かみへぐい

 心の臓から怨嗟が溢れ出そうだった。
 鬱蒼とした山道をおぼつかない足取りで進む。数日前までは綺麗に整えられていた袈裟は既に幾度も枝葉に取られ裂かれ、もはや元の姿を残す部位はほぼ無く。返された呪いが食い込んでおり身を焦がしていくのを抑えるため、ありったけの呪符を貼った左胸付近以外、上半身は何も纏っていないに近しかった。見事に緑がかっていた髪も手入れを忘れられた後のようで、持ち主の精神状況を表すかの如く逆立ち渦巻き、後ろ姿は毛皮にも映る。
 まさに、手負いの獣。かの安倍晴明――その向こうを張った、かの蘆屋道満。その人である、と彼を知る者であれど即答出来ぬほど変わった姿であった。
「……おのれ、おのれ……!」
 零れ落ちる言は多大な怨と、灼熱を帯びた、そして変性しつつある狂の一端。既に人の領域は過ぎ去り、しかし鬼や化生の類いとは相容れぬ、人でありながら人ならざるモノへその身を堕としている。
 そして、それを呆気なくも暴かれて。

『――――汝を、流刑と処す』

 告げられた判決は、惨めであると取るか、温情と受けるべきか、それともただの屈辱であったのか。
「……ッ! 晴明、せいめいぃいい!」
 獣のように叫ぶは、怨敵であり宿敵の名。他の名などとうに目に入らず、ただただ道満をこうまで追い詰めた相手の名を叫び、届かぬと知ってなお呪を放つことしか、もうその魂には残っていなかった。
 人を呪わば穴二つ――その言葉通り呪術を行使するということは即ち、相手だけでなく自分自身にも返ってくるもの。相手が呪詛返しをしたかどうかは関係なく、人を物を化生を、多くの存在を呪うということは同じだけ己を呪うということ。それまでにも幾度とならず依頼されれば害ある術を唱え、人のため世のためにと鬼や化生を払う呪を使い、そして――絶対的な存在へ挑み続けるため数多の術式を修めた。
 引き金はかの左大臣、藤原顕光に依頼された藤原道長への呪だったとしても、それ以前に道満の精神は限界を迎えつつあったのだ。誰も、周りも、本人すら気付かぬうちに。
「は、ははは……は――――う、ぐっ……」
 ぐさり、と左胸に杭が穿たれるような錯覚。全身から血の気が引き、勝手に膝が地へ叩きつけられた。失血によるものではない。京の都へと向けた呪いを返されたのだ、むしろこの程度で済んでいるのが可笑しなぐらいだった。だが返された際、別の術式も組み込まれたのにも気付いていた。本来であれば一刻も早く解術すべきだったが、その暇すら疎ましいと思うほど思考は怨と仇で埋め尽くされている。壊れかけた身体なぞよりも、どうすれば一矢報いることが出来るのか。幾度、もはや千はくだらない程に繰り返された問いへ、答えは未だに届かず。
「ぐ、ぁ…………ン、ンンンンンンッフフハハハハ――――!」
 思わず咆えた。なんと浅ましき、辱らしき、罪深き醜態を曝しているのだ、と。己を揶揄嘲弄するように。今までの分も、これからの分まで。
 この身に残された時間は僅かであった。心の臓付近に打ち込まれた呪詛は、気を抜けば即座に道満の命を貪るだろう。そうでなくとも、京にて晴明に勝つため得た術の一部はその代償を明日の先から借り受けたものもある。迫り来る命の終焉へ向けて、取り立てるように道満を削っていくだろう。別に惜しくは無いのだが、まだその時を迎える訳にはいかない。
 だってまだ、伸ばした手には何も握られていないのだから。
「は、ぁ――――」
 昂ぶる精神を押し殺すように息を吐く。思考を切り替えるため、という意味合いもあるが、道満の呼吸は凡百のソレとは少しばかり乖離したものだった。生まれつきその身体に陰陽を〝等しく〟持ち合わせており、それは脈打つ心の臓と同じく一呼吸ごとにくるりくるり、と円を描く。ひとつ吐いては全身を巡り、ふたつ吐けば満ち満ちて、みたり吐けば髪が揺らめくほどの力となる。偶然の産物でありながら驚くほど完成された、陰陽太極図を体現する身。それが只人であった道満が半妖たる晴明に食らいつけていた理由のひとつであった。
「はぁっ、は――――」
 呼吸を重ねていく。滾々と湧き出る水源の如く、陰と陽は流転で円環を導き出す。全霊をかけた呪詛によって失われた魔力、そして今なお身体を苛む返呪を誤魔化す力。その両方を除いても多少余裕が出来る程度まで戻ってきた。
「ああ……どうしてくれようか。次はどのような呪詛を編むべきか」
 落ち着きを取り戻して即、思考は次の手段へと向かっていた。壊れた精神は力では戻らないことを示唆するように。それでも、追い詰められたあの時よりはずっと理性的で。罪悪感だとか、後悔だとか、そんな綺麗な感情なぞはとうに失われていたが。
 それでも。

