かなしい


 ────悲しい、哀しい、かなしい。

 ひたひたと背後から忍び寄るように、端から端まで染み込んで抜けないインクのように、胸に取れない支えが出来てしまったかのように。出口のない感情の波が襲いかかってくるのを止められず、エアリスは溢れるがままに重い息を吐いた。
 枯れない悲しみに心が支配されているのは、モンスターが放った技による状態異常が原因だった。戦闘中、魔法による攻撃が主体のエアリスはなるべく後方に位置取るよう心がけているが、縦横無尽に動き回るモンスターたちの猛攻によっていつの間にか前線にまで出てきてしまって。マテリアへ祈るように詠唱をしていたこともあり、悪意を持った存在が目前まで迫ってきていたことに気づいた時にはすでに遅く。
「エアリス────!」
 クラウドの差し迫った声によって顔を上げたのとほぼ同時に、エアリスの精神は暗雲を湛えた夕暮れ時のように重く苦しい悲しみに包まれてしまった。

「……あ、はは。油断しちゃった」

 悲しみを齎すモンスターはクラウドのバスターソードによって両断され、戦闘はひとまず決着した。しかし、エアリスの気持ちは晴れない。
「回復アイテムも数が少ない。技の効果が切れるまで休息にしよう」
「さんせー!」
 広い世界を巡る旅の道中、街から出てしばらく経っていたこともあり共用のアイテム数が心もとないらしい。幸いにもかなしい状態は身体にそれほど影響がある異常ではなく、それに加えずっと歩き詰めであったこともあり、クラウドの提案に仲間たちは賛同の声を上げながら各々で近場の岩場に腰を下ろし始めた。
「ごめんね、急ぎたいのに」
「気にしないで。それよりエアリス、大丈夫?」
「泣きたかったら思いっき泣いたほうがスッキリするかもよ」
 自然と仲間たちの中でも女性陣が集まって、旅の妨げになっていることを謝るエアリスを気遣うように声を掛ける。無限と湧き上がるような悲しみの中、彼女たちの優しさは漆黒の夜空に瞬く遠き星のようで。ともすれば流れ出しそうな涙の存在を肯定してくれたこともあり、エアリスの視界がぼやけていく。
「……うん、そうする。でも恥ずかしいから、あっちの陰いくね」
「いってらっしゃい。なにかあったら呼んでね」
 こんなにも仲間たちの優しさが嬉しいのに、込み上げるのは悲しみばかりで。チグハグな心のまま人前で泣くのは嫌だと思ったエアリスは、断りを入れると足早に手近な岩陰へと身を潜り込ませた。
 そして。

 ────悲しい、哀しい、かなしい。

「ぅ……」
 全身を冷水に包まれたかのように、心を鋼鉄に蝕まれるかのように、無為に踏まれる花へ手を伸ばすことすら出来なかった時のように。何もかもを飲み込んでしまうような大空の下で、エアリスは悲しみから連鎖するように辛い記憶や声を思い出してしまう。
 薬品と血の匂いを纏った母、初恋との約束と手紙の束、冷たい実験室のガラス、そして──人と、自分との決定的な違いを突きつけられた言葉。


『──────気持ち悪い』


「……う」
 かなしかった。ただひたすらに、かなしみに暮れていた。
 何度も自分に言い聞かせるように、大丈夫だと胸の中で呟く。その悲しみは過去のものだと、荒ぶ精神を宥める。その哀しみは乗り越えられたと、思い出すように目を閉じる。
 それでも、エアリスは涙を流せないでいた。決壊寸前の涙腺は、どうしてか最後の一雫を待ちわびるかのように留まっていて。辛いことも痛いことも悲しいことも、すべてを流してしまいたいのに出来なくて。
「うっ……」
 呻くようにエアリスは顔を歪ませて。


