時巡りレヴェイユ
2019.01.13発行のWeb再録版
本編終了後IF(放映された120話の後ではなく、発行当時の妄想です)
◇春
はじめは、本当に偶然だったのだ。
薄紅の花びらが東風によって空舞う時期。
全ての問題が解決の道を進み始めて早一年。正体不明のハッカーでありながらも世界のために立ち上がったデュエリスト、プレイメーカー――本名を藤木遊作。彼はこの春高校三年生へと進学した。
戦いの日々から開放され、少しずつ他人へと心を開けるようになりつつある中。彼は新たなステージへ進もうとしていた。
「藤木、お前進路どうすんだー?」
そう声をかけたのは、腐れ縁なのか三年間同じクラスに配置され、事あるごとに遊作に構うクラスメイトの島直樹。他人との間に壁を感じざるを得ない遊作が、世間一般の情報をしる数少ない架け橋的存在である。
彼がこのように声をかけてくることは日常の一部となって久しい。始めのうちこそ邪険に扱うことも少なくなかったが、今ではきちんと耳を傾け、己の意見を述べるほどまで成長した。……完全論破で撃退することを良しとすれば、であるが。
そんな彼が持ち出した話題に、遊作は無表情の中でも僅かに眉を顰めた。
「…………今更か」
高校三年生となれば自身の進路など既に決定していてもおかしくないだろう、というニュアンスで返事にならない言葉を返す。
それは至極当然のことで、二年生の暮れ頃にはみな大まかな行方は確定している。学校側もそれを汲み取り、クラス替えや授業方針の舵切りを定めているわけで。島の問いは時期を逃している、と遊作は暗に告げていた。
ちがうちがう、と何度か似たやり取りをした経験からか、珍しく島は遊作の真意に気づいたようで次の言葉を捻り出そうと口をしばし開閉し続ける。あーうー、と唸る姿に思わず、一年ほど前に袂を分かったかつての相棒の姿を幻視した。
気がつけば一年経っていた。VR空間であるリンクヴレインズの中で繰り広げられた数多の戦いが全て終決し、関わった者たちがそれぞれの進むべき先を目指して旅立ってから。イグニスたちとはお互いのためを思った結果、限りなく不干渉を維持したままの共存という選択に落ち着き、パートナーとは惜しみながらも離別を行い、ハノイによる敵対行為も禁止された。それ以降、デンシティやネットワーク、リンクヴレインズは静かなものだ。
暗黙の了解のようなもので、同じ学校に通う熱きデュエリストのソウルバーナー――穂村尊やブルーエンジェルたる財前葵とは顔を合わせることも多いが、それ以外の者たちとは皆が交流を避けていた。手を取り合ったことが無い訳ではないが、一度ならず敵視しあっていた者同士、仲良くしようなんて言うほど皆子供ではなかった。それぞれの想い、未来を考えた結果の不干渉。それを、決して破るつもりはない。けれども、全く無関心でいられるほど遊作は機械じみてはいなかった。
とくに――――
「あっそうだ! 大学、さっさと決めろって先生に言われてたぞ!」
一際大きな声に、遊作は渋々思考の海から意識を浮上させる。
耳に入った単語に、咄嗟に無視を決め込むことが出来ず大きく息を吐いた。どうせそんな話題だろうと気づいていたのだからさっさと帰ればよかった、なんて遅すぎた考えであった。
「俺っち知ってるぜー? お前、この前の進路希望白紙で出したんだろ」
「…………」
相手が相手なら黙れ、と一喝しているところだ。それほどまでに今の遊作には余裕がなかった。
進路――それが、遊作の目下の悩みのタネだった。
そもそもまともに自分の進路を考え出したのが一年ほど前。それまで遊作はずっと、未来を求めながら過去しか見ることが出来なかった。諸々の問題が解決したはいいものの、早速自分の意志で選べと言われても実感がまず沸かない。漠然としたやりたいことはあれども、今後の人生を決定付ける可能性が高い進路など、まだまだ敷居が高すぎた。
頼れる人に相談するという選択肢は、遊作が最も信頼する大人である草薙翔一が弟の治療のためしばしデンシティを離れていることから除外。彼はきっと優しいので通話でもすればすぐに対応してくれることは目に見えていたが、ようやくまともに再会した兄弟の仲を邪魔することなど出来ない。友人と呼べる存在である尊は、過去を振り切ったことから地元へ帰る旨を遊作に告げていた。祖父母に恩返しがしたいと笑う彼の姿がひどく眩しく映り、賛同するだけに留まってしまった。
去年の暮、とりあえず現状を垣間見て社会に出るには不安が大きすぎるため、大学進学することまでは決めたものの、その具体的な場所までは考えていなかった。とくに学びたい分野があるわけでもなく、デンシティや今の住まいに不満も愛着もなく、金銭的な面こそロスト事件隠蔽からくる保護プログラムの補助金である意味豊潤である。
今の遊作には取れる選択肢が多すぎて、選べないでいた。身体に溜まった鬱蒼とした思いをため息で吐き出す。
「そんなに悩むことかー? お前の学力なら選びたい放題じゃねーか」
「…………そう、だな」
選びたい放題なのが問題なのだ、なんて口にしようものなら猛烈な抗議が飛んでくるだろう。幼少期の事件以降、常に頭を回し続けている遊作と気ままに過ごしてきた島とでは、学力的な面では残念ながら天と地ほどの壁があった。
「なんなら見学してみればいいんじゃね? えーと……オープンキャンバス!」
「オープンキャンパスだな」
「それだよそれ!」
情報屋を自称しながらだいたい単語を間違えている島の言葉を慣れた様子で訂正する。自然と流れるような動作で告げながら、遊作は内心ハッとした。
文字や写真で淡々と特色などを語られても、実物大の感想を浮かべることは難しい。ならば、実際に見てみることも必要なことだ。そんな単純なことに気が付かなかったのは、やはり経験不足だろう。こういったことが判明するため、遊作は島との会話は貴重で得難いことだと感じている――本人に告げる気はないが。
「わかった。…………悪いな、島」
「おう!」
思い立ったら即行動する起来がある遊作は、早速学校側に申請するため職員室へ向かおうと鞄を手にとった。そして、切っ掛けをくれた島に小さく礼を言う。
珍しいことではあったがここのところ回数が増えている遊作からの素直な返事に、島は人懐っこい笑いで送り出した。
幸いにも遊作の進路を案じていたらしい教員の計らいも手伝って、あれよという間に日取りが決まった。行き先はとりあえず手近な場所と選んだのはデンシティに存在する唯一の大学。デンシティに居を構えるだけに電子工学関係には強いがそれ以外には特筆するほど変わった学部があるわけでもなく、偏差値もほぼ平均的。
もう少し上を目指さないか、と諭す教員に、見学だけだからと断りを入れた。
そう、見るだけ。見て、大学とはどんな施設なのかを知るためだけに行く。始まりはそれだけだったのだ。
数日後の祝日、何時も通り制服に身を包んだ遊作は、また新たな一歩を踏み出した。
「なぜ無駄に広い……」
学部ごとに多くのキャンパスに分かれた校舎。正門からそれぞれの棟に向かうだけで一苦労なのに、そこからさらに軒並み連ねる講義室と研究室の数々。高校も十分すぎるほど広いと感じていた遊作だが、大学の桁外れの広大さに早くも疲労感でいっぱいだった。
オープンキャンパスとはいったものの、案内人がいるわけでもなくただ受付で簡単な説明と電子パンフレットを渡され、見学者であることがひと目で分かるネームプレートを身につけるよう言われただけであとは自由に見学していい、というなんともアバウトな感じであった。
もともとデンシティ唯一の大学ということもあって、遊作が所属するデンシティ高校から入る生徒が大半なのであろう。下手に人員を割いて見ず知らずの人間に相手をさせるより、先輩を捕まえたり高校側に尋ねたほうが高校生側も安心だろうという配慮なのだろうが、相手が悪かったとしか言いようがない。もしや微妙な顔持ちだった教員の態度はこれが理由なのだろうか。
一番最初でこれとは、選択肢を間違えたようで遊作は幸先を思いやる。
「まぁ、見て回るだけだしな」
ある意味幸運だったのは単独行動が許されたことだろう。他人のペースに合わせることが出来ないと自覚しているため、その点だけは有難かった。
パンフレットがインストールされたタブレットに目線を落としつつ、足をゆっくりと進ませる。
とりあえず目先の目標は情報工学部。ハッカーとしての技術は折り紙付きの遊作だが、殆どが独学であり直感からくる神がかったセンスあってこその腕。きちんとした学問として学び直す方が良い、と草薙にも進められたこともあり、一番興味があるものとして見るべきものだった。
「次の角を、曲がって――」
タブレットを傾けつつ、表示されている道順を辿るよう建物の影へ入ろうと身を向けた。
その時。
――――――どんっ
「あっ!」
「――っ!?」
真っ向からの激突。死角からの衝撃に構えることすら出来ず、そのまま半ば倒れるように尻餅をついた。
がしゃん、とタブレットが遊作の手から転落する。同時にばさり、と相手側から今時珍しい紙書類の束が滑り落ちたような音がした。
いくら今日が祝日とはいえ、大学とは学び舎であると同時に研究施設でもある。活気づいているほどではないが閑散としているわけでもない。よそ見をしながらの移動でこういった事象が起こり得ることに考えが及ばなかったことを悔やむ。気が抜けている証拠だな、なんて自傷気味に笑いそうになる。
とりあえず相手は無事だろうか、と地面に向けたままだった目線をまっすぐに戻し。
「…………………………ぇ」
驚愕で目を見開くことしか出来なかった。
陽光を受け蒼銀に煌めく髪にスラリと伸びた手足。ラフな格好であるにも関わらずどこか気品が漂うのは、身に纏うもの全てに名高い品が使われているからなのか、それとも生まれ持った資質だろうか。ぱちぱち、と遊作を惚けたように見つめる瞳はアクアマリンの如く透き通った空色。
――この光景を、遊作は知っている。
十年と二年前。あの日、運命の歯車に組み込まれたであろうその瞬間。
違うのは、あのときは黄昏時であったこと。周囲に散らばる紙はカードであったこと。そして、お互いに初対面であったこと。
それ以外は全く同じ、あの日の焼き増しのようなこの状況に遊作はきっとこれは夢なのだろうな、と他人事のように思った。
これは、あり得るはずのない邂逅だったのだ。
全てが解決してから彼らとは一切接触をしていない。
だから、これは。
「…………キミ、もしかして――――!」
紙が空を舞う。先程まで穏やかな風が、どことなくデータストームを連想させる一陣の風となり遊作の眼前を通り抜けた。そんな刹那の間に、遊作の視界がアイスブルーに染まる。
息遣いすら聞こえてきそうなほどの近距離に、彼がいた。その事実をようやく脳が受け入れようとした。
「す、すまな――――」
ぶつかった謝罪か、それとも偶然とはいえ接触を果たしてしまった詫びか。どちらでもありどちらともつかない陳謝の言葉は、ぱしり、と無造作に放ってあった遊作の左手を掴まれた衝撃で霧散した。
代わりにえ、と困惑の意が込もった吐息が反射的に飛び出す。取られた手は彼の両掌に包まれ、体温とわずかに感じる震えに戸惑うばかり。
そして。
「間違いだったら済まない。キミは……十二年前、私と逢ったことがないか?」
彼の玲瓏なる声から紡がれた言葉に、遊作は己の思考が完全に停止するのをひどく遠くの出来事のように感じた。
彼は自らを鴻上了見と名乗った。
――もちろん知っていた。
この大学に通う二年生だと告げた。
――驚いたが年齢的には合致する。
十二年前、遊作と一度だけデュエルをしたという。
――間違いでは、ないのだろう。
いま自分が置かれている現状に、年齢以上の回転力があるとは思っていた遊作の脳がパンク寸前まで追いやられていた。オーバーヒートで知恵熱でも出たのか、ふわふわと意識が浮遊感に包まれ、まるで現実味がない。
そんな遊作の動揺を、自分が原因だと――間違ってないが、実際は彼の認識の数倍以上だ――感じているらしい鴻上了見(仮)は気晴らしにと大学内のカフェテラスへ招いた。
冷えたアイスコーヒーをちびちびと啜りつつ、遊作はどうしたものかと頭を抱えたくなった。
