莫迦
昨夜のことだ。とある貴族の屋敷に稲妻が落ちた。雨のひとしずく、雲のひとかたまりすら何も無い、静かな夜であったというのに。屋敷の庭には見事な枝垂れ柳があり、稲妻は迷うこと無くその木を貫き――ちょうどその時、柳の下でひとり月見を楽しんでいたという貴族の男が悲鳴をあげる間もなく焼かれて死んだらしい。
「――――よぉう、道満。久しぶりじゃないか」
かんら、から、から。そう高下駄の歯音が響いた、夕暮れ時の道すがら。眩い西日に目を細めた瞬間、先程までは確実に存在しなかったモノの気配と声が道満の足を止めさせる。思わず浮かび上がりそうになった疎みの表情を押し殺し、引き攣る口角を必死に微笑の形へ持って行った。
「これはこれは、鞍馬の。御山から遙々ご苦労なことで」
「冷たいなァ! ま、相変わらずのようでなにより」
皮肉交じりの言葉に気付いているのか、わざとなのか。女人の似姿をしていながらも、鋭き者であればすぐさま秘められし力量を見抜けるだろう。武人にして陰陽師、人ならざる怪異、名を鬼一法眼――鞍馬山に名高き大天狗である。
知らぬ仲ではない。彼女――性別などないだろうが、今の容姿からそう形容する――は時折人里に降り立ち、気まぐれに術や技を教授することがあり、その際には道満と同じ法師陰陽師を名乗ることもあった。他にも多少の縁があるため、忘れかけた頃に姿を見せては語り合うことがあり、人間と化生という関係でありながら所謂、顔見知りというやつだった。
けれど、此度はあまりにも具合が悪い。もしかしたら知ってのことなのやも、と伏せ気味の視界で姿を捉えつつも疑惑の視線を投げかけた。
「……して、拙僧に何か?」
「んー? いやなに、昨夜の稲妻のことでちょっとな――」
そう告げた鬼一は珍しいことに、言葉に悩んでいるようだった。道満の知る限り、彼女は常に万物を平等に公平に遍く好いて、世を人を怪を等しく快活に笑う、そんな存在だ。特別に何かを愛することは無くとも、何かを嫌うことなども無い。ただ目を掛けることは良くあり、助言や手助けに喜びを覚える程には人の理解に近しい。
そんな鬼一が言い淀む、昨夜の出来事。道満は数刻前を思い出し、憂鬱と息を吐きだした。
「あれはやはり、其方の領分で?」
其方――つまるところ、怪異の類いであろうと。
そも、人の身で雷を起こすことなど叶わない。呪術であれば出来なくはないものの、幻覚幻聴ではなく実態として雷を再現することはかなりの高位な術士でなければ不可能である。稲妻は旧くより神の権能とされるもの。おいそれと人の身で為し得る所行ではないのだ。さらに此度は犠牲者まで出た。直接的に、大々的に、まるで見せつけるかの如く。呪詛とは秘匿を尊ぶものであり、此度の騒動とは真逆の象徴である。
そう、それくらいのこと術士の端くれ程度でも判ることなのだが、如何せん今回の被害者はこの京においての人たる貴族のひとり。権力争いによる呪詛の応酬というのはありふれており、知らせを受けた貴き人々は戦慄しただろう。次は、己やも知れぬと。その甲斐あってか、呪詛だった場合のおそらく最有力候補として、道満は朝から内裏を始め無数の貴族邸に呼び出され引っ張りだこであった。疑惑が半分、もう半分は実際にあのような呪詛が可能なのかどうか――腹黒の連中は、やられる前に仕掛けたいのだろう。毎度同じように説明をし続け、流石の道満も疲労困憊である。もし犯人ならぬ犯怪が判っているのであれば、道満自ら赴いてその首を取らねば気が済まない程度には苛立ってもいた。
そんな道満の疑念を受けた鬼一は、やはり珍しげに歯切れ悪く首を振る。
「あー、その、なんだ。かなり大きな区分で視ればそう括られるやも知れぬが……正直、僕としては否定したいところだ!」
「……はぁ?」
否定しつつも肯定せざるを得ないものがあるということだろうか。少なくとも誰が行ったのか、までは知ってるようだったので強面を作りながら詰め寄ってみるが、軽く腕を振られてしまった。
「そういうえば、道満」
鬼一が突然、まるで話題を無理矢理変えようとするように、張り上げた声を周囲に響かせる。逃げる気か、それとも気を逸らせたい何かがあるのか。あまりにも不自然に、しかし笑いの含まれたいつもの声色では無く、真剣な眼差しを持って貫かれた。殺気ではなく、観察に近いだろう視線を真っ正面から受け、道満は思わず彼女の琥珀色に映った己の姿を見てしまう。
