開帳

「――は、拙僧が……ですか」
「はい。報酬はこの通りでございます。どうか」


 ――――我らの御仏となっていただけませんか。


 春は曙、等とどこかの詩人が詠んだように、花香る夜明けの頃合い。依頼人である、とある村の長は道満の屋敷にてそう頭を床に擦り付けんばかりに下げて頼み込んできた。
 告げられた言葉の意味は、こうだ。
 かの村には古くより伝わる祭典として、春が来る頃に村一番の寺の御本尊を開帳し、冬の間に溜まった穢れ澱みをそのご威光を用いて祓い清めるという催しがあった。しかし数十年前、ご本尊が何者かの手によって盗難の被害に遭い、未だに見つかっていないという。その時、困り果てていた村に訪れた一介の法師が告げた。
『ならば私めが僭越ながら、御本尊の代わりに一時――御仏となりましょう』
 法師はその夜、伽藍堂に籠もり一心に経を唱え続けた。翌日、村人が堂を開帳すると――見事、石仏と見紛うほど完璧に御仏と成った法師の姿があったという。人々は彼を讃え拝み、最上級の感謝を示した。
 以降、村では新たな御本尊を迎えずに、祭典の儀が近くなったあたりで村を訪れた僧侶に、その一日を御仏として振る舞うよう頼むことまでを祭りのひとつに組み込んだのだそうだ。報酬は一年を掛けて貯め込んだ村の財産をつぎ込むようで、道満にすでに提示されたそれもかなりのものであった。
「そうですねェ……」
 経歴、報酬、そして村長の人なり。まだ僅かとも云えるやり取りではあったが、道満の危険予知に引っ掛かるものはとくに感じられない。気になる点としたら、相場よりもはるかに多く提示されている報酬が少し異質なことくらいか。たかが丸一日、仏像の如く身を固めているだけ、と考えるならばあまりにも破格である。只人であれば完全に一日を座しているだけなど耐えがたきことだろうが、道満を含め僧伽という者たちであれば出来て当然ともいえること。むしろ滝行のように苛烈な環境下ではなく、雨風に晒されることのないお堂の中でならば、それこそ二日三日かかっても耐えられる。
 だからこそ。
「何故、此度はわざわざ拙僧に依頼を?」
 道満は僧籍に身を置く者ではあるが、どちらかと言えば陰陽師としての名のほうが知れ渡っている。今まで請け負ってきた依頼も大半が呪詛から祓い、占いに祈祷など陰陽道の腕を買われてのものだった。しかもかの村は、道満が構える京よりも少し離れた山にあるという。先程の説明を加味すると、道満を名指しで依頼する意図が読めなかった。
 それを、村長は真っ青な顔で首を振る。
「実は村の者たちから、祭りをより大きくしたいとの声が年々高まっており……。今年はとうとう、有志より例年以上のものを納めていただいたのです。なので……」
「ああ、なるほど。それはそれは」
 それなりに箔を付けなければならなくなった次第、というわけだ。ならばこそ、この話が道満に持ち込まれた理由は納得できる。実力はお墨付き、名も知れ渡って――良い意味でも悪い意味でも――おり、かつ平民でも依頼を持ち込みやすい立場。なんとも便利な存在になったものだ、なんて心中で我が身を笑いながら、道満は。
「――宜しい。この報酬でならば、請け負いましょうぞ」
 たまには善良なる法師として働くのも悪くない、とひとつ頷いた。