眼の前にいる人物が己の知りうる相手なのか確証が持てない。いや、正確には彼がどこまで本気で喋っているのかが。
遊作と了見の間柄はたかが二年程度顔を合わせなかっただけで記憶に残らなくなるほど浅い関係ではない。かつて彼自身が自称した【運命の囚人】という言葉がもっとも相応しい関係だった。お互いがいたからこそ地獄を知って、譲れぬ想い故に対決して、最後にやっと手を取り合えたのだ。
それなのに、今の彼は――十二年前に二人が出会ったあの瞬間までのことしか話さない。
大学内ではいつ誰に聞かれるか分からないために偽装も込めて話さないのであればまだ納得がいった。だが、それなら何故彼は遊作の手を引いたのか。出来たかどうかは二の次にしても、初対面であるような態度を取りつつ会話をつなげるフリでもすればそういう設定なのだと納得できたのに。
「まさかこんなところで再び巡り会えるとは思ってもいなかったよ」
そう、見たこともないような顔ではにかむ了見は、遊作の観察力を持ってしてでも到底演技とは思えない真実味を帯びていた。
混乱し続ける頭で、とりあえず彼に話を合わせるよう相槌を返す。下手な言葉を投げかけて彼の不評を買いでもしたら遊作は立ち直れる自信がなかった。彼の言葉は全て、遊作の魂を穿つような重みを持っている――十二年前から、ずっと。
「遊作は、高校生か」
「ああ……来年、受験で」
「それでか。ふふっ、あの時は年も名前も聞かずに別れてしまったからな」
制服姿を見て了見が言う。この姿で会ったこともあるのに、まるでそんな事実など無いかのように振る舞う彼の言動に泣きそうになる。
これは、まるで――――タチの悪い、夢だ。
「私で良ければ案内しよう。行き先は決まっているか?」
「……とりあえず、情報工学に」
「そうか! ……あ、いや私もそこに属しているので案内がしやすい」
本当に嬉しそうに笑う了見。
デュエルではアバター越しであったが笑みを見せることも多かった彼だが、現実の彼がこんなにも綺麗に笑うなんて、遊作は知らなかった。
「あの時からずっとキミに言いたいことがあったんだ」
道すがら、照れたように前を向き遊作とは目を合わせないようにしながら彼が小さく呟いた。
その言葉を受け遊作は『あの時』に該当するのは何時のことか、耳をしっかりと傾けながら記憶を掘り返す。
リンクヴレインズで初めて遭遇した時。ネットワーク全てを破壊しようとする彼を止めるべく凄まじいデュエルを繰り広げた時。人類と敵対しようとするイグニスとのいざこざに介入を受けた時。全て遊作の脳裏に深く刻まれた、一生忘れることはないであろう思い出の数々。
けれど。
「……私と、友達になって欲しい…………」
そう、顔を紅に染めながら告げる彼には――それらの記憶が一切残されていないのだと、理解してしまった。
「こうして会うのは初めてですね」
「……ああ」
その日、遊作はひとり夜を歩いていた。
風もなく、月は程々に丸い。太陽の恩恵がなくなった空気は肌寒さを伝えるが、遊作は気にもとめずそのまま目的地まで足を運んだ。仄かに潮の香りがする、デンシティ郊外のレンガ道。
様々な想いが交錯し合ったこの場所には先客がいた。遊作はその人物に目を合わせることなく、海とレンガ道を分ける境界線たる洒落たデザインの柵に両腕を下ろす。相手もそれを咎める素振りはなく、むしろ彼も遊作に背を向けているようで聞き取りづらい声量だった。
「単刀直入に聞く。……あれは、誰だ」
遊作の視線は、このレンガ道の終点――小高い崖の上に聳え立つ大きな建造物へ向けられた。丸いドーム状のその建物は、その実豪邸と呼称するべき広大な敷地を持つ住居。遊作と、背後の人物を強く結びつけるのに欠かせない人物が所有する財産のひとつ。
遊作の問いに、背後の男――スペクターは大きなため息をついた。
「分かっているでしょうに。間違いなく、私がお仕えしている鴻上了見様ですよ」
「…………」
ちがう、と喉元まで迫り上がってきた反論の言葉を悔しげに飲み込む。
遊作とて理解していた。あの美麗たる容姿に、聞き入るものを煽動するような言い草。そうそう他人が真似できるようなものではない。アバターや映像越しならばともかく、実際にこの目で見て会話もして否定できるような要素は何一つなかった。彼を示す名前は唯一つしか有り得ない。
それでも納得までは出来なかった。
「なら何故、アイツは覚えていない? 俺のことはともかく、父親のことを話題に出しても反応がない」
昼間のことだ。彼が何処まで本気なのかを探るべく、幾つか不躾な質問を投げかけた。
『そういえば、アンタはいま何処に住んでるんだ?』
『デンシティ郊外の屋敷だ。父がいた頃は研究施設も兼ねていたから無駄に広いが』
『いた……』
『ああ、二年前に病死したんだ』
『…………すまない』
『気にしないでくれ。父の助手だった人たちが助けてくれるし、勝手に仕えてる者もいる。不自由はないよ』
この会話を受けて、遊作が更に頭を抱えたのは言うまでもない。あの了見の脳内記憶が一体どう処理されているのか検討もつかない。
正直なところ、彼の父親が亡くなったことに関しては遊作は了見に責められてもあまり文句は言えない。父親――鴻上聖はプレイメーカーとリボルバーのデュエル中に心肺停止した。その原因には恐らく巨大データストームの制御プログラムが関わっている。リボルバーがあの殺人的なデータストームに突っ込むという無茶な行為に繰り出したのは、プレイメーカーがAiの力を借りつつもそれを成功させてしまったためだろう。大半の人間は自業自得だと思うだろうが、遊作としては間接的にもそれを助長させてしまったと僅かながら悔恨の意が無い訳でもない。
リボルバー――了見からそのことを名言されたことはないが、内心思っていても仕方がないことだと遊作は考えていた。なのに昼間の会話では眉ひとつ動かさないまま、了見は遊作に淡々と説明した。この声色にこちらを気遣った焦りはあれど、憤怨の感情など欠片も乗っていなかった。
父を敬愛してやまなかった彼が、そんな反応程度で留めるだろうか。それが、遊作が彼を鴻上了見だと認識することを戸惑う理由だった。
遊作の話を受け、スペクターは再び深い息を吐くとポツリと零すように口を開く。
「……全てが終わったあの日から三日後のことです。了見様は唐突に高熱を出され倒れました」
「…………」
「発熱は三日ほど続き……目覚められた時、あの方はごく一部のことを除いて、何も覚えていらっしゃらなかった」
「――――っ!?」
忘れてしまったのは主に【リボルバー】としての自分のこと。ハノイの騎士の存在も、イグニスも、そして――ロスト事件のことも。
「私のことすら覚えていませんでしたよ。開口一番『誰だ?』と言われたときの衝撃は口にし難い」
「そ、れは……」
同じ事件の被害者でありながらリボルバーに忠誠を誓っているスペクター。二人はロスト事件後、ほとんど同じ時間を過ごしていたはずなのに、それすら記憶になかったのかと遊作は愕然とした。
「ウイルスか……?」
かつてハノイの騎士が作り出した電脳ウイルス。それはアバターから生身の脳にまで影響を及ぼすものだった。ハノイに恨みを持つ者たちによる攻撃かと遊作が問えば、スペクターは静かに首を横に振る。
「ドクターによるところ、おそらく精神的負荷によるものだろうと診断されました。全てが終決し、緊張の糸が切れたのだろう、とね」
その言葉に遊作は項垂れるしかなかった。彼をそこまで追い詰めていた自覚があったために。
遊作は、自分を真に救い出せるのは了見しかいないと思っている。事件前から己を知る唯一の人であり、遊作の心の芯となる【三つ】を刻み込んだ無二の友たる存在として。だがそれは見方を変えれば遊作こそ、了見を縛り付けている運命そのものの象徴とも言える。それを彼が重荷に感じているとしたら――
「…………だが、アイツは俺を知っていた」
「ええ。正直なところそれが一番解せないことです。あの御方の気持ちを考えれば、あなたなど真っ先に忘れたい存在でしょうに」
『友達になりたい』
そう告げた彼の言葉には一切の穢れもなく、遊作を見つめる視線は純粋な歓喜で満たされていた。あまりにも綺麗で力強くて、あれが彼の本当の言葉であればどれほど喜ばしいことなのか。
「こうなった以上、隠しておいても仕方ありませんので言いますが……我々としては了見様の記憶を戻す必要はないと思っています」
「――――!」
衝撃的な発言に思わず息を呑む。我々、ということはここにはいない三騎士たちの総意でもあるということ。
「あの方は十二分に責務を果たされました。だからこそ、これはチャンスなのです。彼が本来甘受すべき人並みの幸せを得る千載一遇の、夢のような事象」
スペクターの声はまるで天に宣言するように高らかに、夜の空気に響き渡る。彼らは決意したのだ。仕えるべき存在の真の幸福のため、彼に醒めない夢を見せようと。
「本来であれば貴方とは一切関わりを持って欲しくなかったのです。貴方という存在は了見様を容易く揺さぶる。……そばに居たならば、きっと泡沫よりも呆気なく夢から目覚めてしまうだろうと」
だが、実際は違った。
全てを忘れてしまったと思っていた彼は幼き一瞬を抱え続けて、遂には自ら遊作に接触することを選んだのだ。
「だからこそ藤木遊作――貴方に宣告しましょう。貴方は、彼の夢を繋げるピースとなりなさい」
それは死刑宣告か、胡蝶の夢のはじまりか。
「彼の夢を壊してはいけない。彼の意志を否定してはいけない。彼の――願いを、叶え続けて下さい」
残酷なことだった。遊作にとっても、了見にとっても。
了見はきっと自分があんなに笑うことに耐えられない。もし目覚めてしまえば、彼は後悔と恐慌に苛まれてしまうだろう。だからこそ夢を壊してはいけない。記憶を失くしたのが彼の意志ならば、それを否定する権利は誰も持っていない。
そして。
ぴこん、と唐突に響いた微かな電子音に思わず音の出どころを探る。ポケットに忍ばせていた遊作の携帯端末で、簡潔なメッセージの着信を告げる音だった。無意識の内に選択し、展開する。
『今日はすまなかった。キミにこうして再開できた巡り合わせに興奮してしまった。……今度、埋め合わせをしたいと思う』
そういえば大学から出る前、連絡先を交換したんだったと思い出す。理性的な彼だったが、確かに再会してから別れるまで珍しく高揚していたようだったと回想する。芝居がかった話し方は常々だったが、あそこまで感情を顔に載せながら喋る姿はまるで別人のようで。
「……本当に、タチの悪い夢だ」
彼が、遊作と友になることを願うなら……その夢は、叶えてあげたいと思う。遊作にとってもそれは望むべき展開であり、まさに夢のような出来すぎた世界。なのにどうしてこうも受け入れがたいのか、自分自身の感情に戸惑うばかりだった。
それでもこの提案を断る事はできなくて、了承の代わりに呟く。
「俺からは極力接触しない。……嘘は、つけないからな」
「構いませんよ」
その言葉を皮切りに、話は終わったと言わんばかりにスペクターは遊作に見向きもせず屋敷に向かって歩きだした。もともと対極な存在である二人、長居は無用ということだろう。
スペクターの背に一度だけ目をやり、遊作は夜の海を眺める。海は静かに波打つばかり。星屑の輝きを反射するだけで、内側からの光放つ幻影は望めない。
「夢か……」
了見と何の気兼ねもない友人に成れたのなら。求め合いながら傷つけ合う関係ではなく、寄り添い合える関係だったのなら。
そんな夢を描いたことがないわけではない。地獄の白い部屋で、馴染めない群衆の中で、風に乗りデュエルをする中で。
打算的な思考にならざるを得なかった環境下で、憧憬に思いを馳せたことを。
けれど。
そんな幸せな世界に遊作が存在することが――本当に、許されるのだろうか。
◇夏
不気味さを感じさせる黒い雲がその屋敷にかかっているのを、まだ少し遠くから眺めていた。
「今夜は雷雨か……」
押し寄せる雨の香りに鼻を少しだけ揺らす。とりあえず濡鼠のようになるのは勘弁したいと、ゆっくりとした歩調を少しずつ急かす。目的地は目に見えているが己の体力を垣間見るに、そこへ至る直前に連なる階段の段数を考えるだけで間に合うかは微妙なところだった。
案の定、半分程度まで登ったあたりで肩口に雫が垂直に落ちてきた。そこからは瞬く間もなくバケツを引っくり返した、という表現が一番良く似合う土砂降りに変貌した。
