顰みに倣う
──────ばつんっ、と。
それは美しさすら感じられるほど、よく通る切断音だった。枯れ枝を切り落としたのか、はたまた、あるのかもわからない世界を支える柱が折れてしまったのか。そんな、あらゆる事象の終焉を告げるような断絶の響き。
「…………は、────」
そんな音と共に眼下で広がるあり得ざる光景を直視して、蘆屋道満はただただ呆然と、震える吐息と同時に意味のなさない音を零すばかりだった。
「せ、い……めぃ……?」
呼びかけた名は、宿敵かつ旧師。そしていつの日か、自らが撃ち落とすと定めた天上に瞬く極星であり、己が手折ると決めたこの地上に於いて最も美しく清廉なる桔梗の花。
彼の者の名を、安倍晴明。平安が京の都にて、最上級の術者と名高きその人。
そんな偉大なる、まさしく正しき義、正しき魂を持つ、そんな人が。
何故、何故。
「──────せいめェエエエエエ!!」
その美しき顔を乗せたままの首を、地に落とし転がっているのだろうか。
真っ赤に染まった視界、地を染め上げる鮮血と魔力、全身から滴り落ちる呪詛の穢れ。
安倍晴明と蘆屋道満。ともに稀代の才覚を持った陰陽師として、京の都にて名を轟かせあった者たち。ともに民草を守り、平安の世を築いた短き日々は遠く。些細な切っ掛けの後、道満は晴明から勝利を得るためにすべてを捨て、悪と断ぜられて然るべき所業に身を費やした。
そして、今宵。
その清算のためか、はたまた、一時とはいえ師弟の仲であった責任故か。一度は失敗した左大臣、そして都全土へと向けられた大呪詛。怨を湛えて安まらぬ悪霊を核とした呪詛を再び行おうと画策していた道満の元へ、突如として晴明が現れて。碌な会話も無いままに、かつて互いが
「……なぜ、だ……」
言の葉に
────安倍晴明は死んだのだ。蘆屋道満に、敗北して。
あり得ざる結末であり、愚かなる選択の結果が、ただそこにあった。
遠い、遠い、記憶の淵に揺蕩う声が響いてくる。
『おまえに、この世界の仕組みを教えましょう』
麗らかな春の日差しに目が眩み、声の主の顔はひどく朧気だった。けれど、その声色だけで誰であるか、と問う必要は皆無。己が声以上に忘れることの叶わぬ、憎々しく忌々しい、しかしどれほど荒んだ心にも深く染み渡る声が広がる。
記憶は次第に、とある過去の情景をつぶさに描き始めた。
「やぁ、道満。遅くなりましたが……おまえの問い、それに答えることにしました」
「晴明殿──」
にこり、と細めた瞳に笑みの形を浮かべたその人は、安倍晴明。屋敷の部屋から顔を出して己を──蘆屋道満を見下ろしている。そこには二つの壁があることを示すように。
身分と、実力。二つの、大きすぎる壁が透けて見えた気がして、密かに唇を噛む。
はるばる故郷の地から京の都までやってきて、かの名高き陰陽師に術比べを申し込んだのがつい先日のような出来事として記憶に刻まれている。少なくとも数ヶ月は経っていたはずだが、なお色褪せず脳裏に深く息づいていた。せめてその顔を拝まなくなれば、忘れることは出来ずとも片隅に追いやるくらいは許されたかもしれない。
しかし。
何を考えたのか、晴明は負けた衝撃に立ち竦む道満に向かって、狐のような笑みを浮かべたまま手を差し伸べた。
『素晴らしい術式でした。ええ、なので────蘆屋道満。私の弟子になりなさい』
なんて。まるで新しい遊びを見つけた童のような声で、晴明は告げたのだ。
敗者に選ぶ権利なぞあるはずもなく。あっという間に道満は晴明の弟子という立場に収まり、いつの間にか晴明の屋敷に連れて行かれ、気が付いた頃には彼の後ろをついて回るようになっていた。
晴明の偉大さに己の頭は下がっていくばかり──ではなく。最初こそ呆然としたものの、むしろ打ち勝つ手立てを探る良い機会だと思うことに落ち着いた。独学では何事にも限界があることにも薄々気づいていたのも事実で、晴明はそれすら見通していたのかもしれない。弟子という立場は思いの外に便利なもので、晴明だけでなく彼の仕事場である陰陽寮に残された数々の希少な資料を思う存分手に取ることが出来たのは僥倖だった。
そんな最中。すでに慣れてしまった晴明の背中を見つめながら、ふとした疑問が道満の口を動かしたのだ。
「晴明殿は、なにゆえ都を、民を────否。