 そこから健脚で進んで約二日ほど。山中にあるというその村に辿り着いた時、既に陽は傾きつつあった。
「おお、なんとか間に合いそうです!」
 祭りは明日からだという村長は、焦りを露わにしながらもホッとした様子で、村中を案内しながら目的地である寺まで道満を誘った。
 周囲を見渡しつつ、村人へ気を配る。特段、目立つような存在はいないらしい。術者らしき気配も無く、本当にただただ祭典のためだけに呼ばれたようだ、と罠の可能性を引き下げた。
 しかし、気になることもあった。
「……石像が、多いのですね」
 村のあちらこちらに、それらはあった。見事な石仏像である。人とほぼ同じ大きさで、表情から布の皺まで精巧に彫られている。それがひとつふたつどころか、数十はあるだろう。軽く見て取った限りだが、どれもが違う意匠であった。唯一同じだったのは、浮かべている表情のみ。
 その彩は――苦痛、だろうか。
「ああ、あれは歴代の御仏を象ったものです。皆様、本当に素晴らしきお姿で……記憶だけでなく、像として留めておきたいと願い、こうして祀らせていただいておるのです」
「ンンンン……なるほど。では何故、苦悶の表情なのですか?」
「村中の罪穢れ、災いを一身に引き受けてくださりますので、その痛ましきお姿を我々が忘れぬようにでございます」
 すらすらと返答する村長に迷いはない。虚偽では無いのだろう、と道満は納得した。
「……しかし」
 そう、他の者たちには聞こえぬように口の中でだけ、言の葉を転がす。
 拭い去れない、この違和感は。

「あれらはどうして、あれほどまでに耐えがたき苦行を強いられたかのような顔をなさるのか……」

 その答えを覆い隠すかの如く、夜の帳が、しん、と降り立った。


「道満法師、こちらでございます!」
「ほぉ……これは、なんとも見事な」
 村の最深部、山頂にて。参道の先に聳え立つ寺院は、村の規模からは想像も出来ないほど立派なものであった。本来であれば何十人と僧侶や稚児がいてもおかしくないほどの大きさで、少しばかり自らが育った寺を思い起こさせる。碌な思い出もないが、郷愁にかられるのは、造りが似通っていたからだろうか。内部を案内されながら、道満は朧気な記憶を重ね合わせていた。
「そしてここが……」
 村長が慎重な手つきで戸を開けていく。両開きで他の扉とは違い金や漆で彩られた、厨子にも似ているその様子から、ここが例の伽藍堂――本堂でありながら御本尊が無いのであれば、この名が相応しいだろう――のようだ。
 きぃ、と音をたてて戸が開き、中の闇が零れ出す。闇でありながら、それは恐ろしきほどに清浄なる空気であった。道満は思わず息を呑む。
「ここを建てた者は……さぞ、名のある方だったのでしょうな」
 それは霊廟、聖域のそれに近しい。清らかな法力で満たされているのを肌で感じる。たかが山中の村に残された遺物だと侮った己を悔いるほど、規格外のものに戦きすら覚えた。
「さぁ……本尊とともに謂われは喪失して久しく。しかし、我々にとっては……今宵から、貴方様こそ――そのご威光を放つ御仏にございます」
 ささ、中へ。そう進められても、道満は一瞬だけ躊躇った。気圧された、とでも言おうか。それとも、脳裏を過った言葉に制止を余儀なくされたのか。

『道満、匣に気を付けよ――と、相が出ているよ』

 それはこの依頼を受ける前夜の事。唐突に、いつもの如くふらり、と道満の眼前に現れて、そう告げられた。依頼も無く人を占うなどらしくない行動に目を見開いたのは記憶に新しい。どういうつもりか、と問いただしてみても。
『うーん……珍しいものが視えそうだったから、つい』
 等と、よく分からない返答だった。けれど、その眼差しはいつもの巫山戯た時より、少しばかり意味ありげであったため、戯れ言と切り捨てずに留めておいたのだが。
「匣、ですか」
 彼の言葉だ、ただ何かを入れるための箱のことではないだろう。もっと別の、喩えのような。四方を囲まれ、入口はひとつの、閉ざされた空間で、大切なモノを仕舞い込むための――――