「……随分と派手な格好だな」
結局、遊作が了見の住まう屋敷のインターホンに手をかけた時には既に全身余すことなくびしょ濡れであった。癖の強い髪も、カジュアルというより素っ気ない格好も、手にしていたちっぽけな手土産も全て。出迎えた了見は精一杯の慰めとして、夏でよかったなと言いながら引き攣った笑みを浮かべた。
「すまないがタオルを貸してほしい。持ってきたもの駄目になった」
「言われなくても。いや、まずは上がってくれ。そのままでは風邪をひいてしまうだろう」
手近にあったハンドタオルで必要最低限の水分を拭いながら、大きな鴻上家の屋敷へ足を踏み入れる。
そういえば、と遊作は思い返す。こうしてきちんと家主に招かれてこの家の敷居を跨いだことがあっただろうか。遊作がしっかりと記憶している一件ではほとんど不法侵入状態だったので除外。了見の言い分を参照するならば十二年前、この家でデュエルをしたという。誘われた記憶はあれど、その後の記憶は事件の事もあってあやふやだった。
そのため、遊作が客として正式に招かれたのは今回が初めてになるのだ。そう気づいた時、遊作は無駄に広くて機能的な浴槽に腰掛けていた。
「…………」
水温はもっとも心地よい温度で保たれ、手足を限界まで伸ばしても十分なほどのスペース。広すぎて居場所がなくなった遊作は膝を抱え込みながらとぷん、と顔を半分近くまで湯船に浸かる。
――細やかな夢は、ゆっくりと進んでいた。
夏休みに突入した遊作に了見が声をかけたのが今回のあらまし。春に再会してから、数日に一度のメッセージのやり取りと一ヶ月に数回顔を合わせることが続いて。
『折角の休みなんだが家に誰も居なくてな。良ければ泊まりに来ないか?』
そう送られてきたのは二日前。一日掛けて悩み通し、誘いを受けたのが昨日のこと。まさかこんな急速な展開になるとは思ってもみなかった。
了見は遊作の世話を焼くことに不思議なほど執心しているように思えた。確かに以前は共通の敵が現れた際、無策で敵陣に踏み入れたことを遠回しに責められたり、その後防御プログラムを手渡されたりと、敵対しつつもこちらを気遣う素振りが多々あった。悪逆を行う度胸も実力も持ち合わせているのに、良心を捨てきれない彼らしい行為であると感じていたが、実際のところはもしやお節介焼きだったのだろうかと錯覚するほど。
今回の唐突な誘いも、少し前のやり取りで遊作には書類上にしか保護者が居ないことを漏らしてしまったことから計画されたのだろう。以前から食生活や睡眠時間はよく注意されていたが。
「はぁ……」
遊作の心象はまさにこの湯船のごとく、ぬるま湯で満たされた底なし沼にずぶずぶと沈んでいく最中で。覚めない夢とはここまで心地よいものだったのかと、沼の淵を掴む手を何時放すか迷っていた。
もともと遊作が了見に求めるものは一つだけ。彼が自分の意志で、自らの生を全うすること。父の幻影に捕らわれることなく、過去の自分を後悔せず、ただ前だけを見て歩んでくれればそれでよかった。
そこに遊作自身を挟み込むこと、それは一度も期待していなかった。確かに自分にとっての了見は未来永劫切り離すことの出来ない要の存在だが、彼の心に自分を求めてはいない。見てもらえればもちろん嬉しいが、彼が遊作に囚われたまま先に進めないと言うならば何の迷いもなく姿を消そうと誓ったほどに。
だから、現状の了見のほうが遊作を求めているような状況に遊作は戸惑ったままだった。
嬉しいと思う。これで彼と本当に友人になれたのだと思うと心の奥底から込み上げるものがある。早く受け入れてしまえばいい、と囁く己の心にも気づいている。けれど最後の一歩だけは、まだ踏み出せない。
「遊作……寝てないか?」
思考のループは思いの外時間が経過していたらしく、曇りガラスの扉越しに了見が声をかけてきた。慌ててすぐ退出する旨を伝えると、満足そうに彼が去っていく音がした。
「――――」
そう、もし。
彼がある日突然記憶を取り戻して、この夢が終わってしまったら。その時彼は、遊作を――いや、遊作を受け入れた自分自身を認められなければ。彼は容易く己を殺してしまうと知っているから、遊作はこの夢に浸ることは許されない。
今度こそ遊作が彼に救いの手を差し伸べる番だから、と己に言い聞かせて。
窓を叩く雨音をバックミュージックにして、遊作は持参した荷物の中で数少なく無事だった学校支給のタブレット端末に向かっていた。
受験生ということもあり、この夏するべきことは膨大にあった。もともと学力的に困ったことは一度もなく、またやるべきことがあるという状態を好む遊作にとって、それらを機械的に処理していくのに抵抗はない。
だが、その歩みはいつもよりも少しばかり緩やかで。
「…………そこは、」
スッと対面側から指が伸びてくる。細くも角ばったその指は遊作のものより男性的で力強い。
「別に言われなくても分かる。邪魔したいのか」
「いや? その割には詰まっていたように見えてな」
了見は何が可笑しいのか、口元にもう片方の手を当てながら目元を笑わせていた。
邪魔したな、と指を引っ込める彼に何度目だ、と念を込めた視線を返す。遊作が課題の処理を始めて一時間弱。このようなやり取りは既に片手の指を超えていた。
「…………お前はすることないのか」
「自分のタスクは終了している。さぁ、早く終わらせないと。もう、良い子は寝る時間だ」
時刻はまだ深夜とは言いがたい時間だが、良い子供ならば床に就いてもおかしくない時間ではある。子供扱いに初めて彼に対して苛立ちを覚えた。
「お前は俺をどうしたいんだ……」
「そうだな、とりあえず授業中の居眠りを止めて提出物をしっかり作成し、推薦くらいは取って欲しいな」
何処の、とは言わなかったが察することは容易で。
「現状で十分基準は満たしている」
そっぽを向きながら答えたは自分でも想像以上に素っ気ないものであった。
「……遊作」
はぁ、とため息をこぼされたのを視界の端で捉えつつ、課題に集中しようと端末に目線を落とした。
目に見えて落ち込まれるのはあまりにも居心地が悪かった。かといって対人スキルが底辺スレスレの自覚ありの遊作では上手く話題を続けられる自身がなく、いつもこのようなやり取りで会話が続かない。申し訳なく感じるのは本心だが、こればかりは自分の資質の問題としてどうしようもない。
だが端末越しのやり取りとは違い、今日は目の前に本人が陣取っている状態で。雨音だけが響く空間に耐えきれなくなった遊作は、ポツリとかねてから疑問だったことを口にした。
「……どうして、大学に入ったんだ」
「――――ん?」
思えば彼が真面目に学生を満喫している様子など想像もしたことがない。
初めて会ったときから特殊な環境下に置かれていた彼が昔、普通の学び舎に通うことができていたのか。彼の過去を知っている身としては否という推測しかできない。
現状はおそらく、三騎士やスペクターの意向によって遅ばせながらの学生生活を営んでいるのだろうが、そこに至るまでどのような意志があったのか。知識も経験も、ある意味並の大人よりもはるかに持ち合わせている彼がどうしてその選択をしたのか。それが、少しだけ疑問だった。
「そうだな……元々、勉学に励むつもりはあまりなかったな。父が亡くなってから一年くらいで細々としたことの整理がついて。ああ……ふと、何かを始めたいと思い立ったんだ」
スペクターに聞いた話では、彼は目覚めた直後こそ何も覚えていなかったが、少しするとある程度の規則性を伴った事象に置き換えが行われていたらしい。父親関連も、そのひとつ。彼の中では、五年ほど闘病生活続いた後二年前に亡くなったことになっている。整理がついた――それはイグニスに関することだろう。その問題も、ちょうどあの日から一年ほどで終決した。置き換えは確かにもっともらしい事柄で、否定もできない。変なところで真面目だな、と思わなくもない。
「父の研究を傍から見ていただけの私に、きちんと学ぶよう諭されてな。それに――――」
どきり、とした。遊作が草薙から言われたことと全く同じだった。
三つの口癖から始まって、二人の口調や態度は狙ったわけでもなく似ることが偶にある。似た者同士だな、とお互いを指して始めに言いだしたのは誰だったか。
だがそれを思い出すよりも、次の言葉を言い淀んだ彼に先を促す。なぜか、その続きを聞かなければいけない気がした。
「それに……?」
「…………人が集まるところに行けば、見つかるかも……と思ったんだ」
必死に主語を隠すように、曖昧な言い方で濁された。だがその真意はあまりにも特定の人物を指していることは明白で。
彼の言葉を認識した遊作の耳はそれを唖然とする脳に放り投げた。
彼は――幼き日に一度だけ遊んだ名前も知らないたったひとりを探すために、そんな可能性など数パーセント程度の確率に賭けたのいうのか。
「どう、して……」
溢れ出た疑問を、口の中で押しつぶす。
彼が、記憶を持ったままであれば。あの頃のまま、もう一度関係をやり直そうとでも言って遊作の前に現れてくれれば。なんの不自由もなくその手を取れたのに。
今の了見は、薄氷のような夢を見ているに過ぎない。遊作がその夢に立ち入れば最悪、薄氷は砕け散るだろう。だから、了見から伸ばされている手を、掴んではいけない。見ないふりをして薄氷を少しでも保たせなければいけない。それが遊作の役目。
「そ、それに! 今のうちに人馴れしておきたかったんだ。狭いコミュニティでしかやり取りしていなかったからな」
彼は、少しずつ先へ進もうとしていた。記憶(かこ)を捨ててようやく、新たな道へ目を向けられるようになったのだ。遊作が望んだように。
「以上だ。……納得したか」
今のまま、近くにいることくらい許されてもいいだろうか、という想いが胸の中で燻る。了見がそれで幸せになれるのなら、きっと――
「……遊作?」
黙ったままの遊作に了見が心配そうに声を掛けた、その瞬間。
――――カッ、と眼の前が閃光に染まった。
遅れて轟く音と振動に、雷が落ちたのだ、と脳が認識するまで呼吸が止まった。
「……大丈夫か」
「へいき、だ」
雷に恐怖を抱くほど精神は幼くない。昔こそ、その音と光によって敗北から齎される電撃を連想し、フラッシュバックを起こしてパニックになったことはあれど、今の遊作には少し顔を顰める程度で済む。リンクヴレインズでデュエルをするに当たり、攻撃等のエフェクトで閃光や雷撃は必ずといっていいほど発生していた。そんなことに毎回振り回されていては復讐など出来るはずもなく、並外れた精神力で克服したのだ。
けれど今遊作の胸の中で激しく動悸を鳴らすのは、きっと警告だ。
「……電気系統を見てくる」
「あ、ああ」
そう言って了見は立ち上がった。
光と音が届いた速度を考えるに雷が落ちたのはここから程遠くない場所だろう。このご時世、電気が絶たれれば致命的になる箇所が無数にあるためそうそう停電など起こりえないが、可能性が皆無なわけではない。
それを見越して確認に行ったのだろう。しかし遊作には、立ち上がった了見の様子が先程とは少しだけ変わったと感じた。
浅葱色の瞳の奥にあったのは、不安の影。
それは雷を認識した直後から現れたもので、ただ電気が止まるかもしれない、なんて軽いものではなく。もっと、何かに焦りを覚えるような目で。
「…………、」
遊作は少しだけ迷ってから、了見の後を追った。
宣言通り、彼は宅内システムを管理するコントロールルームにいた。
だが彼の目線はシステムではなく、その奥にある窓を通して外の様子を見つめていた。
「……どうした」
「――――遊作?」
そっと隣に並び立ち、彼が見ていた景色を視界に入れる。
遊作が先程までいた部屋は海側に面していたが、この部屋はデンシティ側のようで、暗がりの中なお煌々とネオンが光る街並みを映していた。
「街は大丈夫そうだな」
「……そう、だな」
珍しく歯切りの悪い言い方に、遊作は首を傾げる。
彼の瞳にはやはり色濃く不安が乗ったままだった。
「なにか変なところでもあったか……?」
普段からこの光景を見ている彼にしかわからない変化でもあるのだろうか、と再び窓の外へ視線を戻すが、風向きの関係か雨粒が窓を叩きつけ何も見えなくなった。
