約束、遠い日に
2019.05.04発行のWeb再録版
遊作先天女体化&現代ファンタジーパラレル
「――――約束、だよ」
幾度目かの追憶。主観的な視界は寸分の狂いも無く、過去の風景を何重にもぼかした不鮮明さでその光景を見せつける。背景は月が昇る少し前、夕暮れから宵闇へと移りゆく頃。目の前には――――ただの空白があった。あまりにも不自然で、けれどそれを疑問に思うよりも早く、今となっては違和感を覚える高めの声が響く。
約束を、と。目前に広がるのは虚ろのみであると認識しているにも関わらず、自分は右手の小指を立てながら――その指の短さに、先程の声で覚えた違和感の正体に思い当たった――まるで相手がその場にいるかのように差し出した。
少しばかりの間を越えて。
「うん、わかった。……約束だ」
聞き覚えの無い声と共に〝赤〟が揺れる。鮮やかで、華やかで、とても似合っていた。けれど、少しだけ手放したことを惜しむ気持ちが湧く。それはきっと後悔などではなく、ただの子供じみた執着からのもの。それでも様々な言い訳を自身にしてまで明け渡したのは自身の思いを凌駕するほどの、とても大切な理由があった――はずだ。
不意に、一陣の風が吹き抜ける。
夜の深まりを追い立てるように奔る突風は幼い手が持っていたものを容赦なく巻き上げてしまった。ばさり、と無数のカードが空を舞う。あ、と口を突いて出た言葉を追いかけるように、視線は空へ、そして舞い散るカードへ。目についた一枚を掴もうと手を伸ばすが、指先に触れるかどうかのところで再び風が吹き荒れる。
遠くへ、遠くへ。
カードに視線を固定したまま、駆け出した足が止まったのは公園の敷地を抜けた先。カードを乗せたままの追い風が、前触れも無く向かい風へと反転した。ふわり、と行き先を失った一枚が胸元へと舞い降りてくる。ようやく掴むことの出来たその一枚は、明らかに自分の所持品では無い。
記憶に無い絵柄、見知らぬモンスターが描かれたソレを手にして、ふと思う。
――このカードは、一体どこから飛んできたのだろう?
振り返った先には、やはりただの背景となった公園のみが静かにその場にあるだけだった。
I
ふと、意識が浮上する。無意識のうちに伸ばされた手が何かのスイッチに触れるのと同時に、重たい瞼を押し上げた。途端、視界が閃光で埋め尽くされる――否、カーテンの隙間から差し込む朝日に目が眩んだ。伸ばしたままの腕を使って遮るように顔を覆いながら、鳴る前に静止させられてしまった目覚まし時計を横目で見る。
早朝と呼べる時間。平凡な同年代であれば惰眠を貪っているであろう頃。だが、朝日を一直線に浴びた脳は覚醒へと進んでおり、性格的にもこの状態から再び睡眠に入るのは難しいと判断し、躊躇いを覚える身体から強引に高級感漂う布団をはね除けた。自身の体温で程よく温められていた空間から、突き刺さる冷気はいっそう厳しいものに変わりつつあった。空調は稼働しているが、本人の意向で最低限のものに抑えられているため、なおのこと目覚めたての身には染み渡る。
だが、このおかげで頭はハッキリと澄み渡り、直前に見た夢の断片を記憶に留めることが出来た。
「……約束、か」
口にすれば明確に思い出せる。確かに、あの光景は覚えのあるものだったと。
およそ十年前の、夕暮れの美しさと物悲しさ、すべて記憶にあるとおりだった。
だが。
「あの場に誰か、いたのか……?」
溢れた問いかけに応える者が存在するはずも無く。
差し込む柔らかな日差しと窓から僅かに覗くとりどりの色彩から、今日は絶好の日和だと確信する。こんな調子では良くない、と身を奮い立たせながらサイドテーブルに飾られていた一枚のカードを無意識のうちに胸ポケットへと仕舞い込んだ。大役を任された身として気を引き締めるべく、その疑問ごと体内に燻る眠気と共に大きく息を吐いた。
遅咲きの桜に見守られながら、今日――鴻上了見は高校三年生となるのだ。
近代的都市デンシティ。世界有数のVR技術を有する企業SOLテクノロジー社のお膝元としてその恩恵を一身に受ける街は、常に煌々とした電子の光が昼夜を問わず瞬いている。自然の緑をそのまま保つ場所も無くは無いが、人通りの多い場所においては投影された実態を持たないVR映像で緑を演出する。それが一般的に浸透しているほど、この街は最先端を往く。
そんなデンシティにある公立高校、デンシティ高校。そこの今期の生徒会長としての役目を負った鴻上了見はひとり、入学式を控えた前日、新入学生の名簿を一瞥していた。
多くの生徒と教師陣からの熱い推薦を受けた結果、立候補したわけでもないのに生徒会長の座に着いたとはいえ、持ち前の責任感からその大役を遂行すべく、自ら率先して諸々の雑務を引き受けていた。その一環として、この度同じ学び舎で過ごすこととなる者たちをせめて名だけでも知っておくべきという心情より、人並み外れた能力を生かして頭にたたき込んでいく。
そんな作業を続ける内に、気付けば差し込む光が紅を帯びてきたことにようやく気が付いた。
「…………しまった」
帰宅が遅くなったことを咎められる年齢ではないが、それでも連絡なしで過ごしたのは大きな失点だった。鴻上家はそこそこの名家であり、了見の付き人のようなことをしている者もいる。彼からの小言を大事にしかねない時間が経過していたことに焦り、慌てて散らばった資料を整える。
その時。
ひらり、と一枚の用紙が躍り出る。小さな文字がぎっしりと羅列されたそれは、先程まで眺めていた新入学生の名簿の一枚。
「――――っ」
赤い日差しを受けて舞うその姿に、どうしてか息をのむ程の動悸が沸き起こる。思わず伸ばした手で反射的に紙をつかみ取ると、一瞬。
――――――ザザ、と。
世界がブレるようなノイズが走った、気がした。
「……?」
視線を手に取った用紙へ向ける。おおよそ五十音順に並べられた名前の一覧。特別気になる名があるわけでもなく、特段不審な所もない。名前の横には小さな顔写真もあったが、そこにも感じるモノはない。
ただ、ひとつ。
名前の前に振られた番号と羅列してある名前の一覧の数が一致していないような、そんな違和感があった。
だが迫り来る時間経過に、そんなことを気にしている余裕がないことを思い出した了見は深く考えないまま、名簿を書類の束へ戻し急ぎ生徒会室を後にした。
――その後を、影が揺れ伸びていくことにも気が付かないまま。
校舎を半ば飛び出す勢いで走り出たときにはすでに、日はその半分以上を地平の下へと沈めている頃だった。少し進めば眠らない街と揶揄される場所にふさわしき電光に彩られた大通りに出られるが、そこまでの間は急いてるからこそ長く感じられる。校舎から校門までを繋ぐのは景観重視の煉瓦道。道端には季節ながらの花々が妍を競い咲き誇っていたが、暗がりに身を落としつつあるためかどこか生気がないように感じる。その横を足早に通り抜けて。
ふと、思う。
――――カツ、と。
足音が響く。当然一人分だった。この場にいるのは了見一人で、他の人間がいる気配など感じられない。暮れる日に照らされているのもひとり。静かだった。自分の呼吸音が煩わしくなるほど。足下に視線を向ける。ぐんぐん伸びる影もひとつ。これではまるで、この世界に存在しているのは了見だけになってしまったのだろうか、と思わず考えてしまった。
その時。
――――カツン、と。
煉瓦を叩きつけるように、乱雑に踏み込みながら更に足を速めていく。地表からの反発もあって鈍い痛みが足にくるが、それらを押し殺すように足を動かしていく。やはり足音は一人分しか聞こえない。
なのに、了見は苦々しげに視線を足下からゆっくりと自身の背後の方へ動かす。
そこには。
ゆらゆら、と濃く伸びきった人影が怪しげに揺らめいていた。
「――――――っ!」
見間違いと取るにはあまりにも鮮明で、誰かが気配を消しているというには肉にあたる部位が見えず、ただ常識と聡明な頭脳は否定と警鐘で真っ赤に染まっていく。悪寒なんて生易しいものではなく、危機感と不快感がごちゃ混ぜになって背後から覆い被さるように了見の全身を押しつぶしていく錯覚。
俗に言う、霊感なるモノに身に覚えはなく。文明回帰論を支持しているが、オカルトじみたものを信仰する気は毛頭なく。これは了見にとって、全くの未知との遭遇だった。
だからこそ、理性は頑なに拒むが本能はその正体を探るべく、視界が少しずつ動くのを止められなかった。心臓が飛び出しそうになるほど早鐘を打ち鳴らし、うつむいたままも身体は勝手に背後へと向きを変えていく。吐き出す息が熱を帯び、震え動く視界は焦点を合わせられず、黒と赤で世界が構築された幻覚を見る。
「――――――っ!?」
伸び上がった影は校舎から了見の真後ろまで続いていた。濃く、太く、長く。どこまでも続くソレの先にあるはずの、質量を持った存在を了見は見つけられない。ただ校舎が背景然として聳え立っているだけで、その場所にあるであろう、そして記憶に無いはずの物体を認められなかった。
ただ、そこには。
――――ゆらり、と。
ただの〝虚〟がある。それはまるで宙に穿たれた穴、すべてを呑み込むブラックホールの如き陰の虚。紅に染まる空から分離された、存在という概念が無いもの。そう称することしか出来ない、異質な闇があった。
そしてソレは、どういうわけか――まるで大きく口を開けて待っているように見えた。
あまりにも矛盾をはらんだ己の直感に、けれども疑う暇など無く開かれた虚はゆらり、と了見へ近づいてくるようだった。逃げなければ、と漠然とよぎった思考に全身が衝撃を受け、すくみ上がっていた足が本来の機能をようやく取り戻す。瞳はがっちりと虚へと固定されたまま、必死に震える足を校門へ。すぐさま煉瓦を蹴った音が響き、それに呼応するように虚が一歩近づいた、という気配を感じる。
この状況は、一体どういうことなのだ。
叫びだしそうになる衝動を恐怖と非現実感によって押さえ込まれ、言葉にならない思考が脳裏に響き渡る。また一歩、了見が下がれば虚は陰を引き連れ一歩進む。謎と呼ぶにはあまりにも不可解で、夢とするにはどこまでも現実的で、幻だと断言するには第六感が冴え渡りすぎていた。
そして研ぎ澄まされた思考は、ふと、ある連想を浮かばせた。
迫る宵闇、尾を引く夕暮れ。伸びた影と、差し出す指。そして舞い上がるカードと、揺れ靡くのは――――
――――ザザ、と世界にノイズが走る。
そして。
「大丈夫だ。俺はお前を決して――――ないから」
それはまるで、世界を塗り替える魔法のような言葉だった。
ザザザ、と空間の輪郭が大きくブレたような錯覚。瞬きする間もないほどの刹那の後、了見と虚の間にひとり、境界を隔てるかのように立ち塞がる者がいた。
不意に、突風が吹き上がる。草花を揺らし、煉瓦を撫で上げ、ゆらゆらと〝赤〟が舞う。沈みゆく太陽よりも艶やかで、未だ姿を見せない月よりも愛らしい象徴。了見に背を向けながら、長く伸ばされた髪を彩るように結われたソレは、この非日常において何よりも異物であり、何よりも凜とした存在だった。
荒ぶ風の中、目の前の人物はそっと自身の頭――たなびく赤いリボンを指さすと、虚に向かってあろうことか声を張り上げた。
「貴様の狙いは、コチラだろう?」
それは何かの合図だったのか。先程まで了見に狙いを定めていたはずの気配が急速に縮まり、指さされた〝赤〟へとまるで牙を剥いたかのように、鋭く貫かんばかりの視線を向けた。
