星天に灯す
2019.06.09発行のWeb再録版
了遊×ドラゴンがテーマの短編集(書き下ろし3話&再録2話)
このページでは書き下ろしの3話を掲載しております。
みそかごころ 後天性ドラゴンの遊作
ふと見上げた天に、降り注ぐ光に、彼方の存在に。
どうしようもないほどの想いが心に募る。始めは、ただこの世界のどこかにいるという事実だけで良かった。
けれど。
ごぽり、と口から溢れた息は泡となり。
ばさり、と脈打つ身体は波濤を割き進み。
きらり、と彼方で瞬く彩光へ一縷の想いを秘める。
沈みゆく四肢から伝わる感覚は何故か馴染み深いもので、惑うことなく己の求める場所へと導かんとする。それでいい、と無限に湧き出る衝動に身を委ねたまま、輝く夜の世界を突き進む。
頭上には満天、水面には星天。鏡合わせのような道程を、秘めたままだったこの想いに導かれるように、変わり果てた身体で夢を見るように澪を引く。
焦がれて、願って、手を伸ばして――――――
――――ぴしゃん、と。
「あっ、跳ねた! 遊作見た?」
新緑と差し込む日を反射し輝く水面が視界を彩る。電子化が邁進する世情の中、数少ない自然をありのまま残した敷地。程よく身近で、年若い者へ環境のイロハを伝えることに最も適した空間を形成するこの自然公園が学生たちの社会見学の行き先に選ばれたことは理に適っていた。といっても生徒はもちろん、教師陣もまともに講義を執り行うつもりはなく、普段発達したネットワークへ呼吸と同じように触れあっている彼らへの良い刺激になることを期待している程度。学ぶべき点を幾つか出発前に伝えられこそしたが行動自体に制限は一切無く、後日レポートの提出が義務づけられたのみであとは一日フリータイムだった。
そんな中、遊作は当然の如く尊と行動を共にしており、行き先々で興味津々と反応する彼に合わせて相槌をしたり、備えていた知識を分け与えたりと中々充実した時間を送っていた。ひとりきりであれば特に動き回ることも無く集合地点付近で端末を開いていたか、それこそ参加すらせずサボっていただろう。田舎出身で自然など見飽きた、と尊は言っていたが、時代から切り離されたような小さなコミュニティで見れるものと、あらゆる技術と残された種を集結させてそう造られた空間とでは受ける印象も異なっているようで、まるで煌びやかなショーウィンドーを覗いて回るような尊の朗らかな足取りを追うように、遊作も自然と足を進めていた。
ふたりがいるのは豊かな水を湛える人工湖を中心としたエリア。湖とは言っても景観重視のようで、遊作が今いる湖畔から遠くない位置に短いながらも上部から水を流す滝のようなものが存在している。見かけはそこまで広くない湖だが、観測していると湖は一部を柵で分断されており、向こう側では手こぎボートのようなものが複数浮かんでいて同じ制服を身に纏った人々がオールの使い方に苦戦している姿が確認できた。どうやら泳ぐのは無理でも船に乗れる程度の水深はあるらしい。
ならばこちら側には何が、と思った矢先に尊の声が響いたのだ。視界に軽やかな音と共に姿を一瞬だけ現した、紅白模様の小さな影を捉える。
「鯉かな? さっき『餌を与えないでください』って看板があったから、何かいるとは思ってたけど」
面白そうに水面を覗き込む尊の後ろから、遊作も少しだけ興味を引かれ未だ揺らいでいるその中心を見つめた。
「――よく見えないな」
「日差し、キツいからね。反射がすごい」
澄み渡った水中は遮る物のない太陽光を真っ正面から受け止めており、長く見つめていると目を痛めてしまいそうなほど煌びやかだ。その様子にふと、馴染み深いリンクヴレインズを連想する。一見すると華やかな空間だが、それを隠れ蓑にして活動する自分たち。時折姿を見せると観衆から否が応でも視線を引きつけてしまう。そう考えると遊作たちはまさに、先程の鯉と同等なのかもしれない。
「――そういえば、さ」
そんなことを考えていると、尊が何かを思いついたのか少しばかり不思議そうな表情で遊作を見る。
「なんで滝を登るのは鯉なんだろ」
告げられた言葉の意味を察するのに数秒かかった。
「ことわざか?」
「そうそう。だって鮭だって滝を登るのに、どうして鯉なんだろうなーって」
遊作は尊の着眼点に内心舌を巻いた。傾向として直感を支持する遊作だが、経験不足および興味の範囲の狭さが原因で、多少自覚はしているが視野の狭さが弱点のひとつである。もしこの場にいるのが遊作ひとりだけならば鯉の姿を見てことわざの存在を思い浮かべるのかと問われれば、答えはひとつ――否である。せいぜいこの湖の環境は生態系をどの程度まで再現しているのかどうか気になったくらいだ。
そんな遊作に尊は全く異なる視点から、彼だからこそ思いつく疑問や考えを投げかけてくる。それは経験が足りず、他人との関わりを忌避しがちな遊作にとって次の一歩を踏み出す大きな切っ掛けとなることが多く、言葉にすることは少ないが感謝していることであった。
そんな彼に、遊作は持ち合わせた知識を参照する。
「確か中国の伝承が元だったな」
「登り切ったら竜になる、だっけ? 昔から不思議だったんだよね――別に鮭でも良いと思うんだけど」
その問いに対する明確な答えこそ持ち合わせていなかったが、いろいろと推測することは出来る。あくまでも仮定だが、と一声置いてから遊作は思いついた意見を述べる。
「生息地の問題じゃないか? それか――鯉にはひげがあるし、そこから仙人など高次の存在に見立てたか」
「へぇ――そう言われるとそうかも」
