指先
――――ちぅ、ちぅ。
それは、嬰児のような姿をしていた。夜闇の中に血に塗れ、赤い手足と腹、そして一際大きな頭がごろりと転がっている。生まれ落ちたばかりのようなソレは、ままならぬ動きながらも本能のままに生き延びる術を探してぎょろりとした瞳を回し、目に付いたモノへ貪るように口へ含んだ。
――――ちぅ、ちぅ。
乳飲み子らしく吸い付くそこは、母の乳房では無く。野ざらしで朽ちかけた骸の指先。死してからあまり時が経っていなかったためか、辛うじて肉が残っていたそこは、子が吸い付くとまるで乳のように血潮が零れ落ちた。ぽたぽた、と口元から溢れた赫で赤子がさらに赤く染まっていく。
――――ちぅ。
ぼとり、と咥えていた指先が根本からおちた。それを合図に、僅かに残っていた骸の肉片や鮮血、そして霊魂までもが赤子へと吸い込まれていく。かの生きる糧となったのか。それは当然ながら否である。死をも貪り食らうモノが人であるはずもなく。
――――けひ、けひ!
赤子の笑い声のような、怨霊の呻き声のような、それとも鬼の産声のような。丑三つ時に響く、不気味なその声色が京の片隅にて反響した。
「……もし、そこな法師様。少しばかり聞いてはいただけませぬか?」
そう声を掛けられて、蘆屋道満は少しばかり目を顰めつつも律儀に足を止めた。
西日が眩しい通りから伸びる、裏道への入口にひとり。みすぼらしい様相のおそらく女人が立っていた。雨も降っていないのに笠を深く被り、顔を拝見することは出来なかった。怪しき存在だった。もう少し遅い時間であれば化生のソレとして検非違使や源氏郎党に見つかれば即座に刃を向けられていただろう。
だが、いくらここが帝が御座す京の都とて、このような人間なぞ無数にいた。華やかな裏側、激しい人間模様を描き出す貴族共のさらに奥。彼らの華やかさを支える影として、苦汁をなめながら暮らす者たち。人の姿をしていても人であると貴族からは認められない者共。逞しく生きる者もいれば、このように化生と見紛う如き者もいる。そのような輩に声を掛けられ反応すれば、下手を打てば身ぐるみ剥がれるか命共々奪われるか。進んで関わる者などあまりにも少ない。
けれど、道満は自身の矜恃はさておき、そうした存在にも積極的に関わるたちだった。
「は、拙僧でよろしければ。何事でございますかな?」
にこり、と貼り付けるのは営業用の作られた微笑み。仏像のそれにもよく似た、見る者に柔らかで安心感を与える顔。只でさえ多くの者を魅了させる美しく整った顔立ちに浮かんだその笑みに、声を掛けた女はほぅと僅かに息を零す。いつものことである。老若男女問わず、道満の容姿に文句を付ける存在はいない。背丈体格で怯まれることはあれど、この笑みを貼り付ければ誰もが安心しきって目尻を下げる。それを内心で見下しながらも道満は決してソレを表に出さなかった。
「あ、ああ……ありがとうございます。さぞお力のある法師様と見込み、頼みがあるのです」
そう言うと女は数歩、後ろへ下がった。
「あまり人目に付けたくありませぬ……もう少し、近くへ」
「ええ、ええ。そうでしょうとも」
追って道満も裏道へ足を踏み入れる。西日がちょうど道満の影に隠れ、裏道にはまったく日が差し込まなくなった。一足早く宵闇に包まれたその場所で、女がそろりそろりと袖を捲る。
「昨日のことでございました。寝所で、赤子の声が聞こえたのです。ぐずり泣く、可哀想な声が。夜泣きだろうと最初は放っておいたのですが、待てども待てども泣き止むことは無く。むしろ大きく泣きわめいて……私は可哀想で、可哀想で――――」
つい、単を羽織って外へ出てしまったのだと女は言う。
「道端に、赤子が。捨て子だろうと、思いました。そして私は……少し前、我が子を亡くし。嘆き悲しんでおりました。ですから、つい」
抱き上げて、宥めるように背をさすってやったのだと。ずしり、と久しき重みについ涙ぐんでしまったのだと。
