邂逅
じっとりと汗ばむ日であった。陽射しは日に日に熱を帯び、芽吹いた新緑が色鮮やかに葉を揺らす。地表から立ち上る気が幽なる幻を映し、虫の囀りが耳を刺す。身体に纏わり付くような熱気と湿気に苛立つことを止めようもなく、けれどもそれらを押さえ込んでもなお、身と心の双方を蝕むように掻き回す感情を如何ともしがたく。道満は、ひとり。屋敷の中で、せめて少しでもこの感情が鎮まることを願って重い息を吐き出した。
その感情に名を付けるとしたら――焦燥感、それがもっとも近しいだろう。
「……ンン、ンンンン……」
がり、と獣の如く伸ばされた爪先を噛む。普段であれば爪紅と共に呪いの彩が乗ったそこへ口付けるような不用心をするはずもないが、今ばかりは衝動のままに突き動かされていた。一応、己の行動を予期していたため、歯を立てた爪に化粧は施していない。それでも伸びた身体の一部にはこれまでに溜めるに貯めた呪力が巡っており、あまり度が過ぎれば内部を痛めつけかねない。それでも、そうせざるを得ないほど、刺激を欲する本能にも似た欲望が道満を弄んでいた。
有り体に云うならば、道満は現状を退屈していた。
数日前のこと。陰陽師としての日課である暦を占ったところ、凶日が出た。珍しい、と少しばかり驚いて。貴人相手を占うことは多く、凶が出ること自体は何の珍しいこともないが、此度は自分自身に対してである。吉日が出ることもそうないが、まごうことなく凶日だと指し示されることは本当に稀で。
道満は己の陰陽師としての技量を、一流を志す二流だと受け止めている。少なくとも怪異を碌に視ることも出来ないような半端者ではなく、術式や占術の精度を買われて依頼がひっきりなしに舞い込むような術士である自負は持ち合わせていた。
故に、道満は己が占った結果を顧みて、迷うことなく物忌みを行うことを決めたのだ。
しかし。
「ン――――、よもや、こうも長いとは……」
道満が屋敷に籠もって、早十日。未だに式占は吉を出してくれなかった。
術式の研鑽、道具の整理、屋敷の清掃、書物の読了、式神の調整。為べきことは全て滞りなく終わり、引きこもり続けるには些か飽きていた。元よりそこまで気が長いわけでもなく、貪欲に次を求めていくことを好む。そのため、何も出来ずただ日が過ぎるのを待つばかり、という現状に堪えつつあった。せめてもう少し未読の書物でもあればよかったのだが、少し前に借り受けていたものを読み終わる寸前、といったところでの物忌みだったため、なんとも時期が悪かった。
「仕方なし。こうなれば――――」
道満は覚悟を決め、最後の手段に出た。
――――すぅううう、はぁぁ…………
吸う息は深く、吐く息は浅く。瞼を下ろして視界を閉ざし、耳への意識を塞ぎ聴覚を絶つ。乾く舌を無視し、滴る汗の感覚を忘れる。鼻を使わず嗅覚を鈍らせ、満ち満ちる呪力を凪ぐ。五感、六感の全てを鎖し、内へ、中へ、裡へ。その神経を静かに、速やかに沈めていく。
瞑想、座禅にも似た行動。しかしそれは少し異なる、新たなる取り組みであった。
夢というものがある。人が眠りに落ちた先、現世と常世が混じり合うような、摩訶不思議の空間。それをただの幻覚と恐れるか、吉凶の先走りと読むか。人々の興味と畏怖を擽る、奇々怪々なる現象に。
ひとつ、昔に知り得たことがあった。
人がみる夢はまるで凪いだ海の如く、広く、深く、遠く、等しく。深淵の縁にて繋がっている、という思想。何処から仕入れたのか、記憶の狭間にも朧気ではあるが、おそらくは外つ国の書でも覗き見た際に焼き付いた文脈であろう。出所は分からないが、不思議と納得を覚えた覚えがある。仏道の最果て、解脱への道筋。同時に術士が目指すべき天上、空の境界。そのどちらも突き詰めれば同じモノである、とするならば。
――――すぅううう、はぁぁ…………
閉ざし、満たし、閉ざし、満たし。外なる世界から己を閉ざし、内なる世界を己に満たす。呼吸を澪標とし、精神を埋没する。夢とはつまり、自らの魂が描き出す幻影なれば。その淵の先へ手を伸ばすことはつまり、肉の壁を越えた先――末那識、阿頼耶識の域へ手を掛けるということになるのではないか。そして本当に阿頼耶識へ至ることが出来るのであれば、そのさらに先へ至る階と成り得るのではないか。
此度はそのための予行、実験であった。
元より興味深きことではあり、何時かはと心に留めておいたもの。しかし術士としての名が売れ、さらには越えるべき対象との壁の高さを否が応でも感じさせる日々。目先の事に気を急くばかりで長らく捨て置かれていたそれを、いま。