ふんふん、と納得がいったようで尊は何度も首を縦に振る。これが正しいのかは分からないが、疑問に思った本人が納得したなら良いだろう、と改めて水面へ視線を向ける。
言う必要を感じなかったため口にはしなかったが、遊作にはもうひとつ、鯉でなければいけない理由が分かる気がした。
光を乱反射する湖の中、すいすいと何不自由なく泳ぎ回る一匹の鯉。鮮やかな紅と清らかな白を纏ったその姿は一度目にすれば視界に捉えることは思ったよりも容易で、まるで遊作の視線を誘導するようにある場所を目指しているようだった。その行き先を推測よりも早く目にしたとき、思わず胸を打ったようなさざ波が広がる錯覚を感じた。
――――ぴしゃん、と。
再び水飛沫が跳ね上がる。周囲から聞こえる歓声がどこか遠い世界のように、耳の浅いところを震わせた音も気にならないほど、遊作はその光景に釘付けになった。
鯉が目指してた場所は、脈々と清浄な水を湖に注ぎ続ける滝壺。枝垂れ落ちる水飛沫が泡沫を呼び、そこへ差し込む陽の光を受けてキラキラと淡い輝きが一瞬だけ放たれる。地上においてもこれほどの光景を、きっと鯉は水の中から見上げていたのだろう。どうしてだか、その景色を遊作はまるで見てきたかのように思い浮かべることが出来て。
頭上よりも遙か彼方にあるその光源。その美しさに、儚さに、そして――――さに。心の奥底から湧き上がる衝動に突き動かされるまま、水面から飛び出して。空で生きていくことなど出来ずとも、決して己では届かないと知りつつも、ただその想いだけを胸に抱いて、目指したいのだ。
そのために。
――――ぴしゃん、と。
「――――遊作?」
唐突に聞こえた尊の呼び声に、遊作は深く沈み込んでいた思考を持ち上げる。心配そうにこちらを見る彼に軽く手を振り、大丈夫だと意思表示した。
「ちょっと目眩がしただけだ」
「あー……ちょっと影に入って休憩しようか」
その申し出を断る理由も無く、了承の返事に頷きを返すと尊は良い場所を探して辺りを見回し始めた。
そんな彼には悪いと感じながらも、遊作は再び湖へ視線を向ける。既に紅白の影は消え去っており、ただただ凪いだ湖面が輝いているばかり。
そんな中へ、独り言のように言葉を投げ込んだ。
「お前も……あの光に――――してしまったんだな」
ぱしゃり、と素足を曝したまま足下の水を蹴り上げる。念のため捲り上げておいた制服のスラックスに容赦なく飛沫が飛び散るが、それすらも面白がるように反対側の足も砂から上げて水を蹴る。
静謐な夜のことだった。細やかに降り注ぐ無数の仄かな灯りと、蒼銀を帯びた月だけが空にある。街の喧騒から遠く離れた海沿いの煉瓦道。既に馴染み深くなったこの場所で、遊作は初めて浜へと降り立った。道に備え付けられていた柵を易々と乗り越え、一瞬の浮遊感からの降下。着地の衝撃に少しだけ目を瞬かせるが、それすらも容易に振り払って待ちきれないと言わんばかりに靴を脱ぎながら駆け出した。そして迷うことなく海水へ両足を浸す。
元よりアウトドアとは無縁の生活を送っていた遊作だが、水と触れあうことは比較的好きな部類だった。日が落ちきったため突き刺すような冷たさが足から迫り上がってくるが、それを苦に思うこともなく幼心のまま海と戯れる。
けれど。
「ああ、足りないな」
その言葉がどこから現れたのか。不思議にこそ思うものの不審さは感じられず、その言葉に従うように少しずつ歩みを進めていく。踝ほどだった海面が向こう臑を越える。
きっとこれは異常事態なのだろう、とぼんやりとしたまま遊作は漠然と思った。普通の人は夜中、それも碌な準備もしないまま海に入ったりはしない。そう気付いていながらも、決して歩みを止めるつもりはなかった。むしろ、何故今まで我慢していたんだろうか、と後悔にも似た焦燥感を覚え、自然と動きが速くなる。
――――だって、この海には。
ばしゃん、と。既に腰まで迫り上がっていた海面を覆うように少し荒ぶった波が押し寄せ、一瞬だけ遊作の姿が海の中へ消える。
その刹那。
「…………あっ」
思わず零れた感嘆は水泡となり浮き上がる。真っ暗になるはずの視界がゆっくりと澄み切っていくのを感じながら、海に全身を浸したまま前へと進もうとする。それはあまりにも簡単なことで、あれほど抵抗を感じていた身体は容易く水を割くようになった。水流は肌を優しく撫でるように、波は己に従うように澪を引き連れて。既に四肢の感覚は薄れ、代わりに研ぎ澄まされた五感がレーダーよりも鮮明な現状を脳裏に投影する。するする、と波に揉まれるように伸びていく身体をゆらりと揺らしながら、もっともっと先へと泳ぎ進む。
――――いるはずなのだ、この海には……彼が。
もっと先へ。もっと遠くへ。もっともっと、高みへ。
そんなときふと、海中から空を見る。とりどりの星明かりが灯る中、静かに蒼銀の光を注ぐ真円を認め、随分と奥まった所へいってしまった心臓が跳ねる。
思えば彼は、あの月のようだ。
遙か彼方から此方へ僅かな
そんな彼に遊作はずっと焦がれて、願って、手を伸ばして。
「ああ、やっと――届く」
――――ぴしゃん、と。
満天に灯る光を目指し、星天の海から飛び出す。ここには架け橋たる滝はないけれど、目指した場所はすぐそこで。すべての制約、しがらみ、過去を振り払うように跳ね登る。
遙か彼方、遊作がこの想いを向ける唯一の存在へ向けて。
それはただの虫の知らせのようなもので。
「…………」
大海原に寄る辺なくぽつりと浮かぶ、一隻のクルーザーの上で了見は心ここにあらず、といった風に空を見上げていた。
遙か彼方から降り注ぐ光に満ちた天と、それを写し取って煌めく海。かのスターダスト・ロードを思い出させる美しき情景に、ふと過るのはある人物の表情。
