雨音

 静かに雨が、降っている。
 ぽたり、ぽたり、と。高き天の恵みを遙か地に届かせながら、その身を零していく。
「…………」
 遠く、雷鳴が轟く。
 ごぉう、ごぉう、と。恐ろしくも逞しき音が空を震わせ、人々は神の恵みだと手を掲げて喜び舞う。
「…………」


 ――――それは実に、一月ぶりの雨であった。


 京の都は度々、旱魃の憂いを抱えている。十数日降らないことは間々あれど、此度はとくに酷い有様だった。多くの者が雨乞いを執り行うもなしの礫。こんな時に、と大臣お抱えの最優陰陽師筆頭は何処かへ雲隠れ。彼奴のことだ、どうせ。
「これなるは天のみぞ知る――具体的に言うと、暑くてやる気が起きません」
 とでも煙を巻いたような口調で逃げたのだろう。これが京を揺るがす天変地異であれば相応の対応をしただろうが、幸いにも内裏や貴族達には些細な問題であった。彼らはこの世で最も優先されるべき身分の者。地表すべてが干上がった訳でも無く、生きていく糧を手に入れるためならば何でも出来る立場がある。
 だが、その恩恵に授かること出来ぬ者たちは。

「ほうし、さま。どうか……どうか、お恵みを。一滴の水でもよいのです。どうか、どうか」

 そう言って手を伸ばされたのは幾度目か。数える憂いを振り払い、しがない法師陰陽師たる蘆屋道満はその二色の髪を振った。
 京の都にほど近い村中。地面は砂を巻き上げ、草木は蒼さを失い、人々は絶望を顔に貼り付ける。何の加護も無く、力も無く、ただ祈りを捧げるほかない弱者の群れは、こうして地に伏せるしかない。
 惨めなものだ、と嘲笑う陰の気から目を逸らし。せめて出来ることをしたい、と奮起する陽の気にしたがって道満は先を急ぐ。
 たとえ禁忌に触れようとも、やれる誰かがやらねばならない。
 ただ、ただ――――かの、今はいない彼であればこのようなことをせずとも、ただ一言「あめよふれ」と言祝ぐだけで事足りたのだろう、という確信だけが道満の精神を強く強く焦がしていくのだった。

「……あぁ、いましたね」

 さらさら、と源泉が湧きいずるとある山の中。人が決して足を踏み入れぬ領域に立ち、道満は己の予想が間違っていなかったことに少しばかり安堵する。ただそれ以上に、畏怖にも似た高揚感と危機感に身を震わせた。
 常人を遙かに凌駕した体躯を駆けて来たが既に夜の帳が下りきり、深い闇を湛える山の中に差し込むは一条の月明かりのみ。その光を受けて輝く何かがそこにはいた。――否、居るのではない。その地に御座すものである。
「掛まくはあやに畏し御方、龍王神の一柱とお見受けいたします。拙僧、蘆屋道満なる陰陽師にて」
 それは、大樹とも見紛う大きな蛇であった。神の一柱、と呼びかけはしたが、見る限り末端の分霊が精々といったところ。月光を受け白銀に輝く鱗は龍の流れを感じはするが、見かけは蛇そのものなのも拍車をかける。
 それでも決して道満は傲らない。分霊といえど、この日の本に於いて最も信仰を捧げられている尊き神である水神に連なる存在。内に秘めたる力は如何ほどのものか。武者震いでは到底足りないほどの畏れを、一息で包み隠した。
「恐み恐みも白さく、龍王等の広き厚き御恵を辱み奉り、高き尊き神教のまにまに――――」
 説法では無く、読経でもなく、言い慣れぬ祝詞をもって言の葉を紡ぐ。袈裟姿でしかも顔は薄ら笑いを湛えているという、何かがおかしなこの状況に、さも神とて異質さを感じ取ったのか、閉ざされていた瞳が片方、僅かに開いた。
 その、刹那。
「――――」
 ごとり、と。その頭が落ちた。
 鮮血が高く舞う。地に付けた頭は甲高い叫びとあらん限りの呪詛をまき散らす。それを周囲に展開した式でいなすと、道満は血に濡れた顔で紛うことなき嘲笑を浮かべた。
「もう少しやり甲斐があるものだとばかり。神とは斯様に、脆きものでありましたか」
 実にあっけない。そう言わんばかりの裂けた笑みだった。
『――――――!!』
 蛇が吠える。人ならざる声で、世を、地を、人を。あらゆる衆生を祟る勢いのそれを、道満は懐から取り出したる一枚の形代を用いて開かれた瞳を封じ込めた。
「ンンッ! 実に良い恨み辛み。我が元で存分にふるって頂きたいものですな」
 残された片眼と、未だ血を流し河を産んでいる身体を見下ろし、道満はまた深々と笑った。
「さて……では、此方は天へとお返し致しましょうぞ。ええ、ええ! 存分に降っていただかなければ!」
 先程封をした一つ目の形代を取り出し、道満が軽く息を吹き込む。すると式は術となり形を顕した。瞳の代わりに形代が貼られた、横たわる骸と同じ姿をした赤を纏う白蛇。それは己が役目を即座に理解し、道満に構うことなく骸を銜え、天高く舞い上がった。
 いつの間にか月は姿を消し、暗雲が夜空を覆い隠している。一刻もしないうちに、この地には天から恵みが降り注ぐであろう。
 それがただの雫か、それとも紅きものかは、まだ誰も知らず。

「あなかしこ、いとはかなし、あはれなり……ンンンン、どれもしっくりきませんねェ」


 ざぁざぁ、と雨が降り注ぐ。
 恵みの雨だ、と笑いはしゃぐ童の声が遠い。京の都は雨が降ろうとも日照りが続こうと、特段変わった様子はない。
「…………」
 蘆屋道満は法師陰陽師である。人を守ることもあれば、依頼されれば害することも容易なもの。人ならざるもの――鬼や土蜘蛛などを相手取った数は知れず。
 けれども。
「……ふふ」
 零れ落ちたるは、嘲笑か、それとも――――

「おや、道満。そんなふうに濡れていてはいけないよ」

 ひょい、と。何処からか現れたのは笠を携え不敵に笑うかの陰陽師――安倍晴明である。
「帰っていたのですか。……今まで、どちらに?」
「ははは。おまえには苦労をかけたね」
 道満の問いに答える気はないようで、晴明は何を考えているのかよく分からない顔で空を見上げていた。

「いとをかし、だな」

 それは――なんという罪深き事よ、と。
 ああやはり、と道満は感嘆する。どこにいようとも、何をしようとも、彼奴は凡てを見通していると告げられたも同然だった。
 それを。
「……はて、はて。晴明殿、何と仰られた? 雨音で聞き取れませんだ」
 道満は耳を塞ぐことにした。いずれ暴かれるとしても、それが今では無いことに安堵している陽の気から目を逸らし。奴へ目にものをみせようぞ、と甘言を囁く陰の気に従って。
 道満は首を振り、濡れた髪を棚引かせた。
「ご帰郷早々ではありますが、宜しいかな? 新たに組み上げた我が式、味わっていただきたく!」
「いいだろう。ああでも、この雨が止んだらね」

 遠く、遠くで雷鳴が響く。
 それは遙か彼方で怨を叫ぶ声にも、どこかでそぞろ泣く声のようにも聞こえた。

 ――それは実に、一月ぶりの雨の日のことであった。


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