 ――――――んぎゃあぁ、あぅー……

「…………子供?」
 この場に最も相応しくないモノの存在に思わず足を止めてしまう程度には、道満はまだ正気の縁にいたのだった。



***




 険しき山の直中に響く、嬰児の泣き声。木々をわけ入り、遠くから聞こえる声の方へと道満は進んでいた。引き寄せられる、というよりは好奇心に従うように。
 その子は、流れる川へ伸び出した巨木の根に引っ掛かっていた。編み込まれた籠の中で、必死に己が存在を誇示しようと力の限り泣き叫んでいる。上流から流れてきたのか、はたまたこの付近で投げ捨てられ、それを偶然にも受け止められて今まで生き延びてきたのだろうか。
「ああ、なんとお労しきこと」
 捨て子だろうか。そうに違いない。その子供を見つけ、道満は口角が上がっていくのを止められなかった。誰の、どんな謂われがあるとも分からない子供なぞ、どう扱っても構わないだろう。咎めるような存在がいるのであればこんな場所で泣き叫んでなどいなかったはずだ。子供を、嬰児を用いた呪術も当然ながらある。しかも生きた状態で出逢えるとはなんと幸運なことだろう。生あるモノに僅かな希望を見せ、そして手にする寸前に死を与える。そうすれば全ての本能衝動感情を一点に集結し際立たせたモノが生まれ落ちるのだ。それはまさに怨の一文字と化した素晴らしき呪物へと変性する。
「ンン――さて、さて。お前はどれほどの呪詛へ成ってくれるか」
 沸き立つ興奮のまま、黒く染まり鉤爪のようになった指先を伸ばす。まだ、まだ傷つけるわけにはいかない。絶望の手前、まずは希望を与なければ、と道満は細心の注意を払った。肌には決して触れずに、籠の編み目が荒い箇所へ指を引っかけた。
 籠の中には、産着を纏っただけの子が真っ赤な顔をしながらまだ泣き続けている。
「……元気のよろしいことで」
 感心半分、呆れ半分といったところ。生まれて本当に数日程度と思わしき赤子だが、道満が泣き声を耳にしてからも少なくない時間が流れているはずだが、まだ泣く力が残されているというのはある意味驚異的であった。生命力が人のソレとは違う気がして、うっすらと嫌な可能性が脳裏を過る。
「もしや、半妖か?」
 問うたところで返事があるわけでもなく。理解しているからこそ、道満は反射的に解析の呪いを赤子へ向けて放った。化生の血が混じる子であれば抵抗もされるはずだが、呆気ないほど術は簡単にかかり、導き出された答えも単純極まるもの。
 本当に何の力も持たない、紛れもなく人の子である。
「――――なんと」
 子供はまだ泣いていた。声は枯れつつあったが口を閉じようとはせず、腫れきった瞼の下から滝のように涙を零す。
 力も持たず、加護も無く、謂われもないのだろうに。この子供は、ただ人として産まれただけなのに。こうも必死になって生にしがみついている。なぜ、そこまでするのか。道満には分からない――はずなのに、なぜか既視感を拭い去れない。
 その時。