――――ザザザ、と。
ノイズが走る。まるで突如現れたバグを修正しようとするように、視界が大きく歪む。
だが。
「……今は効かない。だから去れ」
その一言を受け、理解したのか。
ずずず、と少しずつ虚が伸びた影を回収しながら校舎へと消えていく。日はもう殆ど沈みきり、深まる闇に溶けながらそれよりももっと濃い影を隠すように。
数瞬の間に何事も無かったような静けさが訪れた。否、初めからこの空間は静まりかえっていた。それこそ呼吸を忘れ、他人という概念を失念し、この世界は自分ひとりだったという思考が過るほどに。
そんな世界に現れた、異端。
「……き、みは――――」
未だ混乱する了見は、不意に目の前の人物に問う。
長い髪と纏う衣装――デンシティ高校の女子制服だ――で性別こそ一目瞭然だったが、彼女の視線は虚に向いたまま。背格好から知人に該当者はいない。それでもなお、問わずにはいられなかった。
「キミは、だれだ……?」
長らく了見に背を向けたままだった彼女はその言葉にようやく、意を決したようにゆっくりとこちらへ振り返る。
未だ吹きすさぶ風に深い蒼の髪をたなびかせ、その中に一際目立った清き赤を揺らし、真っ直ぐ了見を捉えた瞳は爛々と強き意志と淡い緑を湛えて輝いていた。
その姿に。
了見は彼女を知っていたはずなのだ、と。
直感が切に訴え、記憶はつぶさに否定し、それでも思考は既視感を驚くほど素直に受け止める。
こんな特徴的な人物なのに、彼女の存在はひどく不安定なものに思えた。瞬きひとつ挟む間に視界から消えてしまいそうな、足が地に着いていない、まるで幽霊のようだ。不規則に鼓膜を乱すノイズが遠くで響くので咄嗟に眼を顰めるが、決して瞳を閉ざすまいという気を張りながら、彼女の言葉を待つ。
緑の双眸はまるで宝石のように、美しさと無機質さを兼ね備えた光を反射する。それでもその中に、ほんの僅かだが違う色が見えた気がした。その感情の名前を察するよりも早く。
「――――藤木……藤木遊作」
了見一人しかいなかった空間に、異端たる二人目が降臨した。
藤木遊作という名前を受けて、頭にたたき込んだはずの新入学生の名簿一覧の中にその名前があったことを確信したのは、恥ずかしながら再びその名簿を手に取った時だった。
記憶力に自信はあった。役目に対するプレッシャーも含め、少しでも覚えがあれば引っかかっていたであろうことは自分の性格を思えば想像に難くない。それでも彼女に関してだけは、そうだったかもしれない、くらいの実に曖昧な認識しか持てなかった。
己の不甲斐なさに舌打ちをひとつ、そして膨れ上がる疑惑の数々を視線に容赦なく乗せながら、了見は自身の背後へ気を配る。
日が変わって、時刻は昼過ぎ。少し前に入学式が無事終了し、新たな学友たちの緊張と期待と不安を漂わせていた校内は既に静かになりつつある。在校生は早くも始まった部活動に明け暮れる姿もあるが、新入生たちの多くは早々に帰宅に移っている。本格的な学校生活は明日からのはずだ。それに伴い、了見が拠点として定めた生徒会室も静かなものだ。入学式という大きな課題を乗り越えたばかり。準備に対応に追われた役員を休ませるべく、今日の活動はしないとあらかじめ通達してあった。
なのに。
「…………いつまでそこにいるつもりだ」
いい加減煩わしさを感じてきたため、普段よりもきつめの口調。そんな声を出した自分自身に少なからず驚きながらも、了見は生徒会室入り口に立っているであろう人物へと問いただす。
大きな反応はなかったものの、部屋と廊下の境である横開きの扉、そのすりガラスに映った人影は小さく〝赤〟を揺らした。
確かめる必要もない。件の異端――藤木遊作だ。
彼女は一体何者なのか。その疑問の一片は先だって彼女の口から語られてある。
『――――あれは〝神隠し〟だ』
そう、紅の光に染まりながら彼女は了見に告げた。自らを襲った〝虚〟の正体を。
普段であればそんな非実現的な考えを鵜呑みにするほど愚かではないが、今回ばかりは勝手が違う。身をもって体験したばかりだった。静謐に、刹那に、跡形もなく了見は己が消え去ってしまうだろうという恐怖を覚えてしまった。
『世界を構築する境界。それを越えるには、世界から己が存在を完全に認知されなくなればいい――逆に、誰からも見つけてもらえなければその存在はこの世界から消えるほかない』
それが秘められた世界の理だと、まるで嘯くように彼女は言った。
『ごく稀に人々の思考、視界、認識の外へと出てしまう瞬間がある。その隙間を狙ってくるのが〝神隠し〟だ』
あの瞬間、信じがたいことだが了見という存在はこの世界の誰からも認識されていなかったという。その時を狙い呑み込もうとした虚。認知外から襲いかかる超常現象――それは確かに〝神〟の仕業だと称したくもなるだろう。
『何故、そんなことを知っている?』
急いて飛び出したのはそんな疑問だった。無性に焦燥感を煽られたような、足下が揺らぐ不安定さに心臓が早鐘を打ち鳴らす。今まで信じてきた常識が根本から崩れ去ったのだ、仕方がない――と思うには少し動揺が過ぎる気もした。その理由を求めて投げかけた問いは、何でもないと言わんばかりの顔をして返ってきた。
『……俺は彼方側だからな』
そんな会話をし、夜と共に別れて。翌朝からずっと、彼女は無言で了見の後を追ってくるようになった。隠そうという気概は感じられず、むしろ見ていることは露わに、それでいて了見以外の存在には悟られないように注意を払っているようだった。自宅付近で気が付いたときには思わずギョッとしたが、悪意あるいは敵意のようなものは感じられない。思春期ありがちな思い込みによる作為の線も考えたが、先程かけた声に反応が無いのを見るとそれも弱いようだ。
おそらく、正直認めがたいが――護衛のつもりなのだろう、と了見は当たりを付けていた。
彼女が語った神隠し。その現象を食い止めるのにもっとも効果的なのは【常に誰かから見られている状態】をつくること。そう考えれば彼女の行動の理由が自ずと見えてくる。
だからこそ、了見は腹立たしくて仕方が無い。
「……いつまでも視界の端に立たれるのは迷惑だ。さっさと帰れ」
ほぼ初対面といって言い関係の薄い他人、ましてや年下の女性だ。そんな人物に守られている、などと少なからず持ち合わせるプライドや自身の不甲斐なさに障る。昨日の出来事も偶然にすぎず、再びあのようなことが起こるなど考えにくい。あまりにも不合理で、彼女のやっていることは過剰で了見の神経を逆なでしたいだけのような気になってくる。それらの苛立ちをぶつけるような強い口調で了見は彼女を拒絶した。
しかし。
「なら、端ではなく前にいる」
軽快な音と共に自動ドアが滑りながら開く。小さく足音をたてながら昨日と同じく制服に身を包んだ少女――藤木遊作が、ごく当たり前のように生徒会室へと足を踏み入れた。髪を軽く結わいた赤いリボンが跳ね踊る。その鮮明な〝赤〟にどうしてか、既視感を拭い去れない。
「……危機は去った」
目の前に立ち塞がる彼女へ、苦々しい表情を隠すことなく告げた。了見にとって昨日の出来事は既に過去のものであり、二度と遭遇しないことが前提にある異常事態だったため。
だが遊作は臆すことなく、いっそすがすがしいまでに淡々と了見から目を離さず。
「〝神隠し〟が一度きりだと誰が決めた? お前は目を付けられた。おそらくこれからは故意に世界から切り離される」
そう、事実だけを言い放つ。
確かに彼女の言い分は一理ある。だが、それよりも彼女の言葉には聞き流せないものがあった。
「お前がその斥候でないと言い切れるのか」
目を付けられたと言う。何に、という問いはおそらく返ってこないだろうことが予想できた。あの虚をなんと称するか、それを聞いてしまったら後戻り出来なくなる、と直感が告げている。それよりも重要なのは、彼女の正体だった。
手にしたままだった端末を叩く。生徒一覧が表示されていた画面から、個人の簡潔なプロフィールへと移る。学生証よりも少しだけ詳細に記載されたそれに表示されたのは、目の前の人物たる藤木遊作のもの。そこにはあからさまに不穏な影が見えていた。一瞥しただけでは異常性は感知できない。しかしよくよく読み込めば、記載内容には多くの虚偽があった。
「家族保護者、それに代わる身元保証人が無い。経歴も十年前以前が捏造――いや、これはいっそ断絶だな。それ以降もとても正規の手段で渡ってきたとは思えん所業ばかり。まるで亡霊がそこいらで拾った人の情報をつなぎ合わせてそれらしく見せている、とでも言われた方が納得がいく」
「…………調べたのか」
藤木遊作は少しだけ驚いた素振りを見せた。それに当然だろう、と一睨みする。
昨晩、帰宅直後から了見は持てるコネクションを駆使して彼女の存在に迫ろうと行動した。幸いにも鴻上家はここデンシティを居とする名家であり、その手の情報網はいくらでも転がっていた。不審な行動をしていたので気になった、と従者に名を告げるだけで齎された成果は了見に警戒を抱かせるのに十分過ぎるほどのものである。
「残念だがすべて事実だ」
「どうだか」
証拠を見せろ、と言えばきっと彼女は肩をすくめるだけだろう。それほどまでに彼女の経歴は真実味が無く、そしてそれを証明する手立てが無い。
故に了見は、彼女こそあの虚に連なる存在ではないか――そんな疑惑を抱く。
昨日の出来事があったため、あのような世の理を覆す存在が密かに実在していることに関しては疑うことをやめた。だからこそ、鮮烈なまでに刻まれた異端たる彼女こそが元凶では無いか、と考えるのも無理のないことで。
そんな懐疑と猜疑が練り固まったような視線を受けてなお、彼女の瞳は静かに凪いでいた。その顔に思わず背筋が寒くなる。なにか、とてつもない間違いをおかしてしまったかのような、背後で誰かが了見を糾そうと藻掻いているような、そんな気配を軽く瞬きすることで拭い去ろうとする。
彼女は敵対心こそ無いようだが、了見とは異なる境界に位置する者であることは間違いない。少なからず目的を持って接してきているはずだ。だからこそ決して心を許してはいけない、と自身に言い聞かせて。
それを。
「……じゃあ、取引だ。俺の存在を使え」
そう、彼女は宣った。
「は……?」
「確かに俺の存在は不確かなものだ。だから、お前はそれを利用すれば良い」
唖然とする了見に、遊作は言葉を重ねていく。その表情に一片たりとも虚実は無く、どこまでも澄み渡る緑が了見を離さず捉えたまま。
「ひとつ、先程も言ったが神隠しは終わってない。お前をひとりにしないよう、俺は俺の都合で動く。
ふたつ、代わりにお前は俺を好きに使っていい。周囲の目が気になるなら恋仲のフリくらいしよう。
みっつ、それが――俺自身の証明になる」
何を言っているのか。秀才たる頭脳も思考を放棄するほど、彼女の言い分は突拍子も無く、理解の範疇を超えていた。頭痛が嫌に響く中、なんとか言葉を絞り出そうとするが冷静さを失った思考で導き出せることなど高が知れていて。
「キミは自分をなんだと思っているんだ」
思わず出た言葉は、後から思い返せば滑稽なものだ。疑いを向けていたその顔のまま、まるで心配するような気遣いの色。
そのことに気付いたのだろう、彼女は少しだけ目を見開くと僅かに目尻を和らげて。
「そうだな。今は――人間だと、いいな」
なんて、呟いたのだ。
Ⅱ
一週間は何事も無く過ぎ去った。