「道満法師?」
 村長の呼びかけに顔を上げる。思わず後ずさりかけていた己を叱咤し、彼と向き合った。
 一度了承の意を告げておいて今更引き下がるわけにはいかない。依頼を受け請けたのでれば、それは契約である。言霊である。破ればどんな憂き目にあうことか。これ程の力ある寺院からの罰となればそれこそ精魂ごと持って行かれてもおかしくない。
 それに、と。道満は己の探究心が疼くのをも感じていた。
 この中に満ち満ちた法力、それが何処から齎され、どのような仕組みで満たされているのか。寺院まるごとを陣として用いているのか、はたまた誰も知り得ぬ法具でも埋め込まれているのか。解き明かせば、新たな術式への応用として使えるかも知れぬ。
 ならば、ここで手を拱く時間が惜しい。
「……失礼、参りましょうぞ」
 にこり、と一礼する。懐かしき心持ちであった。まるで修業時代を思い起こさせる。少なからず得るものがあると分かれば何にでも手を伸ばし、ありとあらゆる知と術と技を貪欲に詰め込んでいた頃。あの時も、今も、まさか己が本当の仏になるとは思ってもみなかったのだが。
 そっと一歩、踏み入れる。
「――――っ!」
 呼吸をする。吸った息にはたっぷりと法力が乗り、道満の喉元を舐めるように降りていく。自らの魔力とは異なる力に、髪が柳のように揺れ踊った。不快感は無い。どちらかといえば清浄すぎて馴染みが無く、体内に澱み溜まっている呪が軒並み払われていっているような、居心地の悪さが胸を渦巻いていく。
 ただ、漠然とした感覚だけが恐ろしき速さで道満の思考を染め上げた。

 ――――其処に座す、それはこの上ない誉れであろう、と。

「それでは、法師様。明朝、開帳の儀の刻まで――この場に、御座しくださりませ」
 この言葉に、少しだけ、喩えるなら虫の羽音のような、そんな心をざわつかせるさざ波が立ち上る。
 しかし、それを追求するよりも早く。

 ――――ぎぃぃいいい、

「今年の祭りは、とても佳いものになりましょう」
 扉が閉められていく。村長の破顔一笑が、何故だかとても悍ましきモノに映る。
 けれど、道満は。室内に満ち満ちた力に囁かれるがまま。
「……ええ、そう願っておりますとも」
 聖者の笑みを湛えて頷いていた。

 ――――ばたんっ!

 そして、すべてがその中――――匣の中に、鎖された。



***




 ――――すぅぅううう、と。

 深く、深く、息を吸う。満ち満ちた力を己が血潮と成すべく。強く、強く、取り入れる。満たされて、満ち足りて。手足の先、臓器の底まで染み渡るように。遠く、遠く、視点が浮かぶ。自らの身体を俯瞰するように、匣の上部から見下ろすように。
 ゆらり、と足が踏み出した。足音一つ鳴らない床を数歩進む。視界は漆喰に塗り固められたように、真っ黒な一面しか映し出さない。この中は月明かり、星の灯火すら届かないらしい。完全なる密室であった。道理で法力に一切の澱みが無いわけだ。出て行く所も無ければ入ってくる所もないのだから。しかし、ならばその力の源泉は何処なのか。
 かつん、と足先が何かに当たる。段差のようだ。僅かに高くなっている所は、察するに仏壇のような、御本尊が座すべき場所であるのだろう。蓮の花でも模しているのか、見えない視界の中で花開いた台座が目に浮かぶようだ。
「……おかしい」
 耳鳴りがする。

 ――――すぅぅううう、と。

 そこに、一歩足を踏み入れる。胸を、頭を満たす力に誘われるがまま。煩わしさに、どうせ見えていないのだからと瞼を降ろして遮断を試みた。意味が無いと分かっているが、そも、仏像とは大抵、両眼を伺うことは出来ないモノなのだから。見開いている必要は無い。帳を降ろすように瞳を閉じると、その内にもまるで水を満たすように力が入り込む。もっと、もっと。これでは仏に成り得ない。
「……違う、待て」
 耳障りな音がする。