友人と呼ぶ世界線は遠く過ぎ去り、宿敵と称するには互いの感情が壁となり、了見が定めた呼称は〝運命の囚人〟。十年前から一度たりとも思わなかった日は無く、決死の問答を繰り広げたのはまだ記憶に新しい。
今なお複雑な間柄である彼の存在が、ふと思い浮かんでから消えること無く脳裏に居座り続けている。思うことは多々あれど、ここまで――そう、まるで間近で呼びかけられているような錯覚を感じたのは初めてのこと。そんなはずはない、と否定の言葉は幾らでも紡ぎ出せるが、一切を口にすることを躊躇ったまま、潮風を浴びようとひとり甲板に身を曝していた。
そんな時、了見の第六感が告げた。
――――ぴしゃん、と。
「――――っ!?」
それは目前で湛えられた水面が揺れた音か、自身の心にある精神の海に落とされた雫の響きか。
星天から満天を目指すかの如く立ち上った水柱。まるで時の流れに逆らうように水飛沫は宙を停滞し、月明かりを受けてきらきらと淡い光を灯す。そこからさらに飛び立った何かの姿に、了見は目を見開くと同時に何故かひどく納得してしまった。神秘という存在をそのまま具現化したような、すらりと伸びた巨体。くまなく敷き詰められた鱗は滴り落ちる雫と月光を浴びて蒼銀を帯びる。人間を容易く呑み込んでしまえそうなほど大きな顎の上に収まる双眸は、一度たりとも忘れたことの無い見事なエメラルドグリーン。
まるで現実味の無い、夢よりも夢らしい光景。了見を見つめたまま動こうとしない彼に言いたいことは山のように思い浮かぶが、了見が口にしたのはとても単純な言葉で。
「…………遊作」
たった一言、それだけで。
――――ぱん、と。
止まっていた時が動き出し、水泡が儚く弾けてゆく。このまま彼ごと消えてしまいそうな勢いに、咄嗟に伸ばした了見の手にふわり、と柔らかな風を纏った人肌が触れる。滑らかな鱗――ではなく、馴染み深い掌だと気付いた瞬間、了見は彼を抱え込むように甲板へ背を投げ出した。打ち付けた痛みと寄りかかる重みに、これは夢ではなく現実だと突きつけられる。
「どうして、ここに来たんだ」
了見の胸元へ顔を伏せたままの彼へ他に言うべき、問うべきとことは数多とあったはずなのに、ようやく絞り出せたのはそれだけで。とりあえず彼の濡れた制服や髪から溢れる海水をどうにかせねば、と働くことを放棄しつつある脳を必死に動かそうとして。
「……ただ、逢いたかった……では駄目か?」
それは、ともすればこの夜の海へ吸い込まれてしまいそうなほど、本当に小さな呟きで。
「知ってるか、了見。人は――意外なほど簡単に姿を変えられるんだ」
古来より人間は大きな感情に支配されると、自然とそれに応じた姿に転じるという。恨み募れば鬼に、嘆き叫べば妖に、悔い捨てれば神に。
ならば、遊作の心を満たすこの感情の名は。
「この世界のどこかにお前がいてくれるだけで良かったのに、今はもう――それだけでは足りないんだ」
胸を焦がし、逢瀬を願い、側で手を取り合おうと伸ばす。
その想いはまさに――
欲望スパイラル 後天性ドラゴンの了見
――――カツン、と。
凜々しくも力強く床を叩く靴音が否が応でも響く。先導する名も無き案内人に連れられて、了見は格式高く纏まった衣装を見事に着こなし翻しながら、目隠しをされているとは思えないほどしっかりとした足取りで進んでいく。瞼を覆うのは触れていても不快感を覚えず心地のよいシルク。それでいて僅かな光すら一切を遮断する性能を誇るそれは、とても一般に流通している品では無いことが明白で。この先に待っているであろう光景を想像し、了見の口角が無意識に上がった。
「……此方でお待ちください」
案内人の声が響くと同時に視界がクリアになる。一瞬だけ目が眩むが、瞬きひとつですぐに治まる。そこはまるで公演中の舞台の如く一カ所に、しかも最低限度の照明しか用意されていない暗闇といっても差し支えのない空間だった。唯一の光源は入り口から見て中央前方に位置するステージらしき場所。そこには今まさに今回の主役が降臨する直前のようで、暗がりの中感じ取る有象無象の気配が一同に其方を注目していた。備えられた台座はまるで豪奢な玉座のように、静かに主を待っている。
もちろん、了見のその中のひとりで。
「――――フッ」
いつの間にか手にしていた札を見て――案内人の仕事はいつもきめ細やかで気配も無く、視界に入らないことを徹底している――薄く笑う。これを掲げる瞬間は、予想ではもう少し先になりそうだった。今この場は真っ当な所などではなく、非合法すれすれの暇を持て余した金持ち集団が娯楽のため開いたオークション。ここでは地位、名誉、縁故などは二の次以下。すべての決定権は金銭のみ。それ以外の詮索も御法度で、案内人にして進行役、そして支配人たる名も無き存在による徹底した管理下の元、公平にして平等な采配が下される。
本来であれば世界的なハッカー集団たるハノイの騎士、そのリーダーたる了見がこうして顔を曝しながらこの場にいることなどあり得ないのだが、この空間だけは別。探られることもなければ不用意に話しかけられる心配も無い。それに加え、このオークションに参加している一番の目的が了見個人的な物のため、リボルバーの名前を出すこと無くこうしていられる場は貴重で便利であった。
了見は金持ちが、もしくは金目の物をまるでハイエナの如く貪ろうとする愚者は嫌悪しているが、物の価値をきちんと理解し、それに見合った金額を出すことには躊躇しない。
ましてや今回の主役は――――
『大変長らくお待たせ致しました』
