いたときには床に倒れ込んでいた。状況を認識するのに数分、身体を起こし立ち上がれるようになるまでには更に数十分を要した。
「なさけ……ない、な」
悪態すらまともにつけぬまま、了見は自嘲の笑みで顔を歪める。このような状況に陥った原因は一目瞭然だった。
ほんの数時間前まで、人間と意志を持ったAIによる壮絶な争いがネットワーク上で繰り広げられていた。了見――ハノイの騎士のリーダーたるリボルバーはその最中、光のイグニスと相打ちとなり、その意識データを空間に散らした。油断も隙も見せていなかった。戦略的な落ち度は無く、対策は万全であった。それでも勝利を掴めなかったのは、敵の覚悟を見誤っていたことに尽きる。悔やむ気持ちはあれど、自分でも驚くほど素直に消滅という結果を受け入れられたのは、偏に後を託せる相手が側にいたことに他ならない。結果、彼は成し遂げることが出来た。
自らの手で未来を掴むことは出来なかったが、それ故にこうして帰ってこれたのだろう、と了見は悟る。もし了見がリボルバーとしてかのAI――ボーマンと対峙していたならば、失ってしまった人々の意識が返還されるような結末を導けたか、と問われれば、否と言わざるを得ない。ハノイの騎士としてイグニスの抹殺を掲げ、そのためになら衆生の犠牲をも許容する。決して善に成れぬ立場だった。勝利こそ得られようとも、続いていく未来はこうも喜ばしいものにはならなかっただろう。
だからこそ、自らの手で最善を導き掴んだ宿敵にして運命の存在たる彼――プレイメイカーに称賛の意を送り、静かに帰還したのだが。
「――っ、くぅ……」
苦悶の呻きを押し殺しながら、ふらつく手足を叱咤させる。
これらのフラッシュバックの原因は、了見の意識データが一度霧散したことに起因しているのだろうと推測する。温情か、慈悲か、むしろ悪意か。ある種の〝死〟を経験したに等しい状態での帰還。ハノイによる制御が加わった機器を用いていたためこの程度で済んでいるのだろうが、凡人なら一歩間違えれば脳死してもおかしくないほどの負荷が掛かったのだろう。少なくとも意識だけはハッキリとしている現状を幸運と思わねばならない、と了見は歪み痛む頭を押さえながら苦しげに息を吐いた。
「……っ、他の……彼奴らは――」
確かめねば、と思い立った矢先に、部屋の扉が激しくノックされる。返事をする間もなく入ってきた、青い顔をしたスペクターとドクター滝の姿に、了見はようやく安堵の笑みを取り戻した。
「其方も、特に異常はないな」
「…………あ、ああ」
陽が陰り始めた頃合い。少し前までなら多くの人で賑わうパブリックビューイングも、今は目玉であった巨大スクリーンが沈黙を保っているからか、通り過ぎる影は多少あれど居座る者は少ない。先の戦いを受け、リンクヴレインズが閉鎖されてしまったためギャラリーとなっていた人々の姿が消え、がらんどうの広場となっている。そんな場所で、オープンこそしている
ものの客数は望めないと知っているからか、カフェナギに立っていたのは遊作ただ一人。店主である草薙は弟の元へ、仲間である尊は課題があるからと学校で別れたきりだった。
そんな中、唐突に現れ、碌な挨拶もせずに告げられた言葉に反応が遅れたのも致し方ないことだろう、と遊作は内心で言い訳じみた弁明を零す。
店先でトングを遊ばせていた遊作へ、威圧と警戒、そして可能な限り薄めた深憂を滲ませた気配を纏いながら、ひとりで。鴻上了見がその姿を見せていた。
彼がカフェナギを訪れたのは初めてではないものの、立場上、もうこうして現実世界で会うことは難しいだろうと半ば諦めていた矢先だったこともあり、遊作は驚愕からしばしの間、戸惑いからまともな言葉を返せずにいた。
「他の者たちにフラッシュバックなど起こってないか」
「と、特には無い……はずだ。草薙さんも尊も、知る限りでは生活に支障は無いように見える」
他に客もいないので、席に腰を下ろした了見へコーヒーをマグカップで提供しながら、彼の問いへ応える。少しばかり非難じみた視線を送られたが、正体を明かしてから了見は一度もカフェナギの客として訪れたことはない。負い目か、線引きか。口に出して言われたわけではないが彼自身、何か思うところがあるのだろう。そう遊作が考えた末の行動だった。
「…………なら、いい」
迷った様子だったが、出された物を無下に扱うことは出来なかったのだろう。渋々といった様子で口を付けた了見に、遊作は張り詰めていた精神が少しだけ和らいでいく安堵を覚えた。
ボーマンとの対決から数日が経過している。彼らが刻んだ爪痕は、未だ多い。閉鎖されたリンクヴレインズに加え、相棒を失ったソウルバーナーやブルーメイデンの心の傷、そして――姿を消したAiの存在も、そのひとつ。迎えた結末がイグニス達の消滅、といった無残な結果だったため、Aiの心情は想像も出来ない。だからこそ、相棒たる遊作は再び姿を現すまで、何かしらのアクションを起こすつもりはなかった。もし助けを求めに来たら手を貸し、過ちを犯そうとしていれば理由を聞きに、そして金輪際、人間と関わるつもりがないのであれば――その意志を尊重する。そんな決意を密かにしていた。
そんな中、軟化したとはいえイグニスという存在と敵対するリボルバーたる鴻上了見の姿が現れたので、何か重大な事柄が生じたのだろうか、と不安を覚えたのだが。当の了見の様子はいまいち緊迫性に欠けていた。警戒こそしているが、どちらかと言えば遊作などの〝外〟に向けられたものではなく、了見自身の〝内〟に対してのように感じられた。そして、それに起因
したであろう違和感を遊作は了見に対して感じ取っていた。だが、それが具体的にどんなことなのか、というところまでは届かなかった。
「正直、もう来ないと思っていた」
「……ああ。来るつもりはなかった」
思わず零れた思考に返された言葉は予想通りで。それ故、尚のこと違和感は広がっていく。
彼の言葉の通り、遊作と了見はどうしようもないほど運命に雁字搦めになっている存在でありながら、どう足掻いても交わることの出来ない立場にいるもの。共に歩みたい、という願いは変わらずあるが、その道程は遠く厳しいものだった。もっとも皮肉なことではあるが、了見が討つべき人間へ悪意を向けていたイグニスは消滅した。その戦いの最中で唯一残されたAiに対して少し印象の変化があったことも踏まえると――遊作が思い描いた未来は、予想より近いのかも知れない。
そんな期待を胸に抱くことを糾弾しにきたのかと思うほどタイミング良い邂逅。まさかそれが真実とは到底信じられないが、少なくとも顔を見せに、というだけでリアルで接触するような者ではない。恐る恐る、了見の狙いを聞きだそうと言葉を考える。
「何かあったのか?」
「…………何も」
声はどことなく弱々しい。体調でも悪いのか、とそっと探るように視線を向けるが、多少の観察程度で見抜けるとは思えなかった。付き合いが長いとは言えず、よく知っていると断定も出来ない間柄だ。少なくとも他人に弱さを見せるような人間でないことは確かなので、一筋縄ではないことしか分からなかった。
「――――」
「あっ、コーヒーの代金は気にしなくていい。草薙さんからのサービスだ」
一口付けただけで動こうとしない了見へ、気になっているのかと遊作は声を掛ける。犯罪組織のリーダーであるにも関わらず、どこか律儀な一面がある彼なら懸念に思ってもおかしくないのだろう。最も、遊作の言葉は半分ほど正しくない。正確にはコーヒーの無償化は遊作と尊に与えられた報酬。草薙は了見――ハノイの騎士を完全に受け入れているわけではない。ただ、
先の戦いで協力し合ったことと、ロスト事件そのものに了見は関わっていない事を踏まえ、また店先に現れたらお礼がしたいという旨を話していたのは事実。遊作の独断ではあるが、何か言われることはないだろう。そう考えての行動で。
それを知らないはずなのに、了見の動きは恐ろしく緩慢だった。遊作の視線を受けてか、再びマグカップを口元へ運ぶものの、触れる直前で唇を離してしまう。飲んだふりとしては見事なもので、違和感が気になり彼を注視していなければ見抜けなかったかもしれない。
「…………」
何か間違ったものを提供してしまっただろうか、と遊作は頭をフル回転させ行いを省みるが、特段変わったことはしていない。バイトを始めてすぐならいざ知らず、既に草薙の指導を受け数ヶ月が経っている。光のイグニス捜索の合間も時間を作って勤しんできた遊作のスキルは熟練とは言えないが新人は卒業している。そう粗相をすることはないのだが。
そうこう考え込む遊作を差し置いて、当の本人は相変わらずどこか曖昧な気配のままカップをテーブルに戻した。相変わらず中身の量に変化はない。立ちのぼっていた湯気がほどんど見えなくなりつつあるので、外気温によって少し冷めてきているのだろう。
今の季節は秋から冬へと移り変わりつつある頃。アイスを出すには少し厳しくなってきたため、特に意見も聞かずホットを提供したのだが、もしやそれが間違いだったのだろうか。
「淹れ直そう。何か他の要望があれば言ってくれ」
そう、遊作は半ば引ったくる勢いで了見の前からマグカップを回収した。店員にあるまじき対応だが周囲に人影もなく、了見から金銭を徴収したわけではないので構わないだろう、と毅然としたまま店内――車だが――へ戻る。軽く洗い流し、折角なのでとほったらかしにしてあった機材を動かす。特にリクエストが飛んでこなければ同じようにコーヒーと、試しにホット
ドッグを出してやろうと思いついたのだ。了見は草薙が作ったホットドッグは何度か食べに来ていたが、遊作が作った物はまだ食べてない。どんな感想が得られるか興味があった。
そう、遊作が画策していると。
「……ひとつ、確かめたいことがある」
がしゃり、と扉が開閉される音に顔を上げると、了見が後ろ手で扉を閉めているところだった。どうしたのか、と目を瞬きさせている間にカウンターをも慣れた手つき――触ったことないはずなのに――で閉ざしてしまう。昼間だからと車内の照明は灯されておらず、日差しを遮られたため暗闇で満たされた。もっともそれは一瞬限りのことで、機材の明かりや隙間から入り込む外の光で了見の顔を見る程度なら容易かった。
「外では出来ないことなのか」
了見の突拍子もない行動に、遊作は機密性を保つ必要があるのかと推測した。ならば外のテーブルでの違和感も納得がいくかもしれない。人通りがないとはいえ、いつ誰が聞き耳をたてているか分からない外野に面した場所では難しい話があった、と考えればこの状況にも説明が付く。