柳色の着物に袈裟、そして頭巾を深々と被り、身を縮こませている――なんとも愚かな姿を。
そして。
「――――おまえ、少し前に
ひゅるり、と。まるで一陣の風の如く、突風にも似た動きで鬼一が道満の目前に迫る。息を呑む間すら与えず、黒々とした双眸が大きく開かれるのと同時に。
ばさり、と。頭巾がその役割を奪われ地に落ちた。
「鬼一殿……戯れが過ぎまする」
咎めの言葉は力弱く、既に諦めの色が濃く浮かんでいた。彼女にそんな抵抗するほうが時間の無駄というものだ、と道満は十二分に知っている。ただ、この姿をいつ人目に付くとも判らぬ場所で曝したくは無かったのだが。
――――りぃいん、と。
風に乗って柳の葉が踊っている。その動きに合わせるように伸び流れた髪が揺れ、毛先に結われた鈴が澄み渡る音色を響かせた。頭巾の下、そこに本来あるべき彩は黒であるはずだった。
しかし、今は。
艶やかな緑の黒髪は半分に減り、もう半分は銀にも見紛うほど西日を受けて輝く白髪へと変性を遂げていた。
「ははぁ……大層なことを。例の秘術の反動か? いやしかし、それはそれで――うむ、見事なものだなァ!」
まさに陰陽を体現するかの如くよの、等と。その言の葉には僅かながらの懸念が滲んでいた。人好きの彼女だから、こんなただの自業自得であろうとも心を掛けてくれているのだろう。
少し、本当に少しだけ、ここ数日の暗澹とした道満の精神へ陽が差したような温もりが届いた。
「別に、ただ色が抜けただけでございまする。心配されるようなことは、なにも」
「うんうん、わかっているさ。おまえはそういうヤツだものなー」
けれど、と。鬼一の双眸が僅かに細まる。
まるで、夕暮れから宵闇へと移りゆくように、刹那の出来事であった。
「人間とは異質を嫌うモノであろう? ――さて、聞いた話ではあるが……例の貴族は随分とおまえを
それは、此度の騒動の根幹に近しい出来事だったのだろうか。
伏せた瞳の奥で、数日前の事を振り返った。
例の焼死した貴族の邸で行われた、晴明との術比べ。宴の催しのひとつとして招かれ、見世物となるべく行われたそれ。手を抜くつもりなど毛頭無く、その時出来る全身全霊を賭けた術式は、残念ながらいつもの如く晴明の術返しの前に敗れ去った。
それはいい。予想出来たことであり、次の一手の切っ掛けになりそうな、新たな見解も得られた。悔しさを隠さないまま、終幕の「参りました」を告げる、その間際に。
――――りぃいん、と。
悪戯な風だった。連なっていた木々の葉が舞い、花弁が空を散り散りに彩った。そんな風に煽られて、深々と被っていたはずの頭巾が捲り上がり、陰陽の色が露わになってしまったのだ。
その瞬間。
集まっていた貴族は、まるで――餌へと群がる蟻の如く。
ひそひそ。くすくす。けたけた。きひきひ。
品の無い笑い声だった。誰も彼もが道満を嗤っていた。扇で顔を隠しながら嘲笑っていた。
とくに主催者である貴族の男はそれはもう、水を得た魚の如く。溢れんばかりの言の葉を用いて、道満の卑しさを説いてまわった。晴明には届かない様を莫迦にし、己が招いたにも関わらずこの屋敷には相応しくない、等と大きく宣った。
それは、まさに。
「……何と思えば。そんなこと――――
そう、道満は鬼一へとため息交じりにあしらうように告げた。
本当に、本心から、本気で。凪いだ海の如く、道満は既にそのような扱いを受けても心を痛めることはない。そんな感性など、とうの昔に捨ててきたのだ。
平安京に於いて、人たる存在とは貴族のみ。貴族以下の人は人非ず。そんな道理がまかり通る、魔の都である。
そんな場所で、道満が挑むのは――あれでも貴族の一員である安倍晴明。この程度の事、それこそ数えるのも嫌になるほど経験してきた。今更何を言うこともないのだ。
「まさか、それが気になって態々御山から下りてきたので?」
「……そうか、そうか。うん、おまえがそう云えるのであれば、それで良い」
けれどな、と。琥珀の瞳に見据えられる。嘲笑や愚弄が一切無い、懸念と慈愛に溢れる麗しき彩だった。
