甘露
ぴしゃり、と口元から椿の花が落ちた。
「――っ、ぐ……」
赤く、紅く。止めどなく唇を、押さえた掌を、滴り落ちた机をあかく染め上げていく。喉が焼けるような痛みと、目が洪水を起こしたような涙の嵐。冷え切っていく身体に震えが止まらない。命が削られていく実感を嫌というほど覚えさせられる。
「ンン、あァ――まだ、届かぬか」
心からの言葉だった。目指す頂がこれ程までに遠き場所なのだと、志よりも先に肉体が折れてしまいそうな、無念と苛立ちに狂いそうになるのを必死に殺して、呻いた。
蘆屋道満が安倍晴明へと術比べを挑んで、早数年。
幾度となく繰り返された挑戦は、その尽くが大敗へと終結していた。
次こそは、次こそは――と、当初から人並以上の技量は更に磨き上げられ、修めた術式は凡百の術者が束になっても勝てないことが明白なほど。只人として生まれ落ちた身で、よくぞここまで。僅かに時代が異なれば、そう絶賛の声がかけられていたであろう。
しかし、当世には既に絶対的強者が在り。かの星を撃ち落としてこそ、その賛美を賜ることが許される。そう、道満は受け止めていた。
だからこそ、こうして。常から命を削りながら、未知の領域へと手を伸ばして。
「は、ぁ――――っ!」
ぴしゃり、と椿の花弁が――否、命の源たる鮮血が散る。くらりくらり、と視界が歪んでは廻る。胸の奥底から響く鈍痛に目を背けるのはそろそろ限界だった。
「……ふ、ふ。痛みは、耐えられるのですが。ンンンン……こうも煩わしいと――難儀してしまいますなァ」
苦痛には慣れているはずだった。元よりこの京においては人ならず平民の出なれば、それも寺に育てられた身。苦労話には事欠かない。笑い事で済んだことだけでなく、人前で話すのは些か憚られるようなことも一通り経験済みである。こんな、ただの痛み程度で音を上げるほど柔ではないが。
痛み、刺激、感覚。それらは本能であり、いくら理性で抑えようとも反射的に感じ反応するのを止めるのは難しい。まして、生命維持に直結するようなものであればなおのこと、それに対する拒絶は跳ね上がる。
それらに逐一、手を止めていては到底。
「いけません、いけません。このままでは……」
星を越えようなど、夢想にも遠く。
「そうですねぇ……痛覚を遮断、は悪手なれば」
一度は試したことがある、痛み一切を絶つその術。悪くは無かったが、加減が効かず感覚そのすべてを切ってしまい、彼奴の目前で下手を打ってしまったため、二度は無い。
ならば。
「痛みを痛みとして受け取るが故。では――痛みを、痛みならぬモノに置き換えれば」
これがいい、と己が出した結論に道満は大きく頷いた。感覚のすり替え程度であれば大きな術式は必要なく。既に馴染みある感覚にすれば前回のような過ちも冒すまい。
ではどの感覚にすべきか。苦痛に近しく、日常に差し支えなく、身体に刻むのに相応しいモノ。
その時、ふと思い出した。
『ああ、道満。ちょうど良かった……貴方も味わいますよね?』
差し出されたのは、猪口に注がれた乳白色の液体。何か、と問うても笑うばかりで、飲めば分かるの一点張り。どれほどの呪が込められているのか見ただけでは理解出来ぬことに苛立ちつつも、乗せられるがままに煽ったソレは。
『甘いだろう? 実はこれ、あの醍醐――
などと宣うものだから、手が滑った。猪口が落ち、砕け、足を裂いた。その痛みよりもずっとずっと強く、口に広がる甘味。
『これに慣れたらもう蘇なんて食べられません。道長様には絶対差し上げられないので、私とおまえで片付けてしまおう』
この時ばかりは晴明の言葉もあまり引っ掛からなかった。そんなことよりも甘味が、舌に、脳に、記憶に焼き付いて。
「――――ああ、アレはとても、とても良かった」
あれが本当に経典にも記される、最も美味しいとされる五味のひとつである醍醐そのものだったのか。ただの晴明による悪戯だったのかもしれない。けれど、あれほど甘美なモノを食したのは初めてで。
思い出した、あの甘露は。
甘くて、美味しくて、ずっと味わっていたいモノ。
そして今、すげ替えるべき苦痛とは。
痛くて、苦々しくて、けして被りたくないモノ。
まさに、相対する関係のよう。
「苦痛と真逆の性質……なれば、ちょうど良いでしょう」
想起するは甘露なる甘味。連結させるは憂悶なる苦痛。くるりくるり、と指先で術を編み、呪を込め、言を紡ぐ。
ぴしゃり、と。大量の椿が溢れ落ちる。机は赤黒く染まりきり、指先には大量の穢れを纏い、怨嗟が形を成したかが如くの有様で。
それでも道満は、嗤っていた。
「ンン――――
何かが狂い始めていると気付きながらも、その痛みにこそ忘れられぬ甘みを求めて。