「…………そうだな」
対する了見は肯定こそしたものの、やはりどこかぼんやりとしたまま。ただ、暗闇の中で揺れる薄氷の双眸がいつにも増して鋭く煌めいているような、そんな錯覚を見た。
「わかった。だがその前に――」
それは、まるで子供じみた悪戯で。
薄暗い視界を利用して、遊作は素早く了見の眼前に出来たてのホットドッグをずい、と突きつけた。
「俺が作った。良ければ味の感想を聞かせてほしい」
思えばそれは、遊作がまともに抱いた初めての我が儘なのかもしれない。他人が他人へ何かを施すこと、それを美徳と思う感覚はあれど、それを今までは自分自身に当てはめることが出来なかった。プレイメイカーとしてリンクヴレインズを救ってきた今までの功績も、すべて自分の利益のためだった。結果的に相手のためになるよう動くことは多かったが、どれも副産物的で。だからこそ見返りを求めたことなど一切無く。
故に、遊作は初めて了見へ感想という見返りを要求した。純粋な好奇心と、環境の変化、そして――得体の知れない違和感に当てられて。
それを。
――――がぶり、と。
了見はまるで眠りに入るかのようにゆっくりと瞼を下ろしながら、遊作が差し出したホットドッグへそのまま齧り付く。麗しい見目からは想像できなかったほど大きく開いた口は、普段意識することのない彼への認識――二つ年上の成人に近い男性だ――ということを改めて訴えかけてきた。そしてリアルで顔を合わせる度に感じていた、礼儀正しさや品のある仕草といった心身に染みついていた育ちの良さを投げ捨てた行動に、遊作は釘付けになるのと同時に意識が飛ぶほどの衝撃を受けた。
「な――、え……?」
予想では、食べて貰えたなら目標達成で、感想は気まぐれとよほど感性に合わない限り貰えないだろう――というのが遊作の見立てだったのだが。幻覚か、と自身の認識を疑うものの、目の前にいるためか咀嚼音まで詳らかなこの状態では、理性が狂っていない限り現実であると認めざるを得ない。
そう、まさか本当に、了見に遊作自身が作った物を食べてもらえたのだ。
ならば、と。
「――――っ、ど……どう、だろうか?」
早急に意識を切り替える。第一目標が達成された今、次の段階を望むのは必須。高鳴る胸をおしながら、遊作は少しばかり上擦った声で出来を尋ねる。
すぅ、と再び現れた瞳はどこか透明感が増したように深みを帯び、制御された意志を象徴する冷ややかさが転じ、無機質から滲み出る神秘的な何かを覚えるような、そんな違和感。ぞくり、と背筋を伝う悪寒にも似た気配に、思わず後ずさりをしかけて。
「……っ」
再び行き場をなくしたままだったホットドッグに齧り付いたかと思うと、そのままの勢いで了見は一歩踏み出した。当然、真正面には遊作が立ったままであり、元から頭ひとつ分程度にしか空いてなかった距離が一気に迫ってきた、と認識すらする暇も無く。
――――ぴちゃり。
湿った粘膜に触れる音がした。情緒も趣も無い言葉だが、あまりの出来事に遊作の脳はそれ以上のことを理解することを阻んでしまったようで、ただ口元に突然触れた熱源の存在がひどく生々しい事くらいしか分からない。開かれた瞳に映す色が何なのか、それに気付くよりも先に、唖然と開いたままだった小さな口を割り、ぬるりと押し入ってきた侵入物に混乱は極まる。
「――ふ、ぁっ……!?」
能動的に動くぬめりを帯びた物と、固形と流動の中間くらいの質感をした物。認識して程なく広がった酸味と水気混じりの慣れ親しんだ味わいに、片方の正体は察することが出来た。
けれど、どうしてこんな状態に陥っているのか。
「ぅ、は――ぁ……んんっ」
軽く咀嚼された食事を口移しされている、と遊作は酸欠になりかけた霞がかった思考で現状を客観視しようとする。まるで雛鳥になった気分だ。一切の機能を忘却した口から下は入ってきた食物の処遇に惑うばかり。それを分かっているのか、こちらの意思を無視して動くもう一方の侵入者は甲斐甲斐しく咀嚼を促しながら遊作の歯を、舌を、口内を撫で上げる。ぐちゅ、と品の無い水音が耳の奥に響き、どうしようもなく羞恥心をかき立ててくる。
「ん、く――――っは、ぁ……!」
無我夢中で喉を鳴らしながら飲み込むと、よく出来ました、と言わんばかりに力の抜けた舌をずるり、と絡め取られた。今更それが何か分からないほど無知ではなかったものの、絶えず脳裏に浮かぶのは疑問符だった。
確かに二人は互いに対して〝愛〟を覚えている。親愛、友愛、そして情愛。世間から見ればその関係性は俗に言う〝恋人〟に値するのかもしれない。勿論、それを双方告げたことは一度たりとも無く、その表現を用いることは今後ともおそらく無いだろう。どちらも互いにとって唯一の存在であることに執着はあるものの、それ以上を求めることはせず、ただその感情を向
け合うだけで完結されていた間柄であったのだ。
なのに。
――――ぐちゅり、と。
五感を犯し続けるこの行為の意味を、遊作は理解出来ずにいた。
こんなことをする人間だっただろうか、とそんな疑問を抱かずにはいられない。不快なわけでは無い。混乱こそしているが、少なからず遊作も情を持ち、愛を秘めている。拒否するほどのものではなかった。だが、了見はどうなのだろうか。彼は遊作との接触を拒んでいると思っていた。これまでは現実で会う必要性があった。けれど、もうその心配は無くて。もう一度こうして会えただけでも僥倖なのに、と。ぐるぐる同じ思考が巡って返る。
「……っふ、ぅ……んっ」
合間に生じる互いの境界から艶を帯びた吐息が零れ落ちる。既に口から消え失せた酸味の代わりに、陶酔するような蕩ける甘味が広がる。未だ味わったことは無いが、大人が絶賛する美酒とはこのような味なのかも知れない。
ぬめり動く侵入者に翻弄されるがまま、転がされ続けて、ふと。
――――ぴしり、と。
繊細で、悲痛で、幻想のように淡い悲鳴が聞こえた気がした。
その刹那。
「――――っっ!」
名残惜しそうに音を響かせながら唇が離れていく、その最中。まるで硝子を舐めたような亀裂を味わう感覚に襲われ、遊作は咄嗟に痛みに瞬いた。数度の暗転から視界を取り戻したとき既に了見は遊作から数歩の距離をおいていた。まるで、先程までの熱は幻だった、とでも言いたげな顔持ちで。
そして。
「…………美味かったか?」
なんて、何のことを指しているのか。それを理解するのに、また数度の瞬きする時間が必要だった。もし、これが普通の感性を持つ人――草薙や尊のような――ならば、この発言に怒りを抱いても致し方ないと思うほど、常識から逸脱した言葉。元より味の感想を尋ねたのは遊作の方なのだ。それも聴きたかったのは了見が抱いた感想であり、お世辞や謙遜など心ない言葉は必要としていない。それを分かっていながら、了見はホットドッグの価値を遊作へと委ねた。
本来であればここで怒りや失望を露わにすべきだったのだろう。それがコミュニケーションになる、ということを遊作は知っていた。それが発端で関係性に罅が入るかもしれないが、少なくとも感情を優先したやり取りというのは得てしてそういうものだ。
けれど。
――――ぴしり、と。
耳に残る、細やかな響き。悲嘆を奏でる音色のような、言葉にならない叫びのようなそれが、遊作に次の言葉を紡がせない。もし告げてしまえば大切な何かが壊れてしまう、そんな予感。
遊作の直感、予感はよく当たる。秀でた観察力から齎される憶測は、時に簡易な未来予測となり得た。人間関係という複雑怪奇な輪の中で、周囲との断絶を覚えながらもこれまで日常を送る上で問題なく過ごしてきた一端はこの能力にある。だからこそ、遊作は自分の直感を疑うことはせず、よほどのことが無い限りは従うようにしてきた。勿論、今回も。
「あ、ああ……草薙さんの物には当然劣るが、上手く出来た方だと思う」
正直、先程口に入ってきた物の味など覚えているわけがない。侵入物に気をとられすぎて、何時飲み込んだのかも定かでは無い。だが、そんなことを言う必要は無いだろう。代わりに作りながら感じていた出来映えのことに焦点を置いて返答した。
それを受けて、了見は。
「――――――、……そうか」
そう、僅かに頬を崩しながら、遊作の言葉を噛みしめているようだった。
それはまるで、自分自身ではもう分からなくなってしまった感覚を、遊作の反応を通して必死に思い出そうとしているかのように。
その後、特にリアクションがあるわけでもなく。気ままな風のように、ふらり、と了見は姿を消した。意外と言うべきか、食べかけだったホットドッグはきちんと持ち帰ったらしく――正直あれ以上食べてもらえるとは思ってないが――遊作の手には残されていなかった。
「……感想、聞きそびれた」
夕暮れが迫る中、閉店準備のため店の前に広げられていたテーブルなどを片付けながら、ようやく鮮明になった意識で始めに思ったのが、そのことだった。
無意識に自身の唇へ、指を当てる。もうホットドッグの風味も、他人から感じる熱も、縦横無尽に動く侵入物も、何もかも残っていない。
けれど。
――――ぴしり、と。
こびり付くような残響と、舌に走ったあの痛覚だけは、忘れられそうにもなかった。
◇弐 鼻識
空気に乗ってふわり、と鼻孔をくすぐる馴染みのない香りに、遊作はきょとんとしたまま対象を凝視した。
「……草の匂い」
「相変わらず情緒がないな」
呆れを隠そうともしない声色で応えた了見は、その顔にはある意味似合わない大輪で作られたとりどりの花々を抱えていた。
くるくると巡る日々の中、二人は数奇な縁を伝い、何の因果かこうして揃って出かけていた。切っ掛けは単純だった。学校の課題で苦戦していた遊作へ、偶々ふらりと立ち寄った了見が助け船を出したのだ。
課題のテーマは――自然とVRの調和について。後者だけならともかく、根っからのインドア派である遊作にとって、自然とは未知を示す言葉も同然だった。
「草も花も、区別なんて分からない。どれも同じだろう」
そんな事を零した結果、普段なら絶対に選択肢に上がることのない場所――植物園にて、このご時世では意識することも忘れられつつある緑豊かな存在に目を向けている。
「しっかり学べ。学生の本分を果たすと良い」
なんて、年上顔をしながら――実際年上なので言い返せない――了見は、アバターの時によく見せていた悪意を滲ませた笑みを浮かべている。久方ぶりに見たその表情に懐かしさを覚えつつも、例えようのない苛立ちが燻るのを止められず、遊作は苦虫を噛み潰したような顔をしてしまうのだった。
