待宵
丸々と満ち足りた月が、宵の訪れを告げている。
静かな夜であった。化生が騒ぎ出す時分ではあったが、今日はおそらく何事も無く終えられるだろう。そう、かの安倍晴明は誰に言うこともなく確信していた。明日の先を見通す千里の魔眼は平坦な夜の情景しか映し出さない。
「……まぁ、こういう日もあるでしょう」
陰の象徴たる月が満ちていたとしても全ての魑魅魍魎が活動するとは限らないのだ。ある意味で不気味な現象ではあるが、そこは最強最優たる身の上。今から事を働く不埒モノが現れたとしてもどうとでもなる。
なので、晴明は月をつまみに上等な酒を呷っていた。
「ふむ、悪くありませんね」
何かの報酬で得ただろうその酒は長らく蔵にて埋没されていたものだった。少し前、式神に片付けを頼んでおいたら出てきたそれを、ふと月を見たら思い出した。晴明はあまり飲食に拘りがなく、こうしてひとり呑むことなど初めてに近しい出来事なのだが、本人はあまり自覚がなかった。
こくり、こくり、と。
喉を灼きながら心身に染み渡っていく、炎の如き水。心の臓が鼓動を際立たせ、思考が僅かに鈍っていく。それでも、もっと。そう思わずにはいられない、陶酔感と高揚感と中毒性。
それは、どこか懐かしさと寂しさと、僅かながらに残る後悔の念にも似た。
「まるで――――そう、似ていますね」
何が、とは言えなかった。晴明ほどの術者であれば自然と言の葉には力が宿る。こんなところで誰とも耳をそばだててなどいないだろうが、すぐそこには宵の空が広がっている。あの先に届いてしまったら面倒だ。どんな手を使ってでも殴り込みに来てしまいそうだ――仮にも術者であるのに、そんな想像しか浮かばない――なんて、想ってしまったらとてもそれを紡ぐことは出来なかった。
「散々、莫迦者だと言ってしまったが……これでは同じ穴の狢ですね」
明日の先を見通す晴明にとって、現世の営みはすべて待宵の出来事である。
いつか来ると判っている〝何か〟に対して働き、励み、生きていく。そうであれ、と生まれ落ちた身であると自覚しており、そのための力を全て授かっている。不満は無く、興味も無く、感情を持たず。ただ望まれたとおりに人の世を守護し、陰陽を統べ、ただこの身が朽ちるまでそう続けていくものだと識っていた。
けれど。
何時か視たあの景色。かの首を落とした、あの光景。その時、その瞬間、何を想ったのか――それを、識ることは。
「…………本当に、あの場面だけは待っていなかったのですが」
来ないといいな、と初めて思ってしまった。何かの間違いだ、と切り捨ててしまえたらどれだけ良かっただろうか。けれどその一方で、決して避けられぬとあらゆる手段で待ち構えていたのも事実。生まれついての機能はそうそうに捨てられなどしないのだから。
こくり、こくり、と。
酒を呷る。胸を焦がすように、地獄の竈の如き灼熱が廻っていく。それでいい、と晴明は呑み続けた。もうできれば味わいたくないあの感情を忘れぬよう、この身が朽ちてなお、魂の奥底まで焼き付けておきたかったから。
「ええ、仕方がありません。過ぎたことなど。私は――待つことには慣れていますので」
千の先を映す瞳が告げている。遙かな先の先、めくるめく時の流れのその先に、かの姿は再びこの地に降り立つ。それは決して誉れあるものではなく、悪鬼羅刹の如き哀れなるモノに成り果てた姿であろうとも。
それでも、晴明は笑っている。
「来ると判っている人を待つ――それはきっと、これ程に見事な宵の空の下でなければ」
満ち足りた月が輝く。それはとても禍々しく、悍ましく、そして――美しきモノであった。