「──────エアリス」


 気がつけば、真横にあたたかな温もりを感じていた。届いた声に思わず視線を上げると、見慣れた金髪が揺れていることに気づく。岩陰に隠れるよう身を縮こませていたエアリスの横で、彼は静かに岩を背に佇んでいた。魔晄色を帯びた青き瞳は瞼の向こう側に隠されており、彼の象徴といえる身丈ほどのバスターソードは背負われていない。珍しい姿はまるで、エアリスを不用意に刺激しないようにしているかのようで。
「くら、うど」
 どうして、だとか。いつの間に、などと。言うべき事はあるのに、言葉にならずエアリスはただ彼の名を呼ぶことが精一杯だった。
 かなしかった。彼に、こんな情けない姿を見られたことが、どうしようもないくらいに。
 けれども、それ以上に。
「…………クラウド」
 こてん、と力なく首が傾く。鍛え上げられた腕を枕にするように、エアリスの三つ編みが絡みつく。唐突のその行動に、彼は一瞬だけ身体を震わせたものの、決して逃げることなくそのまま腕を貸してくれた。触れ合ったところから伝わる熱が、なによりも心地よくて。その瞬間だけは悲しさを忘れることが出来た。
 だからこそ、エアリスは。悲しみに耐えるために、と言い訳をしながら我儘を言うことにした。
「これ、独り言だから」
「…………」
 宣言通りエアリスの言葉はすべて独り言扱いしてくれるようで、クラウドからの返事や相槌は無い。しっかりと聴いてくれていることは気配で感じるが、視線もなるべく向けないようにしてくれているようだった。その優しさに、エアリスは甘えることにする。
 口を開けて飛び出すのは、かなしい記憶の欠片だった。
「昔はもっとセトラの力、使えたの。純粋だったからかな? スラムの知り合い、その大切な人に──悲しいこと、あったのが伝わって。教えてあげなきゃって……うまく言えなかったから、早く帰った方が良い、とか言って」
 連々と追想する過去の情景は嬉しいことよりも悲しい出来事の方が圧倒的で、口にしながらも次々と悲しみは連鎖していく。
「次、会ったら……『気持ち悪い』──って言われちゃった。言われなかったけど、バケモノって思われてた」
 その時の記憶は、悲しみに満ちあふれていた。気にしてない、と普段であれば言い切れただろうに、今ばかりは悲しみに暮れるしか出来ないほどエアリスの過去に染み込んでいる。
「悲しかった。もっと早く教えられたら、とか。わたしの力が足りなかったのかな、とか。でもね、やっぱり……おんなじ人、じゃないって思われたことが────悲しかったんだと思う」
 言われたことのショックで当時は気づかなかったことが、悲しみに支配された今なら分かってしまう。
 この言葉は自分が皆と同じ人ではなくセトラである、という事実を突きつけられた瞬間だった。神羅の実験室に囚われていた時から知っていたことではあるが、他人からの恐怖や蔑視にも似た拒絶の言葉を受けたのはこの時が初めてだったのかもしれない。当時は自身の無力さに打ちのめされていたが、自覚のない悲しみを感じていたことにようやく気がついた。
「普通じゃない、って悲しいね」
 叶うなら普通の人生を送りたかった──そう願った回数は、もう数えるのも馬鹿らしいほど。悲願は生まれながら決して叶うことがない、そう諦めてきた。諦めてしまえば、悲しむことも嘆くことも必要なくなるから。しかし、身の内へ密やかに仕舞い込まれていた悲しみを露わにされた今は、それを諦めたのだと一蹴することすら難しい。
 だからこそ、決して口にするまいと決めていた過去の傷を放ってしまった。後の罪悪感が恐ろしいほどに責め立てるであろう、と想像すると深まる悲しみにエアリスは目を伏せて。
「……これは、俺の独り言だが」
 小さな声がエアリスの頭上に降りかかる。それは雲の間から差し込む淡い光のように、仄かな温もりを届けながら耳を打った。
「ソルジャーはモンスターみたいなものだ──そう、言われたことがある」
 圧倒的な強さを持つソルジャーは神羅の研究成果のひとつであり、特殊な強化を施された者。ソルジャーになるための施術はトップシークレットであり、様々な噂が飛び交っている。あまりにも人以上の力を発揮するその姿を見て、誰が語ったのか。その体内にモンスターの細胞を埋め込んでいる等と。まことしやかにそんな噂が、今も囁かれている。
「……そんなこと」
 思わずエアリスは口を出してしまった。エアリスはクラウドを、そして他のソルジャーも知っている。彼らは誰かのために振るう強さを、誰もが笑ってほしいと願う勇ましさを、こうして寄り添おうとする優しさを持っていた。そんな人がモンスターだと言われるのは悲しいことだ、とエアリスが告げようとして。
「普通じゃないのは、俺も同じだ」
「…………!」
 クラウドのその言葉に、エアリスは目を大きく開くことしか出来なかった。

 ────悲しい、哀しい、かなしい。

 ずっとエアリスの精神を陣取っていた感情が、ひとつに集結していく。ちりぢりと焼け付くような痛みが風に優しく撫でられるような、差し出された手を握り返した時のような、心の奥底に木漏れ日が差し込むようなあたたかさ。ただのかなしみでしかなかったその記憶に、新たな名前と意味が吹き込まれ、モヤモヤと取り付いていた影が光に溶け込んでいく。

「────そっか。わたし……ずっと、さみしかったんだ」

 つぅ、と。頬を一筋の雫が伝っていく。それを見たクラウドがあからさまに動揺した表情を見せるが、エアリスは涙を流しながらも笑った。
「だいじょうぶ。これ、嬉し泣き」
「えっ、あ……そ、そうか────」
 決壊した涙腺からは次々と涙が続くが、エアリスの心は穏やかだった。かなしみはもう何処にもない──わけではないが、それは天気の移り変わりのように緩やかに変化していくもの。いつかの嵐は過ぎ去り、いまは薄曇りの空の下、降り続く雨に打たれる花が喜びで揺れる。
「…………逢えて、本当に良かった」
 最後の言葉は誰にも聞かれないように小さく囁いて、エアリスはクラウドの方を向いて。
「わたし、もう大丈夫。だから、行こ!」
 もう悲しくなんてないのだ、と笑いながら優しい彼の手を引っ張るのだった。


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