「というか、よくこんな場所を知っていたな」
この植物園はデンシティから少し離れた地区にあり、一般向けの開放こそしているものの本領は研究施設になるらしく、二人を除いて周囲に人影は殆どない。来る前に一応、ネットで施設に関する情報収集も行ったが、認知度が低いためか詳細なデータは少なかった。仮にも博士であった父親関係からか、とも考えたが、向こうの専門は電子工学やAIだろう。遊作の知る限りでは、了見と植物が結びつかなかった。
そんな問いに、了見は何のこともないような素振りで。
「スペクターが好きでな。時折、付き合いで来たことがある」
その答えは予想外でもあり、同時にとても納得がいった。事情は知らないが、了見の従者たるスペクターは植物に軒並みならぬ想いを抱いていることは、相対したデュエルで嫌と言うほど味わっている。
「なるほど……」
そうしみじみ呟きながら、ふと思う。
――――遊作は了見のことを知らない。
名を知っている。因果を持っている。一言では表せない想いを抱いている。けれど、それだけだ。遊作は自分が思っている以上に了見の事を知らない。
例えば、彼が何を好んで食べるのか。お気に入りの場所は何処なのか。何気ない日常をどうやって謳歌しているのか。無いとはいえ、第三者に問われれば遊作は沈黙するしかない。機会を作ろうと思えば出来ただろうに、その努力を怠ってきたのは己の選択だったからだ。
遊作にとって了見は、始まりの象徴。救いの声を差し伸べた、目に見えない友。その立場から一歩でも進むことを夢見ているのは事実でも、そのことで彼を縛ることだけはしたくなかった。自ら死に向かうのを止めはするが、絶対に隣にいてほしいわけでは無い。遊作が想いを向けることを否定だけしなければそれで良い、とまで思っている。
知ったところでそれは精々知識にしかなり得ない。了見の会話で零れ出る、彼と密接な関係を築いている人物たちはそれを経験し、思い出として共有している。その領域に遊作は決して入り込むことは出来ない。
だから。
「……なんだ、行かないのか」
立ち止まってしまった遊作の数歩先で、了見が気付いたようにこちらを振り返りながら呼ぶ。澄んだアイスブルーの瞳が、まるで水晶のように多面に光を反射しているような光を灯すその輝きに。
――――ぴしり、と。
玲瓏として響くその音を、決して目を逸らさずに見届ける決意を固めた。
その音は、遊作にしか聞こえない。あの日――了見と現実で再会した日からずっと耳の奥底で響くその音の正体を、遊作は未だ掴めないでいた。他の人にはおそらく聞こえていないのだろうが、了見と共に行動している間にしか発生しておらず、本当にそうなのか確認できていない。少なくとも関係が一番ありそうな了見は反応こそ無いものの、遊作が違和感を絶えず覚えるほど不可解な行動が目に見えて増えていた。
そう、例えば。
「――――ほら」
ずい、と顔面に迫られる花。瑞々しい花弁の色鮮やかさに目を引かれるのと同時にふわり、と芳しくも慣れない香りが鼻を擽る。あらゆるものがVRへと移行してしまったデンシティにおいて、もう無いにも等しくなってしまった生きた植物の匂い。
「リンクヴレインズなどの空間没入型VRであればある程度可能だが、街中を彩る投影型VRではまだ香りの分野は完全再現が成されていない。……使い古された内容だが、このあたりを題材にしておけば及第点くらいは取れるだろう」
確かに、ここを訪れた本来の目的は遊作の課題を完成させるためだ。だが、それに了見が手を出したのはきっと別の目的がある。平時であれば、了見は不躾に人の顔面に向けて物を押しつけたりしない。育ちの良さが滲み出る立ち振る舞いをそつなくこなす彼が、そんな礼儀に欠けた行為をするなど――目的があればこそだろう。その目的そのものにも心当たりはあった。
「……匂い、か」
今度は意識して、美しく咲き誇った花へ顔を寄せる。言葉では表現できない、気を引きつける甘さと生命力溢れる青々とした香り。真っ正面から受け止めると強烈さに思わず怯むと同時に、嗅覚という普段考えることも少ない五感の存在を改めて意識させられた。
今いるこの空間は花々が放つ香りを最大限に引き立てる工夫が随所にみられた。その存在をあるがままに説明するため、個性を残さず露わにさせて彩る仕組み。都会のよどんだ空気に慣れ親しんだ嗅覚には強すぎるほどの香り。
そんな中で。
「平気そうだな」
「…………初めてではないからな」
了見は、遊作から見れば驚くほど平常のままだった。
言葉通り初めて訪れたわけではない、というのも本当だろうが、それでも遊作が仕返しと言わんばかりに彼の鼻先へ花を突き返しても、呆れたような表情こそするが他の変化は見受けられない。堪えているような素振りも見せず、そしてそれを悟られないようにさり気なく話題を逸らす。
これでは、まるで――――
「ん……」
甘い香りがする。蜜のように包み込むような甘み。順路に従って歩き続けていたが、どうやら新たな花のスペースへと踏み入れていたらしく、先程までとは性質が異なる香りに伏せがちだった顔を上げた。
視界が鮮やかな紫に染まる。
「ほぅ……見ろ。藤棚だ」
二人を出迎えたのは帳のように枝垂れ咲いた藤花の列だった。時季外れだが、と呟く了見は興味深そうに備え付けられた説明用のモニターを見ていた。横からチラリ、と遊作も覗き込むと、このスペースは春の気候を再現しているらしいことが書かれていた。
「藤、か」
こればかりは知らぬ花、とは言えなかった。実物こそ初めて見たが、自身の一部たる名前にその文字を刻んでいる以上、無知ではない。淡い紫の花を咲かせ、日差しを好み、蔦を伸ばしていく。だが、このように香りを発することは知らなかった。後に残らない爽やかな甘み、とでも表すべきか。するり、と入ってくる良い香りのように思う。
「――――お前は、どう思う?」
そう尋ねたのは確かめたかったからだ。
「主語が無い。返答しかねるが」
「……藤の香りについてだ」
言い逃れをされないよう、退路を塞ぐ。明言してしまった以上、質問そのものを無視する以外に了見が返答から逃げる手段は無くなった。
かねてより疑問を抱いていた、了見に抱く違和感。確証は無いが、思い当たる節はある。先日のホットドッグの件と、今日の花に対する反応。
「……了見、お前――――」
遊作の言葉に重ねるように。
――――ぴしり、と。
美しく、そして悲痛に、砕けていく音がする。まるで長い年月を積み重ねてきた結晶が、役目を終えて綻んでいくかのように。終焉に向けて歩みを進める、崩壊の音色。耳を塞いでも鳴り響くのはきっと、原因は遊作にあるとでも言いたげなのか。視線を向けた先にある、淡い蒼の双眸は以前にも増して無機質的な冷たさ感じられる。
それは、まるで。
「…………お前が抱いた感想、それが私の所感だ」
それは誤魔化しのようでも、取り繕っただけのようにも思える声色ではあった。けれど、その水晶の瞳に映る感情は、紛れもなく本当の――慈愛と肯定が入り交じった柔らかな光に見えた。
「…………っ」
そんな顔をされてしまえば、遊作はこれ以上言葉を繋げなくなってしまう。
遊作が了見の事をもっと知っていれば。もっと踏み込む意思を抱いていれば。本当に、ただの友人であれば。そんな後悔にも似た夢を思い描いてしまう。
けれどきっと、それが出来る関係であったのであれば――ここにいるのは〝藤木遊作〟でも〝鴻上了見〟でもない二人なのだろう。
だから、せめて。
――――ぴしり、と。
その音の行方を追い続けよう。
何事も無かったような様子で次へと進んでいく了見の背を見つめながら、遊作は再び決意を胸に秘めた。
陽光を再現した人工光を受け、薄紫の花々は美しく咲き誇っていた。薔薇のように華美さはなく、牡丹ほど大輪を咲かすわけでもなく、桜のように遍く人々を惹きつける儚さはない。
それでも、無意識に惹かれてしまうのはきっと、幾度も夢見たあの花に似ているからか。
「…………そうだな」
目を閉じればすぐ思い浮かべることが出来る、清く強かな一輪の瑠璃の花。傲慢にも欲に負けた鳥に食い散らかされた、小さなその花に。
――――きらり、きらり。
金が零れていく。残された時間は少ないぞ、と責め立てるかのように。継いでいた破片もろとも虚空へ消えていき、己を構築する断片が欠落していく。
それを。
「――――――っ!」
しゅるり、と。手首に巻き付く感覚に驚きながら目を向けると、右手首に藤の花が蔦を伸ばして巻き付いていた。それは力強いものでは決して無く、けれど出来ることなら引き留めたい、と言葉無く告げるように、優しく了見の手を取っている。
「……ああ、本当に」
似ている。きっと了見に出会わなければ幸せでいられたはずの、名も無き花に。そう思ってしまったからか。
緩やかに指を這わせ、手首を彩る蔦を探る。分かたれた場所を見つけ、そのままひと思いに引き千切った。
――――ぶちん、と。
花の声なき悲鳴が響く。
力なくしおれた蔦を一重に巻き付けると、了見は自らの行為に非難と後悔、そして達成感がぐちゃぐちゃになった感情を噛み砕いた。
「……これが、お前の望みなのだろう?」
違うとわかっているのに、了見は残虐な表情を取り繕って巻き付いた花へ声を掛ける。反応などあるはずもなく。息絶えたように、花は沈黙を保ち続けた。
了見は、またひとつ。己が我が儘で花を手折ってしまった。
ちぎられた断面から滴る、水とも蜜ともつかない雫を指にとり、己の顔元へと近づけた。
しかし。
何も、感じられない。
甘いのか、爽やかなのか。これが現実なのか、夢なのか。自分はまだ人間なのか、それとも――砕けていく鳥の姿なのか。
――――きらり、きらり。
瞼の裏で零れていく金を見送りながら、指に残る雫を舐めとった。それもやはり、何も感じることは出来なかった。
◇参 耳識
朝、目を開けて。まだ己に視力が残されていることに、少しだけ安堵した。
「…………――――――」
身体が動くことを確認しながら上半身を起こし、触覚の正常を認識する。代わりに、吐き出した息の音が聞こえなくなっていた。どうやら今回失われたのは聴力のようで。いよいよ誤魔化しがきかなくなってきたな、なんて他人事のように考えながら了見は寝台から起き上がった。無意識に枕元に置かれていた端末へ手を伸ばし、眠っている間に何も無かったか確認すべく情報を拾い上げる。そこに、現状に対する戸惑いは無かった。