暗がりの中、拡張された声が空間を割く。その一声でざわついていた観客が一斉に静まり返る。仄かに漂う緊迫とした空気に興奮の高まりを誰もが抑えきれず、まるで酒を浴びたかのように足下が揺らぐような錯覚を感じ取る。了見自身もこめかみを冷や汗が伝い、乾ききった唇を舌が舐める。
何人集まっているのか数える気にもならない大勢が注目する中、それは静かに舞台袖から姿を現した。
『世界四大宝石のひとつ――エメラルド。その中でも一際希少な
支配人の説明が遠く聞こえるほど、会場は騒然となった。
星彩効果とは宝石が持つ特殊な視覚効果の一種で、宝石の表面に星形の光が現れる現象のこと。金紅石ルチルという針状結晶を内包する宝石に特定の加工を施すことで出現するその効果は、様々な宝石で姿を見ることが出来る。だがエメラルドの場合は結晶構成上、自然に星彩効果が現れる確率は非常に低く、宝石に従ずる者であっても現物を見たことがある人間は一握りにも満たないという。
そんな希少なものが、手を伸ばせば届きそうな場所にある。
ごくり、と誰かが――もしかしたら自分自身かもしれない――生唾を呑み込んだ音が耳に入る。了見は誰にも気付かれないように浅く息を吐いた。
幼い頃から了見は所謂〝光りモノ〟が好きだった。
かつて父と眺めた海に浮かぶ星天――スターダスト・ロード。その光景の美しさと輝きに心を奪われ、気が付けばありとあらゆる光り輝くモノへ手を伸ばしていた。それは届かぬ星を想うように。始めは子供ながら単純にホログラム仕様のカード類から手をつけてゆき、次第と知識と財産を極めていき、宝石類へも当然手をつけた。ハノイの騎士、そのリーダーとして世間の裏に関わるようになり、こういった場を知ってからはその趣向は一層激しくなり、中でもこのオークションはお気に入りのひとつだった。支配人の管理が徹底されており、かつ了見の好みに合致するモノが一定間隔で上がってくる。ここは宝石だけでなく様々な芸術品が出品されているが、光りモノは殆ど了見が手にしている。無論、すべて了見個人の資産の元で出された金額でだ。
『それでは、始めます』
商品の説明が一通り終わり、遂にメインイベントである入札が始まった。会場の熱気は最高潮へ達し、誰もが獲物を捉えたままギラつく視線を隠そうともせずに周囲へ殺気にも似た敵対心を剥き出しにする。
そんな中、了見は。
――――足りないな、と。
「――――――っ、……?」
舞台上で輝きを放つスター・エメラルドへ視線が釘付けになったまま、脳裏に過った思考に愕然としていた。
エメラルドの価値を定める基準である色鮮やかさ、大きさ、そして透明度。内包物によって現れる星彩効果の関係で透明度は特筆するほどのものではないが、それ以外の大きさと鮮やかさは見事なモノ。これほどの逸品、今世でもう一度見ることはおそらく適わないだろう。あの輝きを必ず手に入れる、と沸き立つ物欲に身体が震えている。
なのに、無意識にも感じてしまった欠乏感。目前の宝玉では足りないと。ならば何が、とそれに該当するようなモノを記憶の限り復習うが、意識した限りでは思い出すことが出来ない。あの輝きに勝るモノでもあっただろうかとも考えたが、それこそおかしな話だ。所持しているなら覚えているはずで、もし未入手だとしてもそれほどの至宝、煮えたぎるほど胸の中で渦巻く欲望のままどんな手段を取ってでも了見は手にしているだろうに。
悩めども答えは出ず、オークションは遂に佳境へ差し掛かった。支配人が叫ぶ値段は既に国家予算並みに到達しており、さらなる上乗せが続けられていた。
「――――」
気に掛かることはあれど、この期を逃すほど愚者に堕ちることは認められない。たとえ何かに劣っているとしても、舞台上の主役はまさしく二度と手に入ることのない幻の宝石には違いないのだから。
了見は燻る欲望赴くまま、手にしていた札をゆっくりと掲げ、始めから決めていたかの価値を告げる。その重厚なる音の響きに、一同の目は一瞬にして了見へと向けられた。
舞台の明かりを反射して光るその双眸、そこに宿る獰猛さと執着に、人々はまるで竜のようだ、と畏怖を抱いた。
目が覚めて、ふと違和感を抱く。
「…………さむい」
暦上、まだ冬は遠いはずなのだが、上品な羽毛布団に包まれた身体は全体から凍えを訴えていた。ちらり、と目にした時刻から起床時間には僅かに早いことを読み取り、了見は布団の中で身体を丸めるように体勢を変えた。頭まで潜り込んで、両足を抱え込む。内部はいつもなら体温が移り温かいはずなのに、今日は何故か冷え冷えとしていた。
幸いにも今日は特に予定などなく、少しくらい起床が遅くても問題ないだろう、と再び眠りに落ちようと目を閉じかけたその時。
きらり、と朝日を受け煌めくその存在が視界を掠めた。
「あ――」
重い頭を引きずり出し、ベッドサイドに無造作に置かれたそれを目にする。六本の光の筋が星形を描いた新緑色の宝石――スター・エメラルドだった。昨晩、特に苦労することもなく手に入れたその輝き。通常であれば即座に収納してしまうのだが、この宝石に抱いた違和感が気に掛かり寝る前に少しだけ観察しようと置いておいたのだ。結局、昨日は疲れからかあまり見聞することなく終わってしまったのだが。
そのことを思い出してしまったためか、寒さは変わらずとも思考は覚醒へと向かう。冷え切った手足を叱咤させながら了見はゆっくりとベッドから這い出た。