自分のことながら、漠然とした問いだったと後悔はすでに遅く。道満のよく通る声は、間違いなく晴明の耳に届いた。なにせ都中に式神やらで耳を張り巡らせているような人である。晴明自身の耳には入らずとも、こうして言の葉として空に投げかけてしまったが最後。いずれ彼の元には届いていただろう問い。
しかし、それはきっと。触れてはならぬものだったのだ、と気づいたのは。
「……………………」
晴明が道満を振り向き、そして、無の表情と視線を返してきたからだ。
「────ッ!」
晴明は、基本的に美しく整った顔に狐目で笑みを浮かべていることが多い。口調や声色はある程度、話の内容によって変化するが表情だけはそうそう変わることはなかった。笑みを深めてケタケタ笑うことはあれど、怒りや悲しみといった感情を表に出す姿は見たことがない。表に出さないだけで感情そのものはある、といつか本人が云っていたが、それすらも三日月のような笑みの上であった。人ならざるモノの血を引き、持てる力も向こう側に近しい存在だと云われずとも気配で判っている道満は、おそらく取り繕うのが面倒なのだろうな、と察していた。笑っていれば大半のことは流れていく。仮にも貴族であれば、それは処世術といっても偽りないことだろう。
そんな晴明が、いま。まるで朔の夜のように凪いだ顔をしている。それを真正面から見た道満は息を呑み、そして同時に、己の浅慮さを恥じるほかなかった。
「晴明殿……いえ、なんでもありませぬ」
それはきっと、触れてはならないところだったのだろう。焦って謝罪の言の葉を口にしたが、視線を下げたまま晴明と向き合えない。もう一度あの、ゾッとする視線に射抜かれたとしたら、道満は情けなくも恐怖を覚えてしまう予感があった。
晴明の弟子となり、彼の仕事ぶりを見てきた。守るべきモノの多さ、頼りとするモノの多さを知った。都を覆い守る結界、それほどまでに大きな術を常時維持する凄まじさに途方に暮れかけた。
しかし、その背を見つめて。漠然とした、けれども確信めいた疑問が浮かんだのはいつからか。思いの外、早かったかもしれない。
安倍晴明は守護するモノである。請われ、願われ、求められたものを平等に。けれど、彼がその実、守護の対象にしているのは個々の存在などではなく────ただ一つ。誰もが知ることを夢見ながら叶うことのない、不確かな時の流れの行き先。
人々が明日の先、と呼ぶもの。
彼はその双眸に類まれなる力を宿す者だった。明日の先に起こりうる事象の光景が浮かぶ、と告げた晴明の瞳には星の輝きにも似た魔の光が灯っている様を道満は見ていた。不思議なことを呟いたかと思えば、数日後にはそれが
それらすべてが、いまこの都に住まう無辜の民草のためか────それは、否である。
「…………明日の先、とは。途方も無いところでしょうに」
今の世では貴族であれ、平民であれ。明日以降の命に確約が出来ない。神の気配は遠くとも残滓は強く、化生は夜に満ち満ちており、呪詛や怨霊が蔓延っている。人々が生きようと足掻けども、僅かな切っ掛けで転がり落ちるほどに黄泉路はすぐ横にあるのが常だ。優れた術士である道満ですら、自身の命運を定めることは難しい。並大抵のことなら跳ね除ける自信はあれど、この生命の存続を断言することは叶わない。
だからこそ、明日よりも今日を生き抜くことを。今日を無事に終えることが出来たならば、明日の行方を。人々が考えることはそういったことばかりだ。明日より先の出来事なぞ、自分が生きているかもわからない時のことなど考えても意味のないものなのだ。
それなのに、彼は――安倍晴明は。
「識る者故の責務、とでも云いましょうか」
そう、貼り付けた笑みの上に心にも無い言の葉を放った。
「……しかし。おまえがこの返答に納得がいかないであろうことも判ります。ただ、まァ。説明するには難しいのも事実です」
「それは、拙僧は知る必要のないこと──だと、そういう意味でしょうか」
狐目が細められるのを見て、道満は幾度目かも数えたくない、晴明との間に立ち塞がる壁の存在を意識せざるを得なかった。多くを持たざる者である道満は、高く分厚く堅牢なるその壁を見上げて唇を噛み締め続けることしか出来ないのだと、言外に告げられたような錯覚に眩む。