彼女、遊作はやはり何かと了見に付いてまわった。授業中など必ず他人の目、隣人の気配を感じ取れる場所に無理して現れることは無く、登下校中――了見の自宅は郊外にあるため、人通りはかなり少ない――や、放課後に遅くまで生徒会室に残っている時などにひっそりと寄り添うよう。疑惑は完全に晴れたわけでは無い。相変わらず正体の読めない人物であることに変わりはなく、ずっと付いてくる姿は一種のストーカーにも思える。
だが了見にはどうしても、彼女を完全に拒絶することは出来なかった。その理由は三つあげられる。
ひとつ。彼女の言い分には間違いなく真実の一片が込められていること。
神隠しの存在が了見にそれを証明していた。時間が経ってなお、あの虚が伸ばした影を考えようとすると悪寒が走る。自分自身を世界から完全に断絶させられる、本能的恐怖を覚えている。
ふたつ。了見と遊作の奇妙な関係を、取引と称したこと。
了見は己が目立つ存在であることを自覚している。鴻上家との繋がりを求めて、または思春期の淡い憧憬や情欲から、彼の手を求める声は数多とある。両者ともに明言は一切していないが、必然的に近くにいる必要があった二人の関係を周囲は勝手に認識していく。正直苦手だったそんな者たちとのやり取りをある程度シャットアウトすることが出来たのは、間違いなく彼女の存在があった。
みっつ。一週間の付き合い――決して短くない時間を過ごしていく中で知った彼女は、驚くほど純粋だった。
「おはよう」
こんこん、と可愛らしく窓を叩き一声かける遊作の姿を認め、了見は何度目かも数えるのが馬鹿らしくなってしまったため息を深々と吐き出した。
「……今日は休日だが」
改めて部屋に飾られたカレンダーを凝視するが、そこに印された今日の日付は赤い。見間違えようもなく、世間は休日である。
「油断は良くない。特に寝起きは危険なんだぞ。一番気が緩むし、なにより目覚めてすぐ他人を考える奴は稀だ」
確かに彼女の言葉に嘘は無い。神隠しが起こる条件を考えれば睡眠という行為は一番危険だろう。だが、ここは腐っても名家である鴻上の本家だ。昔ほど格式高くまとまっているわけではないが、正当なる後継者の了見を放っておくことなどあるはずも無く。不本意だが身の安全を考え、プライバシーもあるため断っていた部屋のカメラを睡眠中のみ許可してある。
それだけでなく。
「気軽にっ、……人の部屋に入るな。セキュリティをなんだと思ってる」
「俺には意味の無いものだからな」
ひょい、と身軽に窓から侵入を果たす彼女へ苦言――しかし、本当に言いたかったことは呑み込んで――を零すが、思った通り気に止めるつもりもない様子。
流石に一週間も続けば予想を立てることは容易だったため、了見は遊作が訪れる前に起床し身支度類いを済ませてある。だが、入学式の翌日の朝。ふと目を覚ましたとき窓から彼女の顔が覗いているのを見てしまった時は、あと少し理性を取り戻すのが遅かったら真面目にどうなっていたか分からない。その時言っても無駄だったため今は諦めたが、年頃の異性の部屋に侵入することに対して危機感を持って欲しい、と切に願わざるを得ない。
「……で、今日は何のようだ。学校には行かんぞ」
「別に、なにも」
確認しにきただけだ、と遊作はあっけからんと告げる。
彼女の行動はある意味、客観的に見れば健気で甲斐甲斐しいものだろう。どうしてそこまでするのか、と何度も問いただしてみたものの一向にまともな返答を貰えずじまい。少なからず目的があるはずなのだが、底の見えない無表情の顔からは何も伺うことが出来なかった。
「お前こそ、どこかいかないのか。人間は休みの時、遊びに興じたりするんだろう?」
彼女の言葉はどこまでも他人事で、その口ぶりはまるで人外が人間という種を知識でしか知らない体のもの。あまりにも似合いすぎて、本当に彼女は理の外の存在なのだと錯覚しそうになる。
初めて会ったときからずっと、遊作は〝生きている〟雰囲気を持っていない。呼吸鼓動を行っているように見えない飄々とした素振りに、生体感知を素知らぬ顔で突破できる体質。感情の乗らない無機質な表情と声色。そして言葉の節々から思わせる常識の欠如――正確に言えば、知識はあるが体験が無く想定でしか話していない――など、考えればきりがない。
けれど。
「――――それは、キミもだろう」
「……?」
再び深く息を吐く。これから自分がしようとしている行為に、ぼんやりと了見を見つめる彼女に、どこから湧き出てくるのかも分からない己の感情――それらすべてを受け入れるべく。
立ち尽くしていた遊作の手を取って、了見は部屋の外へと向かった。
「なんのつもりだ?」
特に抵抗もなく了見に引かれるまま付いてきて、遊作は人心地ついたあたりでようやく疑問を口にした。
昼下がりの都心部。多くの人々が行き交うパブリックビューイング広場はデンシティの実質的な中心部であり、高く広げられた巨大なスクリーンには絶えずニュースや流行のVR映像など、ともすれば溺れてしまいそうなほど情報の洪水がおこっている。
郊外にある鴻上家からこの場所まで二人はただただ歩き続けてきた。一心に、ずんずん進んでいく了見に引かれ続けた遊作の疑問はもっともなことであり、受けた了見も思わず顔を覆ってしまうほどの醜態をさらしてしまったことに気が付いた。
これでは、まるで。
「…………休日は、外に出るものなんだろう」
誤魔化すように視線を僅かに逸らしながら了見は言う。
勢いで飛び出してきたは良いものの、何の計画も無く目的も持ち得ていない。自分がこのような奇行に走ったこと自体、初めてに近いものなのだ。浅慮すぎる行動に息が溢れる。
「そういえば、外に出たときは一体何をするんだ?」
「人によるだろうが……散策、買い物、外食などが多いだろうか」
一般論として口にしたものの、遊作だけでなく了見自身も関わりの薄いものであったため、それらに対して具体的な案などは思い浮かばない。大半のものはネットが発達した今であればすぐ自宅に届けられ、外食するような仲の知り合いは決して多くない。栄養的にも口うるさい従者がいるため、積極的に利用するのが難しい立場でもある。散策も自宅周辺はちょうど良いウォーキングコースになっているため、余所へ出かける必要もなく。
見知った街中で奇妙なふたりは、互いに首をかしげるばかり。そんな不思議な空気を破ったのは、ふわりと身を翻した遊作の方で。
「じゃあ、全部しよう」
と言って、今度は彼女が了見の手を引き出した。
「お、おい……?」
「俺にはよく分からないから、お前が好きなものを選んでくれ」
周囲を見渡せば広間には軽食用の出店が立ち並んでいる。今日は大きな催しなどは開かれていないようだが、タイミングが合えばこの場所では様々なショーやライブが開催されている。そういったものを目当てで訪れる人を対象にしているのだろう、品数は意外なほど豊富のようだった。
「ここなら食事と買い物、両方満たせるな」
そんな通りを遊作は興味深そうに眺めながら進んでいく。店の前に掲げられたメニューにもきちんと目を通し、時折了見へ商品の説明を乞うた。そんな彼女にひとまずの疑念を投げかける。
「……食べられるのか」
「失礼な。出された物を拒むようなことはしない」
了見が聞きたかったのは栄養を摂取できるような生態なのかということだったのだが、遊作は異なる見解として受け取ったようで少し機嫌を損ねたのかジト、とした視線を向ける。ただ返ってきた内容的に問題はないのだろう、と判断した了見はそれ以上追求せず、一先ず目に入った商品に狙いを定めた。実のところ、朝食を取る前に飛び出してきたので空腹を覚えていた所だった。
「すみません、ホットドッグを……ふたつ」
一番賑わうであろう昼食の時間にはかなり早かったため、とくに待つことなく商品を手渡される。出来たてなのだろう、掌にかかる温もりに思わず口角が緩む。
だからか。
「好きなのか?」
「――――っ!?」
いつの間にか真横にいた遊作の存在に気付かず、顔を覗き込まれて心底驚いた。目の前で赤いリボンが揺れている。
「あ、ああ……悪いか」
思わず素っ気なくなる。普段意識して作っている〝鴻上了見〟には似つかわない物だと分かっているからだ。
鴻上家の名を背負う者として相応しい立ち振る舞いを――そう強制されたことは無いが、それでも皆が期待し信頼してくるのは其方の顔の方。周囲の視線や空気を読み取ることに長けてしまい、そういった目に応えるために自然と身についた処世術だった。だが、本来の了見はもう少し子供っぽいところがある。厳格で豪勢なコース料理よりも片手でかぶりつくようなファストフードの方が好きだったり、遊びなどしたことないという雰囲気を醸しながら今でもカードゲームを嗜んでいたり。
普段なら絶対に人には見せないというのに、何故か彼女の前だと油断してしまうのか。出てしまったものは仕方が無い、と半ば照れ隠しでもうひとつの品物を遊作に押しつけた。
「冷めないうちに食え」
「……ああ」
素直に受け取った遊作は恐る恐るといった風にそっと小さくホットドッグへと口付けた。
瞬間、彼女の目が見開く。
「――――――」
言葉は無く、僅かな咀嚼音だけが耳に届く。大きな反応こそ無いが、見開かれた緑が柔らかく日の光を反射して輝いてるのを見れば自ずと感想は読める。
「素材も掛かった手間も逸品とは言い難いが……外で食すという行為は、何故か旨味を増すものだろう?」
「ああ……これが、美味しいというのか」
しみじみと実感したように遊作が呟いた。
味覚が常人と異なっているのではないか、と少しだけ疑ったもののそれは杞憂だったようだ。そう彼女の反応で一息をつく。了見自身も残っている分を頬張りながら食べ進める遊作の姿を捉えておく。小さな口に含めるのは僅かな部分だけで、大きめに作られたホットドッグを完食するには多少時間がかかりそうだった。よほど気に入ったのか夢中になっており、遊作の視界から了見が映っていないことにも気が付いてないようだ。
もっとも、この人通りの多い場所で〝神隠し〟が現れるはずもなく。身の安全を確信した了見は、遊作の背後に回ると改めて彼女を見聞する。
休日にもかかわらず制服を身に纏い、化粧っ気とは無縁の風貌。長い髪は腰までストレートに伸ばされ、頭には小さく赤いリボンが目立つように結われ風に棚引いている。やはり、何度見ても彼女の存在に記憶当たりは無く。
けれど。
――――あの、リボン……どこかで……。
それは既視感に近く、それでいて直感はその思考を肯定する。
彼女に気付かれないよう注意しながら、頭上で揺れる〝赤〟に視線を向ける。普段は視界端に映る程度だったため気が付かなかったが、どうもそのリボンは長期に渡り使用されているのであろう、かなり劣化しているように見受けられた。一見すると鮮やかな色合いが目に付くが、近くで観測すると大分色がくすんできている。おそらく素材は包装用などでよく使われるサテン。あまり髪留めとして相応しいものではない、と了見は訝しむ。
口元を押さえながら思考に耽る了見に、遊作は軽く首をかしげる。
「……なにかあったか?」
「いや。それより――休日なんだ、私服くらい持ってないのか」