了見の自室は屋敷の面積からみると小さめで、さらにその中の大半は収集した光りモノで埋め尽くされているため、見た目以上に圧迫感がある。最も出入りの激しいカード類が入り口近くで展示されており、突き当たりには海を望む大きな窓が埋め込まれていて、実はスターダスト・ロードが一番良く見れる絶好の場所である。もっとも日中は分厚いカーテンで遮られており、海の表情を見ることは叶わない。宝石類はそんな中でも特にお気に入りのため、手の届きやすいデスク周りに専用のケースが設けられている。作業中は煌びやかな輝きに囲まれているような状態で、視線を掠める色彩にいつも精神が満たされるのだ。
その特等席たるデスク上、手に入ったばかりのものを収める場所――まるで小さな玉座だ――にスター・エメラルドを飾り、その出来映えを眺める。文句の付け所のない、ともすれば国宝級の貴石。おそらく史上で見られるエメラルドの中で最も価値があるであろうその輝き。
それでも。
「――――なんだろうな」
脳裏に何かが引っ掛かっている。違和感というか、既視感というべきか。これよりも上位の代物を知っているかのような、手に入ったというのに満足感や達成感が満たされていない。ぐるぐる、と内部で燻る欲求が次なる燃料を求めて空気を焼いているような焦燥感を覚える。
「貪欲が過ぎる、か。しばらく控えるべきか……」
ここのところ散財する頻度が増しているという自覚もあった。懐的にはまだ問題はそうないが、急いたまま衝動が過ぎるのも考え物だと、少し頭を冷やすべく今後の計画を改めようと振り返り。
――――しゅるり、と。
「…………?」
視界に見慣れぬ動きが映ったような気がした。細く揺れる黒、だろうか。それはまるで意図しない指の影か、何かの拍子で動いた衣服の一部か。身体、もしくは身に着けているものの影だと思ったのだが、立ち上がって自身を見返してみても、それらしき存在を確認することは出来なかった。
「……また増やしたのか」
以前見た時よりも増えたコレクション類に気付いた遊作は、彼にしては珍しく苦言を呈すようにため息交じりに呟いた。
遊作が個人の趣味趣向にとやかく言うことは殆どない。ただ高級志向になりがちの了見とは違い、安価で手に入りやすいものを選ぶ傾向があり品質などに一切気を遣わないため、価値観の相違を漏らすことはよくあることだった。だが、今回の場合は明らかな苦言である。
「別に。何か問題があったか」
少しばかりの驚きと、それに勝るノイズじみた違和感から了見はいつも以上に素っ気なく告げた。
スター・エメラルドを入手してしばらく。自覚せざるを得ないほど体調が芳しくない。といっても数値的には問題はなく、強いて挙げるなら平熱より少し体温が低い程度。それも健康を害すと言うほどのものでは無い。だが、気のせいで片付けられるようなものではない、と了見は密かに悩んでいた。
例えば、体温の低さ故にか活動することを渋り、部屋に籠もる時間が大幅に増えた。そして何かをするわけでもなく、けれど必要に駆られているかのようにコレクションを部屋に広げて周囲を無駄に彩った。それでも何か足りないような満ち足りなさが付きまとい、まるで収集物に溺れるような状態で眠ってしまったことも数回。
さらに、時折。
――――しゅるり、と。
視界を掠める、存在しない身体の一部の影。何も無いと確かめても、それが現れる度に無意識ながら理解してしまう。
それは己が身体に備わっているはずの部位である、と。影は了見の背後で揺らぎ動いているようで、全体を捉えることは出来ていない。だがその形状はまるで――――
「――おい、了見。聞こえているか?」
「…………っ!?」
不意に眼前まで迫ってきた顔に思わず肩が跳ね上がる。真っ直ぐに了見の姿を映す、至極の双緑。その光に、驚愕とはまた異なる動悸が走った気がして、反射的に飛び退こうと身体は後退しようとする。
しかし。
「――――あっ!」
がしゃん、と背後から響いたけたたましい音に背筋が凍り付く。勢いのままぶつかった、とりどりの輝きが収められた背の高いケースがゆらり、と影を落とす。普段であればこういった事故が起こらないようしっかり固定されているのだが、先日の衝動赴くまま中身を取り出して部屋を散らかした際に乱雑に扱っていたためか、立て付けが悪くなっていたらしい。
重厚な硬質ガラスが真っ直ぐ了見を――否、若干弧を描いたこの軌道では、当たるのは遊作の方だ。
「遊作っ!」
咄嗟に手を伸ばす。迫り来る物量をただ眺めることしか出来ていない彼を押しのけ、庇うように右腕を差し出した。
瞬きするまもなく鈍く重い音が腕越しに伝わってくる。だが、覚悟した割には痛みの感覚が遠い気がして。
「りょ、了見!? 大丈夫か、腕が……!」
ごとん、と地面にケースが落ちた音で正気に戻ったらしい遊作が悲鳴じみた声を上げる。滅多に変わらない顔色が真っ青に引き攣り、庇ったままの姿勢で停止していた了見の腕を引ったくる勢いで状態を確認しようと袖を捲り上げる。
瞬間。
――――ぞわり、と。
「――――――っっ!?」
「……ああ、良かった。少し痕が付いてる程度だな。だが一度冷やした方がいい。違和感を感じたらすぐ言ってくれ」
巻くって確認した了見の腕は、あの重量物が接触した割には傷らしきものは殆どなく、少し赤く色づいている程度だった。遊作は安心したのだろう、大きく安堵の息を吐くと、患部を冷やす物を取りに行こうと足早に部屋を出て行く。その後ろ姿を見送って、了見は。
「――――――」
先程強烈なまでに感じたソレを確認すべく、咄嗟に左手で覆い隠してしまった右腕を恐る恐る剥がしていく。勘違いだろう目の錯覚だろうと主張する常識と、今なお肌に張り付いて消えない未曽有の恐怖と這い上がる直感を天秤にかけて。
そこには。
「…………っ!」
ビッシリと腕全体を覆い尽くす、赤黒い光沢を放つ――鱗。視覚を犯す生々しさと異物感、それでいて認識は依然と平常だと主張する脅威。