――――すぅううう、はぁぁ…………
いつの間にか、己の呼吸音が遠くなり。何も無い暗闇たる瞼の裏に、ゆらりと幽鬼の如く浮かぶは柳の木。風に吹かれ自在に踊り狂う様。そこに陽が差し、次第に朱に染まれば葉に火が灯る。篝火のように燃え立ち柳は灰へ、白く地に降り積もる。灰を飲み込み地は肥え、頑なな金の器を成す。金に注がれるは清らかな水流。溢れんばかりに注ぎ込まれた水は、新たなる木を育てる母となる。繰り返される円環、輪廻、世の理。
しかし、零れた水滴がひとつ。輪の外へと導かれた。自然と其方へ、後をたどればそこは。
混沌とした空間がある。無秩序に無規則に無条理に、暴力的な白と威厳的な黒に支配された空間。留まることを知らない陰陽は絶えず巡り続け、あらゆる法の届かない無垢なる識の入口を描く。
其処を見据え、道満は。
「いいでしょう、その先……果たして如何様なる空か。半端なモノであれば飲み干して差し上げましょうぞ」
辿り着いた入口を前にして高揚する心のままに、手を伸ばす。純粋なる好奇、湧き上がる探求、望んだ終着にして回生へと通ずる道に。指先ひとつ、触れるか否か。その最中。
ぐるり、ぐるり、ぐるり――――と。
白と黒、陰と陽の魚が巡り、廻り、繞り。
そして。
――――――どろり、と。
輪郭が、溶けた。
「――――っ!?」
悲鳴をあげた、しかし声は有らず。反射ではね除けた、しかし指は在らず。後ずさった、しかし身体は此処に非ず。
ここは精神の最深のその先、人と人を別ち、個を個として形作る枠の淵。阿頼耶識と呼ぶべき境界。
この空間に於ける唯一は、剥き出しで無防備な精神のみ。肉の壁に守られているはずの無二なる魂が、原初にして混沌たる阿頼耶識の中へ入るなど、嵐海に小舟で沖に出るよりも愚かなことである。
「――――!」
白と黒の何かに触れる、その先から。ぼとり、ぼとり、と何かが溶けて零れていく。同時に何かが魂に入り、知らぬ記録を焼き付けていく。荒波の如く押し寄せるそれは、人から零れ落ちた情報という泥。思考、感情、記憶、夢想。何もかもが出鱈目に継ぎ接ぎされた、歪で惨きそれらが灼熱よりも鋭く魂を切り刻む。
耐えられるはずがない。情報とは即ち熱量であり、魔力であり、猛毒である。人をひとり溶かし消し去るには余りある、肉の器なき魂ひとつ取り込んでも不変なる、遍く総てが集う根源たる渦にして空。その入口に過ぎずとも、凡百、否――人の身である限り辿り着けるはずもない頂上。
けれど。
「――――っっ!」
声なき声で、力ある言の葉を叫ぶ。物理的な身体は無くとも、魔力は魂に依存するもの。音にならずとも、力の籠もった言葉は口にするだけでその力を発揮する。
言に従い魔力が破裂したような衝撃が飛ぶ。それは刹那にも満たない刻の静止を齎した。それで、十分だった。
ザッ、と情報の泥が凪ぐ。その隙に身を引くか――――無論、否である。
――――――どぷん、と。
迷うことなく、道満は溶けかけた足を泥へ踏み入れた。雑多に過剰に複雑に、言語化されない情報が迫り上がり魂を蝕んでいく。
それでも、なお。
「ハッ――ならば、喰ろうてくれましょうぞ!」
道満はギラつく目線を彼方へ向け、悪辣なる笑みを浮かべた。
一欠片の損失を忌むほどの恐れなどとうに捨て、身を滅ぼす呪になど臓腑の隅々まで浸っている。これしきのこと、今更足を止める言い訳にすら遠く。
一歩、二歩と踏み出して。鈍足の鈍足、亀にも劣る鈍さで進む。けれども、遅さを悠々に追い越して、道満の魂からあらゆるモノが削ぎ落とされていく。この混沌を更に混ぜ渦を成すべく、新たなる情報を欲した白と黒に攫われていく。
――――ぼたり、ぽたり、と。
始めに、己が姿を
――――ぼたり、ぽたり、と。
次に、己が立場を
――――ぼたり、ぽたり、と。
みたりに、己が名前を
けれど、けれども。
「…………とどけ、とどけ――――」
見据えて、進んで、伸ばして。譫言のように囁くのは、己を呪う言霊。それがある限り、進み続けられるのだと信じて。
あそこに辿り着かなければ。遠くとも、地の果てから見上げるだけでは物足りぬ。歩みを止めず、愚直と笑われようとも。名前すら失った、どれ程残っているのかも知れぬ唯識なれど。
「――――星を、星と……並ぶには」
忘れぬものがある。灰にも近しい魂の残骸にすら、眩く焼け付き色あせない、あの邂逅を。