悟られないよう、少しわざとらしくも会話を逸らす。実際の所、かなり気になっていたことでもある。この広間から学校までそう遠くはないものの、平日ならいざ知らず休日真っ只中において制服姿というのは中々に目立つ。彼女はその不思議な性質上あまり他人の目に留まることは多くないようだが、それでも否が応でも目立ってしまう了見の側にいる以上、少なからず人目を引いているのは周囲の視線が物語っていた。
もっとも本人は気にするどころか気付いてもいないようで、了見の問いにもかしげた首を戻すことは無く。
「活動するにはこれで十分だろう。持っておくのも面倒だし」
この発言を同年代の同性が耳に入れたら発狂したように問い詰めるのだろうか、とありもしない風景が瞼の裏に浮かび上がる。それは巡り巡って、了見を糾弾するようになるだろうことも想像に難くない。本人にその気が無いのであれば、周囲がそれを手助けするべきだと。
数秒の葛藤の後、ここまで来たら一緒だと悟って再び遊作の手を掴む。
「なんだ、次はどこだ?」
「……買い物、するんだろう」
「ここだけではないのか? まぁ、いいが」
きっと彼女は気付いていない。朝食兼用の早い昼食を済ませた以上、ここから午後の時間は完全なるフリータイム。その時間すべてを使う勢いで猛攻なる買い物という波に自らが飲まれる未来を。
遊作が降参のポーズを取ったのは、既に日が傾きつつある暮れの中だった。
「……お前、こういうの好きなのか」
げっそりと細い身体を更にへこませながら息も絶え絶えに呟く姿に、了見はまさにしてやったり、といった笑みを浮かべる。
「好き好んではいないが、やるとなったら容赦しない」
実際了見は大分満足していた。
紅に染まりつつある日を受けながらベンチに座り込む彼女の容姿に注目する。既に制服は用済みとなって嵩張る服屋の大きな袋に詰め込まれてしまった。今遊作が身につけているのは清楚なワンピースに薄めのカーディガンを羽織っている。了見が何気なくチョイス――というには些か選ぶのに時間がかかったが――したコーディネートで、今までそんなに意識することがなかった遊作の女性らしさを外観だけはよく訴えてくる。制服姿もスカートなのだが、口調や態度などがどうも女性らしさ――いや、人間らしさだろうか。それらを覆い隠してしまっていたのだが、服装が替わったことで大きな変化が目に見えてわかる。遊作自身も着慣れぬ格好のためか、かなり大人しくしている。
きっと去り際のふたりを見た周囲が間違いなく抱くであろう感想を、了見も思い浮かべてすぐに否定する。
「……春の陽気に当てられたな」
乗せられたのか、それとも引っかき回したのか。切っ掛けは間違いなく遊作にあると了見は主張するが、本当のところは気付かないフリをすることにした。
だって、今日はずっと。
「――ああ、ひとりじゃないのは……楽しいな」
たん、と足でステップを踏むように軽々と歩みを止めないまま遊作が小さく呟く。
それはまさに彼女の本心からの言葉なのだろうか、と思案を巡らせる。今までの態度から遊作は人との付き合いを拒んでいるわけでは無いことは察している。だが進んで関わろうとはしておらず、むしろ遠ざけているようで。そう例えるなら――決して届かないとわかりきっている星へ、それでも手を伸ばそうとしているような。
「ずっと、ひとりだったのか」
だからか、尋ねた言葉は自分でも思った以上に優しい口調だった。
「……そう、だな。ずっと遠い世界のことのようだった」
一週間ずっと視界に入っていれば自ずと見えてくるものは多い。こうして日常を共にする時間が多ければ多いほど理解は深まっていく。
藤木遊作は、純粋な者だった。
闇を知り、影を察知し、虚に関連のある存在であること。それは確かなことだが、それらを知ってなお〝人間〟であろうと藻掻いているように感じられた。了見が、周囲が、世界が認めていなくとも、遊作自身はそうありたいと信じて行動している。
彼女は何者で、本当の目的は何で、何故了見に関わろうとするのか。未だ応えるつもりはないようだが、それでも遊作の今ここにいる存在自体を疑うことはやめることにした。少なくともこうして生きていて、言葉が通じて、人間でいたいと願う心を持っていることを否定だけはしないように。
「――邪魔をしないのなら、側にいるくらい好きにしろ」
「ああ、それが俺の……俺自身の目的だからな」
Ⅲ
油断した、なんて自分に悪態をつく程に了見は焦りながらも廊下を駆け抜ける。
真横に展開する、外と中を分かつ境界の窓ガラスに映るのはどんよりと空を覆い尽くす雲の群れ。重苦しく大気にのしかかりながら、まるで慈悲と言わんばかりに劈くような音と共に雫が地表へ叩きつけられる。太陽は朝から顔を見せておらず、この分では数日に渡って拝むことは出来ないだろうと暢気に話すニュースを聞いたような記憶がある。生憎の天候、なんて言葉が可愛らしく感じられるほどひどい嵐だった。
春から少しずつ夏が迫る時期、衣替えを促すようにコロコロと表情を変える空模様を何気なく眺めていたとき、これは既に忍び寄っていた。
――――つぅ、と。
音も無く、気配も持たず、ただそこに〝何も無い〟ことを示す虚ろなる空間。
白いキャンバスを一瞬で染め上げる純黒のインクのように、強烈なる存在感と絶望的な結末を齎しにソレは影となり揺らぎ出でた。目で見ることが適わないはずなのに、間違いなく身に迫りつつあるのを本能が訴えかける。
〝神隠し〟などと称された超常現象を前に了見は、自らの無力と油断そのた諸々の感情に苛まれながらも必死に逃れようと足を動かした。
周囲に人影は無い。放課後で、更にこの天候だ。大半の生徒は帰路についているだろうし、教師陣が集う職員室は今了見がいる所からはかなり遠い。神隠しの条件を考えれば打って付けのシチュエーションと言える。遭遇は二回目であり、彼女からの忠告もあったため比較的冷静に動けているのは幸運なのか。反射的に虚から背を向けて一目散に走り出してからしばらく、一定間隔で迫ってきているのを感じ取りながら、出口の見えない終わりを目指す。
そんな中。
――――カツン、と。
了見のものではない、新たな足音が耳に届く。
ハッと背後を振り返れば、まるでその動きを待っていたように目の前で〝赤〟が踊る。
「言っただろう、油断するな――と」
その言葉と同時に泡が弾けるような感覚。瞬く合間に了見ひとりしかいなかったこの空間に、もうひとりが現れていた。
「ああ、確かに油断したな。まさか、自分から言い出しておいて勝手にいなくなるとは思わなかったからな」
危機が去った、と身体が理解した途端、思わず皮肉げに言葉が飛び出した。目の前に立つ彼女――藤木遊作に対する当てつけだった。
遊作が了見の前に現れてからもうすぐ一月が経とうとしている。これまで何の問題も無く過ごしてこれたため気が緩んでいた面は確かにある。それでも了見がそこまで油断したのは、遊作が了見を見ているものだと思い込んでいたことも一理あった。これまで校内に限らず登下校や休日など、ほぼ間違いなく遊作は了見の近くにいた。目を離している時は必ず了見の近くに他人の目があるようにたち振る舞っていたことも熟知しており、今回のような展開が起こるとは想定外である、と了見は暗に告げた。
それに対して、遊作自身も少し気まずいのかそっぽを向き。
「…………悪かった。その、傘を探して」
と、珍しく言い訳じみたことまで口にする。
「傘? 持ってないのか」
「必要と感じたことが無い。濡れるのにも抵抗はないし」
確かに無頓着な遊作のことだ、ずぶ濡れになったところでさしたる影響もないのだろう。人間と同じ身体構造かどうか未だに分からないが、彼女が風邪を引く姿など想像できない。
しかし、と了見は意外さで少しだけ目を張る。
「必要ないのに探したのか」
矛盾していると指摘すれば遊作は狼狽えたように視線を左右へ。口にするか迷っているような素振りだと感じ取る。珍しい反応だった。普段であれば飄々と何でも無い、とあっさりこちらの疑惑を切り捨てるか、心のこもらない無感情の緑の視線を向けるだけなのだが。
少しの間迷っていたようだが、了見の探るような視線に耐えかねたのかようやくぽつりと呟いた。
「……リボン、濡らしたくなくて」
「――――ああ、そうか」
改めて遊作の頭上を彩る〝赤〟を見る。鮮やかな色合いをしていながらも年期を経てしなびたような印象を受ける、彼女のトレードマーク。確かにこれ以上負荷をかければもう保たないことは明らかで、彼女の言い分に納得する。
「だが、これほどの悪天候では傘だけでは防げないだろう。……大切なものなら懐にでも入れておけ」
再び窓の外を見ると、風こそ大したことはなさそうだが雨はまるで弾丸のように鋭く重い。傘を差した程度では到底濡れるのを防止できそうもなく、ただでさえ綻びが見えそうなほど古びた髪飾りにはとても耐えられそうもない。どんな云われがあるのか知らないが、少なくとも遊作が大切にしていることだけはよく知っている了見から、心からの忠告だった。
それを。
「駄目だ! これを外したら――――っ」
それは間違いなく、遊作が発した悲鳴だった。
発言の途中で気が付いたのだろう、自ら手で口を覆ってそれ以上言わないよう押さえる彼女は怯えているように見えた。大胆不敵、なんて言葉がよく似合う普段からは一変したその様子に、了見は思わず絶句する。
了見が既視感を覚えてやまない〝赤〟は、遊作にとって――――一体、何になるのだろうか。
取り乱したことを謝罪する彼女の姿をどこか遠くの出来事のように見つめながら、ふと思ったことが頭にずっとこびりついていた。
遠い日の夢をみる。
茜色に染まる視界、静まりかえった公園、悪戯のように吹きつける風。
あの頃、了見は常にひとりだった。まだ父が存命で、鴻上の家に囚われない斬新で改革的な生き方に、幼い憧れと忙殺による愛情不足を密かに胸に秘める日々。
そんな中、ただの気まぐれだっただろうその出来事を、今でも大切に覚えている。きっと多くの人が体験するであろうイベントを、その年だけは了見も甘受することが出来たのだ。あまりの嬉しさに翌日、その幸福を噛みしめながら興奮によって外へ飛び出した。
そんな日に。
『ねぇ……――、どうして――――――?』
『あっ――これ、――――――――の――――だよね? ――も――――の?』
『もしよかったら……――――――? ――――も、――――――――――と思う――――』
断片的な言葉の群れ。不思議な感覚だった。この記憶は正しいものだ、という絶対の自信がある。けれど思い返せば歪で不可思議としか言い表せない違和感がある。
あの日、確かに了見はひとりだったのだ。立場上まともな友人関係を築くことも出来ず、大人たちの中に入っていけるほど成熟もしておらず、ただひとり孤独に過ごすしかなかった時期。
なのに。
『――――じゃあ、約束をしよう』
記憶の中の幼い了見は、何故誰もいない空間へと話し続けているのだろうか。そこには何かがあるはずも無い、ただの虚ろな空間がぽっかりと穴を開けているだけなのに。
そして、ふと風が吹き〝赤〟が舞う。鮮やかで、可憐で、大切なものが。
翌日、昨日の雨はまるで嘘のように太陽が高く昇り、あまねく地上を照らしていた。少し汗ばむほどの陽気に包まれた校舎は開放感に溢れ、昼休みにもなれば生徒たちのざわめく声と駆け回る足音に包まれる。
そんな喧騒から遠く離れて、ひとり。了見は生徒会室で大きめの椅子の背もたれに身体を預けていた。