遊作の反応から考えると、この不可解な現象は了見の認識下でしか起こってないようで、他人にこの姿を見られる心配はないようだ。少なくとも、今のうちは。
「…………」
原因は、対策は、解決方法は。考えなければいけないことは山積みで、けれども頭は熱に浮かされたようにぼんやりと変わり果てたように見える腕を捉える。
本来、あれほどの重量物にぶつかれば重傷は避けられなかったはずなのに、それを容易くはね除けた強かさ。ゆっくりと滑らせた指先に感じる、温もりを遮断したまるで機械の如し冷ややかさ。
そして。
「了見、大丈夫か?」
ノックも無しに遊作が再び顔を出す。手に濡らされたタオルをそっと握っている。今は落ち着いているようだが、僅かに揺れている精彩な緑に不安という影が見え隠れしている。
もし、遊作にこの状態を知られてしまったら――――否、何かの弾みで、この力で遊作に手をかけてしまったら。
「――――――」
背筋が凍り、全身が色めき立つ。それは考える限りで最も最悪な展開で。
「……了見?」
こちらを見上げる碧玉の如し双眸。その光に、ぐるぐると赤黒い鱗で覆われた内側、煮えたぎる泥よりも濃い熱が渦巻いている気がした。だが、それを認めてしまえば。
「なんでも、ない」
――――しゅるり、と。
背後で影が揺らめく。気のせいか、今までに比べて大きくなったような、そうまるで――羽ばたこうとしているように。
欲望とは決して尽きず、ただ御身を焦がして求めてしまう。肥大しきったエゴの末路は一点へ行き着くという。神代から脈々と語り継がれる幻想の頂点。あらゆる生命を凌駕し天を統べる。時に善、時に悪と語られ、憧憬と畏怖を併せ持ちながら信仰される存在。
それは。
「……………………はっ」
吐き出した息が熱く燃えている。まるで炎を吐いているようだ。身体を丸めたまま、ぐつぐつと内側から溢れ出る熱に浮かされていた。鼓動が走る度に四肢が引き延ばされているような錯覚。
照明はなく、暗がりに窓から差し込むのは月明かり。海には星天を映したスターダスト・ロードが煌めいている。部屋の中はまるで嵐が訪れた後のように、足の踏み場もないほどに光りモノが散乱していた。月光を受け、すべてに眩い光が灯されている。それはまるで、満天の空を模した世界のよう。
すべて、すべて――了見が欲した光景だ。
光り輝くモノに囲まれて、届かない世界を想い、その中心でひとり、未だ燃えさかる
「……ぐ、ぁ――――」
みしみし、と身体が悲鳴を上げている。体積は変わっていないはずだが、体感では三倍近く膨れ上がっている気がする。
薄ら目で見た四肢は想像通り、赤黒く光沢を放つ鱗が支配していた。
それだけでなく。
――――しゅるり、と。
背から伸び上がった太く長い影が、三つ。身体にとぐろを巻くように這う姿に、その正体を察するのは容易だった。己の意志とは別に動き、鋭さと駆動力に優れた、人間にはないはずの器官――――比翼と尾だ。
これは幻覚だと、遠くなってしまった理性が叫ぶ。人が獣に転じるなど――ましてや幻獣だ――断じてあり得ない。
けれど、この身を苛む熱はまさしく。
「――――っ、どう……して」
からん、と無意識ながら伸ばした爪先を掠めた石が転がり落ちる。月明かりを六筋に分け星彩を象る、珠玉のエメラルド。おそらくこの部屋にあるモノの中で最も価値あるそれに、ただ抱く想いはひとつ。
――――この輝きでは、足りない。
くべられた薪のように燃える身体の奥底から訴える、これ以上の輝きを、という果てを忘れた欲。最上を知っているかのように焦がれて肥大していく。この人並みを大きく逸脱した欲故に、了見は人の形を保てなくなりつつあるというのか。
止める術など持ち得ない。了見には確かにこの輝きよりも光る存在を求めているが、それは決して届かない、天上に灯る光に他ならないのだから。
「ああ……だから、か?」
地上で足りないのであれば、天を目指せば良いのか。足では届かないならば、翼を生やせば征けるだろうか。そう考えて身体は変化しようとしているのか、それとも――――
「――――了見」
かたん、と。微かな音と共に聞こえた声に、全身の血が一気に凍り付いた。高まる熱の中、冷えていく思考が最悪を予言する。
どこから聞きつけたのか。先日の件以降、彼との接触は断ちつつも決して悟られぬよう細心の注意を払ったというのに。相変わらずこちらの意図を一切汲んでくれないのだな、と激情に駆られそうになる精神に爪を立てながら、鋭く獰猛な眼孔を招かれざる相手へ向ける。
「何を――しに来た」
吐き出した声は意外なほど滑らかに喉を通る。代わりにぎちぎち、と頭蓋骨へ熱と痛みが集まっていく。視線を彼へと向けたまま、次は角でも生えるのだろうか、と自傷の笑みが浮かんできた。
そんな了見へ、彼――遊作はその鮮やかな緑を伏せながらも躊躇なく部屋の中へと入ってくる。ふたりを分かつ、光り輝く垣根を一歩ずつ踏みしめて。
「お前は何が欲しいんだ?」
そう、問うた。
「………………そう、だな――――――」
その言葉に、頭のどこかで張っていた糸がぷつん、と軽い音をたてて弾け飛ぶ。
――――ああ、熱い。
ふらり、と幽鬼のように起き上がると、近づいてくる遊作へ燃えるような腕を伸ばす。暗くてよく見えないが、そこに納まる双つの輝きを知っている。どんな逆境においても決して失われない、輝ける意志の灯火。星天からこぼれ落ちたように、この暗闇の中でも光り続ける至高の緑。
――――ああ、
いつの間にか遊作の顔へ添えられた両手。了見の視点ではとっくに人の形をしておらず、鋭い鉤爪と硬い鱗で作られた