「あー……いや。待ちなさい道満。いましばし、時間をください。おまえが納得できる理由を示しますから」
道満の内心を読み取ったのか、珍しいことに晴明は待ったをかける。予想外の反応に思わず目を瞬かせた。
「は────これは、珍しきこと。晴明殿が先延ばしを望むなどと」
明日は槍が降るのではないか、と。道満は咄嗟に懐へと指を差し入れて、隠し持っていた式盤に触れる。槍はともかく、天変地異の前触れの可能性は大いにあるだろう、と万象へ伺いを立てる手筈を整えていく。まだ陽は高いので星見は出来ないが。
「今夜は眠る余裕もなさそうですな。はてさて、どれほどの凶星があることか……」
「いやいや道満。流石にその反応は私でも傷つきます。いえ、傷つきませんけれども!」
心にもないであろう言の葉であったが、少しばかり焦った様子の晴明。そして互いに照らし合わせたわけでもないのに淀みなく進んだ会話。
それらに対し、ふと。
「…………っく、ふふふ……ふはははは!」
どちらの口から零れ落ちたのか、笑いの声が高く遠くまで響き渡った。
そんな春の陽気に誘われたようなやり取りの数日後の夜。
「────あの時の返答を。おまえの問いに、答えましょう」
月のない夜だった。空には満天が満ち満ちて、陰に蠢くモノ達の気配が漂う。それでも、その夜は静寂を許していた。遠くから伺う視線はあれど、その姿はとんと見せることなく。
星明かり降り注ぐ庭に立つその姿を見つめながら、道満はまるで異界に紛れ込んでしまったような錯覚と共に思案する。普段であれば化生が活発化するか、野盗の数人が暴れていてもおかしくない頃合い。名も実力もある晴明や道満であれば、こんな日は陰陽寮の依頼に明け暮れるか、もしくは貴族に呼ばれ警護やら祓えやらに追われている。それが二人揃い、あまつさえこうして星の元にある。
だからこそ、彼は──晴明はこの日を選んだのだろうと。
「星影が良い頃合いです。道満……よく見ていなさい。おまえに、この世界の仕組みを教えましょう」
見開いた晴明の双眸に、無数の灯火が揺らめく。小さな光、そのひとつひとつが明日の先を示すというならば、彼の瞳にはどれほどの数の情景が映っているのだろうか、と。息を吸う間もなく道満は晴明の動きに意識を飲み込まれていく。
「まずは初歩的なことを問いましょう。道満、おまえはどうして今宵、この場に立っているのですか?」
「…………それは、貴方が拙僧を呼んだからでしょう」
当たり前のことを何故、と咄嗟に過ぎった思考を口にはせず、極めて慎重かつ間違いがないように言の葉を選んで返す。こうして晴明が問う意味、そしてそれが如何に先日の道満が口にした疑問の返答となるのか。一見、関係ない事柄であろうとも、晴明に限って無意味で無駄な会話など有り得ないのだから。
道満の答えに晴明は口角を上げる。
「そうでしょうとも。しかし、おまえにはそれを断るという選択もあり得た。断らずとも、直前になってやめました──と云って逃げ出すのは得意でしょう?」
「逃げるとは心外な」
しかしその言の葉すべてを否定はできなかった。道満は弟子とはいえ、晴明のすべてを受け入れ肯定するような人ではない。気に食わなければ術比べとともに異議を唱えることは珍しくなく、その上、晴明は自らが把握していることをあまり口に出さない。あまりにも理不尽なことを云われると、反発心からあえて逆の行動を取ったりすることも稀にあった。最も、そういったことをした後は大抵が〝やはりあの時、晴明の云う通りにしていれば良かった〟と後悔することになるのだが。
「ふふ。そう……つまり道満、おまえには私の云う通りに〝来る〟または〝来ない〟という二つの選択肢の末に〝来る〟方を選び取った。そういった選択は常に存在している────そこまでは判りますね?」
「……ええ。故に、明日の先は不明瞭なのでしょう?」
この世は数多の選択がある。何を為すのか、何処へ行くのか、何時に行うのか。選択が無い、ということは有り得ない。選択が狭められることは多々あれど、選ぶのは己の意思に他ならず。今ここで道満が晴明の言の葉に耳を傾けているのも、彼の声を聴くという選択を選んだからだ。そしてそれを受け入れたままでも、すぐに踵を返してこの場を立ち去るという選択も常に残っている。