このような状態に陥った原因はハッキリと理解している。
『――――あとを頼むぞ』
あの時、リボルバーはその意識データを散らした。敗者に齎される定めを受け入れ、敵を見誤った己が浅慮と未熟さを押し込め、悲痛に名を呼ぶ唯一の見届け人へ全てを託して。再び目覚める僥倖に恵まれたのは、彼がやり遂げてくれたからだ。辛く険しい戦いを繰り広げながら、それでも決して諦めずに勝利をつかみ取ると信じていた。
そしてそんな戦いの中、虚構の世界に散った了見は。
――――きらり、きらり。
瑠璃の花が咲いている。
虚空を往く鳥へ、届かないと知ってなお蔦を伸ばすその姿を、思わず――手折って。
そんな昔の夢を見て、自分の本来の姿を思い出していた。
継ぎ接ぎをして取り繕った金は崩れ去り、残されたのは辛うじて形を留めるだけの骸のような破片。それも、何時まで持つか知れたものではない。現にこうして異常が深刻化してきている。もう猶予はあまりないのだろう。
だからか。
『――――リボルバー』
『――――了見』
あの声がもう鼓膜を震わせることは無いのが、ひどく虚しい。
そう考えて、ふと。
もし、彼がこの状況に陥ったとしたら、激しい恐慌にでも襲われていただろうか。彼はおそらく本人が想像している以上に〝声〟を支えにしているはずで。それは生存本能に紐付けられた無自覚な症状。おそらく視覚を奪われるよりよほど彼を追い詰めることが出来るだろう。
逆に了見は、聴力には頓着していない。ずっと耳を塞いでいたあの頃には、いっそ無くなってしまえば、なんて思ったこともあったが。
それよりもずっと、視力が無くなることの方が恐ろしい。
了見の大切なものはすべて、目を離した隙に消えてしまうのだから。
「……急にこんな場所に呼び出して、何かあったのか?」
遊作――プレイメイカーがそう問うたのは、唐突な呼び出しを受けて駆けつけてすぐのことだった。
元々、了見――リボルバーは敵同士。馴れ合うことは無い、と言わんばかりにそのやり取りは一方的で、情報的にも戦力的にも彼の方が優位になるよう調整された舞台でしか会えない。いがみ合う理由がなくなったとはいえ、そう易々と仲良くなど出来るはずも無く。何も思わない訳では無いが、そんなことよりも逢おうとしてくれるだけで十分だと、遊作は何一つ疑うこ
と無く指定された場所である、現在は閉鎖されているリンクヴレインズの一角へ足を運んだ。
指示された座標には、張本人が静かに佇んでいる。律儀な人なので、人を呼び出しておいて待たせるようなことはしない。そういった事も含めて、了見には信頼を置いている。
だからこそ、此度の呼び出しの意図を問うた。
火急の用事では無いだろうとは想定していた。もしそうなら、現実世界で向こうからの接触が行われたはずだろう。遊作側から彼らにアクションをとることは出来ないが、了見側からは容易いことだ。おそらくイグニスの脅威がほぼ消えたとはいえ、最後のピースとの関わりが深い遊作の存在を、ハノイの騎士としては見逃すことはしないだろう。
故に、理由が掴めなかった。大事ならばこんな場所を指定するのはおかしなことであり、用事がないのであればそれこそ呼び出すことも無い。
彼らしからぬ行動に、プレイメイカーは戸惑いを隠さないまま首を傾げた。
しかし、呼び出した本人であるリボルバーは何故か黙ったままで視線も伏せている。口を開く様子も見受けられず、首を傾げたまま彼からのアクションを待ち続けるほかないプレイメイカーは目を瞬かせるばかり。
そして、ふたりの間に横たわる沈黙が数分にもなろうとした頃。
「…………………………課題は、終わったか?」
ようやく、まるで絞り出したかのような低い声で告げられた言葉を、当初遊作は理解しきれなかった。キュルキュルと脳が物理的に回転しているような錯覚が浮かぶほどに高速回転する思考。彼は、リボルバーは何のことを指し示しているのか。思いかんだ事象はあれど、まさかと信じがたく即座に墓地送りする。しかし他に該当することが思いつかない。
遊作が思い至った唯一は、おそらく先日の植物園へ赴いた理由であった、遊作が頭を抱えていた課題についてだった。
「――――――――え、あっ……ああ。お陰様で……?」
ちなみに課題はしっかりと提出しており、平均点くらいの評価を頂いている。目立たないことを好む遊作にとって一番ベストな展開であり、その点については感謝していたのだが。
「そうか」
信じがたい、と視線と口調が物語っていたが、どうやら読み取った内容で正解らしい。少しばかり表情を和らげたリボルバーが頷く素振りを見せた。何故そんなことを聞かれたのかまでは理解が及ばないが。
「……ああ。その…………ありがとう」
呆然と流されるまま相づちを打ち、あの時は言いそびれていたお礼の言葉を述べて。
再び、沈黙が降りた。
「……まさかとは思うが、それだけで呼び出したのか?」
信じられない、と否定したい気持ちでいっぱいのまま、思い浮かんだ浅はかな考えをポツリと零してしまう。少なからず効率だとか合理性を重視する傾向があるはずの了見が、呼び出しておいて最初に放った言葉以外とくに反応が無いなど信じがたいが、今目の前の光景を信じるならそうとしか受け取れず、遊作は思考が分離しそうなほど頭をフル回転させ、裏に仕組まれ
ているものを読み取ろうと努力した。しかし、ただでさえ感情の読みづらいアバター姿であり、言葉も少ない、デュエルでもないとなると、それ以上のことは観察眼を持ってしてもお手上げだった。
驚愕に染まるプレイメイカーが告げた言葉に、リボルバーは。
「……まぁ、そうだな」
含みを込めた肯定で返してきた。信じがたいことに、だが。
「意外、だな。なら、カフェナギにでも来てくれれば良かったのに」
現実では逢わない、なんて言うつもりはないだろう。少し前まで店に顔を見せに来ていたのは向こうの方からである。そもそも、その程度ならわざわざ逢わずとも呼び出す前に一声尋ねるだけでいいのではないか、と終わりの見えない問いに頭が埋まる。
対して、リボルバーは凪いだ海のように静かに目を閉じたままで。
「……リボルバー?」
不安から思わず呼びかける。
かねてより様子がおかしいことは重々承知しているが、遊作から問い詰めることはどうにも憚られて、話してくれるのを待っている状態。そんな後手に回るような、あるいは真実から逃げるようなことをし続けたために、彼の琴線に触れでもしてしまったのだろうか。
変わりづらい表情の裏で悶々と思い悩む遊作を気にもとめず、少しの間を置いて了見が口を開いた。
「やはり…………違う、な」
それは諦観を認めながらも割り切れていない、押し殺した感嘆であった。
こちらに向けられた言葉かと遊作の心臓が驚愕と不安で跳ね上がるが、了見の様子を見るにおそらく彼自身を嘲笑うような意図のもと発せられたのだろう、と察する。相変わらず目線どころか顔すら見せようとしないまま、了見は独り言のように言葉を続ける。
「所詮は虚構。見せかけのまやかし。数値で構築された作り物。……期待する方が間違っていた。道化になった気分だな」
「何のことだ」
些か否定が過ぎるのではないか、と遊作は思わず口を挟む。どうも彼は期待した何かを得られず自分自身に苛立っているようなのはわかったが、一体何を求めていたのか。
「俺に出来ることなら――――」
「必要ない。これは個人的な問題で、お前には関係の無いものだ」
「――――っ!」
一線を引くように鋭い言葉を吐き捨てられ、喉元まで迫り上がってきた反論の言葉を飲み干すのに多少の時間が掛かった。
遊作には関わりが無い、なんてあからさまな嘘だった。ならば何故、わざわざ呼び出したのか。そう問いただすことは簡単であり、同時に危険な綱渡りでもある。了見側の真意は未だ読めず、そんな状況下で否定的な言葉を口にしてどうなるか。関係性の決裂に至る可能性も十分にある。そうなることで辛いのは双方同じ。
ならば。
「……だが、俺は関係していたいと思う。事情を詳らかに話せ、とは言わないが。せめて……お前の納得のいく形で関わりたい」
どうだろうか、と下手に出ながらも遊作自身の意思を伝える。そんな態度を見て、ようやく気付いたのか了見がバツの悪そうな顔をしながら、背を向けたままだった身体を向き合わせる。
――――ぴしり、と。
ほんのり淡い紫を帯びていたはずのアバターの瞳が、まるで現実の彼の姿と見紛うほど透き通る氷霜の青に映って、遊作は無意識のうちに息を呑んだ。きらり、と跳ね返す光がまるでプリズムを通したように七色に分かたれながら散乱している。綺麗だとか、美しき煌めきだとか、そんなことよりもずっと――根本的な部分で何らかの喪失が垣間見え、不安を訴えかける光。耳奥で鳴り響く音も相まって、彼の内情で起こっていることの一端に触れてしまったようで、思わず身体が竦む。
「りぼ、るばー……お前、それ――――」
それはまるで、年月を経て形作られた結晶が崩壊していくように。一片、一片細かに綻んでひとつひとついくように。命の終焉を知ってなお輝く星のように。
「――――プレイメイカー」
ようやく向き合って呼ばれた名前は、諦めと縋るような感情が見え隠れする、弱々しい声で。それでも態度は毅然としたまま。チグハグで、どうしようもないほど不安定に映る。
そして。
「……他愛のないことで良い。話し続けてくれ。…………それだけで、いい」
彼から齎された頼みは、そんな単調にして難解なものだった。そして同時に、遊作にとって荷が重い事柄でもある。
「俺は、話すのが苦手だ」
「知っている」
素直に打ち明ければ当然のように周知だと返ってくる。それでも、了見はその提案を引き下げようとはしなかった。それ以上語るつもりは無い、と無言で主張しながら、どこか弱り果てたような気迫の薄い彼の態度に、それ以上の抵抗をする気はもう起こりそうも無く。
遊作は数度の瞬きをすると、覚悟を決めたように一度大きく息を吸った。
「さっきも言ったが……先日は助かった。やはり実物をこの目で見て感じるということは貴重だとわかったし、VRの限界値というテーマの裏付けとしてこれ以上はないくらい良い経験になった。嗅覚や聴覚は個々の感性によるところが多い。だからこそ、全員が同じものを見て感じるということの難易度の高さや――――――」