爬虫類じみたその手で、腫れ物へ触れるようにそっと輪郭を確かめる。夜に浸った肌はひんやりと心地よい。
そこに。
「――――ああ、これが」
ぷつり、と。柔らかな肌に凶器が食い込む。熱に支配された思考の中、ただ漠然と分かっていることを、己の欲望に突き動かされるままに。
単純な話だった。了見は最高峰のエメラルドがあと二つ、この世に存在していることを知っていただけだ。夜空に灯る星のように輝く双極を。それこそ、十年前からずっと。
だから。
「この
獰猛で、強靱で、何よりも貪欲な
身体よりも先に影がその形を象り出す。決して獲物を逃がさぬよう翼を広げ、動きすら許さぬと尾を絡め、その光を求めて爪を伸ばす。尽きぬ欲の果ても知らずに、ただ熱に浮かされるまま。
それを。
「…………いいぞ」
赤い雫を滴らしながらも気丈に笑うエメラルドが、すべてを抱擁するように手を広げている。苦痛に顔を顰めているのに、その輝きに一点の曇りもなく。
「こんなモノで良ければ幾らでも」
「――――何故だ?」
了見には分からない。この部屋に集った光り輝くモノ、そのすべてに勝るであろう灯火。その対の輝きは珠玉の逸品だと確信しているのに、それをまるで卑下するかのような彼の口ぶりが。
了見の戸惑いを感じたのか、遊作は顔に添えられている手に自らの掌を重ねて優しく包み込む。
「俺には物の価値なんて分からないが――俺が思う、もっとも綺麗に光るモノはこんなものじゃないからな」
その言葉にぞわり、と熱が沸き起こる。
彼以上の輝きが存在すると、そうであれば手に入れなくては、と欲が叫ぶ。
「それは――なんだ」
開ききった瞳孔がエメラルドを捉えて放さない。ひとつの嘘も許さぬと、いつの間にか尖りきった牙が彼の急所を狙いつける。彼が虚実を告げたらその刹那、その喉元を食い破ってしまうだろう。
それが分かっていても遊作は、ただ己が信じたモノを貫く。
「知っているか、了見。お前の瞳はこうして夜になると――――星天を灯すんだ」
「――――っ、え…………?」
それは、了見には知り得もしない事実。
遊作はその答えを導くように、了見の手を取って窓の外へ視線を向けた。
夜の闇が支配する世界。その上を満天の月星が、下の海にはまるで写し取ったように星屑を散りばめた道筋が。そして闇を背にした窓ガラスは鏡となり、今の了見の姿を映す。
そこには。
「…………ああ、そんなところにあったのか」
幼い頃から手に届かぬと知ってなお求めた、彼方からの光。薄氷色の瞳が瑠璃色に染まり、そして無数の光に満ちて。
その儚くも美しき灯火が、確かに了見の双眸に宿っている。
あれほど求めていた光を気付かぬうちに、既に手にしていたのだと。その考えはすとん、と素直に胸に納まっていく。
なんて単純で、滑稽な話だ。
急速に勢いを失った熱が逆巻くように身体の奥深くへと消えていく。振り返った先、月光を受けて伸びた影はいつも通りの人型で。
「――――っ!? 遊作、すまない!」
ぱちり、と目が覚めた途端、目の前で赤い雫を流したままの遊作がいた。了見の爪先が彼の瞳の下に食い込んだ際に傷つけていたらしい。正気に戻った了見が慌てふためく。
その姿を見た遊作が、一瞬だけきょとんとしたかと思うと。
「なんだ、結局いらないのか」
「は……? 何をだ」
一先ず止血を、と手近にあったタオルで傷口を押さえようとする了見に、そう意味深な言葉を投げかける。
意図が掴めない、と思わず疑問の声を上げると、遊作は自身の指で真っ直ぐそのエメラルドを指す。
「俺の瞳、欲しいんだろう?」
「――――――」
その言葉を、了見は否定できなかった。
月明かりを受け、壮麗に輝く緑の双眸。足下に転がる宝玉スター・エメラルドにも勝るその輝きを手に入れたいと、熱に浮かされていなくともその想いを抱いた事実に偽りはなく。
確かにその光を真に手にすることが出来れば、了見の中に居座る
けれど。
「……戯れ言は止せ」
そう、了見は遊作の提案を振り切る。
「別にお前になら、俺は構わないんだが」
「そう簡単に言ってくれるな」
納得がいっていないようで遊作はさらに言葉を重ねるが、相変わらず言動が危ういな、なんて考えながらも了見はそれを決して受け入れない。
確かに遊作の、意志の光は何にも代えがたい至極の輝きだろう。
だからこそ。
「……その光は、そこに納まっていてこそ――だからな」
手に入らぬからこそ光り輝くモノもある、と。
胸の奥深くで今なお燻る欲深き竜へ、了見は呟いたのだ。
スターゲイザー みそかごころと欲望スパイラルが同一世界線IF
暑い夜だった。梅雨が差し迫り、大気はじっとりと熱された水を孕んで膨張しているように重苦しい。目を閉じれば己が地に立っているのか、それとも水中にいるのか分からなくなりそうなほど、世界が基盤から沈んでいるような時期。それでもまだ雨の気配は遠く、空からは無数の星明かりが降り注いでいた。
いくつかの行程を終え、吐き出した息の熱さに夜風を感じたくなった了見が自室の窓へと手をかけて。
――――ぴしゃん、と。
頬を滑り落ちる水滴につられ、了見は夜の空へ視線を向けた。
そこには。
『――――――』
星天に浮かぶ、美しき極点。蒼銀の光を受けてしなやかに艶めく鱗と、何者にも染められない意志を灯す双眸。揺らめく長い尾が瑠璃の空と同化し、その全長を視界に収めきることは敵わない。幻想の体現、理を超越した存在――竜が、静かにそこにある。
まるで宙から飛来した生きた星のようなモノに、了見は何度目かも忘れた唖然と、それを隠れ蓑にして内部で燻っていた熱が風を受ける。それを吹き消すべく、そして彼に本来の姿を思い出させるために、必要な言葉を紡ぐ。