 ――――くいっ、と。

「ンンンンッ!?」
 髪を、引っ張られた。
 かくん、と首が勢いよく落ちていく。籠の中へ、赤子の目が視界いっぱいに広がる。そう理解したのは泣き声が聞こえなくなってからだった。
 かわりに。
「――――きゃっきゃ」
 笑っている。無邪気に、無意味に、無差別に。己がしたことを意識せず、ただ思い通りになったことを喜んでいる。乳飲み子ごときが、何も持たぬ哀れな弱者にすぎぬ存在が、道満を笑っている。それを見て、つい。

 民草らが朗らかに笑っている。貴族共がこそこそと扇の裏で嘲笑っている。高き頂に君臨するモノが、こちらを見下ろしながら――きっと、滑稽だと嗤っていたのだろう。

 思い出して、吐き気がした。
「…………殺すか」
 呪物になぞする必要もない、と漆黒の瞳に赫い火が灯る。腐った魂に慈悲などというモノは既に存在せず、いきすぎた悪意はあらゆる行為を反転させて感じ取ってしまう。回復しはじめた魔力が道満の荒ぶる感情に呼応し流転する。それに反応して心の臓に打ち込まれた呪いが急速に広がっていくが、それら一切を無視し、道満は一息で赤子を葬る呪詛を編んだ。ただ殺すことに特化した、遊びの無い本気の呪い。
 あとは言の葉に力を乗せ放つだけ、となった瞬間に。

 ――――ぐいっ、と。

 先程よりも強く、引っ張られた。
「っ――! なにを!?」
 張り詰めた気配に揺らぎが生じる。ただ人を呪い祟る術であればそのまま発動していただろうが、道満が編んだそれは殺生に直結する高度な呪詛。一瞬の思考の停止が術の構成に罅を入れる原因になるほど繊細なモノであった。
「ええい小癪な!」
 苛立ちを露わに、道満は再び術を編む。回復しかけた魔力が削がれ、食い込んだ呪詛が身体を蝕んでいくが気にもとめず、脳内で複雑怪奇な術式が組み上がっていく。
 しかし。

 ――――くいっ、ぐいっ、と。

 なんとも、毎回ちょうど良い瞬間に赤子は道満の髪を引っ張るのだった。
「ンンンンンンンンンンンンンッッ!!」
 道満はもはや意地となって呪詛を掛けようと足掻くが、それに費やす時間があれば赤子の首を絞めたほうが目的の成就は早かっただろう。そんなことにすら気付かぬまま、不思議なやり取りは少しの間続いた。
 そして。

「…………ハァ。お前は――そうまでして、生きたいか」

 先に音を上げたのは道満の方だった。
 赤子はもう笑っていなかった。気力、体力がともに尽きかけているのだろう。嗚咽も小さく、今にも息絶えてしまいそうで。それでも、嬰児の瞳は道満を捉えて放さなかった。
「――――」
 まだ意志らしい思考などあるはずもなく、感情を覚えるにも早く、それでもこうまで追い縋るのは、生きたいと願う本能によるものだろう。獣や人は死に瀕した際、通常ではあり得ぬほどの力を発揮する。それは理性によるものではなく、肉体に刻まれた本能による生存渇望。生き延びる、という最上級の欲求に応えるべく、全身全霊を賭けどんなことにでも手を伸ばす。それに、この子供は生まれながら長けていた。自らに確実な死を齎す存在を前にして、その行動を阻害するのに最適な行為を無意識ながら導き出せるほどに。
 それに、腐りきっていても未だ人である道満では――勝てそうも無かった。
「変わった子だ。ここで儂の手から逃れられたところで、生き延びる可能性なぞありもせぬというのに」
 ここは鬱蒼と木々が茂る野山の中。人が踏み入ることはそうそう無く、目前の川の流れは意外と速く、少し耳を澄ませば獰猛な獣の吐息が聞こえるような場所。道満が殺すことを諦めても、この子供が生を掴み取ることなど絶対に出来はしない。
 なのに。
「……ぁ、ぅー」
 くい、と。弱々しくも赤子は髪を放そうとしない。まるで、今手にしている一房の髪こそ自らの命綱であると主張するかのように、懸命に引っ張りながら道満を見つめていた。
「…………」
 それは本能にも、渇望にも、執念にも感じさせる。末恐ろしさと、そして幾度目かの既視感が過った。