「違う。済まない、昔からの癖だ」
カッ、と再び雷鳴が響く。先程よりは少し遠のいたのか、音が少し遅い。
了見は何も見えない窓の外を見つめたまま、小さく力ない笑みを零しながら呟いた。
「雷が鳴るといつも考えてしまう。詳しくは思い出せないのだが……誰かが、泣いている気がして」
光が落ちた先で、誰かが痛みと恐怖で戦っているような、そんな錯覚を覚える――という。
「そんな光景を、私は知らないはずなのに。でも、何処かで誰かが挫けそうになっているような気がして……」
その情景を、遊作は知っていた。
『三つのことを考えて』
敗者に与えられる洗礼。未成熟な身体に襲いかかる理不尽な衝撃。受けてなお、戦い続けなければいけない状況。何度心が折れかけたか――数えることすら出来ないほどの試行回数。
遊作が最後まで耐えられたのは、間違いなく眼の前の人物が声をかけ続けたから。良心と尊敬の間で揺れ動いて、遂に行動に移した。その事実を忘却している筈なのに、彼の中にはまだ残っているのか。
「…………了見」
くい、と彼の腕を握る。
名前を呼ばれた彼は驚いたように遊作を見つめた。その様子を見て、そういえば遊作が了見の名を呼ぶのはこれが初めてだったな、と今更ながらに思う。
だが、そんなことはおくびにも出さず遊作は口を開いた。彼に言わなければいけないことがある。ずっと、言えなかった言葉が。
「もう泣いてない」
「――――っ!?」
確かに、あのときの敗北によるショックは今でもなお遊作の心を蝕んでいる。だいぶマシになったが、まだ夢見は悪いままで夜中に飛び起きることも無い訳ではない。きっとこれは死ぬまで纏わりつくことだろう。それに関しては既に受け入れてしまっている。だからもう怯える子供ではない。
それに。
「怖くない。……もし、また何か遭ったとしても」
視界が白光に染まる。その瞬間に呼び起こされるものは既に、あのときの恐怖ではなく。
遊作の耳に木霊するのは懐かしき声色で。
『その手を離せ』
『我々が現れることは予測できていたか?』
思えば、彼は何時だって遊作が危険な時、必ず空から現れた。敵同士の関係であるにも関わらず。そこには様々な思惑や策略があったのだろう。それでも、了見は遊作を助けてくれていたのだ。
だから。
「お前は助けてくれるんだろう――?」
信頼を全面に出して、遊作は少しだけ口角を上げた。
たとえ記憶がなくとも、了見は遊作を救い出すために雷の如き速さで駆けつけてくれるだろう、という自信があった。それは紛れもなく、過去からの経験から齎されるもので。
「そう、か…………ああ、もちろん」
呆然としながらも、了見は確かに頷いた。
それだけで遊作には十分だった。
◇秋
色付く視界に、季節が変わったなと改めて感じたある日。
「学園祭……?」
自宅のデスクに向かっていた遊作の耳に届いたのは端末のコール音。遊作の連絡先を知る人物は限られているため、何の躊躇いもなく通話ボタンを押すと、出たのは予想通り了見だった。
彼は挨拶もそこそこに要件を述べた。
『ああ、一般公開もされる。おおっぴらに構内を見て回れるが、どうだ?』
彼の言い分に遊作はふむ、と指を口元に当てて考える。
――つい先日、遊作は学校に最終的な進路決定を提出したばかりだった。
夏の間ずっと悩み続けて、結果は誰かの思惑通り了見がいる大学にすることにした。
知り合いがいるほうが色々融通がきくだろうとか、学びたい分野も同じなので内部事情が事細かに伝わりやすかっただとか、数多くの言い訳を取り繕いながら報告したが、彼に真意はお見通しのことだろう。
『キミのことだ、今は真面目に勉強に励んでいるだろう。たまには息抜きも必要だと思うぞ』
「……珍しいな」
『そうか?』
彼に言われたから、というわけではないが夏休み明けから遊作はサボり癖を一時停止した。課題も全て提出し、非常に億劫だった模試などにも参加して、教員から驚かれたほどだ。
その結果もあり、進路は無事決定となり、今後は受験に向けた最終的な追い込みに入っていく。学力的な問題は無いにしても、何事にも予想外は付き物で。遊作は偶然や運要素に恵まれない自覚があるため、そういったことに対策を講じなければいけない、と思った矢先のことで。
彼にしては珍しい――お互い人集りは苦手だ――提案に少しだけ疑問符が浮かぶが、彼なりの気遣いなのだろう、と深く考えずに了承する。
「まぁ、いい。分かった。日時は」
『あとで送信しておく。正門前で待ち合わせでいいか』
「ああ」
おやすみ、と最後の一言で会話は締め括られた。
接続が切れた端末の画面をじっと見つめる。
――玉響の夢は、続いている。
一向に彼の記憶が戻る気配はなく、気がつけば元々の彼と接していた時間と、今の彼と出会ってからの時間。その差は縮まりつつあった。十二年前の半年間を含めないのであれば、すでに追い越してしまったかもしれない。
それでも。
「……はぁ」
きっとこれで良かったのだ、と感じるようになった。
了見はよく笑う。デュエルでなくても彼は笑えるようになったのだ。それが本当に嬉しくて。
ぽーん、と手元から電子音が響く。反射的に指を動かすと、画面に表示されたのはシンプルに遊作が知っていればいいことだけが記載された文章。無駄も遊びもないが、彼らしいと遊作は目を瞬かせる。
だが、末尾に記された『ただし、必ず私服で来るように』の文にだけ眉をひそめざるを得なかった。了見はおそらく遊作が常に制服姿でいると思い込んでいるようだ。
「バカにしてるな……私服くらい持っている」
そう言いながら狭い部屋の片隅にひっそりと置かれた小さなダンボール箱を引っ張り出す。毎日ロボッピが掃除をしているだけあって埃はない。中には数少ない遊作の私服が数着、眠るように入っていた。その中でも一番普通そうなものを選んで広げる。サイズはおそらく大丈夫そうだろう、とそのままハンガーに掛けた。
『ご主人サマ、嬉しそうですネ!』
「そうか……?」
感情豊かなロボッピが華やかな顔文字を液晶に浮かべて発言した。
自分がいつの間にか微笑みを浮かべていることに、遊作はまだ気が付かなかった。
迎えた当日、大学の正面。華やかに飾りつけられた正門と、そこから見える構内の活気づいた模様で、以前訪れたときとはまた違った感想が思い浮かぶ。研究施設のように落ち着き、どこか厳格そうな空気は一転し、皆が朗らかに動き回るその光景は、かつてリンクヴレインズで見たものによく似ていた。
指定されたのは一般入場には少しだけ早い時間。あとで質したところ、関係者が付き添えば大丈夫とのことで、遊作は何の疑いもなく待ち合わせ場所へ足を運んだのだが。
「遊作、来たな」
「………………………………おい」
実に彼は目立つ格好だった。目の錯覚かと乱暴なほど腕で擦ってみたが、遊作の視界に映った姿は変わらない。
鴻上了見は客観的に見て大変珍しい造形をしている。銀糸に青を絡めた髪、透明に近い澄んだ碧眼、それらを際立たせるやや褐色めいた肌。それら全てが違和感なく、各々が主張しあった顔面は黄金比に等しいものだ――と、彼の従者たるスペクターはその口を忙しなく動かしながら褒め称えていた。背丈も男性が理想的に考える高身長であり、スラリと計算されたように伸びる手足はアバターでも表現できないほど整ったもの。
遊作には残念ながら美的感覚がこれっぽっちも理解できないため、スペクターの無駄な語彙力を持って説明された了見の容姿がどれほどのものなのか完全にはわからないが、それでもそんな遊作の目に見ても彼は目立つ存在だ。
彼を形容する単語でもっと似合うのは美丈夫だろうか、なんて思う程度には彼の容姿は際立つものだと理解していた。
そんな彼が、大学の玄関口である門前で、不思議な格好をしていれば目を見開くのは仕方がないことだ、と脳内に言い訳じみた言葉を並べ立てるのを、何処か遠い世界のことのように聞いていた。
その格好は、ふりふりとしたレースやリボンに飾られた派手な黒を基調とした服装で、下半身は空気を含んでいるのか膨らんだスカート。頭上にはこれまたフリルの飾り――ヘッドドレスというものらしい――が鎮座し、足元は編み込みのブーツに包まれていた。ヒールで底上げされて高身長が更に高くなっている。
所謂、ゴシック・ロリータと呼ばれる女装だった。
髪や顔はとくに弄られた形跡は見当たらなかったものの、服装と顔面の不釣合いっぷりが凄まじく、遊作は思わず悪寒が走って自らの腕を抱きかかえてしまった。
「よく来たな、待っていたぞ。……正直、キミが約束の十分前に来るような人間で助かった」
「……お、おう」
表情こそ明るいものの声帯から捻り出したような声は重苦しく、好きでこの格好をしているわけではないことが感じられて少しだけ安心した。
「説明をしたいがその前に移動するぞ。これ以上こんな場所にいられるか――!」
彼の悲痛さ溢れる言葉に遊作はガクガクと肯定の首を振ることしか出来なかった。
「事の発端は演劇サークルだ」
カツカツとヒールが磨かれた床を叩く。
遊作の腕を掴んだまま、早足で通路を進んでいく了見。普段は身長差故に並び立つのは難しいのだが、今日は着慣れない格好のためか遊作と同程度のスピードであったため、苦になく着いていく。
「ハロウィンも近いので出し物として衣装の貸出を提案した。まぁいいだろう。来場者、生徒関係なくというのもいい。だが――」
だん、と一段と激しく足を鳴らす。思わず飛び上がりそうになったが、背後の遊作の様子など気にもとめずに彼は苛立ちを発散したいがために声を荒げる。
「他者推薦と称して人を無理やり部屋に押し込め、あまつさえ――服装の選択権はあちらにあるというのは、一体誰がっ、何のためにっ、許可したんだ――――!」
「……なるほど」
納得した。つまり彼は生贄のように捧げられたのだろう。どこかで聞いたことがある童謡が一瞬脳裏をよぎる。
「よく衣装があったな」
彼の姿を改めて見てみると――見ているこっちにダメージが来そうだ――サイズ自体はそれほど違和感がないようだ。元々女性用であれば背丈はともかく肩幅あたりに支障がありそうなものの、滑らかな生地は窮屈そうには見えない。
その疑問にも、了見は怒りながらも丁寧に説明してくれた。
「服飾サークルが共謀者だ。目分で寸法していたらしく、最終調整は着せながらだったな」
乾いた笑い声に思わず同情する。音に聞く、着せ替え人形状態というやつだろう。男性にとってかなり屈辱的な行為だっただろうに、根本が優しい了見は乱暴に振り切ることも出来ずこの状態になってしまったのだろう。
既に寸法済みということはこれらは突発的ではなく計画的なことで。
「人気なんだな……」
確かに目立つ存在である了見ならば、誰かがいつもと違う姿を見てみたいと思うこともあるのかもしれない。それがどうなって女装に繋がったかは、遊作の頭では一生導けないものだろうとスッパリ思考を切った。考えるだけ無駄、というやつだ。
それにしても。
「似合わないな」
「当たり前だろうっ!」
わざわざ振り返って言うほどのことだったらしい。真正面から見るのは本当に辛いものがあった。
了見の外観は優れていたが、それは男性として、という枕詞が必要なものだったらしい。意志の強さを伺わせる太めの眉に、体育会系まではいかないが筋肉がしっかりと付いた体格と、フリルの合間から覗く首筋の骨のライン。せめて衣装がもっと違うものであれば見れたものになったかもしれない。少女性を強調するゴスロリと男性的な了見は、最悪の取り合わせだった。
そこまで考えて、ふと遊作は思い出す。
「もしや今日はずっとその格好なのか――?」
このあとは了見に再び案内がてら学園祭を巡る予定だった。このまま予定通りに行動すること自体は構わないが、遊作はともかく了見の怒りと羞耻心が爆発しないか不安がよぎる。
フッ、とようやく了見は不敵な笑みを浮かべた。少し調子が戻ってきたらしい。
「安心しろ、交渉済みだ。もうすぐ脱げる」
「それはよかった」
まだ正式に学園祭は始まっていないがいいのだろうか。まあこれ以上、彼が辛い姿でいることはないようなので安心して息を吐く。
だが、そこで一点疑問が浮かぶ。
「交渉……?」
交渉、取引、駆け引き。つまり何かを買い、何かを売った。買ったものが本来の服装だとすれば、売ったものは……?