だからこそ明日の先は、足先を踏み入れるその瞬間まで形を持たない。どうなるか、どの選択を選んだかが定まるまで、常人には存在すら感じ取ることが出来ない地なのだ。
しかし、晴明の双眸には不確かな明日の先が映る。その全てが
「いいでしょう。では────おまえがこれまで歩んできた過去、そして現在までの道程は決して一本ではないことは理解できますね」
そう晴明が告げると同時に、彼の足元から夜空を溶かし込んだような色合いをした一本の大樹が生えていく。大地から何本か幹が伸びた低樹のようで、更に複数に枝分かれしているがそれぞれが天上の星を目指さんと上へと広がっていた。わずかに樹を挟んで向こうの様子が見て取れることから、それが半透明で実体を持たないモノ──おそらく術を用いた幻影のようなものだと道満は読み取る。まるで天の川を写し取ったかのように星明かりを放ち輝くその樹からは危険な気配などは特にない。しかし、どことなく背筋に悪寒のような、底なしの沼を覗き込んでしまったかのような寒気が走り抜け、道満は思わず片足を半歩ほど後ろに下げ無意識のうちに指先は呪符へと触れていた。
「この世を一本の樹に喩えましょう。この樹は根から無数に枝や葉が分かれしていますね。それらひとつひとつが、我々が選んできた選択の先を示します。そしてここを、この分岐がおまえが此処に来ることを選んだ枝と、選ばなかった枝の分かれ目とします」
晴明は道満の様子に気を使うことなく、生い茂る夜空の樹のある一点、比較的太めな枝から分岐した最初の枝の付け根を指差した。
「天空が明日の先だと仮定して、この分岐の時点ではまだどちらの枝も空を目指し伸びていますね。当然ながら、大半の選択というのはそこまで差異を生むものではありません」
「それはそうでしょう」
たった一人の人間の些細な選択なぞ、この世の行く末を定めるようなものにはなり得ない。もちろん力ある術者であれば言霊や呪詛の結果により万が一、ということもあり得るかもしれないが、それでも大多数の存在に影響を与えるような選択に繋がるとは想像できない。
しかし、と。晴明の声色が低くなる。
「人間とは、命ある存在とは……選択を違えるモノだ。ひとつひとつは小さくとも、それが幾度となく繰り返されれば────」
晴明が指差した分岐から、分かれ、別れ、解れて。ひとつの枝が随分と横向きに、遠くまで伸びていた。上を目指すべき葉先は伸びすぎた自らの重みによって下を、地を向いていた。
晴明に云われずともわかる。あの枝には先が無い。このまま枝葉を伸ばし分かれても、地に落ちていくだけであるのが誰もが悟るだろう。
「さて、道満。おまえがこの樹を管理する立場にあると仮定して、より長く、より強くこの樹を育てていくためには、この枝を――――どうしますか?」
「それは…………他の枝に影響が無い部分より切り落とす、しか」
先がないものを生かしておいても利点は無い。それどころか他の見込みある枝葉を道連れに、樹そのものすら駄目になる可能性もある。それを防ぐにはやはり、道満が言ったとおり異なる路を進む枝を切り落とすのが最善だろう。
「そのとおりです。ならば私が云いたいことも理解できるでしょう? この世は、明日の先とは不確か故にあらゆる可能性を秘める。しかし、誰もが実りある明日を望んでいるとしても……何処かで選択を
ひとつふたつの選択でこの世は変わらなくとも、間違え続けた先に待ち受けるものは先を失った世界。はじめから確定された、約束された繁栄などは無く。
「この世は無数に枝分かれしていきながら、どこかで選び、選ばれ――――明日の先に希望なしだと決定づけられてしまった枝を剪定しているのです。より良き、より永く、より可能性を秘めた世を残すために」
「…………」
ならば、と。
いま立っているこの地は、この世はいったい、何度間違った選択を取ったのだろうか。あと幾つ、間違いを許容できるのだろうか。それとも、もしや──すでに先を、明日の先を失っているのだろうか。知り得ない道満では、わかるはずもなく。
「……安心なさい。そうならないための、私がいます」
背筋が凍るような想像の沼に沈み込みかけた道満へ、晴明が凛と澄んだ声をかける。目が覚めるような、救いの手を差し伸べられたかのような声に導かれるように、道満の視線は晴明の双眸を捉えた。