「おやめなされ、そうも拙僧を見つめるのは。…………お主は、あまりにも――――眩しすぎる」

 既視感の正体――それは、遙か過去に置き去りにした鏡を見ているような想い。不遜に、傲慢に、そして矜恃に満ちて京へと参った、あの頃の道満自身。衆生へ慈悲を垂らすことを善とし、縋り付かれた者へ手を差し伸べ、子等の朗らかな声に囲まれながら過ごした故郷を出て。至高の星を地上の華へと引き摺り落とそうと躍起になり、貪欲に知と術を学び取り入れ高みを目指していたあの頃。
 始めは、そう。この子と同じように必死に、貪欲に、純粋に。勝ちたい/生きたいと想って/願っていたのだ。けれどそれだけでは追いつくことが叶わず。いつしか道を外れていたことに気付いていても、歩みを止める術はもうなくて。もはやあの頃の姿は記憶すらも朧気にすら残っていない。
 それをも呼び起こしそうなほど、この子供の必死さは道満の魂を抉っていく。
 だから。
「ああ、もう……いいでしょう。拙僧の完敗でありまする」

 ――――ばさり、と。

 赤子が手にしていた、陽の気が巡る髪一房を獣じみた爪で切り落とした。ぱちぱち、と子供の丸々とした瞳が瞬く。それを見てしてやったり、と微かに思った以上に、此奴も人の子なのだなと道満は微笑んだ。
「欲しいのでしょう? 勝者は貴方ですので、敗者は潔く差し上げます。……儂の髪は力に満ち満ちておりますので、それを食めばしばしの間は保つかもしれぬ」
 これが陰の気が張る黒髪の方であれば、口にした瞬間に呪いにも近しい力に侵され命はなかっただろう。そこまで子供は察することが出来ていたのか、ただの偶然か。どちらにせよ、子供が生存という勝利を得たことに変わりはない。
「ンンンン――」
 続いて道満は自らの着物、ぼろぼろで辛うじて残っていた袖を切り落とし、籠ごと子供を包ませた。縫う針などは持ち合わせていないため、呪符を数枚貼り付けてつなぎ合わせる。込めたる術式は、簡易な加護――獣よけと強度補正程度のもの。もう数年以上は手がけていなかった類いの術に、笑いが零れそうだった。
「さて、さて。これでも十分ではありましょうが――コレは、餞別でございます」
 ひとつ手にした形代へ穏やかな息を吹きかける。たちまち命を込められ形を成した式神は、白く美しき白鷺のような鳥の姿をしていた。道満が使役する式神の中でも古株であるソレは、言葉にするまでもなく為べきことを理解しているかのようで、長き首をゆるりと下ろした。
「……此処より遠くへ飛び、いの一番に出遭った人間へこの籠を渡しなさい。たとえ拒絶されようが、はたまた骸であろうとも」
 それはまさに賭博。善なる者か、悪へ傾いた者か。むしろ生きているとも限らない。行き先はしれず、人里へ飛ぶのか海をも越えて外つ国へ出てしまうかもしれない。そして誰かと出遭うまでどれほど時間がかかることか。その時まで、この子供の命がはたして保つだろうか。何もかも現実的ではなく、ただ死を先延ばしにしているだけの戯れのような行為。
「お前は儂に勝ったのだ。その強運、どこまで通ずるものか見物ですな」
 けれども、もし。子供が生を捨てず、何かの奇跡の元、健やかな人生を手に入れたとしたら。心優しき者たちに囲まれ、その身を清く正しく成長させられたのなら。
 そして。