 ――――すぅぅううう、と。

 腰を下ろした。座禅を組み、更に深く息を吸う。足りない、足りない。もっと身体を、臓腑を、血潮を、神経の隅々まで。吸って、吸って。満たして、満たして。
 そのまま、唱えましょう。言の葉に音を乗せて。己が信ずるままに、正しき経を。手を合わせ、説き勧めましょう。この世とは即ち、この匣の中であり。曼荼羅の中点に座し、その廻りを見守り、そしてその輪からその身を外すのだ。それこそが解脱、それこそが仏へと至り、それこそが。
「違う、違う、違う!」
 雑念が混じる。

 ――――すぅぅううう、と。

 さあ息を吸いましょう。浅ましき思考を、余分な知識を、不要な感情を捨てましょう。仏には不必要であれば、解き放ちましょう。夢見るように、囁き謳うように、星の灯火を胸に抱くように。
「――それは」
 不必要な言を忘れなさい。その口は既に経を唱えるためのものであり、遍く衆生を説くためのもの。他の言の葉は消え去るべきモノです。
「ならば、この声は一体……何処から?」
 今すぐその思考を止めなさい。呼吸を続けなさい。曼荼羅に身を委ね、座してその身を硬め、御仏へと至るのです。それこそが至高、それこそが至福、それこそが解脱。あらゆる仏門をくぐったモノが至るべき境地であり、その道筋へ繋がるのはこの匣の中のみ。委ねなさい、捨てなさい、受け入れなさい。
「無論、我が裡にて――――――舐、め、る、な――ッ!!」

 ――――ばきり、と。

 石が砕ける音がした。



***




「ゲホッ……か、は――ッ!」
 血の噎せ返る香りに、道満は鉛の如く重くのし掛かる瞼をこじ開けた。喉が焼け付く痛みと、それ以上に下半身の感覚が失われているという事実に怒りと己の浅慮さを呪いたくなった。
 胸元で掌を合わせていた腕を引き離そうと藻掻くが、その動きすら果てしなく鈍い。暗闇で視界がきかないため分かりづらいが、自身に今起きている現象を端的に示すならば――文字通り、身体が石像と成りかけている最中であろう。
「ンンンンフフフハハハハハハァ――――! 仏に成れ、等と……よく云ったものよ――!」
 立ち上がることは既に試みたが、腰より下は完全に石と化しているため不可能だった。先程の石が砕ける音は、おそらく道満のどこかの部位が破損した音だろう。完全に堂内の術式に嵌まっていたことに気が付き、あらん限りの魔力を込めて全身に回っていた法力を押し流そうとした際に勢い余ったらしい。元に戻るか、なんて思考は一旦捨て去る。それよりもこの匣から抜け出さねば、もう全身が石と成すまで猶予は無い。
 怒りをぶちまけたい衝動のまま、血の気も感覚も薄まった指先で懐を探る。まるで自らは生き霊と成り果て、まったく知らぬ肉体を操作しているようなもどかしさ。ままならぬ動きでなんとか数枚の式を放つ。
 しかし、式が術を成すよりも早く。