そこには、すべてが輝かしい光を放つ星々の灯火が瞬くのが視える。
「私は明日の先に起こりうる事象を識る術がある。故に、最悪となる選択を、人々が謬った道へと進む足を留めることができます。そのために私がいるのです」
晴明は人を守るのではない。都を守るのではない。いずれ至るべき明日の先、不確かでありながら誰もが向かうべき遥か道筋を守るのだと。それこそが道満への問いの返答だと晴明は語る。
「そう。遙かなる先、いまこうして語らう人は居らず。しかし、叶うことならば――私は、私が親しみを感じる者たちの面影を残した存在が安らかに生きられる世であることを望んでいます。そのためにも、悪しき選択の芽を摘み取り、良き明日を目指すのです」
それこそが自らの責務であると、晴明はなんの疑念も葛藤もなく告げるのだった。
それでも、と。
星々の光を受けてなお輝く双眸を道満に向け、笑みを浮かべる晴明の表情は今までに見たことがないもので。続く言の葉は深く、深く道満の記憶に根を下ろしていくかのようだった。
「人は違えるモノであると云いましたね。そして、私はこれでも人でありたいと願うモノでもあるのです。だから…………いつの日か、
らしからぬ言の葉を告げた晴明は、いつもの貼り付けたような笑みではなく、自身の内側から零れ落ちたような一輪の野花の笑みを浮かべていた。
――――――ごろり、と。
土にまみれた頭蓋が無感情に足下まで転がってくる様子を、道満はその眼に焼き付けるかの如く眺めていることしか出来なかった。
「…………」
かの美しき顔が、星の灯火を宿した瞳が、滑らかに言の葉を紡いだ唇が、大地と接してなお動くことなく起き上がる兆しすら見せない。その様子は、道満にとってあまりにも現実味がなく、むしろ道満の油断を狙った晴明による幻術だと云われる方が余程納得がいく事態であった。
「せい、めい」
幾度目かの名を呼ぶ行為は、無意味に音を宙に放つばかり。術者であればそうせずとも理解できるはずだった。転がる頭部にも、遠くで崩れ落ちた身体にも、そしてここ一帯どこまでを見渡しても。彼の息吹は存在せず。
かの人物は、その命をすでに終えているのだと。
理解も納得も出来ぬまま、道満は忘我に支配された思考で名を呼び続けていた。
「…………」
不意に、道満は震えが残るその腕を伸ばした。意志あってのものではなく、ただ単純な反射のように、足下にまで転がってきた其れへと手が伸びる。
確かめなければならない、と遠い意識の向こうから声が響くようだった。触れれば、もしや、と。もしやこれは精巧に作られた式神で、気づいた道満を笑う晴明がひょっこり姿を現すかも、等と。
そんな愚昧なる思考は。
「――――――…………」
拾い上げた頭蓋の軽さに、否が応でも思い知らされた。
人の亡骸を拾い上げたのは初めてではない。それこそ幼少の頃から慣れ親しんだ、と云ってもいい程に繰り返した行為だった。生きるため、呪いのため、そして生死を確かめるため。理由は幾つかあったが、無数に繰り返した結果で知り得たことがある。
人間は死ぬと、その重さが変わるのだ。
僅かといっていい変化であったが、まるで魂に重量があるのではないかと思わせるように、少しだけ軽くなる。元の重さを識らずとも、抱えた際の感覚で判ってしまうのだ。この頭蓋には、肉体には、既に魂が残されていないという実感を。
「……せい…………めい」
くるり、と両の掌の中に収まった彼の顔を回す。指通りの良い髪、血の気が引き青白くなった肌を通り過ぎ、とある一点で止まる。そこには、落下の衝撃か転がった際に傷ついたのか、あの美しき火を宿した瞳、その片方が潰れて血が滴っていた。
それを見て、道満は。
『――――だから……いつの日か、私は選択を間違えるでしょう』
追憶から齎された言の葉が鮮明に蘇り、そして。
「…………晴明殿は、
すべてを、そう、理解した。
かつて彼自身が告げた、その言の葉の意味を、本意を、結末を。いまこの瞬間のことだと、ようやく道満は気がついたのだ。
「ええ、ええ! そうでしょうとも!! そうでなくてはこの状況はあり得ざること!! 何故、何故――――