 己の子供だった頃など、もう記憶に残っていないけれど。少なくとも愛に満ちた生、とは程遠きものであったことは確実であった。
 寺で育ち、陰陽を宿した肉体を持て余し、呪術の才を自覚して励み、強烈なる星光に魂もろとも灼き焦がれ、あとはこの身この霊すべて朽ち果てるまで呪詛を吐き続けるだけの存在。
 全てを手に入れていると想っていた。地位身分だけはどうにもならないが、それ以外のあらゆるモノは手中にあるも同然だと。
 弱き者へ垂らす慈愛は理解していた。子は欲しいなどと思いもしなかったが、尊いモノであるとは判ったつもりだった。
 だから、何かを――己が極めた術、血、そして志。それらを次に継がせようなど、考えたこともなかった。
 なかった、はずだが。零れた言葉は、どこか親しみを帯びて柔らかなもので。

「願いなさい、生き延びることを。それは夢のような、地獄のような、星に手を伸ばすような……げに愚かな行為でしょう。けれども」

 道満に残された時間は僅か。一度ならず敗れ、追放されたその身であれど。未だ届かない星へ、手を伸ばし続けている身でもある。
 だからこれは。
「――――貴方が得た勝利を、儂も得たいと想う」
 願掛けであり、呪詛であり、祝福なのだ。
 赤子が生きるか、道満が生きるか。赤子が死ぬか、道満が死ぬか。赤子が命を勝ち取るか、道満が星を勝ち得るか。
 類似したモノを核とした即興にして運命的な、蘆屋道満が仕掛ける最後にして最大の術。
「さぁ、往きなされ」
 主の命を受け、式神がばさり、と翼をはためかせる。しっかりと籠を掴み、力強く羽ばたきながら高き空へ。朝焼けが眩く、目を一瞬だけ閉ざした。再び見開いたときには、もうどこにもあの籠は見当たらなかった。
「…………願わくば」
 ぞわり、と心の臓が怪しき鼓動を刻む。一房とはいえ陽の力を切り離したためか、陰陽の均衡が崩れ呪詛の巡りが加速したのだろう。猶予はもう、僅かもない。
 それでも、道満は笑った。
 ずっと、ずっと。京にいたころから長らくこの身を蝕んでいた想いがある。誰もが道満を認めず、蔑み、馬鹿にしているという錯覚。それらを払拭するにはあの極星を撃ち落とすほかない、という執着。

 しかし――もし、もしも。
 道満が歪む前の鏡のような子供が、真っ当な人生を送れるとしたら。その切っ掛けに、道満のこの選択が繋がったとしたら。
 それは、きっと。

「……あの子の生に、呪い/願い/祝いあれ」

 術ではなく、血でもなく、志ですらなくとも。この子は――蘆屋道満が残せた〝何か〟になるのではないか。

 そんな泡沫の夢を、思い描いた。



***





 ふと思い立ち、安倍晴明は日の本をゆるりと巡り歩いていた。
 行き先を決めず、思うがままに。京の守護は変わらず視ているし、一応跡継ぎは用意しているため問題なかった。有事の事態があったとしてもそこそこ早く戻る算段はあるので、と帝にもお伺いを立ててから始めている。珍しいことをするものだ、なんて自身ですら笑ってしまうほど、らしからぬ行為であると自覚していた。
 正確な所、まったくの無計画ではない。目標とする場所はある程度判っていて、其処に辿り着いてからどうするべきか、の部分が空欄になっているだけである。
「…………さて、どうしたものかな」
 少しだけ悩んでいた。正直なところ、こんなことがあるとは思ってもいなかったのだ。かの安倍晴明ですら見通せなかったものがある、などと京の貴族共が知ったらどれほど狼狽えるだろうか。まぁ口にしないだけでそこそこ有るのですが、なんて軽く笑い合えた者たちはもう大半が土の下だ。さみしくは、ないのだけれど。
 そうこう考えている内に、琴線に触れるような気配が胸を掠める。
「――――!」
 ハッとして、晴明は周囲へ気配を探った。すぐに引っ掛かったのは覚えがある力の波長。魔力の形は人であれ化生であれ、どれ一つとして同じモノは無い。故に、魔力を視れば誰の術式であるか一目瞭然――無論、そんなものがひょいひょい視れるモノなぞそうはいないが――である。