『――――やぁ、初めまして■■■■』
もうその音すら遠く雑音に刈り取られているが、覚えている。そう声を掛けられたことを、そう笑いかけられたことを、そう自らの常識すべてをひっくり返された衝撃を。
それはきっと、未来永劫に残り続けるであろう出来事。相手はきっと、戯れ程度にしか感じていなかっただろう細やかな光景。けれども、他のすべては忘却したとしても――その邂逅だけは、絶対に失うことを拒んだ事象。
だから。
「その空の域、至ってみせましょうぞ――!」
こんな程度で立ち止まるなど許せない。彼の人はきっと、こんな場所にいてなお輝かんばかりに笑うだろう。大したこと有りませんね、なんて軽口すら云いながら――その魔力が乱れていても隠し通してみせるのだろう――早く来い、とこちらを見下ろして。そんな姿ですらまだ想い浮かぶのであれば、きっと、きっと、きっと。
『――――おぉーい、
その呼び声に、ぱしゃん、と。夢の泡が、割れた。
「――――ッ、は!?」
ひゅぅう、と荒々しい呼吸音が頭の中に警鐘の如く鳴り響く。吸い込んだ空気が上手く喉を降りていかず、咳き込み前屈みに半ば倒れ込む。がくがく、と関節や筋肉も悲鳴をあげていた。痙攣が止まらない。耳鳴り、頭痛、目眩、ありとあらゆる身体の危険信号が赤く点滅している。
「な、ぜ……?」
おかしなことだった。壮絶な肉体、と称されたこともある鍛え上げられた体躯はそう簡単に音を上げるはずもなく。そも、先程まで何をしていたのだったか。ぐらつく頭を支えながら、遠い、霧に包まれたような記憶を辿ろうとして。
『――――おぉーい』
「あ……」
その声に、反射的に顔を上げた。誰かと問う必要は全くない。ああやって呼びかけてくる人物など、この広き京に於いても唯一人しかいないだろう。
何処から声が届いているのか。硬い首をゆっくりと振り、開け放たれている部屋の外へ目を向けて。
「――――」
燦々と輝く、満天に目を眩ませた。月の影はない、朔の夜だった。星の灯火だけが、静かに高らかに溢れんばかりに、ゆるりと降り注いでいて。
まるで、あの邂逅の日と同じように、なんて。
「……はぁ」
吐き出した息は乾ききっていた。どうやら、深淵に長く沈みすぎていたらしい。様子見だけのはずが、届きうる可能性を感じてしまったが故に引き返すことを選べず。あの声がなければ、どうなっていただろうか。掴み取ると同時に、きっと道満の魂は忘却の彼方へと跡形もなく消え去っただろうが、術を扱う者としての命題は遂げられただろうに。
「惜しいことを……晴明め」
がり、と爪先を噛む。感覚では今日の朝方に噛んだはずの爪は、その時よりも幾ばくか長さを増していた。数日は経過しているだろう。身体の不調はそのせいだ。意識だけ沈み、肉体を疎かにしすぎた代償にしては軽い方だが。
「莫迦者。何のための物忌みですか」
食いしばっていると、いつの間にやら声の主――安倍晴明その人が、招く前にずかずかと入り込んでいた。相変わらず何を考えているのか読み取りにくい、無表情に近しいが非常に整った顔に少しばかりの怒気を滲ませている。
「あらゆる存在との関わり一切を絶ってこその物忌みでしょう。それを、まさかあらゆる存在が集う渦に潜るとは……遠回しの自害でもしたかったのですか?」
「ンンン……そも、拙僧はまだ物忌み中なのですが」
指摘は正論だと渋々ながら認めるが、こうして土足で入り込んで来た貴様はどうなのか、と。言外に問いただしながら睨み付けると、晴明は出来の悪い弟子に諭すかの如く、閉じた扇で式盤を差し示した。
「この宵より凶日は終わりです。私が占ったので間違いありません」
「ンンンンンンンン――――ッ!」
身体が動けば地団駄を踏んでいたであろう。今は唸り悶えることしか出来ない己の愚昧さを呪うばかり。
そんな姿を見て、晴明は。
「……道満」
静かに、けれどもはっきりと、名前を呼びかけた。道満自身は忘れても良いと思った、その名を。穏やかな夜にその音を響かせることを願うように。
目を合わせると、晴明は式盤から星が煌めく空へと扇を向けた。
「今宵はよい星影が見えます。思いがけないところで良き出会いあり、と。……覚えは、ありますか?」
その、何故だか少しだけ自信なさげな問いに。
「…………ええ、まぁ。これを邂逅と認めるのは癪ですが」
少なくとも、忘れることは出来ますまい。
そう、見上げた夜空を読み取って、道満は。今夜の星の輝きも忘れられないだろう、と魂に刻み込んだ。