あの追憶の刹那から時は随分と流れ、いつの日か道満は遂に都へ、無辜の民へ、そして晴明へと全霊をかけた呪詛を放った。そうまでしなくては晴明に勝てなかったからだ。否、そうまでしても勝てなかったのだが。それでも、道満は決して理性のすべてを手放したわけではない。むしろ己が行うことが外道であり、道理に背いた報いを受けることなども承知の上で呪った。
故に。大呪詛を返された後、故郷たる播磨の地にて。晴明が来た、と知った時に道満の脳裏に浮かんだのは、罪過の制裁のために己の首を獲りに来たのだ、という確信だった。
この世に生きる人間、化生、神。どれもが劣るであろう程に、清く正しい魂の輝きを持つ者――――それこそが安倍晴明。
彼が罪を犯した道満の元に現れるなど、それ以外に考えられない。
しかし。
――――――ぼたり、ぼたり、と。
血が滴り落ちる。潰れた片目より流れ、頬を支える道満の掌を穢し、大地へと真っ直ぐに落ちていく。眼だけではない。切断面たる首や、頭皮も無数の傷が付き、赤黒い雫が溢れていた。
こんな無様な姿に、かの安倍晴明が、なるはずがない。
「…………それは、その姿は、儂が成るべきモノだ――――ッ!」
こんな結末が許されるはずがない、と。道満は天高く吠え立てた。
方や、正しい魂を持ち都で人々を守護する者。方や、外道に堕ち都を人々ごと呪いし者。
どちらが生き残り、どちらが首を落とされるか。誰に尋ねたところで返ってくる答えなど決まっている。当人たる道満ですら、そんな当たり前のこと云われるまでもなく、むしろ誰よりもそれを理解していた。
しかし。目の前に横たわる現実が、それを否定する。骸を晒し、落ちた頭は道満の手の中に収まり、星の灯火を映す双璧は欠けてしまった。
「何故、何故なのですか? なぜ貴方は、こんなにも簡単な選択を謬ったのです!?」
晴明は自らが選択を違えることを識っていたのだろう。追憶した情景でのやりとりがそれを道満へと告げている。明日の先、いまこの光景を視たのだろうか。問いただそうにも骸と化した頭からは血が滴る音しかしない。
誰よりも正しく強く美しいはずの、安倍晴明。その魂を誰よりも妬み、恨み、羨んでいた蘆屋道満。二人の命を賭した術比べは、最期まで晴明の勝利に終わるはずだった。童でも判るような単純明快なおとぎ話のように。悪しきモノは首を刎ねられ、善なりしモノは次なる悪を討つ。なべてこの世はこともなし。そんな筋書き、そんな明日へと続く枝葉が天へと伸び育つべきだったのだ。
それなのに、これでは。
「これでは、このままでは――――――この世は、どうなるのですか……?」
ぽつり、と零れ落ちた疑問。
化生が蔓延り神の息吹が色濃く残る当世は、人の持ちうる力だけで真っ直ぐに前へと進み続けられるものではない。晴明は、そんな混迷の世を人の世に導くための存在だった。明日の先を識る者として、悪しき選択を摘み取り良き明日を目指すために人々を導いてきた。それはまるで、見上げた夜空に変わらず輝き続ける極星の如く。
けれど、その導き手を唐突に失い、同時に先を視て識る術をも失った。そんなこの世は、いま足を着ける選択の枝は、はたして、明日の先を目指し育つことが出来るのか。それとも既に、地へと失墜してくだけの先を失った枝なのか。それを確かめる手立ては無い。
漠然と、しかし背後まで迫り来ているような恐ろしき思考の影の存在に気づきかけた、その時。
――――――ぎ、ぎぎぎぃぃいいいいい、と。
突如、道満の耳に異音が轟いた。
それはまるで、世界が軋み悲鳴を上げたかのような、痛々しき破音。
「――――ッ!」
道満は咄嗟に視点を、音がした方角である天空へと向けた。そこには凄惨な光景が広がる大地とは打って変わり、相も変わらぬ無数の星々が揺蕩う暗闇があった。
しかし、その変わらぬはずの星空が、刹那に。
――――――ぐわん、と。
大きく
「………………ぁ」
それはともすれば、魔力や気力の消耗による眩暈のようなものだったのかもしれない。あるいは、長い柳の枝が視界を遮ったのをそう錯覚させただけなのかもしれない。
しかし、道満はその現象を――選択を謬った末の、剪定の前触れだと認識してしまった。
この世は、人は、晴明は、決定的な過ちを犯したのだ、と。
声なき声にそう宣告されたも同然だと、道満の精神に深く深く染み渡る。
そして。
『その時は、道満────
強く、強く、強く。その言の葉は脳裏に反響した。
「…………――――――あ」