思考に耽る内に足元しかみていなかった遊作は。
「着いたぞ」
了見の声でやっと視線を上げる。
そこはある教室のようで、扉に大きくプリントされた用紙が目を引く。無意識の内に記されたポップな文字列を読み取り――了見の真意を、ようやくここで悟った。
『演劇サークル――衣装貸出はコチラ!』
「――――っ!?」
「新たな生贄を捧げる――実に、合理的な取引だった」
そう暗い笑みを浮かべる姿はかつてのリボルバーの姿そのままだった。格好で台無しだったが。
そして。
唖然としたままの遊作の手を引き、了見は教室の戸を勢いよく開け放った。
「あ、鴻上くん!」
「本当に連れてきた……」
教室内は人よりも衣装で溢れかえっていた。演劇サークルの名の通り、お伽噺に出てきそうな王子、姫を連想する服装から、所謂コスプレに分類されるようなものまで、数多と用意されている。
それらに張り付くように女性が数名入口近くにいたため、二人が教室をくぐったことはすぐに見つかった。彼女たちの視線は了見からゆっくりと遊作に向かう。反射的に影に隠れようとしたところを、了見は逃さんと言わんばかりに腕に加えて襟元まで掴み上げた。
「離せ了見! 俺は聞いてないっ!」
「何を言う……最初からこれが狙いだ」
「――――は?」
今何と言ったのか、この男は。
信じられないものを見る目で了見を睨むと、彼は開き直ったように胸を張った。
「キミを誘った一番の理由だが、これの存在を知ったからだ。……言っておくが、女装させるつもりはなかったぞ? 身だしなみに拘りがなさすぎるのを何とかしようと思ってだな――」
「じゃあ何を着せる気だったんだ!」
問い詰めると彼はスッと視線をそらした。わずかに覗く耳が赤い。
遊作は彼に裏切られた思いを初めて抱いた。せめてこんな馬鹿らしいことで抱きたくなかった、と叫びたくなったのも仕方がないことだろう。
「鴻上くん、彼が次の犠牲者?」
「ああ」
関係者ですら犠牲者扱いなのか、と頭を抱える。まあ確かに好き好んで女装したがる人物はそうそう来ないだろうし、それで間違いはないのだがいいのか。
彼女たちのギラついた笑みはどこかゴーストガールのようで、こちらを手玉に取れて嬉しいといった感情が読み取れた。遊作も了見のように着せ替え人形にされることが決定づけられてしまったらしい。
「さ、遊作」
いってらっしゃい、と満面の笑みで送り出す了見に、遊作は久方振りに恨みの感情を思い出した。
「遊作くん、リクエストある?」
「…………普通の格好で」
「だーめ。それじゃあ意味ないでしょ」
最後の抵抗として女装は嫌だというもっともな意見は完全にスルーされた。
教室の奥はパーテーションで仕切られた簡易更衣室になっていた。そこにも壁沿いにズラリと衣装が並び、辟易とした表情を隠す気力もなかった。
全身が映る鏡の前に立たされ、ハンガーに掛けられたままの衣装を次から次へと合わせられていく。流石に全てを着せられる様子はなく、小さく安堵の息を吐いた。
「そういえば遊作くんって鴻上くんの兄弟?」
「…………いえ?」
ばさり、と服装を合わせながら、この部屋を取り仕切っていると思わしき女性――後で聞いたが、彼女がこのサークルの代表らしい――の発言に首を傾げる。質問の意図が分からなかった。
「そうなんだ。そっくりだから、つい」
「似て、ますか……?」
そんなことを考えたこともなかった遊作は目を瞬かせる。口調は似ていることを指摘されたことはあれど、親族と見間違えるほど似ていることがあり得るだろうか。
「顔がってわけじゃなくて……雰囲気? 空気感がそっくり!」
「はぁ……」
雰囲気、と同じ単語を口の中で転がす。いまいちピンとはこなかった。
遊作は了見のように人と接することは出来ない。誰かを従える術もない。他人と同じ目線に立てない。己を形成する中核に深く食い込んだ存在ゆえ、言動などは無意識にトレースしてしまっている部分もあるが、総合的に見ても二人は対極に近い間柄だと思う。
なので似ている、という評価が果たして正しいものなのか。遊作には理解できなかった。
「でも彼、一年前とは変わりましたよねー」
背後から別の声がした。最初に入り口にいた中のひとりだ。手に持った衣装は了見が着ていたゴスロリとよく似たデザインで、遊作は己の顔が引き攣るのを止めることは出来なかった。背中から衣装を押し付けられ、反射的に背筋が伸びる。鏡に写った姿はあまりにも滑稽すぎた。
「鴻上さん、前はもっと近寄りがたい人でしたし」
「ああ、いかにも孤高の人って感じでね」
「みんな格好いいとは言ってたけど、遠巻きだったよね」
女性はよく口が回るな、と会話を聞き流しながら思う。同級生たちのやり取りなども思い出しながら、女性は会話に事欠かないのをしみじみ感じた。
それにしても、彼女たちの会話と現在の了見の様子が一致しないことが気になった。
彼は人を引きつけるカリスマ性に優れている。年若くからハノイの騎士というハッカー集団のリーダーとして通常の物差しでは測れないような人種を纏め上げてきたほどだ。記憶がなくともそれを容易に無くすことは出来ないだろう。
そんな彼が、孤高で人を寄せ付けずにいたなど、にわかには信じ難いことだった。
「春ぐらいからちょっとマシになってきて……」
「そうそう! なんか急に雰囲気変わって――」
春先。変化。それに当てはまりそうな出来事と言えば、ひとつ。
『友達になってほしい』
「――――――――、」
その言葉に、自分はなんと返事をしただろうか。
出会いの衝撃でよく覚えていなかった。今なお続く関係性から、間違っても拒否などはしていないはずだが。
そう物思いに耽っている間に。
「はい、じゃあこれで」
いつの間にか衣装が決定したらしい。
手渡されたそれに、拒否権はありそうもなかった。
からからと音を立てて部屋を分割していた仕切りが開く。
「来たか、遊作」
他人と談笑に興じていたらしい了見はその音で気がついたのか振り返った。
作業中の者たちに配慮していたのか少し離れた場所に立っており、首から下はちょうど他の衣装に遮られ彼が無事あの服を脱げたかどうかは一見では分からなかった。
ここまできたからには仕方がない、と腹をくくり、彼に自分の今の格好の感想を求めようと一歩踏み出し。
「――あっ」
踝まで覆う裾に足を取られた。自分の予想の歩幅と実際の服装の許容範囲がまだ掴みきれていなかった。そのまま前のめりに倒れ込みそうになり、数瞬先の未来――床とぶつかる有様が脳裏で再生される。
来るべき衝撃に対する反射で咄嗟に目を閉じて。
――――――とん、と。
衝撃は訪れなかった。接触した感触は想像以上に柔らかなもので、覚えのない温もりが額越しに伝わる。
「大丈夫か?」
頭上から響く声を頼りに顔を上げると、暁の空のような一対が飛び込んできて思わず息が止まった。見慣れたとは言え、こんな至近距離で視線があったことは初めてだったかもしれない。
遊作は了見の身体に倒れ込んだような格好になっていた。正確には、倒れかけたところを了見が前から支えた形になる。
「あ……す、すまない」
気恥ずかしさに視線を逸しつつ、彼の肩を借りて姿勢を正す。
しゃらん、と足元を彩る雪駄が高らかな音を響かせ、遊作は自分がいま着せられている様相を思い出した。
白地に水仙を模した花が散りばめられ、胸下を彩る艶やかな帯が全身を引き締める。袖は長く少しの動作で美しく揺れ動き、普段は頑なに隠されている項が大きく開かれていた。足先は帯と同じ色の鼻緒が主張しており、その下にある全く日に晒されていない白い足が一際存在感を示していた。
それは今は廃れる寸前の伝統衣装――浴衣姿である。
「――――」
「なんだ……文句あるのか」
静止したままの了見に小さく抗議の声を上げる。
和服はあまり男女差のある服装ではないのが幸いだが、それでも見慣れぬ衣装を着せられ見世物にされるのは芳しくない。腹部を圧迫されるような感覚に戸惑いもあり、早くこの場を終わらせたい気持ちでいっぱいだった。
「いや、よく似合っている。下手に着飾るより、キミらしくて」
率直すぎる彼の賛美に、頬に熱が集まるのを思わず身体ごと反らして隠す。項に当たる空気が僅かに冷たく、それで少し落ち着けた。
「鴻上くんは遊んでコテコテにしちゃったけど、彼はシンプルなほうが下地が際立つと思ってやってみたんだ……どう?」
すぐ横から着付けた本人である女性が声を上げる。祖母に習ったという彼女は慣れた手付きであっという間に遊作を飾り付けた。帯を締め上げる時の力強さは一瞬、かつて拷問紛いのトラップに晒された過去を思い起こしたほど。
遠い目をして現状から意識を遠ざけようとするが、ふと視界に入り込んだ姿に違和感を覚え、思考を戻す。
てっきりいつものテーラードジャケットだと思っていた白い服は、よく見れば詰め襟に五つボタン、胸元の飾緒などといった特徴あるかっちりとした装いで。腰には形だけであったが帯刀までしていた。
旧式の軍服姿――それを了見は見事なまでに着こなしていた。
「…………」
人の、もっと言えば物体に対する醜美を一切理解できない遊作でも、彼のその姿には心惹かれるものがあった。カリスマ性というものだろうか、自然と視線が、意識がその存在へ向いてしまう。
「やっぱり鴻上くんはこっちのほうが合ってたねー」
「人を弄ぶのも程々にな」
「まぁ、ね……じゃあ頼んだよ」
そうサークルの代表が意味ありげなやり取りを交わすのをぽかん、と見つめる遊作。視線に気がついた了見がああ、と声を上げた。
「宣伝だ。タダで衣装を貸す代わりにな」
「ああ、そういうことか」
たしかに、と遊作は袖の縁に触れる。安っぽさは感じない、上品な肌触り。描かれた水仙も色鮮やかなもので、正確な価値はわからないがただのコスプレ用品ではないことは一目瞭然だった。
「注目引けそうな人に頼めば集客効果間違いなしでしょ。そのお礼も兼ねて秘蔵の衣装です」
「普通の人なら汚されるかも、と思ったけど……鴻上さんなら大丈夫でしょうし」
「もちろんだとも」
祭りに浮かれてはしゃぐような人物であれば損傷なども懸念されただろうが、この二人には無縁な話だった。
遊作が納得したのを見計らったかのように、構内全体と思われるアナウンスが鳴り響いた。甲高いファンファーレを伴ったそれは学園祭の開幕を高らかに告げるもの。
「さて――遊作」
名を呼ばれ振り向くと、真っ白の手袋に包まれた手を差し伸べられていた。
「お手をどうぞ?」
「……お前…………ずるい」
馬鹿にされている、と思うよりも先にあまりにも様になった格好に惚れ惚れするしかなかった。
遊作は自分への言い訳を必死に取り繕う。ひとりで歩けば先程のように転倒しそうだとか、人混みが予想できる中単独行動は危険だとか。けれど、どれも自分の口から勝手にこぼれた言葉には劣る。
そう、彼はずるいのだ。
了見から差し伸べられたものを振り払う選択肢など、遊作の中には存在しないのだから。
染み付いた本能に近い学習能力は、彼から齎されるものは自身の生存に直結していることを覚えている。彼の言葉が、彼の行動が、彼が積み上げてきたものによって遊作は今、生きている。
だから。
遊作は一切の迷いなくその手を取った。
「手……放すな。また転ぶかもしれない」
「もちろん」
しゃらん、と鈴のように澄んだ音が響く。
雪駄の音か、それとも――玉響る夢の音か。
◇冬
永久たれ、と願った夢も何時かは終局を迎える。そう分かってはいたが――せめて、その終わりが安穏であれと祈ることは、許されないことなのだろうか。
冬は日が短く夜が長い。
だからきっと――夢はもっと続くと信じていた。
比較的気候が安定しているこのデンシティに今年最初で最後の雪が降った日のことだった。
変温動物のように冬眠に就けばもっと長くこの時を続けられるのだろうか、なんて柄でもないことを思ってしまうほど遊作はベッドの上で丸くなり微動だにしなかった。
元々自分自身に全く頓着しない性分であるが故に起きた事件――空調の故障はある意味予定調和であったものの、それと雪が降るほどの寒波が重なるとは流石に回転速度の早い頭脳を持ってしても読みきれなかった。仮に読んでいたとしても原因を取り除く努力をしたかどうかは微妙なところだったが。
「寒い……」
呟く言葉が端から凍りついていくような錯覚。
何枚も布団が伸し掛かる重量に半ば潰されながらも、閉所恐怖症ではない自身に少しだけ安堵した。
遠くで端末が着信を告げていたが、ベッド横のデスクまで腕を伸ばす気力すら沸かず、今日は一日この状態で過ごすことを決めていたため存在自体を無視することにした。連絡を入れてくるような人は決まっているし、時期からしても大した内容ではないだろうことは予想できる。
今日は記憶が正しければ――俗に言うクリスマスという祝日のはずだ。
生憎宗教とは無縁であり、更にいえば素性も知れぬ者からの無償の贈り物を受け取れるほど良い子であった試しもない。
遊作にとってクリスマスとはただの休日のひとつに過ぎなかった。
そのはずだったのだが。
「ゆうさく――! 生きているかっ!?」
バタン、と頭上で大きく扉が開かれた音がして遊作は仰天して危うくベッドから滑り落ちるところだった。
重みの中から顔を出すよりも早く、勢いよく布団が引っ剥がされる。止める間もなく外気温と同じ氷点下に晒され、遊作は全身を氷の槍で貫かれたような衝撃に悲鳴を上げる。
「寒いっ! なんてことするんだ了見!」
相手の顔はまだ認識できていなかったが、犯人など考えずとも一人しかおらず、当然のごとく名指で文句を叫んだ。
「お前がっ! 一向に返信しないから――というかこの室温は何だ!」
負けじと完全防寒姿の了見も叫び返す。
本来であれば秀才同士であるはずの二人が低俗なやり取りをしていると気づいたのは、遊作が怒りのまま了見が着ていたコートを無理やり奪って再びベッドに戻ろうとした瞬間まで掛かった。
「扉のロックと空調だな……あとなにかいるか?」
「…………寒い」
「防寒具も必須、と」
さくさくと白くなった道路を踏みしめながら並んで歩く。
了見の端末には今日購入すべきものリストが作成中であり、記された文字列は祝日など全く関係なく、本来であればこの時期必需品であるものばかり。扉のロックに関しては、遊作の身になにかあったのかと早とちりした了見が力任せに破壊したためなので関係ないが。
「今までどうやって生きてきたんだ……」
呆れたように息を吐く了見に、遊作は鼻から首元にかけて包むマフラーで顔を隠しながらもそっぽを向いた。そのマフラーも元々は了見が装備してきたものだったのだが、遊作が引っ張り出してきた最大限の冬衣装のあまりの心もとなさに見かねて貸し出したのだ。