「……泣き声から、腹が空いているのだと気付きました。けれど、私の乳はすでに出ず。どうしたものかと悩んでいたら、その子が私の、手を……とって――――」
――――ちぅ、ちぅ。
「乳を飲むように、指先に吸い付いて。可愛らしいと、思いました。必死に生きようとする姿に、なんとかしなければと覚えました。…………ですが」
――――ちぅ、ちぅ。
「……血が、赫く、染まって。痛くて、離して、と叫んでも……吸うのを、止めてくれなくて。仕舞いに」
――――ちぅ、ちぅ……ぼとり。
「法師様、どうか、どうか――――私の指を、探してくれませんか」
捲り上げられた袖の先、そこには。
西日よりも赫黒く染まった掌。そこに本来はあるはずの五本の指は、根本から腐り落ちて無くなっていた。
「――――良いでしょう、引き受けましょうぞ」
――――けひ、けひ。
誰もが寝静まる夜半。場違いな声が通りに響く。大通りから一本外れた小道のひとつ。灯籠の灯りも届かぬその場所に、泣き叫ぶ哀れな赤子の声。
しかしそれは誤り。それは疑似餌の如き、次の獲物を待つ悪しき化生のソレである。乳の代わりに血を求め、母を求める子を演じながら命を貪る。放っておけばそのうちに悪鬼羅刹にも至る可能性を秘めた、悍ましきモノの一端。
そこに。
「ンンン――なんと哀れなる子でしょう。拙僧が、経のひとつでも詠んで差し上げましょうねェ」
ちりん、と鈴の音を響かせながら現れた、次なる犠牲者に化生は目を向けた。
麗しき様相の法師であった。高き背の後ろで鈴と共に揺れる髪は陰陽を模し、歩を進める度に袈裟がはためく。目元や唇、そして指先には柳色の紅が塗られており、彼の姿を艶やかに彩っていた。鍛え上げられた肉体は完全に男性のものなのに、紅が光るそれぞれの場所からは女に近しい気配が香る。
とくにその指先に、化生はいたく惹かれた。
爪が鋭く伸ばされているというのに、僅かに呪詛によるものか黒ずんでいるのに、それらが目に入らぬほど、化生には彼の指先が恐ろしくも至極な代物に映り。
――――けひ、けひ!
アレが欲しい、アレを貪りたい、アレを食べたい。それらの悪しき念を滲ませた、悍ましき嗤い声を上げた。それはおそらく、只人の女房たちが聞けば我が子が親を求める声に。武人や父という立場にあるものであれば、庇護すべきものとして映るだろう。人の情に訴えかける下劣な念。
それを。
「おやおや。コレが欲しい、と?」
ゆらり、と。紅に彩られた指が闇に浮かぶ。まるで水面に浮かべられた釣り針のように、見たモノを誘う色と光を帯びた細長く美しき指先。
いつの間にか立場が逆転し――化生が誘い人が喰われるはずが、人たる僧が餌を差し出し化生が惹かれている――のにも気付かぬまま、嬰児の姿をした妖が大口を開ける。乳飲み子に不釣り合いなほど尖り揃った牙が覗く。
それをも道満は、微笑みながら指先を曝したまま。
「はい、どうぞ」
――――ちぅ、と。
一口吸って、化生の双眸が頭部から零れ落ちそうな程大きく開かれる。甘い、甘い、甘露のような甘味に思考が染まった。今まで多くの人間を襲い指先を啜ったが、そのどれもが霞むほどの甘さ。まだ血を喰らう段階に至っていないのにも関わらず。
もっと、もっとだ、と。化生は牙を突き立てながら更に啜る。
――――ちぅ、ぢぅ、と。
二口目は慣れ親しんだ赫が滲んだ。牙と皮膚の隙間から雫が溢れ、舌や唇を濡らす。ぞくりとするほどの旨味であった。もっと、もっと。貪欲に、執念に。
僧はまだ笑っていた。指を食い破られそうになっているというのに、それは施しを尊ぶ聖人か、はたまた。
三口目には喉が冒された。まるで炎を飲み込んだかのように焼け付く痛みと、それを刻みつけるような断続的な痒痛。だが、それをも上回る陶酔感に包まれ、化生はもはや何も判らぬままに指を吸っていた。
僧は嘲弄を浮かべていた。愚かにも釣り針を喉に食い込まされているとうのにも気付かぬまま貪っている哀れな存在に向けて。
「よく食べますこと。――ンンンッ。ささ、もっと食べなされ」
――――ぢぅ、ぢぅ!