道満は己の掌を見る。そこには、すべてがあった。
人ならざる力を持つ、当世の守護者たる存在。対を欠くも、明日の先を視る魔を宿した瞳。そして、そんな相手とつい先ほどまで相対していた卓越なる術者のひとり。
安倍晴明は死んだ。しかし、蘆屋道満はまだ生きている。
「そして……それが、その事実が――――
見下ろしたかの頭は、血の気を失い青ざめて。閉ざされた片目から流れ落ちていた血の雫は冷え固まり跡を残すばかり。それでも、まだ。その美しさに陰りは無い。
「……まるで、月影の如しかな」
星は人に道を示し、陽は
ならばこの頭蓋も、然り。
「ンンン……ふふ、フフフははハハハハハハ――――!」
道満は残酷なまでに美しき笑みを湛えた。これから自身が行おうとしていることに対してか、それとも選択を謬った晴明に対してなのか。どちらにせよ、笑わずにはいられなかったからだ。
ぎぃぎぃ、と世界が軋みをあげる音がする。
それは風の悪戯かもしれない。気性の荒い獣の唸り声かもしれない。けれども、いまこの場に立っている道満にとっては、それが終焉の始まりだと感じ取った。
だからこそ。
「ええ、ええ。佳いでしょう……お役目、頂戴いたしまする」
誰に命じられたわけでもなく、道満はひとり。
自らの行く末を、無数の選択の枝の中から選び取った。それがどれほど残酷で、愚案で、あらゆる尊厳を踏みにじるものだと識ってなお。
「晴明殿がお選びになったこの世、この枝葉を、そして――――――」
道満は恭しく、掌の中にある頭を自らの視線へと持ち上げた。このまま髑髏となる様を眺めていたいと囁く内なる声を振りほどき、血の跡が無い瞳へと口づけを落とす。
「……ご案じ召されよ。この世は永く、永くまで続きますとも。たとえそれが、貴方様の望んだ世ではなくとも」
それを承知で拙僧へと頼んだのでしょう、と。
道満は笑いながら、ひやりと冷たい瞼を唇で開いた。
京の都にて、藤原道長は一報を受けた。
『
晴明が京を発って、早一月あまり経過していた。
ようやくか、と道長は呟くように告げる。晴明が本気でかかればもう少し早く帰ってこれただろうと事実と、そうしなかったであろう憶測が同時に思い浮かび、その両方を振り払った。それは当人が選択すべきことであり、外野である者が容易に触れていいところではない。
「帰ってきたのであれば、それでいい」
帰還しない、という選択もあっただろう。晴明が京を離れる前、似たようなことを囁いていたのを知っている。それを選ばず、帰ってきただけで十分だと道長は認めた。
「……否。一度は顔を見せよ、と」
伝令に言の葉を託し、道長は待つことにした。あれが内心はどうであれ、少なくとも表面上は常と変わらぬ狐のような顔で来るはずだ。
帰還したのが
「御用命ですか、藤原道長殿」
そうして内裏に恭しくも現れたその人は。
「…………貴様」
道長の口から零れたのは、驚愕や恐怖だけではない。どこか納得したような響きが含まれていた。
「蘆――――」
「いけませぬ、道長殿。それは
そう笑うのは、以前垣間見た際よりも多くを逸脱しているように感じる人物だった。
陰陽の入り交じる長き髪を棚引かせ、呪詛を編み込み獣の如く伸びた爪先に、鍛え抜かれた凄絶なる肉体に袈裟を纏う。顔は魔性のそれに似た、性差を感じさせぬ美の顕現のようで見た者を少なからず惑わす性質が滲んでいた。唯一、道長の知る姿と異なるのは、顔の半分を覆い隠すような前髪の存在だろう。対となるはずの黒曜石の如く深い黒の瞳が隠されているようだった。
誰が見ても、安倍晴明ではない――――そう言いたげな口元はしかし、否定の言の葉を紡げずにいた。おそらく何らかの認識に対する呪詛がかかっているのか、どちらもよく知る道長だからこそ違和感を抱けるが、関わりの少ない者がいま目の前の人物を見たならば〝彼こそ安倍晴明である〟という認識から逃れられぬだろう。
「奴は、どうしたのだ」
努めて冷静に道長は問うた。
「死にましたよ。道長殿を含め、多くの貴族や民衆の望むがままに。悪しきは断ぜられるが世の決まりでしょう?」
くすり、と目の前の者は笑う。