 ――――バチン、と火花が散って形代が焼け落ちた。

「チィ――ッ!」
 道満は己の失態へ舌打ちを何百しても足りないくらいだった。
 この匣――伽藍堂の空間は、満たされた法力からも分かるとおり、清すぎる。即身仏ならぬ即石仏など笑い事では無いモノを生み出す機構ではあるが、その目的はおそらく、仏道の本懐である解脱を試みることであろう。補陀落渡海を代表する捨身行の一種であり、あくまでも衆生救済を目的とした信仰による儀式である。人を貶める呪詛術式ではない――方法は残虐極まるものではあるが。
 故に、生半可な術式などはね除けてしまう。とくに式神など、もとは悪鬼化生を調伏して従えてるモノだ。相性が悪すぎる。この場で軽々に呼び顕わしでもしたら問答無用で祓われ消し飛んでしまうだろう。そして分が悪いことに、今回の依頼内容から道満はそれほど攻撃性の高い術式を持ってきてはいなかった。対怪異相手でなければ素手でもどうとでもなる身体能力が逆に仇となるとは。
「ンンン……グ、ごほッ――」
 ぱしゃん、とまだ動く喉元から血が溢れ出る。石化が胸元まで広がっていた。おそらく体内すべてが石と化すのはもう少し先だろうが――でなければ即死だ――表面上だけでも覆われてしまえば動くことは不可能だろう。
「は、あっ――こういった、術の基盤は、秘匿性による……モノ」
 荒く息を吐きながら、見据えるのは唯一の突破口に成り得る場所。つまりは出入り口である扉だ。
 匣を用いた術は、外から観測されないことが重要である。呪詛にも通ずるが、秘匿、隠蔽、密封されているからこそ、その内部で大いなる変革が許される。それは蛹が蝶へと生まれ変わるように。中に入れたモノを変性させるには、匣を模した部屋とはもっとも容易で優れた術式だった。
 だが、逆に。その秘匿性を打ち破れば、術は容易く瓦解する。
「ンン――――ッ!」
 顔に、まだ生身を残した身体に次々と青筋が浮かぶ。石と成り果てた境界付近では、血管がはち切れたように血が滲み吹き出す。それに構うこと無く、全身全霊を賭けて身を傾けた。裡に残っている魔力を全力で回し、僅かでも身体の支配権を取り戻そうと藻掻く。ばきっ、べきっ、と嫌な音が響くのは無視する。四肢の一部が欠ける程度、後でどうとでもなるのだ。先ずは、この匣の中心にして曼荼羅の中点を模した仏壇から身体を引き剥がすために。
「――っ、これしき……の、こと――!」
 碌に動かぬ手でなんとか印を組み、神経を集中させるのは飛び散った己の鮮血へ。溢れ流れるそこへ魔力と方向性を注ぐ。時間が無く細かな調整が出来ずに、荒ぶる魔力が肉と石の間を抉っていく。それでいい、と道満は余裕の無い表情ながらも不敵に笑った。
 溢れ飛び散った流血が滞空し、次第に形を――龍を描く。小さな、それこそ子蛇にも劣るほど小さきモノであるが、それが龍の姿をしていることが肝要であった。龍は神獣、瑞獣、吉祥獣として名高きモノであるからして、この清浄なる空間でも顕すことが可能だろうと践んだ。同時に龍は――荒ぶる水の化身でもある。そして、水流は岩をも削り穿つ程の速き流れを成す。
「喰らいつけ――!」
 小さき姿ではあるが咆哮を上げ、赤き龍は流動する牙を、台座と道満を結ぶ地点に突き立てた。ぐるりぐるり、ととぐろを巻きながら円を描くように走り、石を削っていく。しかし、遅い。これは道満の力が及ばない訳では無い。石化の現象を食い止める方に大半の魔力を使っているからだ。そちらを少しでも緩めれば、道満は声を上げる間もなく石仏と成り果てるだろう。
 本来であれば術士たる道満にこれ程易々と干渉するなど、いくらこの術式、法力が優れたモノであろうと不可能だ。しかし、此度は既に一度、道満はそうとは知らずとも同意を示し、契約を交わしている。その制約が、道満の抵抗を受け付けない。ぎちぎち、と音をたてて石化の進行は止まらない。
 それでも、道満に諦めるという選択肢は存在しなかった。
「儂を、謀った、こと――後悔っ、させて、や――――ぐっ、がは――ッ!」

 ――――ばきんっ!