「人の世は僕らには度し難いことが多すぎる。……おまえのような存在には――――いや、違うな。何かあったら、いつでも御山へおいでよ」
それは、鬼一がよく用いる挨拶のようなものだった。しかし、そこにいつも加えられる言葉が無く、意外さに道満の顔が驚愕を表情を描く。
「なんと、鬼一殿……もしや何方かと縁を結ばれたので? いえ、拙僧には関係ありませぬが……相手様の正気を疑いまする」
「失礼な! 別におまえも嫁に迎えて一向に構わん――のだが、此度は止めておく。稲妻に焼かれては叶わんのでな」
嫁に迎える、というのは人間のそれとはまったく異なった、怪異でありながら人に寄り添う鬼一が考えた方法のひとつ。縁を結ぶことを重視し、末永く共にあることを望んだ、彼女なりの好意の示し方。それをけんもほろろにお断りするまでが、いつもの別れ際のやり取りであった。
それを自ら止めておく、等と。今日の鬼一は一段とおかしな様子だった。それに、最後に付け加えられた単語に違和感を覚えた。
「稲妻……? やはり鬼一殿はなにかご存知なのでは――――」
「ではさらばだ! かんら、から、から!」
不思議な、清涼さを感じさせる笑い声が夜闇に暮れる道へ響く。瞬いた後、目の前に居たはずの彼女の姿は既に無く。まるで嵐のような出来事であった、と道満はひとつ息を零した。
それにしても。
「……あの稲妻は、いったい何者の仕業なのでしょうね……?」
人を呪わば穴二つ、という言葉がある。
ならば。
「人を嗤えば稲妻ひとつ、なんてどうでしょう?」
星の光降る静謐なる夜に、そんな戯言にも思える、胡乱な言葉を乗せた声が鳴った。
返しの言葉を求めているわけではないのだろう。少なくともその声色には、問いかけではなく確固とした決定が刻まれている。意見など一切必要とせず、ただその言葉を受け入れよ、といった高き頂より齎されるそれ。
しかし。
「――――やめよ。やめよ、晴明」
かんら、から、から。高下駄が屋敷の敷居を跨ぐ音が響く。鬼一法眼であった。快活の笑みは姿を消し、その顔に浮かぶのは武人の構えにも似た険しきもの。
「……鬼一殿」
招かれざる客人に、この場の主たる安倍晴明は僅かに顔を彼女へ向けた。鞍馬山の大天狗たる鬼一を無下に扱うことは、流石の晴明でも憚られる。
けれど、先程晴明が紡いだ言葉を撤回する気は微塵も無かった。
「何故でしょうか。良い案だと思うのですが」
「アレは気にしておらぬ。僕がしっかり確かめたんだ、間違いない。だから――その権能を、容易に使うでない」
稲妻とは、旧くより神の権能であった。天地を揺るがす災いであると同時に、田畑へ豊穣を齎す恵みとして。稲妻は即ち、稲の妻。雷が落ちた地は良く肥える様から、稲を、豊かさを招くモノとされる。そして空を閃く光を稲光りと、稲光りから〝稲荷〟となったという。いつしか豊穣の神であり、その神使たる狐を――稲荷、と人々はそう呼ぶようになった。呼び、崇め、奉り。神性が結びつき、権能を継承した。
晴明の母は宇迦之御魂神に所縁ある神狐だという。その子である晴明は半妖であれど、力の鱗片は確かに受け継がれていて。
だからこそ、かの貴族を襲った稲妻は他ならぬ晴明の仕業であった。
「そうですね。しかし――――私は、気に入ったモノを容易く扱われることを好まないので。
その言葉には、傲慢も、軽蔑も、潔癖の彩すら無く。ただただ、そうあるべきだ、という確信しか存在していない。
まるで、それは。
「安倍晴明、おまえは――人界の守護を使命とする者だ。他ならぬおまえ自身がそう定めたんだ、そこを軽んじるな。道を外れるな。想いを違うな」
ここは化生や怪異が跋扈する魔境ではあるが、間違いなく人が生きるべき世でもある。
そこに――獣の理は必要ない、と。鬼一は言外に強く強くそう告げた。
「佳きモノを愛でるのは良い。理不尽な行いに怒りを覚えるのも良い。人であるならば当然だろうさ」
「そう、ですね……仕方がない」
まだ納得はいっていないのだろうが、理解は出来ているらしい。晴明は渋々といった風を隠さずとも、鬼一の言葉を受け入れた。
「しかし人の世はなんとも難しきもの。いつの日か、私が
「……莫迦者が。それこそ、この世にあってはならぬ事象だろうよ」