「……何をしている、遊作」
そう、静かに名を呼ぶ。瞬間、軽やかな水泡が弾ける音が響く。流星のように零れ落ちる光を纏いながら、竜は人の姿を形作っていく。夜の海のような深い青が目に入ったとき、了見は自らの胸の中に飛び込んできた温もりに愛おしさにも似た恣意がぐずり、と動き出したことを感じ取った。
そこから目を背けて、ともすれば勝手に動き出しそうな腕で胸に引っ付く彼を揺り動かす。濡れそぼった髪と服に、どうやらまた・・海を越えてきたらしい。そんな彼の行動に目を覆いたくなってしまう。
そんな了見の気持ちをようやく察したのか、伏せていた顔をゆっくりと上げて。
「逢いたくなった。……あと、暑いから泳ぎたい」
と、まるで当たり前のことを言うように、遊作はエメラルドに輝く光を咲かせた。
遊作は言っていた。人は強い想いを抱くと、それに応じた姿へ変化すると。
現に彼は――認めがたいが――了見への想いを経て、波濤をも割り澪を引く竜へと転身してみせた。ただの幻覚だと断ずることはもはや出来ない。一度ならず幾度もその姿を目にしてきたのだから。
そんな遊作が。
――――ぴしゃん、と。
満天を溶かし込んだ夜の海で、その身を躍らせている。
かの名高き幻想獣は爬虫類を模した姿であると語り継がれているが、地域や国柄によってその特色は大きく異なる。遊作のソレは、極東に於ける竜を思わせた。河川の化身とも言われる存在であり、その身は蛇のように細くしなやか。四肢は退化したように大した役割を持たないが、代わりに鋭く研ぎ澄まされた感覚が世界に色をつけるという。
深い青を纏った身を翻しながら、海を、そして空を舞う。それは天地を繋ぐ架け橋たる滝か、それとも星々でつくる天の川か。
清廉で、稚く、そして――――何よりも美しき
「――――っ」
そんな姿に、否が応でも胸の奥が熱く滾る。了見自身を食い破りそうなほど、その熱は延々と膨らんでいくばかり。嫌悪と居たたまれなさに胸元を掻き毟るが、指先は分厚い肌を超えられない。服の下を確認する勇気は、なくて。
遊作がせせらぎ謳う水の竜ならば、了見はさしずめ、狂える業火に焼べられた浅ましき竜だ。
自らが抱いてしまった欲望という灼熱。ひとつ満ちれば次は更に上を望み、次第には果てを忘却して。彼方の灯火を、消えぬ意志の光を、そして決して忘れられぬ至極の双眸を。
手に入らぬからこそ、と理性は知っていても、本能はその熱から逃れることが出来なくて。ぐずり、と少しずつ人間という
だからこそ、了見が秘めたる竜は西洋のソレに映る。無慈悲に溶岩を吹き出す、荒ぶる山の象徴たる存在。地表を焼きながら流れ出た熱が冷えて固まる最中、奇跡の貴石が生まれ落ちる。その輝きをひとつ残らず手中に収めて、自らの熱に苛まれながら次の光を求めて咆哮する、欲深き獣の姿。
貪欲で、強かに、そして――――恐ろしく荒ぶる
どちらも互いを想うからこそその身を相応しき姿へ変えるのに、こうも相違があるのはそこに本質が現れるからだ。その事実が了見を深く抉る。
「…………ああ、熱いな」
水と戯れながら星の煌めきを纏う遊作を見て、了見は静かに告白する。
きっと、きっと。いつの日か、己は真の竜と化すだろう。
無尽蔵に湧き出る欲望に取り憑かれ、目先の輝きに視界を奪われ、最上の光を冒涜の緋色で染め上げる。
その矛先は間違いなく――――――
「――――了見!」
いつの間にか海から上がっていたらしい遊作が、白砂を踏みしめながら近づいてくる。星天を背に、淡い緑の灯火を湛えて。
了見が最も欲しながら、永遠にこの手に収まらないでいてほしい輝き。
それが、こうも容易く垣根を越えてここへ来る。それが何よりも喜ばしく、疎ましくて、耐えがたい。
だから。
「満足したか」
返事を聞くよりも早く手にしていたバスタオルを素早く被せ、水気を取るフリをしながらその光を覆い隠す。それはせめてもの抵抗で。その場しのぎに過ぎないとしても、了見はまだ――人間でいたかった。
触れても壊さずに、言葉を交えることを許されたまま、ただ純粋にその灯火を見ていたい。
「……もう大丈夫だ」
そう遊作の声がしても、了見はその手をどかすことが出来なくて。再び彼を、あの緑の意志を目前にして正気を保てるか自信がなく。
そんな了見の気持ちを知ってか知らずか。
「了見、みろ」
あらゆるモノに雁字搦めになってしまった了見を揺り動かすのは、いつだって遊作の役目だった。
ベールを剥がすようにタオルを放り投げて、遊作は大きく両手を伸ばす。片手は天を、もう一方は海を。それに誘われるように、了見は己の視界に映し出した。
満天の夜空と、星天の海原を。
「俺はお前が――お前の瞳に灯す星の光が好きだ」
それはまるで、欲望という低俗だが生命である限り逃れられぬ定めから一線を画す、遙か宙の彼方から来たる帚星のように純粋で愚かな愛の言葉。
「たとえお前が竜に成り果てようとも、その灯火の美しさだけは変わらない。だから、何があっても俺は……お前を見つめ続けるぞ」
決意であり、意志であり、運目の表明。
それを告げる遊作の姿はまさに、星天に灯す星のように光り輝いていて。
「……ああ、そうだな」
彼に応えるべく、了見も熱を孕んだ言葉を繋げる。胸の奥に巣くって吼える竜にも負けぬよう、精一杯の了見自身の言葉で。
「そんな
追憶した始まり。時と共に変質していった感情。それでも、抱いたこの想いは唯一無二のもの。年を重ね、立場を違え、この身が竜に転じようとも――――この灯火を待ち望む。
そう、我らはスターゲイザー。
星を見守り、天へ想いを募らせ、その灯火を愛すモノたちである。