 甲高い破壊音と共に、道満の視点が弧を描いた。ごんっ、と強かに打ち付けたはずの身体は遂に痛みすら覚えなくなっていたが、吐き出した血が頬を濡らす感覚から、どうも横たわっているような体勢になったらしい。なんとか台座から離れることに成功したようだ。
 しかし。
「うっ……」
 平衡感覚が戻らない。目眩と反響で、現在位置の確認が取れていない。先程まで見据えていたはずの出入り口が、分からなくなっている。まずい、と思った矢先。
「あっ、ぅ――グッ!」
 ばきばきっ、と一気に石化が進行した。喉付近まで覆われ、かひゅっ、と呼吸が掠れていく。浅い呼吸は容易く思考力を奪い、抵抗の一手を失わせようと、めきりっ、と皮膚を硬く染めていく。機能を失いかけた視界を不要と判断したのか、無意識のうちに瞼が降りていく。真っ暗で、しかし元よりこの空間には光が無かったことを思い出した。
 そう、光がとても、遠い。
「……ぁ」
 そのことに、何かを、想いだしかけて。

 ――――ちりん、と。

 髪の先に結わえた鈴が、軽やかな音色を奏でた。
「お、と……――――っ!」
 まだだ、と。喉が、首が石に塗り固められ、声を失った。しかし、それでもまだ出来ることはある。
 残った神経を髪へと流す。魔力をふんだんにため込まれた髪は悠々とうねり、先に転がる鈴がころころと音を生み出していく。言の葉は無くとも、音もまた古来より力を持つモノであり、とくに鈴は玉音と呼ばれ神を誘う調べとされていた。

 ――――りん、りん。

 髪と玉音を標しに、招来するは――方位神である。勿論、方忌などを読み解く暇など無い。ただ今の道満にとって最も吉を招く方角を指し示すことを冀う。単純で乱雑で礼儀も無い、無名の法師陰陽師でももう少しマシな術を組むだろう有様だが、この場が清浄であり聖なるモノを降ろす場に似た空間だったのが幸いだった。

 ――――りぃいいん!

「――――っ!」
 其処か、と一筋伸びた髪が、求めた出口を差し示した。往くべき道筋は明らかに、あとはこの匣を開け放つのみ。
 けれども、石化は既に頬をも覆い尽くさんとしていた。
 あと少し。腕を、手を、指を、爪を――伸ばして。
「…………あぁ」
 声にならない声で、血と息を吐いた。

 ――――届かない。

 重く、重く。鈍く、鈍く。懸命に伸ばした指先は、扉に掛けることを叶わず。所詮、蝶を夢見た蛾は蛹から何物にも成れず、とでも告げられたかの如く。
 暗く、昏く。ここは伽藍堂。何も無い、伽藍の匣。月の明かりも、陽の温もりも、星の灯火も、届かぬほどに。
 届かないのであれば、せめて。

「……せ、ぃめ……」
 
 石に覆われようとも、目を焼かれようとも、指先が朽ち果てようとも。ただの仏の如く、慈悲の表情を浮かべながら民に愛されるようなモノに成りたくはない。苦痛に身悶える愚かな石にも、成りたくはない。
 ただ、ただ。
 星を――仰ぎ見て、睨み続け、目指し続けることだけは――――許して欲しい、と。



 ――――ぎぃぃぃいいいい、



 その音は、晴れやかに。

「……やぁ、道満。まだ生きてるだろうね?」

 その声は、明らかに。

「――――ぁ」

 開け放たれた扉の先に、朝日を背にして――まるで後光が差しているようだ――安倍晴明が、道満へ手を差し伸べている。

 今まで考えたことも無かった。どうして、開帳なる行事があるのかと。どうして常に本尊を見せず、特定の日にのみその姿を露わにするのかと。
 けれど、ようやく理解出来た気がした。
 苦痛を耐え、死の恐怖に怯え、暗く冷たい冬を乗り越えた先に。ようやく目にした、眩いばかりの光の存在に。
「……な、ぜ」
「ん? だって――呼んだだろう?」

 ――――ああ、救われたのだな、と。

 柄にも無く、そう、心から想ってしまった。


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