つらつらと、まるで提出した課題を諳んじているかのように淡々とした声が、たった二人しか存在しない空間に響く。こんなことで本当にいいのか、と口は止めないまま了見の様子を伺うと、彼は目を閉じて聴き入って――というよりは集中して――いるようだった。険しい顔をしてはいたが、内容に関してというよりは自身の問題に対してのようで、遊作はそのまま思いつくままに言葉を発していくことにした。
喋りながら、ふと思い出す。
――――通話など機械を通して聴く声というものは、本物ではないという。
ならば、今こうしてリンクヴレインズというすべてが数字で構築された世界で。苦痛も、感動も、記憶でさえも計算され与えられる空間で。誰かの悪意、または善意によって、いつか泡沫と消えゆく時間の中で。
遊作が紡いだ言葉は、了見に本物として受け取って貰えるのだろうか。
そんな疑問が浮かぶも、話し続ける遊作の声によっていつの間にか消えてしまった。
微睡みの中、意識がふわりと浮かび上がる。
うっすらと青みを帯びた視界は、この空間が空のようにも海のようにも感じられ、ただ漠然と浮かんでいる、という意識だけがハッキリと自覚していた。まるで瞳だけが世界に存在しているように、物質的な感覚がない。そのことに疑念も無く、ただぷかぷかと意識を揺蕩わせている存在になり果てたよう。
そんな中、ふわりと意識を撫でる、緩やかな風が通り抜ける。
導かれるように、促されるように、目を奪われるように。風の行方を追う。
そして。
――――きらり、きらり。
細やかな音色を奏でながらその軌跡を織り上げる、砂金の道筋。
綺麗だ、と感じながらも意識は震え出す。それは崩壊の序曲だとわかってしまったからか。
「――――ダメだ」
後を追わねば、と駆け出そうとしたが、動くための身体が無い。否、視点を変えると身体こそあれど、脚が無いことに気が付く。代わりにあったのは、しっかりと地に座した根。
そこで、自らがこの世界ではただの花であったことを思い出す。
風に靡き、花弁を揺らし、そのまま動くことも無く朽ちていく定め。誰にもその存在を認識されないまま、ただの名も無き花として空を見上げることしか出来ないもの。そう、決して変えようも無い過去という根から進むことが出来ない、己の精神そのもの。
ならば、あの風の先には、きっと。
――――ぱきん、と。
金に混じって、砕かれた破片が目の前を踊る。ほんの僅かに青が溶けた、透き通る結晶。
「…………ダメだ」
せめて、と。
伸ばした蔦で欠片を掬い上げる。研ぎ澄まされた断面で葉が裂かれ落ちようとも、離すまいと幾重にも巻き、自らの側に積み上げる。
これまでも、これからも。
彼が落としてきてしまったもの全てを拾い上げ、積み上げて。
けれど、それらを元通り組み上げることは――――きっと、出来ないのだろう。
そんな夢を見た。
◇肆 目識
醒めた夢の行方を追うように、遊作はあてもなくふらり、と外へ出た。
リンクヴレインズでの逢瀬から数日が経過している。あれから了見からのアクションは何も無く、静寂を保ち続ける端末を幾度も見下ろした。光のイグニスが起こした事件から世間は立ち直りつつあり、もう全てが過去の産物として落とし込まれた後のよう。このまま、何事も無かったかのように振る舞えばきっと、遊作は本来歩むはずだった人生という道筋を辿っていけるのだと漠然とだが理解していた。
けれど。
――――ぴしり、と。
悲痛に嘆く、虚空を飛ぶ鳥の姿を見た。
仄かに青が滲む結晶で構築された身体を震わせ、夥しい数の裂創から欠片を零し、それでも――まるで何かを振り切ろうとするように――飛ぶことを止めず、ただひたすら前を目指すその姿に、無数の感情が沸き立った。
だから、せめて。
「……知りたいことできた」
遊作は何も知らない。かの鳥が何故空を飛び続けるのか、何故そんなにも傷ついてしまったのか、何故その身体は淡い貴石で構築されていたのか。きっと全てを知る時間はない。けれど全くの無知のままでいたくもなく。
衝動のまま飛び出して、無数の人の中をひとり行く。あまり意識することは無いが、暦を思い返せば確か今日は祝日で。普段よりもずっと人気の多い街中をかき分けるように突き進んでいく。
何が知りたいのか。その物も方向性も結果もわからないまま、時折感じ取る第六感のような、何かに引っ張られるような感覚に従って、普段は近寄らない裏道のような場所を進んでいく。
デンシティは表向きこそ電子とVRに彩られた近代都市だが、その裏側を少し覗けば旧時代の残滓が顔を出す。少数派とはいえアナログを愛する者もおり、市場から姿を消してもまだひっそりとこういった場所で提供されている。ハッカーという立場上、遊作は関わりが無い場所でもあるが、草薙からそういった場所の存在だけは聞いていた。曰く、ネットワークには出ない情報をやり取りするのに最適な閉鎖空間であるため、そういった生業の者と接触する際には赴くのもいいだろう、とのことだった。そう、これほど情報が発達した世界であってもネットワークは全てを内包している訳では無いのだ。人の噂、日常の差異、書面に残せないもの。誰かが目にした何かがすべからく詳らかにされている、なんて幻想にすぎない。
――――からん、と。
鈍い鈴の音色が来訪者を告げる。
そこは昔さながら時代の流れに取り残された遺跡のように、小さなアンティークチックの店構えで、ひっそりとその表口を開けて待っていた。普段であれば決して興味を惹かれることもないそんな場所に、遊作の足は自然と敷居を跨いでいた。
幼子の好奇心を擽る、古くも不思議な仕掛けが見え隠れする小箱や、あり得ない時間を刻みながら未だに動く大時計、時を留める風景画など、このご時世にまだ存在していたのかと驚くようなものが店先に展示されている。まるでお伽噺の国か、夢想の物語の一ページか、それとも混沌とした誰かの精神世界か。不安と期待、そして不思議と心躍る雰囲気に飲まれるように、遊作は店内を練り歩く。店員や他の客の姿は無い。不用心だとか勝手に入ってよかったのだろうか、という思考が、塞がないことによって齎されたこの空間への没入感によって霧散していく。
その中で。
「…………、――――――!」
瞳がある一品を捉えたとき、世界が停止したような錯覚に襲われた。
それは、壁際に設置された硝子の戸棚に納められている、色とりどりの陶器や工芸品の中で小さくもその存在を主張していた。掌に収まってしまうほど小さく、実用性はないインテリアのひとつであり、それでいて遊作の心を鷲掴みにしてしまうほどの衝動を伴う物。
――――荒く削られた、小鳥を模した半透明の宝石細工。
驚くことにその表面には幾つもの罅が走っており、翼や足などの接合部には金が傷を覆い隠すように沿っていた。まるで――一度、粉々になってしまった彫刻を金で継ぎ合わせたかのよう。
目を離すことなくゆっくりと、納められているケースへ近づく。硝子に鼻先を突きつける勢いで、遊作はその鳥の芸術を見た。
身体と同じ材質であろう幾つもの内包物を含んだ半透明の台座の上で、空へと飛び立とうとする瞬間を捉えた構図。余計な色は使われておらず自然のままに、それ故に無数の傷と縫うように輝く金が異質で痛々しい。
そう、まるで――――夢で見た、あの鳥のように。
「…………っ」
よく見れば台座の前に小さな文字が書かれたプレートが貼り付けてあった。それを食い入るように読む。
『題名:玻璃の鳥 材質:水晶(金継ぎ加工有り)
心理学曰く、無意識下の鳥は人間の魂を象徴するという。
壊れても、砕かれても、綻びても。継ぎとめる何かがあれば人は立ち上がれる。
使命か、義務か、それとも罪科か。本人の魂のみぞ知る――――』
それはきっと、誰かが見た夢の名残。
書かれていたのはたったそれだけ。制作者の名前や作られた年月、作品の背景にあるはずの情報は何も無い。なのに、それ以上の情報がこの作品には込められていた。
「……ああ、とても――――お前らしい」
彼の瞳は、水晶のように薄く青を溶かした色。彼の字は、海を渡る大鳥の意。彼の責は、金で塗り固められた罪。
まさにこの鳥は、鴻上了見という人物の魂の在り方を模していた。
――夢は、無意識の領域である。
集合的無意識という言葉がある。人類の意識は根底の無意識において、ひとつの海のように繋がっている、という理論。そんな無意識の上にあるのが個々の無意識、存在意義を主張する精神。その上位に自意識と五感からなる、人間が自分で意識できる領域がある。
睡眠とは自意識の休眠であるが、その間にも双方の無意識は活動をし続ける。無論、意識がある状態よりは無意識下からの影響を受けやすくなり、時折自身が知らない事柄や、あり得るはずの無い存在を認知していたりする夢を見るのは、繋がっている名も無き誰かが得た経験から齎されているのだろう。それでも決して自我を見失わぬよう、個の無意識は自身の存在に執着し続ける。無数の他人、情報の海、いつか辿り着く終焉の場所。そんな底知れぬ闇の淵に落とされないようにする最果ての砦。
だが、もし。
何らかの原因で、個の無意識が消えてしまったら。自己の在処を見失ってしまったら。生に固着し続ける切っ掛けを喪失させてしまったら。
人のちっぽけな自意識など、無意識の海へ疾く消え失せてしまうだろう。
ならば。
「――――私は、何度でもお前を手折ろう」
ぱきん、と脆い音をたてながら、瑠璃の花が地に落ちる。
夢は無意識の表れともいう。ここでは外界の法も、秩序も、理性すらも持ち込まれない。意識に決して昇ることのない欲を、果ての無い虚構に投げるだけの虚しさと満足感を得て。それも、誰に咎められることもない。
だから、こうして花を手折る。稚く咲いた、美しき瑠璃の花を。
ただ出逢ってしまったから。ただ親しくなりたいと思ってしまったから。ただ、愛を抱いてしまったから。
留まることを知らない欲は、無惨にも花へと手を伸ばす。哀れになるほど、その花は何度だってその花弁を散らし、また咲き誇る。一輪しか咲けなくとも、必死に命を繋いでいる。無垢で無邪気で無知な花。
そんな瑠璃を宿した彼が、手を差し伸べて。金で継ぎ接ぎだらけの無様な鳥に、細やかな願いを告げて。
「――――共に、生きよう」
その
だから、花の願いを踏みにじって。その言葉を突き返して。伸びてくる手を振り払って。
何度でも、何度でも。瑠璃の花を手折るだろう。
もう二度と、虚空を往く鳥の存在に気付かないことを祈って。
気が付けば、遊作は夕暮れの迫る街中を駆け出していた。行き先はひとつ。その場所にいないのであればもう出逢う術は無い。それでも彼はきっとあの場所にいるだろう、という直感が囁くままに足を止めない。人々が集うパブリックビューイングを通り抜け、海沿いの煉瓦道を通り過ぎ、小高い丘に建つ白き屋敷へ。