少し前までは一年生の部活動入部に関する書類の作成、編集などに追われ休む間も惜しんで作業していたが、先日でようやく一区切りがつき、次の行事まで少しばかり猶予があった。無論、細々とした雑務は有り余っているがそれでも昼休みに詰めて行うほどのものではなく、現に了見以外の人員は召集もしていないためこの場にはいない。
では何故了見はここにいるのかだが、ただ単にひとりになりたい気分だったのだ。
昨日のことを思えばこの行為は推奨されないことだろうが、今は日中であり、扉一つ隔てた先には大勢の生徒たちの気配がする。流石にこの状況下で神隠しが発生するとは思えず、先程から気を配っているがあの本能的恐怖を感じることは無い。
久方ぶりの、ひとりきり。
「…………はぁ」
零れた息は一体何に向けてなのか。それを自問するためにも、この空間はちょうど良かった。
考えるべきことは数多くある。神隠し、藤木遊作、そして――少し前から見るようになった昔の夢のこと。明らかに過去の出来事で、了見の記憶とも齟齬は無い。けれど、隠しきれない〝何か〟が欠落した跡がある違和感。きっとすべてはどこかで繋がっているのだと根拠は無いが直感が告げている。だからこそ、少しでもその糸口を掴むべくチャンスを見つけては思考に耽る。
だが、ふと。
ちらり、と背後へ視線を向ける。ちょうど中庭を一望できる大きめの窓がはめ込まれた壁際に映る景色は、了見がこの部屋に籠もってから殆ど変わっていない。
この風景は、きっと何の問題も無い平凡な日常の一ページに過ぎないものなのだろう。一枚のキャンバスを眺めるように、三階から見下ろす形でその景色をのぞき見る。
趣のあるベンチに向かい合って座る、ふたりの女子生徒。片や茶髪のショートカットに丈が短めのスカートの凜とした姿――おそらく財前葵。片や青みがかったロングストレートで日常に馴染みのない姿――藤木遊作だ。財前葵と了見は面識はないものの、彼女の兄がSOLテクノロジー社に務めていることもあり、有象無象の中では存在を意識している方だった。
ふたりは了見が見ていることには気付いていないようで、向かい合ったまま真剣な表情で手元に集中しているようだった。よく見れば彼女たちはカードを手にしているようで、思案を巡らせる視線はまるで軍師もかくやといったところ。彼女たちが何に興じているのかを察することは容易だった。
数あるカードゲームの中でも、了見も嗜む世界的に有名な――デュエルモンスターズだ。
『――――、――――?』
『――っ! ……――――』
デュエルディスクを使えばVRを用いた立体映像を投影し迫力あるデュエルを楽しめるというのに、おそらく人目が気になるのだろう、彼女たちはカードのみを使って簡素に行っていた。それ故にデッキ構成、ライフ状況、勝敗何一つ了見にはわからない。けれど、ふたりが楽しそうにデュエルをしていることだけは確かなようで。伝え聞く限りクールな印象の財前葵と、常に表情が一定の遊作。両者ともに口角が上がっている。
同じクラスメイトなことは認識していたが、まさか仲が良いとは思ってもみなかった。とくに遊作は気付けば了見の側にいるため、碌に授業にも出ていないのではないかという疑念もあったが、この様子では問題ないようだ。
それにしても。
「まさかデュエルが出来るとは」
デッキを所持していることすら了見は知らなかった。遊作の正体は何度も詮索してきたが、そういったプライベートにあたることを尋ねられるような関係ではないのは承知の上。だが、何故か心中から敗北感と悔しさがにじみ出る気がした。自分の心境の変化に戸惑いつつ、新たに浮上した疑問を取り立てる。
まともな生まれとも思えない彼女がどうやってデュエルを習得したか、だ。
女性プレイヤーが珍しいという訳では無いが、あの滅茶苦茶な遍歴を考えれば不思議に感じざるを得ない。見た限り手つきに不審な点や不安げな素振りは見受けられず、どちらかと言えば慣れ親しんだ行為にいそしむ姿だった。財前葵はデュエル部に所属しており、かなりの腕前だと風の噂で聞き及んでいる。そんな彼女と対戦しているくらいだ、少なくとも初心者ではないだろう。それに不思議と、藤木遊作とデュエルは了見の中で既に結びついていた。欠けていたパズルのピースを見つけてはめ込んだように。
「藤木遊作――――奴は、一体……」
いくら悩めども、藤木遊作という人物を理解するには圧倒的なまでに情報が足りなかった。まるで意図的に彼女に関するデータが存在していない。消失した、と決めつけるには痕跡一つ見当たらない。個人情報であっても今はネットワーク上で管理されている。いくら消去や修正をしたとしても必ず履歴は残されているはず。
なのに藤木遊作という個人のデータは、まるで書類上は記載されているが、他人の目には決して映らない仕組みになっているような――機械は問題なしで通すものの、人間の認識には引っかからない絡繰りが施されているかのように、つかみ所がない。
「ここに、本当のことが記されているのだろうか」
何度も読み返し、紙媒体に落としてまで復習った藤木遊作の調査履歴をもう一度目を通す。やはりそこには多くの穴抜けがあるようにしか捉えられない。その空白部位に注目し、じっと目を凝らす。真っ白で、不自然で、思わず吸い込まれてしまいそうな〝空虚〟がある。
この感覚を、了見は知っているような気がして。
――――ばさり、と目前を鳥が飛び抜けていく。
羽ばたきにつられて地上へ視線を戻すと、デュエルを終えたらしいふたりが談笑に興じている姿を捉える。
そんな何気ない風景に、ひとつの違和感を覚えた。
「………………足りない」
無意識のうちに口にした言葉の意味を探るべく、了見は身を乗り出さん勢いで窓から地上を見下ろした。はにかむ財前葵と、少しだけ目尻が柔らかい藤木遊作。どちらも指導されない程度に制服を着崩し、互いのデッキを見ながら雑談しているようだ。不審な点は見当たらないが、拭いきれない違和感が了見の心中を乱す。
その答えは、遊作の頭部に注目したとき判明した。
「な、い……?」
いつも了見の側にいるときは決して外そうとしなかった〝赤〟がいない。あの鮮烈なまでに刻まれた、藤木遊作を象徴する特徴的なリボン。それが、彼女の長い髪から消えている。無くした訳では無いのだろう。以前垣間見た反応から、遊作はあのリボンに執着のような念を持っていた。それが無い状態であそこまで平常心を保てるものか。だからきっと、遊作自身が意図的に外しているということ。
ならば。
『駄目だ! これを外したら――――』
あの後続けるはずだった言葉は、何だったというのか。
胸の奥がドス黒く染まっていくような、言い知れぬ感情の波に飲まれそうになる。眼前に閃光が走り、思考が一方にしか定まらない。それは警鐘のように、彼女の存在に囚われてはいけない、と思考の拒絶。
その時。
「彼女はまるで〝赤ずきん〟のようだと思わないか?」
その声は唐突に、了見の背後から天啓のように齎された。
息をのむことすら許されぬ重圧感と、世界が軋み乱れるような激しいノイズに視界を乱され、了見はただ金縛りに遭ったように硬直する。振り向こうと首へ力を回すものの、身体はその精神を絶たれたかのように応答しない。
兆しは無く、予想を立てることすら出来ない、暴力的なまでの存在感。まるで虚ろから突如湧いて出た、としか言い表せない背後の存在は、何の目的があるのか静かに諭すように言葉を紡いでいく。
「彼女を彩る〝赤〟……その意味を、知っているか?」
「――――っ!」
はくはく、と溺れる魚のように口を動かすが、意味のある音になりきれず空気へ溶けていく。これは、なんだというのか。僅かに動く瞳を下に向けると、黒き人影のようなものが了見の影を覆い潰していた。フィクションで見る【影縫い】を思い出す。影を伝い全身の自由を奪われてしまったかのように呼吸すらままならぬ中、背後からの声は脳裏に直接響いてくる。
「幼き純粋な子供――何故、彼女は目をつけられてしまったのか?」
その問いは、先程の言葉にあった〝赤ずきん〟に掛かってくるのか、それとも〝藤木遊作〟に対してだろうか。まるで海の中にいるかの如く、身体も五感も思考さえもままならない。了見は響く声に誘導されるがままに、ぼんやりと彼女のシルエットを思い浮かべる。無機質な表情が目立つ中、唯一彼女の感情を物語るように揺れ踊る〝赤〟のリボン。なるほど、確かにこの声の言うとおりまるで赤ずきんを思わせる。
その連想にふと、胸にざわめきが起こる。何度目かの既視感だ。
あの〝赤〟を了見は知っている。記憶には無く、確固たる証拠も無い。それでも本能は訴え続けている。
夕暮れよりも鮮明で、幼子のように可憐な、遠い日に交わした、何かを――――
深く沈んだ思慮を食い破るように、声は高らかに告げる。
「〝赤〟は――――生け贄の印なのだよ」
その言葉は何よりも鋭い刃で、了見の根本に突き刺さった。
「――――――――っ、ぇ……?」
ザザ、と世界が揺れる。視界が荒々しい映像に切り替わり、すり切れた昔の情景を投影していく。あり得るはずの無い、遠い昔の出来事を。
それは了見が八歳の誕生日を迎えた頃。その年は本当に珍しく、父からプレゼントを貰ったのだ。四角い箱が包装紙と赤いリボンで飾り付けられた、華やかで輝かしい贈り物。とくに色鮮やかな赤に目を奪われて、包みを解いたあとも好んで身につけていた。しゅるり、と手首に巻き付けながら興奮冷めやらぬ中散策に出て、悪戯な風が吹き――――
「古来より神に捧げる供物は、それと判別するため頭部に鮮やかな〝赤〟を纏わせたという」
「――――――やめ、ろ」
舞い上がった赤に導かれて、たどり着いたその場所で。人知れず行われた邂逅は何の因果か、誰の記憶にも残らないものへと成り果ててしまった。
『ねぇ……キミ、どうして――――――?』
記憶の中で震えるのは幼き了見の声。まだ世界の何もかもを知らない、純粋でありながらも少しばかり聡明だったのは、幸か不幸か。
「童話の赤ずきんが何故、狼に目をつけられてしまったのか。ひとりで森を歩いていたから? ……否。彼女が純粋で可憐であったから? ――――否」
「――――やめろ」
そんな記憶に被さりながら、神の如く下される声はまさに罪を暴く残酷な福音。その先を聞いてはいけない、と動かない身体が嫌な音を立てながら拒絶の意を示す。
それさえも裏切って、記憶の再生は止まらない。
『なくさないで。これを身に着けてくれたらきっと、僕がキミをすぐ見つけてあげるから』
それは幼稚で無知で、なによりも良心からのもの。宵闇が迫る中、ひとりだった了見に出来る最良の選択。
ただ、それが。
「生け贄の証たる〝赤〟を身に着けてしまったから――――――彼女は、選ばれてしまったのだよ」
了見の咎になろうとは、誰もが――世界すら想定していなかったのだろう。
「やめろ――――!!」
決死の叫びを以て、深海の如く重圧と淘汰の空間が破裂する。泡沫が弾け飛ぶよりも苛烈に空間が歪み、世界の輪郭が一時的に失われたような錯覚が起こるほどのノイズが走る。
その刹那、了見は背後で悠々と立ち尽くす声の主の姿を捉えた。すべてを抱擁するほどの大柄で、常識という概念を受け付けない人とは全く異なる眼差しを持ったその者は、おそらく大衆が無意識ながらに抱く〝神〟への畏怖から生まれ落ちた姿だろう。
奴もまた〝神隠し〟の一端であるのなら、語られた言葉はまさしく。
「…………嘘だ」
目を瞑り、耳を塞ぎ、口からは否定の言葉のみを吐き出す。そうしなければ到底正気を保てそうになかった。