道長を、京の都全土を呪った術者を流刑に処した後、遠き地で再び呪詛の気配がある、と進言した晴明。それを受けた貴族の大半は、かの術者の首を獲るよう声高々と醜く叫んだ。それに責任をとる、と自ら手を上げたのも晴明である。奴が打ち損じた、とは考えにかった。想定外のことが起こったのか、はたまた――あるいは、すべて。あの狐顔の下でこれを狙い澄ましていたのだろうか、と。
「ほぅ…………それで、それは――
晴明が死んだのは理解した道長は、次なる疑念に切り込んだ。顰みに倣う――何故、わざわざ悪趣味な呪詛を纏ってまで〝安倍晴明〟を名乗るのか。ただの猿真似にしては手が込み入りすぎている。
晴明に打ち勝ったのであれば、それこそ自らの名を堂々と名乗ればいい。歴史を塗り替える盛大な出来事になるだろう。それを求めて、何度も晴明に術比べを挑んでいた過去を知っている道長だからこそ、彼のいまの振る舞いは不審でしかなかった。
そんな疑惑の眼差しを受けた彼は、まるで道化のように大きく腕を振り笑う。
「これはこれは、道長殿もお人が悪い! 何かおかしなところがありますでしょうか? せ――ンンッ……私こそ〝日ノ本一の術者〟であり――――」
これまで二番手という立場から抜け出せなかった彼は、一番手を欠いたことで望まぬままに繰り上がってしまった。確かに、いまこの世に於いて最も優れた術者である、という評価は妥当なものだろう。
そして。
「〝明日の先を視る力を持つ瞳〟があり――――」
すぅっと、これまで閉ざされていたままの片目が開かれる。そこには。
黒曜石の瞳――ではない。
「そして〝誰よりもこの世が永く続くことを望んでいる者〟でございますれば――――」
「それは、もう。ええ、ええ!
そう、道化が笑っていた。
世界が明日の先を臨むため、あの時、あの瞬間、あの地にて、死んだのは〝蘆屋道満〟であり生き残ったのは〝安倍晴明〟でなければならない。それが正しき道筋、正しき歴史であると。
彼はそう、世界の仕組みを読み解いた。
故に。
「終わらせなどさせませぬ。この世には、私には、必ずやり遂げなければならない事柄がありますので。そのために――――道長殿、この平安の世を永く、永く、永く。幾千年と続かせましょうぞ! そのために京へ戻ってきたのです。そのために私は〝安倍晴明〟と成ったのですから」
そう、高らかに告げるのを、道長は見届けた。
「……剪定の音は聞こえぬ。この選択の枝は持ち直したのだろう。…………しかし」
時間はいくらあっても足りないのだ、と安倍晴明を名乗る者は思案する。
かつては師と仰いだ者、今は己が役割を引き継いだ者の工房へ足を踏み入れる。拒絶は無く、代わりに歓迎もされない。魔眼を埋め込み、時間をかけて魔力の波長を整えた結果として多くの認識を歪めることに成功した。だが完全にそのすべてを掌握できたわけでは無く、式神や術式の一部はまだ彼を安倍晴明として認めていないのだろう。
「いずれ必要になるであろうモノ以外は切り捨て……いえ、奴ならば…………」
必死に、必死に。過去の影を思い返し、倣う。そうでなければ、いつ誰かが気づくかもしれない。そうなればまた、この選択は謬りであると総意が下されるかもしれない。
「ああ、いけない。そんな……
星の瞳と黒曜石の瞳があるその顔に浮かぶのは、残酷なまでに美しき笑み。上等な甘味を頬張る寸前のような恍惚とした表情で、彼はこの世の仕組みを嘲った。
「だって、そうでしょう? 安倍晴明が間違えた、だなんて。あってはならぬことです。その事実こそが謬りであり――――それを許容した、この世すべてが罪なのです」
それは彼が、この――安倍晴明という役割を引き受けた、本当の理由。
「だからこそ――――
明日の先は幾重にも分かれていくが、昨日の前は過ぎ去り不変となる。ただの事実として枝となり、次なる明日の先駆けとなる。
それを覆すべく、彼は。
「その方法を編み出すまで、私は〝安倍晴明〟であり続けましょう。この世を末永く続けましょう。明日の先を識り、悪しき芽を摘み、善き人々を守りましょうぞ」
欠けた瞳に映りゆく明日の先の情景。それらをつぶさに視て、選び、道を示す。たとえそれが、かつての選択の存在を抹消し、世界を滅ぼす為でありながら。
それはまさに、かの導き手――安倍晴明の顰みに倣う、ということに違いなく。
「ねェ、晴明殿。貴方の選択は…………これで」
続く言の葉は、明日の先という名の闇へと解け落ちた。