慣れぬことに身体を酷使し、息も絶え絶えになりながら辿り着いたその門前で、人ひとりが通り抜けられる程度に開かれているのを捉えた瞬間、予想は確信へと至った。
「――――」
きぃ、と音をたてながら、記憶の限りは二度目となる侵入を試みた。本来無人であるはずのこの場所は静寂に包まれてこそいたが、セキュリティの類いが止められているにもかかわらず来訪者を始めに歓迎する入り口の電灯がぼんやりと光を灯していた。
少しだけ躊躇いからか、玄関口で一度遊作は足を止めた。もしここのロックが掛かっていたとしたら何も出来ないまま踵を返すしかないのか。
そう思った矢先に、まるで計ったように両開きの自動ドアが緩やかに口を開いた。
「…………」
歓迎されているのか、それとも拒んだところで無駄だと呆れられているのか。おそらく後者だろうな、と自虐的な笑みが思わず浮かぶ。そう、本質的なところで遊作の自我は強い。たとえこの扉が沈黙を保ち続けていたとしても、出来る限りの策を講じていずれは屋敷内に侵入を果たしたことだろう。それこそ磨いたハッキング能力の真価を見せつけるように。彼が自分の意思で遊作から離れようとした、あの時とは状況が違うのだ。だからこそ、遊作は僅かに残っていた躊躇いを捨て去る勢いで、足踏み荒く屋敷の敷居を跨いだ。
一目散に広い空間を走り抜け、目に飛び込んできた茜色に目を眩ませながら、その部屋に辿り着いた。まるで、あの日の光景を再生しているかのように重なり合う視界。
ならば、と。記憶を辿り、前回の情景を思い描く。自然と視界は方向を定め、焦点を合わせていく。かつては遊作ら全ての人を狂わせた事件の首謀者にして、彼の唯一たる肉親が横たわっていたはずの、治療機器が併設された寝台に。
「……、――――っ!」
横たわる影を見つけ、呼吸が止まる。
予想はしていた。可能性は高かった。けれど、信じたくはなかった。
全身が震える中、そっと近づいて。赤い日差しと伸びきった影で誰なのか、という問いに即座に答えることは適わない。それでもこんな場所で、まるで遊作の到来を待っていたかのように誂えられた状況を作ることが出来る者など、ひとりしかいない。寝台の真横に立つが、遊作自身の影と何かの装置に遮られ、そのまま顔を拝むことは出来なかった。
けれど、分かってしまう。
「――――りょ、う……けん」
その声に呼応するように、先程まで静かだった備え付けの機材から心音を刻む電子音が響く。作り物の映像でしか見たことのないような、昏々と意識を沈めた人物がまだ生きている、と証明させるための音。けれど今はまるで、残りの時間を鮮明に告げるタイマーのように感じられた。
「眠っているのか……?」
思わずそっと這わせた指先が、くたりとして動かない掌に絡まる。想像していた冷たさを裏切るように、確かな熱が伝わってきた。その事実に、忘れていた呼吸を思い出しながら息を吐くと、くしゃりと視界が滲む。目頭が熱くなり、頬を伝わり落ちる雫を拭うことをも放棄し、遊作は縋り付くように膝を折った。
まだ生きている、と。あの時のように、遊作が足を踏み入れた時には既に遅かった、となっていた恐れもあった。だから心音が響き、熱を感じ、まだ存在していることに心から安堵した。
その時。
「…………?」
絡めた指に熱と力が加わった。握り返されたのだ、と気付いたのは驚愕による思考の停止から開放された数秒後のこと。
「了見?」
掛けた声に反応はない。ならば、と握られた指を応えるように強く結ぶ。途端、ぎゅっと力強く握られる。少し痛いほどの力は、これが夢ではなく現の出来事だと物語るようで、即物的な安堵感と遅延的な絶望感を生み出す。
「意識は……まだ、あるのか」
おそらく視覚と聴覚は機能していないのだろう、と遊作は察した。今までの言動から味覚と嗅覚も期待できず、残っているのは触覚のみ、といったところだろう。なんて、残酷な仕打ち。どうしてそんなことになってしまったのか。それを問いただそうにも遊作の声を伝える手段はなく、彼も答える術を失っている。
そこまで考えて、ふと。彼の指がゆっくりと遊作の腕へと伸びていく。指先から、手の甲、そして腕へ。そこにはかつて相棒が居座っていて、今は役目を終えたように沈黙し続ける、戦うために遊作が選んだ武器――デュエルディスクが装備されていた。カツン、と彼の爪が当たると、遊作にそれを指し示すように二度ほど叩いた。
その仕草に彼が伝えたいであろうことを考察すべく、遊作は弾かれたように頭を回転させる。
「デュエルディスク…………リンクヴレインズか」
思い当たったのは少し前の出来事。突如としてリンクヴレインズに呼び出され、何故か喋り続けることを要求された記憶。確かにあの頃から彼に対して違和感を抱いていた。もしあの時既にこの異常が進行していたのであれば、彼が打開策を見つけるために遊作を呼び立てたのかもしれない。謎として脳裏にこびりついていたため、すぐさま関連性が結びついた。
「わかった、今行くぞ」
了承の意を伝えるために彼の指を握り返す。そしてそのまま手を繋いだまま。
「イントゥ・ザ・ヴレインズ!」
深い海へ潜るように、遊作はその精神を虚構世界へ投じた。
◇伍 身識
普段意識することはないが、没入型VRというのはまさに夢の中の出来事のようだ。
数値によって形作られた虚構世界。ログインした人全てが同じものを見て、感じて、遊ぶ事が出来る。それは偏に、身体に備わっている五感を通じてではなく、脳に直接計算された刺激を届けるからだ。それに加え、今は閉鎖されているため他人の気配は無いが、通常であれば不特定多数の人間の精神が一堂に集う空間となる。仮想現実であり、夢に見たような不可思議な現象も起これば現実と相違ない事柄も発生する。それらを形作るのは、誰かがそうしたいと抱いた欲の果て。
ここは人々の夢と現と欲が溢れる場所。まさに、無意識下の領域と等しい世界。
そんな場所で。
「りょ……、……リボルバー」
彼は静かに佇んでいた。あの時と同じ場所で、同じように瞳を伏せたまま。
咄嗟に呼びかけたものの、遊作は本当にこの声が彼に届くか半信半疑であった。彼の五感の欠落に関する正しい情報が無い状態で、作り物とはいえ声を聴くことが出来るのか。遊作が現れたことに気付いてくれるのか。
遊作の心配を察したのか、ゆっくりと了見がこちらと向き合いながら瞼を開く。きらきらと光を反射するのは、水晶の如き淡い蒼。意識すれば、その蒼に罅が入っていると気付けた。
「よく気が付いたな」
久々に聴いた彼の声は、感情の色が薄く無機質的に感じられた。それこそ、彼が疎むAIのように、淡々と事実だけを述べる機械を思わせる声色。
その言葉の意味は、了見があの場所にいたことに対してなのだろう。もっとも、遊作が知る限り了見がいるであろう現実の場所となると彼の生家であるあの屋敷しか選択肢に無く、もし彼が隠れるという行動をとっていたのであれば、再び邂逅することは達し得なかった。言葉とは裏腹に、遊作に見つけてほしかったのだろうか、と思わず愚考が過る。
「ここでならわかるんだな」
現実での彼の姿が脳裏を駆け抜ける。まるで死んでいるとも眠っているともつかない状態で寝台に力なく横たわる光景。手を握り返すことが出来ても、声は届かず目を合わせることも出来ない。そんな状態を見た後で、ここでは無機質的ながらも正体を保っているように見えた。それに安堵を覚えて良いものなのか、と。
「所詮は虚構。しかし、まぁ……この状態の原因を思えば、こちらではまだ正常でいられるな」
皮肉なことだ、と浮かべた笑みは悪意にも似た、自虐と諦観を色濃く見せる。
その答えは、この状態すらもう長くないのかもしれない、という最悪を予感させるには十分過ぎるほどだった。
「教えてくれ。お前に、何が起こっていたのか」
遊作はあまりにも了見の事を知らない。恩人として、好敵手として、友人として。知りたいと願いつつ、一歩を踏み出せずにいたその結果がこれだ。もう既に遅いのかもしれない、という考えが過るが、それでも無知のまま彼を失うことだけは決して許すことは出来ない。
切に訴える遊作を見て、了見は。
「……単純な話だ」
――――ぴしり、と。
その音を皮切りに、静かに事実を述べ始めた。
「光のイグニスとのデュエルの後、私の意識データはこのリンクヴレインズ――正確には、奴らが創り上げたミラー・リンクヴレインズだが――にて散った。その後、プレイメイカーの勝利によって再生を果たしたが……その際にバグ、否――欠落が生じた」
『後を頼むぞ……』
その言葉を残して、リボルバーの精神は敗れた他の者たちと同様、電子世界にてデータを砕かれた。だが、ボーマンによって全てのデータを吸収、一体化させられたイグニス達とは異なり、敗者となったソウルバーナーやブルーメイデン、それにニューロン・リンクを構成するために犠牲となった数多のプレイヤー達のデータは、ボーマンを打ち倒したことにより全て返還されたはずであった。
しかし、その他の者たちとリボルバーには一点、状況が異なることがあった。
「他の者たちのデータはボーマンが、草薙翔一に関してだけはお前のデュエルディスクだな、それぞれ保護が掛けられていたが……私は、別だ」
「あ――――」
そう、あの時。
遊作は――プレイメイカーは伸ばされた彼の手を、取れなかった。
『小さい頃に……こんな風に花畑に寝転び、空を見上げたことがあった』
そう、懐かしそうに過去を語る声色を。敗れてなお、重荷が取れたように微笑む姿を。素直に結果を受け入れ、全てを遊作に託し消えていく様子を。
ただ、見つめていることしか出来なかった。
誰も予想だにしていなかった、リボルバーの敗北という結末に驚愕して。誰よりも使命に燃え、成すべき事を成すためにあらゆる手を尽くしてきた彼が。父の罪を己の罪として抱える決意を固め、非道に徹する覚悟を決めていた彼が。十年前の自身の行動を後悔している、と遊作に言い放った彼が。
あんなにも穏やかな顔をしているなんて、知らなかったのだ。
だから、緩やかに伸ばされた手を握り返す間もなく。名を呼び、微笑んでいた彼に応えることも出来ず。了見は周囲の花々に溶けるようにして、そのデータを散らしていった。
「散り散りになったデータは復元されたが……全て元通りになるほど甘くは無い。身体情報ならまだしも、繊細である種のブラックボックスたる精神は、特に」