窓の外の穏やかな日常。うっすらと聞こえ届く朗らかな笑い声。暖かな日に照らされて、その凛々しさを際立たせる〝赤〟の存在。
それが、まさか――罪の象徴に成り果てるとは、誰が知ろうか。
了見の声なき慟哭は、何も無くなったこの空間に虚しく響くばかりだった。
Ⅳ
〝虚〟とは、世界の縁の外側にある〝無〟と成り果てたものが集う場所。死別とは異なり、そこにあるものは初めから存在していなかったとされてしまったものたち。この世界で生きていく間に必ず発生する【他人からの認識】が一瞬でも欠けてしまったが最後、そのものは〝虚〟の住民となる。
あまりの無秩序、あまりの無慈悲、あまりにも無差別なその現象を人々は畏怖を込め、存在しない神になぞらえ〝神隠し〟と称した。
なくしたものを取り返す、なんて言葉は通用しない。再び世に舞い戻る、なんて甘い考えはすぐに消える。せめてあの人だけは――なんて僅かな希望も、打ち砕かれる。
それがこの世界の絶対たるルールなのだから。
「……だが、ルール故に例外は必ず発生する」
その言葉につられたわけでは無い。そんな戯言を信じたつもりもない。希望を抱くことが出来なくなるほど、精神は既に限界を超えていた。
けれど。
「君にまだ自意識が残っているのは、世界から君の痕跡が完全に消えていないということだ。それは如何ともしがたいことであり、世界は修正に動くだろう。……分かるか? 今の君を支えている〝何か〟が次の獲物になる」
それだけは、絶対に許せないことだった。
「何故、そんなことを――に言う?」
己は存在していない故に、一人称にノイズが走る。そんな場所にもうずっと――時間の流れなどあってないようなものだが、おそらく十年くらいだ――いる。時折間違えて外へ揺らぎ出てしまうこともあるが、それも刹那でしかない。だが、こんな状態でも今までこうして意識を保てていたことに心当たりはある。だからこそ、それを失うわけにはいかなかった。
しかし、そんなことをわざわざ知らせてくる、目の前にいる――虚の中で〝いる〟なんて言葉はおかしいが――奴の行動理由には疑問が生じる。元々奴の正体などに興味は無かったが、向こうはこちらを興味深そうにしていたので会話が発生することは間々あったが、なれ合うような間柄ではなかったはずだ。
こちらの疑念を読み取ったのだろう、奴は見慣れた聖人の笑みを少しばかり崩す。
「君はこの虚構の中で唯一の真実たる存在だった。そして……〝
「らしくないな。……神ならば神らしく、慈悲という名の残虐を行えば良い」
「心外だな」
奴の存在理由を詳しくは知らない。人々の無意識下から生まれ、虚に身を置き、神を自称するもの。思えば長い付き合いだったが、こんな場所に意識を持っていたのはお互いふたりだけだったため、名前すら知らないことに今気が付いた。もっとも、本当に奴が〝神〟であるならば、名前など最たる不要なものだろう。そう考えて、口に出すのはやめた。
「しかし……真実たる存在とは、何のことだ?」
「やはり気付いていないか」
久方ぶりに自分の身体を意識しながら、先程の言葉の意味に首をかしげる己に、奴は少しだけ呆れたように息を吐いた。
「君を繋ぎ止めるもの、〝虚〟でも失われないもの、記憶から消え失せても存在する確たる象徴。それを真実と言わずして何という?」
「――――ああ、そうだな」
その言葉に、ぎゅっと肌身離さず手にしていたものを抱きとめる。色彩など存在しない空間で唯一の〝赤”。
これがあったからこそ、己はここにいる。往くべき道のりがわかる。己の存在理由が、証明できる。
「…………行くのか」
掛けられた声に振り返ることなく、ただ肯定の意を込めて手を振った。
「世話になった。もう戻らないだろう」
「そうだな。上手くいっても、敗れようとも――君の存在は失われるだろう」
奴の言い分は紛れもなく事実だろう。既に己の情報は世界から抹消されている。今は細い糸よりも繊細な繋がりで保っているだけで、これからの行動次第では容易く失われてしまうもの。
それでも。
『――――約束、だよ』
あの声を、あの人を、あの〝約束〟を。
世界から消えてしまっても、記憶に残されていなくても、たとえ己が存在していなくても。
それだけは絶対に失わせたりしない。
故に、思い出す。
「俺の、名は――――藤木遊作」
自分の存在を強く意識するべく力強い言葉を語り、自身の姿を構成すべく遠い記憶を呼び覚まし、はっきりと自己を認識するために己の名を告げる。
それで、道は開かれたのだ。
鴻上了見はひとり、己の記憶の齟齬に向き合っていた。
「十年前のあの日、私は黄昏の中……誰かと出会っている」
先の現象から少し時が経ち、既に学校は放課後へと突入していた。今いる屋上からは部活動に励む生徒たちを一望できる位置取りだが、今日は教師陣の都合により活動を全面中止とされているため、下校しようとする生徒の姿は幾つか視認できるが大多数はもう校内から退去している。人気は感じられず、今までであれば超常現象を恐れて保身のためどうすべきか策をたてていただろう。
だが、今は。
「藤木遊作……彼奴が、その時の……?」
振り返った過去は痛みで損傷の激しい絵画のように、欲しい情報ほど朧気で曖昧。あと少し、ピースが欠けていた。
仮に幼少期出会っていたとして。何故、了見はそのことを忘却しているのか。
記憶は移ろうものだとしても、これは欠落――否、抹消に近しいほど彼女の存在が脳に残っていない。既視感こそ覚えるが、それを遮るようにすぐ理性が否定を投げかけてくるのも、今思えば不思議なことだった。
――まるで、了見が覚えていることが都合の悪いことのようで。
そこまで考えて、ふと彼女の言葉がリフレインする。
『おそらくこれからは故意に世界から切り離される』
神隠しの説明の中、彼女が告げた言葉。一度では終わらないという警告だと思っていたその意味が、今となっては異なる意味も内包していたとしたら。
「〝神隠し〟に遭ったものは――世界から強制的に痕跡を消される……?」
導き出されたそれが正しいのか、了見にはわからない。けれど、もしそうならば彼女は。
「――――っ!」
咄嗟に思い浮かんだことを確かめるべく、鞄に入れてあった端末を手に取って該当ページを即座に開く。
藤木遊作の情報が載った、数ページ足らずの短い文章。記載されている事項の少なさ、突拍子のなさから偽造にしか映らなかったそれを。
順繰りに、指を指しながら確かめていく。
「――両親、十年前に死亡」
その日付は、了見の誕生日の数日ほど前。そしてその両親に当たる人物は存在していたことが確認できている。ただ、その夫婦に子供がいたとは記載されておらず、ふたりとも不慮の事故で亡くなったことになっているが――――
『ねぇ……キミ、どうして泣いているの?』
そういえば、了見はあのとき出会った者へ、そう問いかけていたような気がした。
更に目を皿にしながら読み進めていく。
「十年以上前のことはつまびらかだが……以降は、かなり断片的だな」
半年後、児童養護施設へ席を置いている。それも義務教育の間だけで、高校生になってからは何の庇護もないまま古いアパートメントに居を構えている。施設に関しては調査済みで、確かに在籍の履歴こそあれど職員への調査した結果からは彼女の痕跡は見受けられなかった。だからこそ虚実だろう、と想定していたのだが。
「だが、確か……生体認証には引っかからないな」
『俺には意味の無いものだからな』
腐っても名家である鴻上家のセキュリティはそこらの住居とは雲泥の差がある一級品。とくに未登録の人体を感知するセンサーを潜り抜けるのには至難の業だ。それが大量に仕掛けられている外から了見の部屋の前まで容易く侵入を果たした彼女は、その理由を問うたときそう答えたはずだ。
生命として機械に認識されていないのであれば、もしかしたら――人々に見られても其処には何も無い、と映ってしまうとすれば。
「それでは――まるで、」
「まるで――〝虚〟のようだ、か?」
了見の戸惑いを代弁したのは、背後で無機質に響く声。
驚きで咄嗟に振り返ったそこには、沈みゆく日を背にしてゆらりと立ち尽くす、藤木遊作の姿があった。
見開かれた新緑を湛える双眸の、逆光故か闇を抱いたその眼差しに、ふと見覚えがあると直感が示す。
――――――ザザ、と。
はたはたと雫を零す人影。夕暮れ時、ひとりきり。寂れた公園で立ち尽くす、幼き姿。
知らない人に声を掛けるのは、とても勇気が要る行為で。それでも思わず口にしてしまったのは、きっと――――
「駄目だ。それ以上、思い出す必要はない」
ぱちん、と夢から目覚めさせるように遊作は強い口調で了見の行為を咎める。
「何故だ」
了見からすれば、彼女の台詞は不自然だった。
遊作が予想通り、過去に〝神隠し〟に遭ってしまい世界から存在が消えていたとすれば、むしろ了見は思い出さなければいけないはずなのだ。人と、世界との繋がりを失ったら〝虚〟に囚われる。ならば、繋がりである記憶があれば戻れるはずだ、と想定してのこと。
だが、遊作は。
「必要ない! 俺は自分がどうなろうと構わないし、なによりずっとそうして生きてきた! だが、お前は――」
「――っ! キミは、またそう言って!」
以前から自身を省みないタイプだとは思っていたが、これほどとは予想外で、思わず了見は怒りを覚えた。
「キミは良いかもしれないが、私は生憎自分の記憶が穴抜けなのは気に食わん!」
「それで何の問題がある? お前が生きていく中でそれは不要なものだとされたんだ。無駄なことはやめろ」
言い争う中、お互いが本音で語り合っていないことには気付いていた。それでも言い出したが最後、感情が破裂するように止めどもなく偽りの言葉が飛び出してゆく。
そして。
「――――なら、それはもう要らないな」
ぱしり、と了見は自分の手が意識を離れて行動しているように感じながら、その行動をただ眺めていることしか出来なかった。
指先が触れた〝赤〟をその滑りにそって解き、ちょうど吹き抜けた風へと手渡してゆく様を。
「――――――――あっ」
呆然と、風間に踊るそれを目で追う遊作。
どうしてそんな行為をしたのか。ハッキリとした答えは出ない。怒りが積もった拍子にか、たまたま目に付いたのを手に取ろうとしたのか、はたまた――無意識下による、何かからの扇動か。
了見にとっては深い意味など無く、直後に自分の浅慮さを謝罪しなければ、と気付いた時には既に遅く。
「――――――っ!!」
流れる風に運ばれて屋上から去ろうとする赤いリボンを追い、遊作が身を乗り出して手を伸ばしている姿が飛び込んできた。安全など眼中にもなく、フェンスを易々と飛び越え、そのまま転落しかねない勢いのまま。
「なっ――にを、している!?」
咄嗟に伸ばした腕は空を切り、了見は狼狽の声を上げる。ここから落ちれば脆い人体などひとたまりもない。運良く助かったとしても、あの動き舞うリボンに手が届くとは到底思えず、ただの自殺行為にしかならない。
「駄目、あれだけは――――絶対に!」
その悲鳴はまさしく彼女の心からの叫びで。その拍子にふわり、と赤いリボンが風を失って自由落下に移行する様子をスローモーションのように捉えた。
その動きをなぞるように、遊作が躊躇なく屋上と空中の境目を飛び越えようとして。
「――――っっ!!」