「こんなに寒くなるとは思ってなかった」
もごもごと言い訳を布越しに小さく言いながら、自分自身も今までどうやって生活してきたかを振り返る。
そもそもロクに外出などしなかったに尽きた。少なくとも夏までは順調に空調は可動していたので、昨年はそれで乗り切ったのだろう。もっといえば、以前は生活を営む理由が薄かったため必要と感じることがなかった。ただ生きているだけで苦しむ日々に、心も身体も悲鳴を上げるよりも先に認識しないことを選んでいたのかもしれない。
それらから解放されて今、ようやく遊作は常識を受け入れる下地ができたのだ。
「まあいい。今回ばかりは容赦なく、徹底的にやるからな」
端末を仕舞い、代りにと取り出されたそれはカードのようで、それも見慣れたデュエルモンスターズのものではなく――黒く艶が輝かしい高級そうなもの。
初めて見たが、一見するだけでそれの価値は誰でも分かる。
「別に自分で出せる!」
ぎょっとして遊作は了見の腕を掴む。
金に困っているわけではない、と全力で訴えようとがむしゃらに振るが、了見は冷ややかな笑みを湛える。
「キミは自分自身の無頓着さを顧みたほうがいい。今回の事態もそれが原因だろう」
「――――う、だが……」
彼の言い分は最もなことで、現に了見が尋ねてこなければ最悪凍傷などを起こしていた可能性もあった。昔――復讐の使者を背負っていた頃――であれば身体が資本となることを意識していたため注意していただろうが、気張ることもなくなったためある意味平和ボケとも言える。元々執着などを持たないこともあり、遊作にとって自身に関する事柄の優先度は底辺にある。
それでも遊作は、了見から一銭たりとも援助を受けたくなかった。彼とは常に対等でありたいと、そうあるべきだという主張を取り下げることは出来ない。
睨み合うように視線が交差してしばし。
頑なに譲らない遊作の気配に、了見は眉間に手を当てながら溜息を零した。
「……憐れみではない。これはプレゼントだ。今日はお誂え向きな日なことだし、遠慮なく受け取ってくれ」
「いやだ」
「せめて扉だけは」
「……………………わかった」
それさえも本心では嫌だったが、扉を壊したのは間違いなく了見自身なのでそれを拒否する事はできず、双方精一杯の譲歩としてそう結論付ける。
いつの間にか立ち止まっていたらしく、こほん、と仕切り直しに了見が短く咳払いをして遊作の腕を引く。
「では早く行くぞ。ただでさえ人が多い時期だから気をつけろ」
「ああ」
さくさく、と固まった部分と溶けかけた部分を交互に踏み鳴らす。足を取られそうになるたびにくい、と優しく袖を引っ張り上げてもらいながら二人は歩を進める。
デンシティは国の中心部でこそないものの、SOLテクノロジー社が実質支配していることもあり、近郊地域の中では最も発展を遂げた都市だ。リンクヴレインズに代表されるようにVR技術は抜きん出ており、それらを応用した歓楽街の彩りはプロジェクション・マッピングを越え、一種の仮想空間のごとく。クリスマスとなればその輝きはさらに華やかなものになり、昼間であるにもかかわらず周囲一帯は聖夜を祝福する光で満たされていた。道端に溶け残る雪がその光を受けてまた新たな風を吹き込んでいる。
道行く人々はこの光景を目に焼き付けようと立ち止まり、幼子たちは贈り物を強請りに親へ笑いかける。
こんな空間にいていいものだろうか、と疎外感を抱えつつも手を引かれるままに歩みを止めることは出来ない遊作は、その光溢れる空間をあどけない表情で見つめていた。
祝日を疎ましく思うどころか甘受した覚えもない遊作は、リンクヴレインズでもないのにこんな景色が広がっていることを初めて知った。知識の上では存在程度しか認知していなかった日にこうやって外へ繰り出すなど考えたこともなかったのだ。
「VRでもないのに……すごいな、眩しい」
「眩しい、か。情緒もない言葉だが同意しよう」
険しいまではいかないものの複雑そうな表情の了見に遊作は顔を傾げた。連れ出した本人のくせに、と声にはならなかったが顔が物語っていたらしく、気づいたように言葉を続ける。
「人混みは苦手だ。……本来ならば静かに祝う日なのだから、慎ましく過ごすべきだろう」
「じゃあ別に今日でなくても――」
「そういうわけにはいかない」
遊作としては最悪あの部屋のままでも良かったのだが、と言いかけたところをピシャリと切り捨てられる。変なところで保護気質なのは相変わらずのようで、了見はこれを気に部屋の改造――了見の視点では正常化――を図る気のようだった。
「年末の大掃除も兼ねてやるからな。私が居る以上、あんな部屋は認めない」
「……好きにしてくれ」
金銭は妥協したものの、購入する物の品定めは了見に丸投げすることを予め決めてある。遊作では物の価値など全く分からないことに加え、使えればいいという雑な理由で目に入った最初のものにする悪癖があるためだ。了見は品質から使い心地まで全て吟味してから選択する性格上、遊作が選んだものは尽く否定されるのが目に浮かんでいたためそれは必然だった。
「さて、まずは――」
そう言いながら手近な店へ入っていく。店先に並んでいた品物の値札が無いことに一抹の不安を覚えながら、遊作は大人しく従った。
時間はしばし戻り。
「……サイバーテロ?」
海を見渡す鴻上邸にて、了見は朝食を受け取りながら従者たるスペクターから発せられた単語を繰り返した。
「ええ。近頃活発になってきているようですので、ご注意下さい」
「ネットは嫌いだ。関わることも無いと思うが?」
今やネット無しには生きていけない時代に珍しく、了見はネットに依存することはなくむしろ反対派だった。VRやAIといった現代の叡智の結晶たる存在に激しく抵抗感を覚えるのだ。尊敬してやまなかった父がそちらの分野で大きな功績を上げていたことももちろん知っていたが、どうも忌避感が強い。
大学で電子工学を学んでこそいるものの、それはそれ以外の選択を知らなかった故であり、また何故そこまで己が苦手意識を持つのか知りたかったため、あえて専門的に学ぶ意味もあった。敵を知るにはまず自身から、と考えたのだ。
そんなわけで、知識こそ並のハッカーに引けは取らないだろうが、進んでそういった現場に関わることもないという意向を込めての返答だったが、スペクターは承知しております、と頭に置いて続きを話す。
「どうも過激派が民間施設をターゲットにする手口が増えているらしく……異変を感じましたら早急にご連絡を」
「…………ふむ」
少々誇張が過ぎるとも思うが、スペクターは決して嘘はつかない。何にせよ、普段は籠りがちな了見が自ら外へ繰り出そうとしているのを心配してのことだろう、と予想はついた。
どうして彼がそこまで献身的なのか、思考に一瞬モヤがかかる。なにかを忘れてしまったような、喉に引っ掛かった違和感。
それを。
『――――――応答ナシ』
食事中邪魔にならないよう、テーブルの角に置いていた端末からの無慈悲な返答に、全身が引き攣った衝撃で吹き飛ぶ。
「遊作……!?」
慌てて液晶を覗き込むが、表示されたコール数は限界を越えた量で。それが数回分並ぶ画面はある意味恐怖じみていた。
特に約束をしていたわけではない。ただどうせひとりで過ごしていることが聞かずとも分かっている遊作に、せっかくのクリスマスなのだからと招待しようと了見がメッセージを送ったのが昨晩のこと。朝起きて返答どころか既読にすらなっていないことに不信を感じたため通話で呼び出していたのだが、それすら手に取る気配がないこと。これらの結果から了見が少し早まった想像をしてしまったのだ。
「別に休みで寝ているだけでしょうに」
呆れたようにスペクターが小言を囁くが、カタカタと全身を震わせた了見の耳に届くはずもなく。
「風邪でもひいたか? いや、二日前は普通に応対していた。進行状況にもとくに乱れもなく……突発的なものか?」
端末を素早く動かしながら様々なタブを開いては閉じる。主に管理スケジュールと会話アプリのログで、ここ一週間ほどを遡っていくのを目を皿のようにして確認していく。ちなみにサボり癖がある遊作がきちんと勉強したかを確認するために、わざわざ課題の進捗状況を報告させていたりする。
数分にも満たない内に端末を仕舞い込んだ了見の顔はまさに真っ青で、原因が特定できなかったことを物語るには十分だった。
「――行ってくる。帰る前には連絡する」
恐ろしいほど迅速で身支度をし、了見は飛び出していった。
切羽詰まった雰囲気に若干気圧されながらも、スペクターはその後姿が見えなくなるまで見送った。
「……さて」
屋敷から伸びる道は白く染まっている。人通りなど無いに等しいこの近辺で、了見がつけた足跡のみがその軌跡を印す。雪に身を溶かしてしまいそうな容姿から連想させる儚さを吹き飛ばすほど、その跡は荒々しく主張していた。
鴻上了見は強い人だ。意志も、在り方も。
だからこそ――
「そろそろ終わってしまうのでしょうね」
寒さ故に避難させていた植物たちを見ながら、スペクターは悟っていた。
まだまだ冬は続く。だがいずれ降り積もった雪が溶けてしまうように、土の中で必死に命をつないだ緑が芽吹く春が来る。明けない夜はなく、覚めない夢はない。誰もが知っていて、変えようのない理。
願うだけでも、と寒空に言葉を紡ぐ。
「せめてその目覚めが、良きものであることを」
「つかれた……」
散々ショッピングに明け暮れて、既に日暮れが近づいていた。
疲労困憊を隠す気力もなく、遊作は言葉少なに、けれども目前を歩く人物に己の意志を訴えた。
「まぁ、とりあえずこんなものか」
それを聞いた了見が完全には納得していないのがありありと浮かぶ表情で、しかし遊作が限界なのも気づいたらしく息を一つ吐いて両手を上げた。
「十分だ。どれだけ買ったと思ってる」
「おそらくキミの経験上で一番だろうな」
それはもうすごかった。引っ越しでもするのかと言わんばかりに次から次へと商品を変え、店を変えていき、何時か店ごと購入しだすんじゃないかと遊作は気が気ではなかった。あれほど支払いについて揉めたというのに、結局遊作自身で購入したのは半数にも満たず、大半は了見の黒いカードで事が済まされていた。レジまで歩く気力が持たなかったのだ。
「そういえば、食事はどうするか……」
はた、と気づいた了見が端末を立ち上げる。
その言葉で遊作も己が空腹を訴えていることに気がついた。買い物に集中しすぎたためか、二人揃って昼食を取ることを忘れていたようだ。
「もう何でもいい」
本音を言うならカフェナギのホットドッグが恋しかったが、草薙が今日は弟と一日過ごすという旨を予め聞いていたため叶わない。とりあえずエネルギーが補給できるものなら何でも良かった。人混みで酔いつつもあったためできれば静かなところがいい、と言うよりも先に。
「よし、VIPルームなら空いていたぞ」
末恐ろしい単語に遊作は脱力するしかなかった。
「……せめてお前の家がいい」
「いや私も思ったのだが、スペクターがドクターたちに夕食を誘われたらしくてな。今帰っても何もない」
おそらく確信犯だな、と遊作は未だに反りの合わない某人に苦言を呈したくなった。了見至上主義を隠そうともしない彼だが、了見が気が付かないよう巧妙に遊作に対して出来うる限りの陰気な行為をすることに一切の躊躇がない。おそらくこの寒気と人混みの中に了見を連れ出したこと――遊作からしてみれば間逆なのだが――に対しての嫌がらせだろう。
「……他の選択は」
「この時間だぞ? 加えて祝日だ。食材を買い漁るにしても少々難しいだろう」
ディナータイムと呼ぶには少し早いが、それでも十分遅い時間帯。店によっては閉店準備を始める頃だろう。コンビニという手もあったが遊作だけならまだしも、遊作に偏った食事を取らせることに了見が納得しないことは火を見るよりも明らかだった。
「言っただろう? 今日という日だ、プレゼントとして受け取れ」
「十分もらった」
「まだまだ。渡し足りないくらいだ」
そう言って了見は晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
「十二年分渡さなければ気が済まない」
「――――っ、大げさな」
茶化したわけではない。了見は本気だと笑顔が物語っていた。その顔を遊作はまだ真正面から受け止めきれない。咄嗟に目をそらしたものの、顔に熱が集まるのを止められそうもなかった。
それを照れ隠しだと受け取ったらしい了見は再び遊作の手を取る。
「さあ、行くぞ。場所は押さえた」
力強く手を引かれる。抵抗する事もできず、そのまま彼の後に続く。了見の手はとても暖かった。
十二年分のプレゼントとはどれほどのものなのか。遊作には想像できない。きっと了見自身も正確なビジョンはないだろう。価値の付け方も人によっては様々だろう。
遊作にとっては――あの【三つ】だけで一生分は貰っているのに、彼にはそれがない。
それがとても寂しいことだと気づいたのは最近のことだった。
彼はそのことを後悔していたから、きっと忘れて清々したのだろう。遊作も始めは彼が前向きに生きることを選択してくれたことに対する喜びで見ないふりをしていた。けれど、やはりこうやって言葉にしてあの事件が、あの声が無かったことにされているのは――とても心が痛む。
それでも、遊作は己の心に首を振った。
「あそこの最上階だ。エレベーターは……あちらだな」
「……ああ」
いまの了見は笑ってくれる。嘲笑めいたものではなく、自嘲のような痛々しいものでもない。本心からの穏やかな笑み。
それだけで、もう良いと思ってしまった。
儚い夢物語だと思っていたのに、これほど時が経っても彼は目覚めない。それは彼がこの夢を強く望んでいるからこそだと、目覚めを拒否しているのであれば、それに応えるのが遊作の――友としての願いだ。
だからこそ、自身の寂しさを押し殺してまで遊作は了見に付き添った。彼と過ごす日々は遊作にとっても有意義で得難いものだと分かっていたから。
「着いたぞ」
ちん、と軽やかな電子音を合図に、静かにエレベーターの白い扉が開く。
前面に映し出された高層からの景色を一望できるガラス張りに、黄昏の紅がゆらゆらと揺れていた。
目に突き刺さるような光に眩んで遊作は思わず立ち止まる。了見は気づかず先に境目を越え、二人を繋いでいた手が一瞬解かれた。
「――――ぁ」
どちらかが、もしくは双方が。感じていた熱が離れたことに思わず声が上がり、遊作は早く後を追おうと、了見は驚いたように背後を振り返り――両者とも手を伸ばして。
――――――――ばたんっ!