人間の意志、魂が本当に存在するのか否か。それは科学的な証明は未だになされていない。脳波を測定しそれを復元する程度なら可能だろうが、それが果たして本当に意志そのものなのか、という疑問を解消することは出来ない。
「奴らは意志を持ったAI故に、それを達成できた? もちろん、否だ」
イグニス達の意志は複雑怪奇なアルゴリズムあってのもの。人間をモデルにして更なる手が加えられていようとも、人間のそれとイコールで結ばれるものではない。証明しようも無いが、おそらく全く別種のものだろう。
故に。
「最初はただの違和感だった。五感が通常より鈍く感じられる、そんな程度。フラッシュバックとして見ればよくある症状だ。気にするようなことでもない。だが――」
それが数日、数週間と続けば、ただのフラッシュバックで済ませられるようなものではないことを察するには十分で。
「鈍感ではなく〝乖離〟というべき症状だと自覚したのは……そう、お前と事件後に接触する前日だ。あの時、既に私の味覚は完全に機能していなかった」
「――――っ!」
思い返せば、彼はカフェナギに訪れた際、フラッシュバックの有無を確認していた。自身と同じ状況に陥った者がいないか確認したかったのだろう。
乖離、つまり身体から感覚が引き離される、ということ。五感を突き詰めた先には自意識がある。仮に意識を魂と例えるならば、身体と魂が離れつつあるということ。それがどれほど恐ろしいことなのか、体験したわけではない遊作には想像することすら出来ない。
「じゃあ……」
「既に分かっているのは思うが、今の私の身体に残された感覚は触覚だけだ。それも、今までの感覚の消失した時間を考えると……長くはない」
全ての感覚を失ったらどうなるのか。そんな問いが喉まで迫り上がってきたのを咄嗟に飲み込む。そんな姿をして、なんと言葉を掛ければいいのか。
「どうして…………」
遊作は了見に対して様々な想いがあった。救いたい、手を取り合いたい、自らの意志で選んでほしい――そんな彼が応えないと分かっているものもありながら、中でも唯一、心の底から願ったことがある。
――――どうか、生きていてほしい、と。
十年前の姿無き友を探して、ハノイのリーダーとして立ち塞がって来て、世界中のネットワークと心中を図って。彼には生への執着が掛けているような、そんな危うい気配があった。自分の生命よりも預かった使命を優先し、他の手段から目を背けて。そんな彼に否、と告げるため。遊作はハノイの塔で決死の告白をした。
生きて、未来を掴もう、と。
なのに。
「ロスト事件の真実を公表することは出来ない。世間からすれば、そんな事件など今も昔も起こっていないのだから。……だが、負わねばならない罪は確かにある。その代償だろう。あるいは――――」
「それはお前が背負うべき罪では無い!」
了見に、リボルバーには確かに罪科がある。けれどそれはロスト事件に関してでは無く。その罪を負い、償うべき人物はもういない。
「リボルバー……なにか、何か方法は無いのか?」
――――ぴしり、と。
刻一刻と、彼の水晶に罅が刻まれていく。もう瞬く間に形を為し得ないほどに崩れてしまう、そんな映像が目の奥に張り付いている。
「…………そう、だな」
そう言って、何を思ったのか。カツカツ、と足音を鳴らしながら了見が遊作との距離を詰めてきた。
「この状況を打破する可能性は、三つ」
「…………」
ぴん、とたてられた三本の指に目を向ける。三つは了見と遊作を繋ぐ上で欠かせない、大切な言葉。一言も聞き漏らさないよう、遊作は了見の姿を目が痛くなるほどに見つめた。
「ひとつ。時が流れるのを待つ。そもそも正確な原因は不明だからな、対症療法すら判明していない事例だ。自然回復しない、とも言い切れん」
「そんな悠長なことでいいのか」
確かに、これらの異常が一時的なものか永続的なものかも判断しかねる状態。それこそ本当にただのフラッシュバックの可能性だってまだ残されている。その場合、下手に手を打つよりは時の流れに任せた方が良い場合もあるだろう。
だが、現実では生命活動すら危うい状況であることも事実で。今は充実した医療機器のおかげで肉体の方は最低限の活動を維持出来ているが、それが何時まで持つのか分かったものではない。あまりにも現実性に欠けていた。
了見も理解しているのだろう。あまり深くは語らずに、次の指を折った。
「ふたつ。無謀ではあるが、私の意識データに直接アクセスを試みること。復元か、継ぎ足しか。作業を全てお前に託すことにはなるが、これが一番確実かつ実用的な方法だろう」
「――――は、」
その言葉の意味を、遊作は理解出来なかった。
意識データ――つまりは人間の精神、魂とも称すべきもの。それを人の手によって意識的に操作する、という非人道的かつ反道徳的な行為。
「待ってくれ!それは、つまり――――」
「そうだ。鴻上了見という存在の定義を、お前の手によって
ボーマンの、AIの手で復元されたデータに欠落があったのであれば。また新たに、今度は同じ人の手によって再構築を試みれば。次こそは完全に、元通りのデータになるのではないか。そんな、現実性のまるでない、けれども原因を考えれば一番確実に近い選択。これが常人同士であれば決して出てこないであろう発想だが、この場にいる二人は稀代の才を持つハッカー。アクセスされる側の合意と、アクセスする側の技量があれば不可能では無いのかもしれない。
だが。
「――っ、それは――――…………」
それは、相手の――了見のことを全て知っている人間であれば、の話だ。
仮に意識データにアクセスが可能だとして。何処が欠けているのか、何が足りないのか、何をもって異常と判断するのか。それを決めるのは、全て過去に了見が積み重ねてきた記憶が鍵になる。けれど、その本人に干渉するため、相談も判断を委ねることも出来ない。
それはつまり、アクセスする側である遊作の判断で全てが決まるのだ。彼が、鴻上了見が長い月日を重ね、築き上げてきた水晶の彫刻を、欠片も残さず復元させなければならない。
そんなこと。
「……………………俺には、できない」
――――遊作は、了見を知らない。
彼が十年前よりもっと過去、どのような日常を過ごしてきたか。ロスト事件を経て、どれほどの苦行の道を歩む決意をしたか。ハノイの塔で敗れ、どんな気持ちで思い出の詰まった家を捨てたのか。
何も、何もかも遊作にはわからない。
「俺は……お前を知らなさすぎる。たとえデータにアクセスできて、再構築を実行したとしても、それは――俺が知っている、俺が理想とする〝鴻上了見〟にしかならない!俺が救いたいと、救ってほしいと願った〝鴻上了見〟じゃない……!!」
生きていてほしい。失いたくない。救いたい。けれど、それを押しつけたい訳ではないのだ。ただ前を向いて、他人の為ではなく、自らの望む形で生きてくれれば、それで良かった。共に同じ道を歩みたい、という願いはあれど、それを強制させる気は欠片も無くて。
孤高で、気高く、そして深い愛を秘めている。そんな了見が、遊作は好きなのだ。
だから。
「俺には出来ない。したくない。そんな選択を取ることを認めない。絶対に他の方法を見つける、だから!」
遊作の心からの叫びを受けて、了見は。
「――――――――、…………みっつ」
残された最後の一本である指を折る。
そう、三つ。零か一か、有るか無いか、肯定か否定か。たったそれだけで終わらないための、三つ。第三の選択を考える術を持つことは、停滞からもっとも遠ざかる行為である。過去を受け止め、現在を否定し、未来を掴み取るための、三つ目の選択。
それは。
「これは荒唐無稽な話だ。実用性から最も遠い、確証も何も無い愚考にすぎん。…………だが」
カツン、と。遊作の目前に、了見が立つ。
あの夢現な空間の、店の中で見た〝玻璃の鳥〟と同じ、淡い水晶の瞳に遊作の姿が映る。必死に零れ落ちる結晶の欠片を拾い集めようと蔦や葉を伸ばし、空を往く鳥に焦がれた無垢なる〝瑠璃の花〟の姿が。
「お前は、受け入れられるか……?」
「ああ、もちろん」
それが如何なるものなのか、聞くよりも先に答えは出ていた。
たとえどれほど低い可能性であったとしても、了見を救う手立てがあるのであれば。彼自身を損なうことなく、また再び現実で邂逅することが叶うのであれば。愚考だとしても、彼が提示するに値する何かがあるのであれば。
遊作は迷う必要も無く、それを受け入れる。
「……わかった」
そう言って、了見はアバターのバイザーを取り払った。目と鼻の先に彼の顔があるこの状況に、ふと、既視感が重なる。少し前に同じような状況を体験したような、そんな朧気な記憶。
記憶を辿ろうと意識が無自覚の内に逸れた、その刹那。
――――ぐちゅり、と。
粘膜同士が触れあう、生々しい音がした。
「――――っ、ぇ……ぁ」
戸惑う声も、混乱する頭も、火傷しそうなほど熱い唇も。すべてを巻き込んで、飲み込まれていく。半開きになっていた口をノックする優しげな触りに乗せられて、侵入者が緩やかに進行してくる。
「は、ぁ――っん、ふ……」
目を何度も瞬かせながら、やはりこの状況には覚えがあるな、なんて逃避するように考え出す。歯を、舌を、口蓋を。親しみを込めるように撫で上げられ、背筋がぞくり、と疼く。遅ればせながら、今行われているのは俗に言う――キスであると気づき、遊作は羞恥と衝撃で顔に熱が集まるのを止められなかった。
「――ぅぁ、なん……っ、で――はぁ、んっ!」
思わず問うた言葉すら飲み込まれて。遊作は漠然と、浮かされていく頭で理解しつつあった。
――――ああ、喰われるのだな、と。
品のない音が二人しかいない空間で耳障りに思うほど響き渡る。全ての五感を犯され、乗っ取られていくような錯覚。それでいて感じる、気遣いと少しばかりの悔恨、そして情欲に、この行為は愛故なのだな、と気付くのは早かった。
「――――っふ、ぅ…………」
一段落ついたのか、啄むように唇に軽く触れた後、了見が一歩後ろに引いた。つぅ、と二人を繋ぐか細い透明の架け橋を見て、こんなにもリアルな感覚をアバターは備えていただろうか、などと思考を飛ばす。
「……っ、やはり、な」
仕掛けた当人である了見は、まるでようやく確証を得た研究者のような顔をしながら、浮かべていた無感情の瞳に僅かな光が差していた。
「……は、ぁ…………これに、どんな意味が――?」
呆けそうな意識をなんとか繋ぎ止めるべく、遊作はまだ熱の残る口を動かす。全てを受け入れるつもりではあったが、流石に説明のひとつくらいは欲しかった。