がしゃん、と激しい音と衝撃に阻まれて了見の動きが一時停止する。目の前にあったフェンスの存在にも気付かないほど切迫した状況下での一瞬は、まさに運命を分ける。
「ゆう――――」
紅に染まる視界の中、ゆっくりと落ちていく〝赤〟と遊作。それを〝虚〟がその時を待っていたように、大きな花のような空間を広げていた。
その光景を、了見は知っていた。
遠い日の、
「良かったですね、了見様」
包み紙を丁寧に解き、出てきた品に感嘆の声を上げた了見に向かって、姉のように慕っている滝が微笑ましそうに声を掛けた。
鴻上家の嫡男、了見の八歳になった誕生祝い。数多とある贈り物の中で一番に輝いたのは、初めて貰った父からのプレゼントだった。
「うん。滝さんもありがとう! 大切にするね」
「ふふっ、是非博士にもその言葉を伝えてあげてくださいませ。きっと喜ばれます」
「そうだといいな……」
父である鴻上聖は多忙で、あまり家庭を顧みない。家族に対する情はあれど、あえてそれを示す必要を感じていないのは言葉の節々からも察せられ、幼いながらも聡明だった了見はそんな父へ物をねだるようなことはしたことがなかった。だからこそ今回は異例中の異例であり、喜びも際立つもので。中身だけでなく、外装も捨てないように興奮しながら言う了見を窘めようとする者はいなかった。
「ねぇ、ちょっと外へ遊びに行ってきてもいい?」
「暗くならないうちに帰ってきてくださいね」
普段であれば用事も無くただ遊びに行くことをあっさりと認められることは少ないが、了見の思いを汲んだ滝は笑顔で送り出してくれた。その際、わざわざ包装用に使われていたリボンを手首に巻いてくれたのは、了見がいたく気に入っていたことを知っていた故の親切心だったのだろう。彼女の気遣いに礼を言いつつ、浮き足だったまま了見は文字通り家から飛び出した。
行き先はとくに決めておらず、強いて言うなら貰った品を活用できる場所を求めていた。出来れば同年代と会いたい、なんて考えながら郊外から住宅街へと進んでいく。もしこの時、了見に気軽に連絡を取り合える友人がいれば結末は違っただろう。
ひとりきりで彷徨うデンシティは子供にとっては広すぎて、予想以上に孤独感を覚える場所だった。
タイミングが悪いのか、人とすれ違うこともないまま随分と遠くまで来ていた。帰り道は問題ないが、掛かる時間を考えると既に引き返した方がいい位には日が傾きつつあった。
「……誰も、いないな」
寂しく呟いても返ってくる言葉は無い。周囲を見渡しても人の気配すら感じられず、まるで――この世界にひとりきり残されてしまったかのようで。
ぞわり、と背筋に走った悪寒を振り払うように首を大きく振る。
その時、ふと近くに公園があることが目に留まった。
すべてにおいて情報化、電子化が邁進するこの時代。子供の遊び場もVRへ移行しつつある中、昔ながらの遊具が点在する小さな公園は数少ない子供たちが外で遊べる場所。
そんなとき、一陣の風が吹き荒れる。
「わっ――!?」
気付かないうちに解けかけていたのか、手首を飾っていた鮮やかなリボンが離れ、風に舞い上がる。その後を追いかけて、了見はその公園へと足を踏み入れた。入り口付近でちょうど眼前を漂っていたリボンを手にし、安堵の息を吐きながら公園内を見渡して。
そこには。
「――――っ、う……ぐすっ」
木々の合間から差し込む茜色に照らされる、青みがかった長い髪をした少女が、ひとり。はたはたと、剥き出しの感情を力なく零しながら憂いと絶望に浸っている。
「――――ぁ」
まるで、了見とは対照的だった。
祝福と喜びで満たされていた心が影を落としていく。他人の心には機敏であろう、としていたためか、あるいは歳を重ねたという自覚からか。その時の了見はある種の使命感を覚えた。
見ず知らずの人に話しかけるなど今まで経験すらないのに、手にした赤いリボンをまるでお守りのように握りしめながら。
「ねぇ、キミ……どうして、泣いているの?」
そう、話しかけた。
少女は自身に話しかけられたと気付くまで少し時間が掛かったようで、少しの間ぼんやりと了見を不思議そうに見つめていた。そんな態度に少女の傷の深さを察した了見は何か会話の糸口が無いかと視線を動かし、ふと彼女の脇にぽつりと置かれていた品に注目した。それが何なのか気付くと思わず驚嘆の声を上げる。
「あっ――これ、デュエルモンスターズのデッキだよね? キミもデュエルするの!?」
了見は同年代の友人と呼べる間柄がいない。父の方針で常人と同じ学び舎に通うことを認められていないこともあり、普通の関係を築く機会を失い続けていた。稀にそういったチャンスに恵まれても、類い希なる頭脳を持ち得た了見の会話についてこれず、それを察してしまい自ら手を引くことばかり。
そんな中、了見が特に好きな遊び――デュエルモンスターズは同年代が興じるにはかなり難解であり、了見自身の腕前も相当なものであった。滝を始めとした鴻上家に仕える大人たちにも勝る実力を持っていたため、たとえ普通に学校へ通っていたとしても皆の中に混じることは難しかっただろう。
そういった体験すら不足していた了見は気付かないまま、同じ趣味を持った同年代と出会えた事実に再び興奮を取り戻し、輝く笑みを浮かべながら未だ困惑する彼女へ言葉をつなげる。
「もしよかったら……僕とデュエルしない? 辛いことも悲しいことも、全部ぶつけてしまえばちょっとは楽になると思うんだ」
それは経験からの言葉だった。
常にひとりでいた了見にとってデュエルは、寂しさを紛らわせるためにとても効果的なことを熟知している。どうすればデッキが回るのか、相手はどうやって凌いでくるのか。考えている間は孤独を覚えずに済んでいた。
だからこそ、今目の前にいる少女をこれ以上悲しませたくなくて。
「それに僕、誕生日に新しいカードを貰って……いま、すごく誰かとデュエルしたかったんだ!」
彼女の膝の上で固く握られた手をそっと手に取る。冷たい掌は、彼女がずっとここでひとり泣いていたことを主張しているようで。
了見の訴えをようやく聞き届けたのか、少女はゆっくりと伏せていた顔を上げて。
「――――うん、わかった」
どこまでも見通すような鮮やかな緑の双眸が、涙と夕暮れを反射して煌びやかに光を湛えていた。
どちらも手つきはスムーズに、開幕から全力を用いた攻防が繰り広げられる。
そんな中、ぽつりぽつりと、彼女の口から身の上の話がこぼれ落ちていった。
数日前、両親を事故で亡くしたという。親族は既におらず、天涯孤独を突きつけられ、恐怖と絶望から逃げ出すようにここまできたらしい。このデッキは亡くなる直前に親から貰ったものらしく、きちんとデュエルで使用するのは今日が初めてになると。
「…………すごいね、キミは」
「なにが?」
近しいようで真逆の立場を自覚した了見は、自身の浅慮さを嘆くように小さく呟く。
もし了見が彼女の立場であったなら、今のようにデュエルに興じることが出来ただろうか。初めて回すと言っているにも関わらず、彼女の手つきに迷いは無い。亡くなってしまった両親からの最後の贈り物を、こうして気丈に振る舞いながら触ることが、果たして了見にも出来るのだろうか。ある意味、了見の世界は父が支配している。その支えを失ってなお、自らの意志を掴めるとはハッキリ言えない。
だからこそ、彼女の在り方を望ましく思って。
「…………あっ」
「――これで、終わり」
些細なミスから、初めての敗北。
その宣言をした彼女は、やっと小さな笑みを浮かべた。
負けた悔しさを吹き飛ばすほど、夕暮れを帯びたその表情の美しさに言葉をなくす。宝石よりも素朴で、花々よりも儚い、夜空で瞬く名も無き星のようなその美しさをもっと見ていたいと思って、時間を忘れて了見は彼女に詰め寄った。
「――ね、デッキ見てもいい? 初めて見た種族だったから驚いて」
「うん、良いよ。サイバース族っていうの。この前出たばかりなんだ」
了見が扱うのは格好良さと強さを併せ持つドラゴン族が主軸のデッキ。日々改良を重ねてきたそれを上回った、見知らぬカードに興味は尽きない。持ち主の了承を得て、そっと借り受けたカードへ目を通す。並べられた効果やカードの癖を読み取り、次こそはと密かに闘志を燃やす。それもまた、初めての経験だった。
それを。
「……ああ、でも。今日は帰らないと」
彼女の悲痛な声が、終幕を嘆いた。
帰ればまた、ひとりきり。それがわかっていてなお、他に選択肢が無いのはどちらも同じだった。
「そう、だね」
日が沈む。すでに紅の光は途絶え、黄昏から宵闇へと移り変わっていた。きっと心配されているだろうな、なんて他人事のように思いながら、それでも彼女をこのままひとりにしてしまうことは許せなくて。
どちらも離れがたく、別れの言葉が切り出せない。
「…………ひとりは、さみしい」
「うん」
止まっていたはずの涙が再びはらり、と落ちるのを見て、了見は己の手を見下ろす。
何か、彼女の支えになろうものがあれば、と。
そしてふと目に入った、鮮やかな〝赤”に。
「――――じゃあ、約束をしよう」
しゅるり、と手に巻き付けていたそれを解く。鮮明で、可憐で、大切なもの。だからこそ、こうすることがきっと望ましいのだと直感して。
ぽかんとしている彼女に了見は、おぼつかない手つきでありながらも丁寧に、リボンを真っ直ぐ伸びた髪へと結い上げる。滑らかなサテンの材質に苦戦しながらも、簡単にはほどけないようきつく、ふたりの結びつきを確かめるように。
「ひとつ。僕の大切なこのリボンをあげるから、なくさないで。これを身に着けてくれたらきっと、僕がキミをすぐ見つけてあげるから。
ふたつ。ひとりで泣かないこと。どうしても泣きたくなったら……僕が見てるときに。それならもう、さみしくないよね。
みっつ。次はぜったいに負けないから――――また、僕とデュエルしよう!」
三つの約束は、再会のための三つ。その証明に〝赤〟を飾り、誓いを立てる。
子供の立場で出来る最大限。今は無理でも、必ずまた逢おうと力強く告げる了見に、彼女は涙を浮かべたままでも。
「……次だって負けないからね」
笑うことが出来ていた。
両者とも次にすべきことをは明確で、同時に小指を立てながらお互いの目線の先へ向ける。そっと絡め合って、互いの熱を感じながら。
「――――約束、だよ」
「うん、わかった。……約束する」
その直後。
――――轟、と。
悪戯な風が吹き荒れて、ふたりのデッキが宙を舞う。
その先の光景は、とても緩やかでありながら一瞬で迎えてしまった。
「あ――――」
公園の外へと向かっていくカードへ、すべての意識と視線を合わせながら、了見は彼女と繋いだ指を無意識のうちに離してしまう。はやくしなければ、という急いた想いが一瞬だけ、彼女の存在を忘れさせてしまった。
その、刹那。
あんぐり、と彼女の背後で〝何も無い〟空間が花咲くように広がっていたのを了見は捉えることなく。
――――――ぱくん、と。
ひとりの少女が、誰も知らないまま世界の理から外れた音が虚ろに響いた。
「…………あれ?」
公園の敷居を越えた先で、ようやく一枚のカードを手に取れた了見は、ふと疑問を覚えた。
「このカードは、一体どこから飛んできたのだろう……?」
見覚えの無い絵柄、知らないモンスターのそのカードを握りながら、何か大切なことを忘れてしまったような違和感を覚えつつ、とっぷりと沈んでしまった日を思い出して足早に帰路へと動き出した。