二人を引き裂くように、白い壁が立ち塞がった。
聖なる日の逢魔が時。
隣人に、家族に、友とともに祝福をするはずの時間に、不釣合いの醜悪な声明が高々に響き渡る。周囲一帯の電子機器を数多くハックしたらしくありとあらゆる場所から反響しあい、耳を犯すような不快極まる主張と要求。
自分たちは名うてのクラッカー集団であり、現在の在り方に疑問を提唱するものである――そんな言葉から始まった彼らの陳述は劈くような悲鳴とサイレンの音に掻き消える。
デンシティが有するネットワークのおよそ三割強をクラックした彼らは、これを見せしめのための人質だと告げた。
「――――りょう、けん……?」
呆然と、目の前で起こった出来事を処理しきれず、名を呼ぶことしか出来なかった。
電燈は消え、自動扉は沈黙している。閉じ込められたと気づいたのは、白を隔てた向こう側から彼の声が届いた時だった。
『――――さく! 遊作っ!?』
がんがん、と僅かに壁が揺れるが開く気配はない。内部に備え付けられている外部への連絡手段へ手を伸ばすものの、通信すら遮断されているようで応答どころか無音が返ってくるのみ。
「了見、無事か?」
真っ先に飛び出した言葉に自身が驚く。相手も同じだったようで、叩きつけるような騒音がピタリと止まった。
『き、キミは……! それは此方の台詞だっ、怪我は無いだろうな!?』
「ああ平気だ」
暗闇に慣れない視界の中でも自身の状態は把握できている。扉に腕を挟んだわけでもないため怪我をする要因など無いのだが、相手から観測されない状態であることに思い当たりきちんと報告した。
『スピーカーから犯行声明が流れている。サイバーテロ……らしいな』
隔たれた障壁はあまり音を通さないようで遊作の耳には届かないが、外にいる了見には聞こえているらしい。ニュースなどをあまり見ない遊作には馴染みが薄いが、これでも少し前までは堂々とハッキング行為を行っていた身として、その単語だけで現状を理解するには十分だった。
なにか方法はないか、と手と視界両方を使いながら真っ白な室内を闇雲に探し回りながら、続けて了見に尋ねる。
「――向こうの要求は」
『……は? あ、ああ……どうもSOLに因縁があるらしいな。街の三割を人質にしているらしい』
遊作がなにを知りたがっているのか訝しむ気配を出しながらも、了見は聞き及んだ声明から必要らしき部分を拾い上げて伝えてくれた。
脳裏に周辺域の地図を描き出す。いま二人がいる建物は交通が充実したデンシティ中心部にある一角。もちろん近くにはSOLテクノロジー社が街のランドマークとして構えている。おそらくクラッカーたちはSOLを中心にここ一帯をクラックしたのだろう。たかが三割といえど、中心部を押さえられたとしたらそれだけで致命的だ。
「了見、スペクターたちと連絡とれるか」
世間的にはハッカー集団のハノイの騎士は過去のものだが、いまでも業界内でその名を出せばかなりの圧力になるらしいことを草薙から聞いたことを思い出し、遊作は提案した。彼らのことだ、もうすでに動いているかもしれないが、了見自身から声を上げれば全力で奴らを潰しにかかるだろう。先んじて自身の端末で試みようとしたところ、朝の鬼のような通話ログのせいで充電が切れていた。
『もうしている……が、ネットワークが駄目だな。緊急回線も――』
悔しそうに了見が言い淀む。端末に備え付けられた緊急回線なども彼らの手によって塞がっているらしい。
「なら、っ――――」
遊作は思わず唇を噛みしめて言いかけた言葉を飲み込む。
ハノイの騎士ならば独自の回線、ひとつやふたつ持っているだろう。だが、それを今の了見に尋ねるなど出来るわけがなかった。そんなこと百も承知の癖に、焦りからか口にしようとしていた己の迂闊さを呪いたくなる。
――何故だ、何を焦っている……?
はあ、と意識して大きく呼吸をする。先程から息をするのが苦しい。心臓が胸を突き破らんばかりに激しく鼓動し、暗がりにも関わらず視界がチカチカする。
「……ふう――――、よし」
冷静に、慎重に。原因がわからないもののことを考える余裕はない。自身に向ける意識を意図的にシャットアウトし、今できる最善の手段を選択する。
相手がネットワークから攻撃しているのであれば、此方もネットからやり返せばいい。
自身のスキルがどれほど通じるか。相手をよく知らないため未知数だが、少なくとも遅れを取るほどではないだろう。SOLテクノロジーやハノイの騎士など集団を相手にしながらも、己の素性は隠し通した実績を持つ者として、そう安々とやられはしない。
そのためには武器となるものが必要だった。数少ない手荷物をひっくり返さんばかりに改めていく。
だが。
「――――――――っっ!?」
からん、とそれが白い床に転がり落ちた時、遊作は悲鳴を上げそうになった。
見慣れた丸いフォルム。かつての相棒の住処であった、この場に持ち合わせていた唯一の電子機器。そして遊作にとって最強の武器であると同時に、自らの精神を深く抉る凶器――デュエルディスク。
軋む胸を咄嗟に掴んで溢れ出そうな衝動を押し殺す。大丈夫だ、と己に何度も暗示をかける。そうでもしないと、遊作は立ち上がれなくなると理解してしまったから。
けれど。
『考えろ……どうすれば――』
了見の、おそらく彼自身に言い聞かせるような声に。
「…………………………あ」
ざざ、と耳の奥で大きなノイズが走った。
白い密室。与えられたデュエルディスク。そして、声だけ響く存在。
視界が塗り替えられる。テクスチャを被せる――否、引き剥がすように、入れ替わる。
自分の手も足も小さくて、どうして自分がここにいるのかわからなくて、ただ戦うことを強制されて。
「あ、ああ…………っ、ぃ――――!」
がくん、と全身に力が入らず膝から崩れ落ちる。両手を床に付けて、なんとか上半身だけは支えようとする。声はあげられなかった。わなわなと震える口からは微かな息を吐くことで精一杯だったのだ。
この状況は、駄目だ。
遊作の魂にまで刻まれた傷を、強制的に解剖される。脳裏に、あの敗北を突きつける電子音声がハウリングする。
「ちがうっ――――!」
否定を叫ぶ。耳を塞ぎ、目を閉ざし、必死に首を振りながら今の状況全てを否定する。
誂えたかのように、同一ではないけれど連想させるには十分すぎるほど、この場所はあの部屋に近かった。遊作の時間が止まり、運命に雁字搦めになったあの場所に。
十二年前、遊作はあの場所から助け出されたけれど、救われてはいなかった。
救える人物はただひとり。けれど今の彼にはそれを望めない。彼を再び後悔と痛恨に塗れた道を歩んでほしくない。
だから。
「はあっ、はあっ、はあっ――――ぐっ!」
溢れ出そうなものをすべからく抑え込む。がりがりと自身の精神が削れ悲鳴を上げているのが分かってなお、最後の一線にだけは触れさせまいと立ち上がる。桁外れた精神力を持ち、己を顧みない遊作だからこそ出来る荒業。
『どうした遊作!?』
了見の声が随分と遠くから響く。物理的な距離ではない、心理的なものだろうか。
ずっと探し求めてきた人がいる。誰も存在を信じず、過酷な環境下で想像した幻だろうと言われ続けた。遂に再会した時はお互い相反する存在であった。しかも、彼は世界を巻き込んで死に逝こうとしていて。無我夢中で手を伸ばした。その手を取ってはくれなかったが、新たな道をゆくことを認めてくれた。
了見の存在は遊作にとって、まさに夢のようだった。焦れ、願いながらも、遠くで儚く揺れる存在。
彼の夢には浸るまいと足踏みしていたけれど、それは無駄でしかなく。
ずっとずっと昔――きっと十二年前から、遊作にとってはすべて夢だったのだ。
地獄から救ってほしい。戦うための理由がほしい。かけがえのない友がほしい。そんな本来なら何処にもいけなかったはずの、遊作が望んだ夢。
ふたつの幸せな夢を見れたなんて、なんて幸せ者だろうか。
「……そうだな」
幸夢は悪夢の再演で塗りつぶされた。けれど、今なら片方だけで済む。
遊作の夢は終わるけれど、了見の夢だけは続けてあげたい。大切な、友達からの願いだから。
手を伸ばす。遊作を駆り立てるための諸刃の剣たる、デュエルディスクへ。
旧式とはいえ、いざという時のために最低限のハッキングツールになる程度の改造は済ませてある。収納されていた有線コードを震える手で引っ張り出す。今どき有線など使っている箇所は殆どないが、こういった公共施設等は緊急時のために設備されているはずだった。階を選ぶボタンの下、鍵がかかっている場所を力任せに叩き壊する。爪や指先から嫌な感覚が伝わるが、不自然なほど痛みは覚えなかった。
「――――いくぞ」
配線を確認し、コードを差込口へ。既に腕の感覚も曖昧で、狙いが僅かに逸れた。
それが、致命的で。
――――――ばちんっ!