それを受け、了見は手を遊作の頬に添えながら語り始める。
「私が考えたみっつめは、お前のリンクセンスを利用する方法だ」
「…………何?」
それは予想だにしていない単語だった。
リンクセンス――遊作が持つ、ネットワークにおける第六感。詳しい原理や機能は把握しきれていないが、パートナーのイグニスAiの影響から生まれたその力は、先の見えない戦いの最中で大いに遊作の助けとなった。
しかしそんな能力が一体どのように扱われるのか、遊作には想像もつかない。
「……少なからず、お前は私の異常を察知していたな。現実においても」
「あ、ああ」
――――ぴしり、と。
始め遊作が違和感を抱いたのは、あの音が了見から聞こえたからだ。まるで何かがひび割れ、崩れていくような細やかな音。その正体を探るべく、了見を注意して捉え、その行動に違和感を抱いた。他の誰も気付かない、悲痛な叫びのようなその音を。
「そして私は――――お前を通じて、感覚を共有しているような錯覚を得ていた」
「――――っ!?」
そういえば、あの時。
――まるで、遊作を通じて感覚を思い出しているかのように。
ホットドッグの感想を求めた際、曖昧な返事を返す了見に、遊作はそんな感覚を抱いた。その後、植物園を訪れた際には花の香りの感想を求め、了見の答えは。
『お前と同じ所感だ』
そう、言っていた。
あの時は誤魔化したい事情があるのだろうか、と思っていたがそうではなく、本当にそういう意味で言っていたのか、と今更ながら知って。
「あの時――データが散った際、お前は一番近くにいたな」
その問いに、迷うことなく頷きで返す。その最期を見届け、彼の後を継いだのだから。
「知らぬ間にデータがお前に紛れたのか、それともリンクセンスが何らかの作用を起こしたのか……正確な所は不明だが、利用できるものは使わせてもらう。失われた私の感覚の代わりにお前の感覚を重ねる事が出来れば、少なくとも一度くらいは現実で活動が可能になる」
欠けてしまったのであれば、別の何かで補えば良い。そう、例えばあの彫刻のように、傷を金で継ぎ合わせるように。
勿論、根拠も何も無い空論に過ぎない妄言であり、本当にその通りにいく保証もない。
それでも。
「――わかった」
それ以上の言葉は必要なく。今度は遊作の方から唇に触れあった。気恥ずかしさを完全に払拭することは出来なかったため、情を帯びたものではなく、戯れに重なり合った程度の優しい接触。そんなものでも心の内から沸き立つ熱に、次を求めたくなる欲求が止まらない。了見も遊作の様子を見て思うところがあったのか、口を開き暴こうとする動きは無くなった。
そう、まるで秘密の楽園で行われる遊戯のように。繰り返される細やかな接触を重ね、微睡みに揺蕩うような抱擁感に溺れていく中。
「だが、何故……リンクセンスを利用するのに性的接触が必要なんだ?」
その遊作の言葉は態度とまるで一致しておらず、了見はあまりにも唐突で思いがけない彼の問いに笑いが止まらなくなりそうだった。
「今更過ぎるだろうが……」
鈍感と例えるべきか、無知と嘲るべきか、純粋と尊ぶべきか。どれをとっても遊作の機嫌を損ねることになるだろう、と知っている了見は必死に言葉を選んで聞かせる。
「――――共感、共有、共生。そういったことを成すために、もっとも原始的でもっとも根源的な行為が良い。身も心も繋がり合う為には一番これが効率的だ」
「……つまり、それは」
義務的な、むしろこれは治療か何かの一環だと思っているということだろうか。そう、遊作は了見の言葉を受けて訝しむ。確かに彼を救うための手立てであるのなら間違いではないが。
しかし、遊作は了見に愛を抱く。
人に言わせれば刷り込みじみた、複数の想い。それらを全てひっくるめて見れば、もっとも近しい感情は〝愛〟であると遊作は確信している。情と欲までは完全に結びついていないものの、求められれば応えたいと願う気持ちも確かに持ち合わせていて。そして勿論、許されるのなら遊作からその想いを向けて、受け入れて欲しいと夢見ることも事実。
だから、まさに愛を深め合うこの行為が、彼にとって何の感情も含まれていない、ただの作業に過ぎないものであるというのなら、哀愁を感じざるを得なかった。
「俺はお前とこうすることが純粋に嬉しいし、こんなことでお前を救えるのなら何度でも行うことを厭わない。……けれど、お前の意志を無下にはしたくない」
どうなんだ、と力強く視線を向ければ、了見は小さく息を吐き出していた。
「…………お前、は」
「――――」
長い沈黙が降りる。答えに窮しているのか、言葉を選びかねているのか、それとも真実を口にすることを躊躇っているのか。
遊作は決して催促するような素振りは見せず、ただ待ち続けた。
このまま本意を知らぬまま流してしまえば、またきっと後悔する。次こそはもう永遠に、問うことも出来ないまま失われていくかもしれない。遊作だけが愛を抱えたまま、了見の真実から目を逸らしていく、なんてことをもうしたくなくて。
遊作は、待ち続けた。
そして。
「――――いつの日か、花を手折る夢をみた。空を往く鳥を見上げていた、瑠璃の花を幾度となく手折って、喰らって、引き裂いて。それでも決して満たされず、また手折った。
鳥はきっと、そこにその花が咲き続ける限り――――何度でも、その花を手折るのだろう」
それがきっと、嘘偽り無き答えだった。
吐き出した息の荒さも、重なり合う身体の熱も、昂ぶりあうお互いの表情も。
全てが、溶け合うような錯覚。
「んっ――、ぁ……は、ぁ――っ!」
ぐちゅり、ぐちゅり、と。卑猥な音で奏でる演奏は、羞恥心を煽るようでいたたまれないが、それが尚のこと情を掻き立ててやまない。
アバターの身でありながら行われる濃厚なこの儀式は、予め外部からの調整がされていたからこそ成り立つものだ。元々、リンクヴレインズはデュエルを楽しむために創設されたVR空間であり、対象年齢の引き下げの兼ね合いでこういった行為が成されないためのプロテクトがかけられてある。それも、閉鎖され半ば放置せざるを得なくなったためか、セキュリティはあってないようなもので、容易く突破され今に至る。
そんなことを考える余裕も無く、遊作はまるで大海に溺れるように喘ぐことしか出来ない。
「ふ、ぅ――っあ!ん、く……」
早々に主導を取ることは諦めがついた。持ち合わせた知識は精々常識の範囲内程度。どこをどう触れれば相手に喜ばれるのか、なんて想像した事も無く。為すがまま、流されるままに、舵を切る了見の手で情を暴かれていく。
痛みは、殆どなかった。所詮は仮想空間での出来事であり、フラッシュバックがあるとはいえ、本物の身体が割開かれている訳では無い。それに根回しもされていることだろう。痛覚の制御くらいは行われていて当然と取るべきだった。
だから、こうして二人が重なりあうことで生じる熱で溶けることなど、あり得ないと分かっているのだが。
「ひ、ゃっ……あ、ぅ――」
――――どろり、と。
身体の――否、精神が溶けだし、交わっていると感じる錯覚。まるで大地の灼熱を浴び、溶け出した自身と相手の存在が入り混じっていくような、不思議な感覚だった。不快感はなく、どちらかといえば一体感から来る、途方もない幸福感とでも称すべきか。
「……っ、ぃん――――ぅ、ふっ……!」
チカチカと視界が安定しない。たくさんの光が乱反射して、実像を結べず虚像を映す。
その中で。
――――ぴしり、と。
玻璃の鳥が、その身を震わせている。もう原形をほとんど留めておらず、継ぎ目の金は完全に剥がれ落ちていた。
当然だった。
玻璃の鳥は、了見の精神の表れ。それが始めに砕けたのはおそらく、ロスト事件の顛末で。自ら巻き込んだ遊作と、自ら手を下した父と。幼い心を砕くには十分過ぎる出来事。
それを、父の象徴たる〝金〟で継ぎ合わせ、傷など何一つないような顔をして戦い続け。
父から受け継いだ
金の役目は終わりを告げ、そしてとどめのように降りかかった意識の飛散。
もう既に、鳥は限界を迎えていたのだ。
遊作のリンクセンスをもって、感覚を共有し、了見が再び現実で動けるようになったとしても。一度ならず二度、砕けた精神が元通りになることはきっとなくて。
いつの日か、必ず限界が訪れる。その時に。
――――遊作は、了見の新たな継ぎ目となれるだろうか。
「――っ、考え……ごと、か?」
「ひぅ――――!」
突如、耳元で囁かれた言葉に遊作は、自分の身体がひとりでに跳ね上がるのを止められなかった。一度、瞬きをする間に鳥の姿は消え、目の前には余裕が崩れかけた笑みの了見がいる。
「ぐ、ぅ……っ、熱い、な」
「ゃあ、くっ――んん……っ」
気が付けば昂ぶりは頂点に近く。もはや何処までが自分で、どこからか相手なのかわからない。ずぶずぶ、と溶けていく自分自身に溺れているようで。そんな中でも、内部で燃える熱の杭の存在感が焼け付くようで、そこを中心に輪郭を修正しようとする。
その時。
「……宝石には、時折……様々なものが
ぽつり、と。思わず零れたような言葉が遊作の頬を撫でる。
瑠璃も玻璃も宝石の一種だったな、と朧気な知識をたぐり寄せながら、次の言葉を待つ。
「自然に割れた隙間から入り混み、結晶を築き上げる最中に引き寄せられ、欠片であってもそれが存在した紛れもない証として残留する」
そういえば、と。
「……もし、叶うならば」
ぐっ、と真っ正面から抱え込むように、遊作は了見に包まれる。まるで顔を見せないようにするように、彼の声が頭上から降ってくる。
それはまさに、名も無き花が焦がれ手を伸ばした、虚構の空を飛ぶ鳥のようで。
「
お前という小さな
それは、愚かな鳥が夢見た、望むべき自我の終着。
「――――なら、俺は」
彼の夢を聞き届けることは容易で、けれども受け入れるかを決めるのはこちらだ。
ならば、と。
遊作は既に決まっていた答えを返す。始めから、遊作はずっと決めていたことがある。
もし、いつの日か彼の精神の水晶が完全に砕け散る日が訪れたとしたら。
「――――たとえ幾星霜の月日が掛かろうとも、俺は再びお前に逢える日を待望む」
水晶は永い歳月を経て、その美しき結晶を成す。そしてそれは、ひとつとして同じ存在が生まれることはない――なんて、誰もわからないことだ。
だからいつか必ず、再び彼が舞い戻る日を、ずっと側で。
これは、現にて再会を待望む、花の抱いた愛の在り方。
瑠璃の花を手折る夢 / 玻璃の鳥を待望む現 end