手にしたカードを、大切に胸元へ仕舞い込んだまま。
遊作は、落ちていく己の身体が――いや、意識すら解け出していることに朧気ながら気が付いていた。
十年前のあの日。〝神隠し〟によって、藤木遊作という人間が存在していたという事実は消え失せた。本当はその時点で今僅かに残っている意識すら消失していたはずなのだ。記録も、記憶も、痕跡すら残さず、初めからそんな人間はいなかったことになるのが〝神隠し〟の本質。
なのに、偏に遊作が遊作であれたのは、あの目の前で消えゆこうとしている〝
何も無い空間であるはずの〝虚〟で唯一存在していた色彩。か細くも確かに残された、
願えど、叫べど、伸ばせども。
成長したこの手にすら掴めないまま、今度こそは永遠に遊作という存在は失われようとしている。
けれど。
――――これであいつはもう、大丈夫だろう。
そう思えば、もう良い気がした。
世界が遊作という存在を完全に消しに掛かるため了見が狙われると思い、再び彼の前へと姿を現して。彼が覚えてないことを良いことに、曖昧な言動で振り回して。危険を避けるためとはいえ、彼の側にいることを許されて。
ずっと守ってもらったのは遊作の方だ。
繋がりがある了見が遊作を見ている限り、遊作はこの世界に立っていられた。了見が遊作の素性を、存在を考えてくれるだけで、遊作という存在を維持できた。無かったことになっているはずなのに、大切だと言っていたあのリボンの存在を覚えていたから、遊作は十年間ずっと生きてこれたのだ。
ここで遊作が消えてしまえば、世界の修正は終わる。もう彼が消えてしまうという恐怖に怯えなくて済む。
だから。
「ああ、でも――みっつ目の約束、守れなかったなぁ」
ずっと泣かないままで、了見に見つけてもらうため肌身離さずリボンを結んで。いつかまた、彼とデュエルをするためにデッキを強化していたけれど、それだけは守れないことが心残りだな、と虚に溶けていく意識の中、囁いた。
そして、目の前で〝赤〟が文字通り消失する。音も無く、瞬く間に、解け朽ちていく様を見せつけられて。
次はお前の番だ、とでも言っているのだろうか。
それでも、良いと。遊作は諦観を抱いたまま、緑が滲む双眸を閉ざした。
解ける。底なしの暗闇の中へ。もう二度と、あの夕暮れを迎えることは叶わないのだと。
消える。すべてが無くなるその場所へ。もう永遠に、彼の存在を認識すら出来なくなって。
寂しい。約束したはずの涙が零れる。大切だったものすべてが失われてしまった。
あの遠い日の、約束を――――――
『――――――――――遊作!!』
その声は、世界を塗り替えた。
風が吹き荒ぶ。それは鎖されし世界を貫く新風の如き。鋭さと暖かさ、そして何よりも強かな風。その力強さに包まれて、ふわりと己が浮かんだような感覚。
不思議に思い、恐る恐る瞳を開ける。
手に、確かな温もり。ぶらりと身体が揺れていて、どうやら宙づり状態にあることを感じ取る。落下していたはずなのに、と呆然としたままの遊作へ。
「――こっ、んの……馬鹿者が」
温もりの先から、大好きな声がした。
「な、んで――――」
息を切らせて、必死に遊作の右手を掴みながら、了見がそこにいた。間に合うはずが無い、絶対に届かない場所にいたはずの彼が、そこで遊作を見つけていた。
おかしい。視線を地上へ向ける。そこにはもう、どこにもあの〝赤〟はいなくて。もう遊作を繋ぎ止めていたものは無くなってしまったのに。
何故彼は、まだ遊作の手を取れているのか。
「そんなっこと、気にする前に――そっちの手を貸せ!」
流れる風に負けないよう叫ぶ了見の気迫に押され、思わず遊作は力をなくした左手をそっと伸ばす。もう解けてしまったとばかり思っていた身体は、まだここに残っている。そのことをようやく認識できたのは、彼の力強さに導かれるまま、身体を屋上へ乗り上げた後のこと。
「なんで……まだ」
震える手を何度も握り返す。じんじんと痛みなのか冷たさなのかよく分からない感覚がある。ばくばくと痛いほど心臓が早鐘を打っている。目の前にいる、了見の姿を見ることが出来ている。
既に遊作を繋ぎ止めているものなど、有りはしないのに。
「――――いいや。ひとつだけ、残っていた」
そう言って、荒い息のまま了見はそっと己の懐へ手を入れる。胸の内ポケットに入っていたそれをそっと取り出すと、遊作へ差し出した。
「――――――こ、れ」
「キミのカードだろう」
あの時。風に舞い上げられたカードの大半は行方も分からないまま。きっと遊作が所持していた分は神隠しによって消えてしまったのだろう。
けれど、この一枚だけは了見がずっと肌身離さず持ち続けていたものだ。自分のカードでは無いのに、とても大切なものだという想いだけが残った、サイバース族の一体――リンクリボーが描かれたカード。
それで、ようやく遊作は理解した。
あの〝赤〟があったから遊作は己を保てた――それは、間違いでは無い。けれど、それだけでは足りなかった。
約束の証明たるこのカードを了見が持ち続けてくれていたからこそ――遊作と了見は繋がり続けていたのだ。
その事実に、遊作は。
「――――っ、う……りょ、けん――――!」
はたはた、と。
もう消える恐怖と戦わなくて良いと。もう涙を堪える必要は無いと。もう――ひとりでは、ないと。
「ああ、好きなだけ泣け。……それが、約束だったな」
了見へ倒れ込む勢いのまま飛びつきながら、遊作は夕暮れの中、十年ぶりの涙を流した。
エピローグ
五月の連休など、正直自分には縁の無いものだとばかり思っていた了見だが、人は変わるものだとしみじみ感じた。
デンシティの中にある、とあるショッピングモールにて。人々の突き刺さる視線に気付かぬふりをしながら、目の前に立ち塞がる者へ幾度目かも数えるのが煩わしくなるほど繰り返した言葉を再度叩きつける。
「だから――せめて包装用はやめろ! 普通のアクセサリーならいくらでも買ってやるから、それは駄目だ!!」
「嫌だ! ぜーったいにこっちの方がいい!」
青みがかった髪が揺れながら、拒絶の意をこれでもかと言わんばかりに表現している。だが、今回ばかりは譲るつもりも無く、ふたりの主張は永遠に平行線だった。
発端は、どちらが先だったか。
無くなってしまった双方にとって大切だった赤いリボン。せめてその代わりになるものが必要だと、合意の上でふたり買い物へ繰り出したのだが。
了見は、耐久性に問題があり、更に髪留めには向かないことが分かっているため、きちんとしたアクセサリーの方が良い、と説き。
遊作は、思い出の品なのだから限りなく元の状態に近しい方が良いとして、頑として包装用のサテンリボンから手を離そうとしない。
「大体、それだと簡単に解けてしまうだろう! またあんな目に遭いたいのか!」
「それはどんなアクセだって一緒だ! それにお前の感性に合わせたら細工とか無駄に豪華で重いだろう! 動きにくいんだぞ!?」
かれこれこのようなやり取りを繰り返すこと、早一時間。どちらも息を切らせながら主張を譲り合う気配は無く、仲介として入ってきた店員の提案を受け入れることに合意したことでようやく決着が付いた。
「サテン生地の髪飾り……まぁ、仕方がないか」
素朴なリボンを象った、ゴムで縛るタイプの髪飾り。
少しだけ不満そうな遊作に、了見はため息を零しつつも素早い動きで彼女の髪を結わえる。
残念ながら店内の在庫の関係で、赤では無くピンク色になってしまったが、それはそれで遊作の髪に良く似合っていた。
「……さて、次はどうする?」
「お腹すいたな」
自ら空腹を訴える遊作に、了見は無意識のうちに笑みを浮かべる。
あれからすぐは、遊作の存在は恐ろしく不安定なままで。繋ぎ止めていた片割れが失われたことによるものだとは明白であり、早急に手を打つ必要があった。
そこで了見は、己の持つ武器を利用した。
「ホットドッグで良いな? 遊作」
周囲の視線を引きつけやすいことを逆手にとって、遊作の存在を堂々とアピールし始めたのだ。前は正体不明さから避けていた、名前を周囲に知らしめるように告げて。視線を感じたら敢えてスキンシップを行い。学校内だけでなく、外でも了見の隣に遊作が立つよう促した。
今までは繋がりのある了見が観測している間しか世界に認識されなかった遊作を、了見を通じて他人の認識へ入れ込むよう仕向けていったのだ。
その結果、少しずつだが了見がいない場面であっても遊作へ話しかける人が増えてきている。特にクラスメイトの財前葵との仲は良好で、彼女の所属するデュエル部へ入るよう勧誘までされているようだ。
その事実を、心から喜ぶ。
「ああ、もちろん。……だが、食べたら帰りたい。ちょっと疲れた」
「人混みに酔ったか?」
「…………たぶん」
ベンチの上で項垂れる彼女へ一声だけ掛けてから、フードコートに立ち並ぶ店の一つへ向かう。まだ少しだけ時間が早いため、目的のものは容易く入手出来た。
戻ってくると気が付いた遊作は顔を上げており、緑の瞳は爛々と輝いている。よほどホットドッグがお気に召したらしい。
「――うん、美味しい」
「それはなりより」
隣に座って、ふたり。黙々と食事を進めていく。口の動きに合わせて結われた〝赤〟――ではない、ピンクが揺れることに少しだけ物悲しさと、それを上回る安堵が胸の内に広がった。
これでもう、遊作は目をつけられなくなるだろうか。
生け贄の証を取り払っても、彼女はここにいると認識していても、一度は失われてしまったもの。完全に取り返す術は無い。
ならば、せめてこれからは――彼女がもう脅かされることが無いようにしたいと願う。そのための手段を了見は探っている最中だ。幸い、鴻上家には古くさい上に用途がハッキリとしていなかった書物が多数保管されている。〝神隠し〟は古来から伝わる超常現象であるならば、それを防ぐ手立ても古から伝わっていたとしてもおかしくは無い。できうる限り早急に、確実で、危険の無い方法を見つけたいものだが。
「――良い方法は、あるのだろうか」
たとえ何年かかろうとも絶対に見つけてみせる、その想いを込めて胸を叩く。そこには、あの時のカードが変わらず収まっている。遊作からの希望だった。これがある限り、最悪の事態は避けられるからと。
「ごちそうさまでした」
思考に耽っている間に遊作は食べ終えたようで、満足げに手を合わせていた。少し回復したのか、ぴょんとベンチから立ち上がると、了見の前へ。
「よし、帰ろう。はやくお前とデュエルがしたい」
その言葉で、沈みつつあった意識が一気に浮上する。
そう今日は――遊作とのみっつ目の約束を果たすため、お互い最高の状態でのデュエルをしよう、と定めていた。
体調は万全、連休のため学校を気にする必要も無く、デッキ調整も十分。あとは遊作が本調子になるために必要だと訴えた代わりのリボンを入手するだけだった。そのミッションも無事――完全に納得できた訳ではないようだが――達成した今、もう阻むものはなにも無い。
「今度も負けないからな」
「その余裕を崩してみせよう」
不敵に笑う遊作と、あくどい笑みを浮かべる了見。
まだまだ問題は山積みだが、確実な一歩を踏み出そうとしている。
それに、今度こそは。
「私はキミを絶対に見つけ出すから」
「俺はお前を決して忘れないから」
それは遠い日に交わした約束を越えた先。
新たに結ばれた誓いを以て、世界を新たに塗り替える。
ひとりではなく、ふたり。共にあり、と。