閃光が飛ぶ。何が起こったのか。脳まで理解が及ぶよりもずっと速く、全身が飛び跳ねる衝撃で貫かれた。
本当であれば静電気程度の、少し驚く程度で済むほどの電流。けれど遊作にとってそれは、本能から生命の危機を警鐘する痛撃に等しかった。
「ぁ――――――」
その痛みは、最後の砦を破壊するには十分だった。
「あ、ああ……、ああぁあああああああ――――!!」
視界が白く埋め尽くされる。ぼんやりと桁の多い数字が眼の前の壁に並んでいる。白い部屋にいた。手にあるのはデュエルディスク。白か、デュエルか。誰もいない。助けてくれる人も、閉じ込めた人も。そこへ導いた、白の象徴たる――――
その声を、憶えている。
『ああああああああああああ――――――!!』
凍てつくほど冷ややかな空気。目を眩ませる夕焼けの赤。閉ざされた白の向こう側。響く、幼き哭声。
知っていた。それは紛れもなく現実で、過去の象徴だったもの。己の罪深さを、痛恨を、懺悔を。
忘れるはずもなかった。そんなことを許される立場ではなく、そんな覚悟もなかった。
無かった、はずだったのだ。
「――――――、ゆう……さく」
その名を口にする資格も、本当ならばあるわけもない。彼から名前以外の一切を奪い去ったのは、自身の身勝手な行動ゆえだったのだから。
あの日、あの黄昏時に。運命が交わった――否、運命というものが発生したあの瞬間。
『キミもデュエルするの?』
『うん、大好きさ!』
何処にでもいるような、幼稚な会話。
特殊な環境下で生まれ育ち、付き合う人々はみな壮丁を迎えた者ばかり。利発さは自然と磨かれど、子供のままであることは許されなかった空間。
そんな場所にいた了見に、彼は初めて声をかけてくれた同年代の少年だった。
初めて人を家へ招いた。初めて同じ遊びをした。初めて共に笑いあった。たくさんの初めてを与えてくれた。
だから――夢を見たのだ。
「もっと、もっと……ずっと一緒にいたいな」
一緒に学んで。一緒に過ごして。一緒にふざけて。一緒に出掛けて。
ずっとそんな時間が続けばいいと。細やかで、暖かくて、幸せな――お伽噺のような夢を。
それを。
「――――っ、はは」
彼の悲鳴が聞こえる。こんな状況にいて、了見は笑うしかなかった。
この声をもう聞きたくなくて初めて父に反抗したのだ。ああ、こんなところにも初めてがあったのか。彼は了見に初めてばかり与えてくれる。後悔した。何に対してなのかわからないくらい、たくさん。
たくさんのものでしっかりと複雑に、二人は囚われていた。まさに運命としか言いようがない。
『――――――――――――っ!!』
彼の叫びが木霊する。
手を伸ばすことが、出来るだろうか。了見は己の無力に打ち震える手を見つめた。
かつて彼の手を振り払った。父の残した使命を遂げるために、という建前で。本当は、どうだったのだろうか。
きっと恐れたのだ。父を失ったあの日以来、胸の奥深くに隠した夢を続きを見てしまうことに。
「はは、は…………っ!」
全てが終わって、別れたあの日から。無意識の内に願ってしまった。夢の、続きを。
思い返せば何もかも了見が夢見た通りに時間が過ぎていた。出会いは偶然で、けれどそこからはずっと。これを笑わずにはいられない。そんな権利はないと言った口が呆れるしか無い。あれほど振り払った手を、自ら掴んで歩いていたのだ。
どうしようもないくらい幸せな夢だった。
「ああ……そうだ」
彼の慟哭が胸を穿つ。その痛みに波紋するように、懐かしき記憶が呼び起こる。
『お前なら俺を救える! 俺ならお前を救える!』
彼の決死の叫び。彼は、己を救いたいと言っていた。そのために自らが傷つくことも厭わず、恐怖の象徴たる手段を選んだ。それを用いて、本当に彼は了見を救ってくれていた。
ならば、今度こそ――――
「…………ねえ、キミ」
立ちふさがる障害に手を当てて、了見は静かに言葉を紡ぐ。
彼を悪夢から目覚めさせる、魔法のような残酷な言葉を。
「三つ。三つのことを考えるんだ。生きるため、帰るため……敵を倒すための、三つを!」
遊作を救えるのは、了見だけなのなら。彼のために、この夢を終わらせよう。
『考えることで、キミは生きられる……だから三つを考えるんだ』
それは天啓であり、遊作にとっての真実。
衝撃で霧散してしまった意識がその声を頼りに集い出す。意味のない音を吐き出すだけだった口が呼吸を取り戻す。過去という虚像に囚われていたエメラルドの瞳に朧気な光が灯る。
三つ。漠然と処理するには多く、思考停止するには少ない数。決して割り切れないその数字は、ゼロかイチで全てを構成するネットワーク世界には存在しない、意志を持つもののみが導き出せる答え。
考える。自分の現状を、取るべき手段を、それを選んだ理由を。ずっとそうやって過ごしてきたのだから、意識するよりも速く頭は理解していた。用意された結論は、最初から変わらない。
生きられる。あの日から時間は止まってしまったが、それでも生きていた。辛くて、苦しくて、恐ろしくて。痛くて、忘れたくて、憎んでも。ずっと、ずっとその声だけを支えに生きてきた。
だから。
「ま、だ……おれ、はっ…………戦える――――!」
立ち上がる。心も身体も泣き叫んでいるままだが、それでも遊作は立ち上がる。
白い部屋の中で、先の見えない絶望の中で。たったひとり、声をかけてくれた存在を救うために。それをずっと、夢見てきたのだから。
床に転げ落ちたコードを再び拾い、今度こそ接続させる。数秒のラグの後、デュエルディスクが起動する。
『先方のジャミングは此方が担う。建物自体の電力は――お前が、出来るな』
「――ああ」
隔てた向こう側から聞こえる声は、聞き慣れた凪いだ海のように穏やかな口調ではなく、懐かしき底から響くテノール。それが何を示すのか、わからないはずもなく。
ただ漠然と、彼も目覚めてしまったのだな、と遠くで自分のアバターが寂しそうに笑っている姿を幻視した。
郷愁を振り払うように指を滑らせる。
するべきことは明確で、久しぶりだというのに腕は錆びつく気配もなく一直線に敵の本拠地へと侵入していく。障害は先に退けられているのが見て取れた。
彼もまた、戦っている。同じ舞台で、同じ方向を見て、共に。
終演は呆気なく。照明がざわめくように光りだし、勝利のファンファーレ代わりに固く閉ざされていた扉が開く。
「遊作――!」
宵闇を背負いながら、
その事実だけで、遊作は救われてしまった。
力の抜けた身体を彼が支える。必死に何か語りかけてきているが、ぼんやりとした視界と耳鳴りのする聴力は仕事をしてくれない。その態度から心配してくれていることだけは分かる。ああ、なんて幸せな――夢のような光景だろうか。
「これも、きっと夢なら……醒めなければいいのにな」
たくさん目をそらして、相手にも自分にも偽って。虚構で出来た夢は脆くも崩れ去ってしまった。
もし許されるのなら。
彼と、今度こそ本当の友達になって。一緒に学校に通って、笑い合う。そんな、普通の関係を築く――どうあがいても手に入らなかった光のような夢を見続けたい、と遊作は笑った。
了見が虚構を忌避し、現実を尊ぶことを分かっていても、願わずにはいられない。
遊作の笑みに了見は今にも泣き出しそうな顔をして。
「醒めない夢は、ない。……無いんだ」
けれど、と彼は遊作の背に回した腕に力を込める。
「あの時キミに言った言葉だけは――夢で終わらせることは出来ない」
了見の腕の中は暖かくて、大きくて、強くて――まるで二人が再会した春の陽気のよう。
その中で告げられた言葉は、二人の何にも変えられない真に願った夢のような話。
「友達になろう。夢ではなく、現実で……今度こそ」
◇エピローグ
悴む寒さの中、日差しの暖かさを少しずつ実感できるようになってきた日頃。
遊作は久しぶりに鴻上宅を訪れていた。
ほんの少しばかりの悪戯心で一切のアポイント無しでの訪問だったが、インターホンを鳴らす前に正面玄関が遠隔操作で開かれたことによって、彼には遊作の行動などお見通しだと感心せざるを得なかった。
「――――――ん、」
入ってすぐ、腕を組んだ状態で直立していた家主たる了見に、挨拶するよりも先に握りしめていたタブレットを秀でた顔面へ叩きつけようとした。残念ながらそれすら予期していたようで片手で受け止められてしまったが。
了見が無言で映し出されている画面を見つめること数秒。
「――フッ、まあ当然と言うべきか」
何処か誇らしげに不敵に笑った。
「……それは俺の台詞じゃないのか」
釈然としないような、そうでもないような。どう表現すれば良いのかわからないまま、返却されたタブレットをしまい込む。
――画面には、大学の合格通知が大きく表示されていた。
敷居をまたぎ、広々と海を見通す部屋へ足を踏み入れる。予め用意されていたらしい、簡易ながらも上等なティーセットと有名メーカーのケーキがセットされていた。カップから立ち上る湯気から、おそらく準備されたのはつい先程のことだろう。ちらりと視界の端に見覚えのある人影が映った。
「これで、晴れてキミは私の後輩というわけだ」
座れ、と指で指示されたとおり腰を下ろす寸前。了見は頬杖をつきながら遊作に言った。
その言葉に。
――――どさっ、と荷物を取り落とした。
わなわなと手が震える。平衡感覚が失われ、崩れ落ちそうになるのを椅子の背もたれに寄り掛かるようにして食い止める。
どうしたのか、ぎょっとしながら了見が身を乗り出すと、遊作はこの世の終わりを知らされたような絶望感に満ちた表情で呆然と呟いた。
「…………じゃあ、もう友達にはなれないのか……?」
人よりは優れているという認識がある了見の頭脳を持ってしても、遊作のその言葉の意味は計り知れなかった。
意味がわからない、と思考がフリーズする感覚を初めて覚えた気がする。発言の意図を掴もうと目を瞬かせるものの、その間の沈黙を肯定として受け取ったらしい遊作の表情が更に酷く青褪めていくので了見は既にパニックだった。
「……質問の意味がわからない。なぜそんな結論が導き出せる」
「だって、もう俺はお前にとって『後輩』になってしまうんだろう……?」
失意に揺れるエメラルドの美しさに見惚れてしまう、なんて現実逃避をする程度には了見にとって未知の返答であった。
つまるところ。
「友達と後輩は両立できない――なんて、誰が決めたんだ」
「…………え?」
ぽかん、と口が開いたまま遊作は呆気にとられていた。
そのあまりにも彼の雰囲気にはそぐわない、けれども年相応の反応に。
「――クッ、ははっ……ハハハハ!」
思わず声に出して笑ってしまった。
「わっ、笑うことないだろう――!」
ようやく自身が見当違いなことを言っていたと理解したらしく、今度は耳まで真っ赤に染めながら遊作が叫ぶ。
彼を笑い者にする気はさらさら無かったのだが、どうも了見の変なツボに入ってしまったらしく、笑いは止まることを知らず目頭に涙が浮かぶほど。それを見て羞恥に駆られた遊作がテーブルに顔を突っ伏す。
「……笑いすぎ」
「元はキミが悪い。どう解釈したらそうなるんだ」
完全に拗ねてしまったらしい遊作は顔を上げずにモゴモゴと文句を垂れる。そんな彼に口角は上がったまま悪かった、と謝罪を述べながら頭を撫でる。
「……たった数ヶ月しか友達でいられなかった、と真面目に後悔したんだぞ! 最悪、合格取り下げとか――」
「それは私が困る。……だから悪かった。これで機嫌を直せ」
テーブルに並んだ数々の高級菓子を遊作の元へ集める。味に頓着しないのは相変わらずだが、それでも最近は美味しいと理解できるようになってきた彼にとびっきり美味の物を食べさせるのが了見の最近の努めだった。
香りに釣られ、ようやく顔を上げた遊作はまだ赤かったが、多少機嫌は戻ったらしい。
それを見て了見は、かねてから考えていたことを口にした。
「春休みは旅行でも行くか」
「――――良いのか? 人、多いんだろう」
当然の疑問を遊作が投げかける。人混みは苦手だと公言している了見がそんなことを言い出したのに驚いたのか、口に運びかけていたケーキがぼろぼろと崩れていく。それを指摘しながら、確かにと同意を示す。
だが、と端末を立ち上げ、とあるネットの記事を空中に投影させる。
「卒業旅行という慣習がある。本当なら同学年で行くものだろうが……まあ細かいことはいいだろう」
記事は近年で人気の高い観光地のリストアップだった。特にこれから春にかけての行事などが重なる地域だと詳しく情報が載っている。見出しにも卒業旅行などに、という文字が踊っている。
「仲の良い友人同士で行くものだそうだ、どう――」
「行くぞ」
言い切る前に遊作は一切の躊躇なしに頷いた。こういうことには何時も悩まず即答する彼にまた笑みが溢れそうになる。
「行き先に希望はあるか」
「……お前となら、どこでも」
夢は、もう見ない。
新たな道は、現実にこそ続いていくのだから。
――――時は巡り、キミは目覚める。