化生が指を吸い続ける。ごくりと喉が激しく動き飲み込んでいく。もっと、もっと。そこで化生は気付いた。口がひとつでは物足りぬ、と。
ごとり、と目玉が飛び出して地に落ちた。瞼が瞬く間に口の形へと変化していく。三つ口はそれぞれの目前にあった指先へ食らい付いた。しかし、まだ足りぬ。
伸びた手足にも口が生えた。四つ、五つ、と増えていき、それら全てが僧の指を覆い尽くした。
それでもなお、僧は――蘆屋道満は嗤っていた。
「そんなに食らい付いて、もはや乞食ですら憐れむでしょうなァ……しかし、ええ、ええ」
気付かぬ化生を嘲笑いながら、道満は真っ白な呪符を手に取った。
「込められた数多の呪詛。既に御身を蝕み、冒し、変性させていることに気付かぬとは――まさに餓鬼でありますな」
化生はもはや考えることも出来ず、抵抗など存在せず、血を介して注がれる呪によって変わり果てていた。それにも気づけぬまま、指先を啜り続ける。まるで、母親に縋り付く本物の乳飲み子の如く。
せめてもの餞別に、と。道満は最後の仕上げとして、再び仏像の如き笑みと共に慈悲を垂らした。
「我が指先――とくと味わいなされ」
――――――ぼとり。
その日、安倍晴明の機嫌は最悪である――と、見る者すべてが気づいてしまった。
普段は感情の読めない表情か、何も込められていない笑みを湛えている御仁ではあるが、時折こうして子供の癇癪のように不機嫌を露わにしていることがある。他の人に当たることは絶対に無いが、この状態だといつも以上に依頼を受け付けない。どれほどの位の高い者が頭を下げようとも頑として頷こうとせず、気付けば屋敷に引きこもるか、はたまた悪戯のように姿を消してしまうのだ。仮にも京の守護を担う者が、と声を荒げる者は残念ながらおらず。自ら最優を宣う最強の陰陽師に意義を申し立てるような存在など――いないわけでは無いが、極々一部しかいない。
その極一部にあたる人物である蘆屋道満は。
「……晴明殿、何か」
少々やつれた様子を醸し出しつつも、いつもながら怪僧と称される風体のまま安倍晴明に拘束されていた。
「拙僧、本日は物忌みだと申したはずですが」
「…………はぁ」
大きくため息を吐かれ、道満は舌打ちをしたい気分だった。
本来であれば、夜に処理した餓鬼を式神に組み上げて調整をした後、晴明へと術比べを申し込む算段だったのだ。あの執念は中々のモノになるだろうと、先行投資として多量の呪術と血を与えたので肉体的にも疲労している。最悪の状態に近しいのに、晴明は無表情のままため息だけを吐きつつ、道満を術で縛り付けたのだ。
「遊んでいる暇なぞないでしょう? 法師陰陽師である拙僧とは違い、貴方は力に相応しき身分をお持ちですからなァ」
「…………」
嫌みも、抵抗も、何もかも響かぬ様子に苛立ちばかりが募っていく。晴明が――おそらく腹を立てているのだろう、とまでは推測出来たが、それに巻き込まれる謂われは無いはずだった。術比べを仕掛けた後であればともかく、まだ計画を練っている段階だ。人の呪詛に逐一駄目出しをするほど厳格でもないのに――むしろ新しい術には目を輝かせて解析しだす方だ――今更道満のやり方に文句でもつけたいのだろうか。
ぐるぐる、と思考を回す道満を尻目に、晴明は袖で巧妙に隠された左手を掴んだ。
「おまえ……」
「――――っ!」
そこには、数多の呪符で包まれながら一本だけ指が欠けた掌が小さくあった。
「痛い、ですぞ」
「莫迦者が。餓鬼程度に軽々しくあげていいものではありませんよ、コレは」
苦痛を訴える道満を無視して、晴明は怒気を滲ませながら荒々しく呪符を破り捨てていく。血止めと穢れ払いなどが込められた術が剥ぎ取られ、赫き血潮が流れ零れていく。
「術式を極めるのは良い。自らを削って研磨するのも許しましょう。けれど――――」
京の全て、人の思考、そして明日の先ですら見通す魔眼が射貫く。
「たとえ肉片のひとつ、血潮の一滴であろうとも――化生に、獣に、鬼に。何者にも与えることは許しませんので」
その言葉に。私以外には、なんて続きの声が聞こえたきがして。それを吹き飛ばすべく道満は声を荒げた。
「――――ハッ! なんたる傲慢! なんたる屈辱!! 拙僧は貴様の人形では無い! 我が呪詛術式、極みに至る可能性があるというなら」
晴明が離れていく。いつの間にか道満の左手は、まるで最初から何もなかったかのように綺麗で美しき指が揃っていた。
それを見て、道満は様々な感情が混ぜ込まれ判らなくなったまま、叫ぶように告げた。
「悪鬼羅刹、邪神鬼神にでも――この指程度、くれてやるとも」
柳色の爪紅が線を描く。麗しき指先から描かれる術式から、泣きわめく餓鬼の式神が具現化した。
それはまるで――――今の道満の感情を指し示すかのように。