 ――――ばさり、と。

 羽ばたきの音が響いた。同時に、空を往く鳥の影が地に映る。
 見上げた先には、白き翼。白鷺のようなソレに、晴明は思わず息を呑む。あの鳥――式神の存在を、覚えていた。
「……まさか、本当に」
 生きているはずがない存在を示すかのようなソレ。あり得ない、と切り捨てるのは簡単であったが、そうするよりも早く駆け出していた。野を童のように走ったのはいったい何時ぶりのことだろうか。
 走って、走って、走って。
 駆け抜けた先には、ひっそりとした人里があった。海が近く、潮風が頬を撫でていく。頭上で優雅に飛ぶ鳥の姿は、海辺近くの古びた寺の屋根にその足を下ろした。
「…………」
 懐かしき気配、その欠片のような僅かな残滓を嗅ぎ取る。それはあの式神のモノかもしれないが、それとはまた少し異なっているように感じ、晴明はゆっくりと寺へと向かった。
 そこには。
 まだ幼き少女が、寂れた寺を懸命に手入れしていた。持ち主と思わしき僧侶の姿はなく、留守を任されたのか、はたまた。一目視ただけでは察することは難しく。
 けれど、そんなことよりも。

 彼女の髪――年不相応な、白く美しく伸ばされたソレが、とても、とても――見覚えがある姿に重なって。

「…………もし、少しお尋ねを」
 気が付けば、そんな声を上げていた。

 始めは訝しげな様子の少女だったが、晴明が名乗りはせずとも力ある陰陽師だと告げ力の一端を見せると、納得をしたように様々なことを語ってくれた。
 この里は海と山に囲まれ孤立しており、旅人は大変珍しいのだとか。この寺の主であり少女の育ての親は数日前、病によって亡くなったのだと。しかし人望厚い方で、残された少女のことを気遣って里人たちも良くしてくれていると。ただ、少女は悪食を煩っており、ただの食物では中々腹を満たせぬと困ったように笑っていた。
 そして。
「さぞお力のある御方とお見受けし、厚かましくも……知っていれば教えていただきたいのです」
 そう、少女は切り出した。
「私の……生まれのことです。屋根にいる白鷺は見ましたか? 私は、アレによってこの地に運ばれたのです」
「――――ほう」
 それこそ晴明が知りたかったことの始めである。身を乗り出しかけたのを堪え、続けるように促した。女でありながら、陽の気に満ち満ちたその姿に目を細める。
「……これを」
 そっと差し出されたのは、一房の髪束であった。少女の髪によく似た、白く長き髪。ただ切り取られてから随分と時間が経ったのだろう。既に艶はなく、しかしまだ僅かな魔力の残滓を感じられた。さぞ優れた術士の髪だろうことは明白で。
「赤子であった私が握りしめていたものです。……いえ、正確には口にして、頬張っていたらしいのですが。当時はとても力が張り巡っており、これを口にしていたからこそ私は生き延びたのだろう、と」
 術にも呪にも染まっていない純粋な魔力の塊であればそういったことも可能だっただろう。もちろん、ただ力を取り入れれば良いというものでもなく、そういう意味であれば娘側にも力を取り込む素質があったのだろう。なんという偶然だろうか。
「どういう謂われがあって手放したのか。それを問うつもりはありませぬ。ただ、ただ……感謝を告げたいのです。こうして生き延びられたのは間違いなくこの髪のおかげですから」
 白き髪が揺れている。見知った、懐かしき、その半身によく似ていた。
 血のつながりは無いだろう。あの冴え渡った術も残ってはいない。燃え盛りながらも黒曜石のように研がれた、最優たる存在へと食らい付こうとした志など知らぬだろうに。
 けれども、この娘は間違いなく。

「……知っています、その髪の持ち主を。きっと、貴方がこうして生きて成長するのを――(ねが)っていたのでしょうね」

 教えましょう、その名を。
 そう、安倍晴明は――何年ぶりかに、彼の名前を言祝いだ。


top