Stargazer

〝みそかごころ〟と〝欲望スパイラル〟が同一世界線&後日談

 暑い夜だった。梅雨が差し迫り、大気はじっとりと熱された水を孕んで膨張しているように重苦しい。目を閉じれば己が地に立っているのか、それとも水中にいるのか分からなくなりそうなほど、世界が基板から沈んでいるような時期。それでもまだ雨の気配は遠く、空からは無数の星明かりが降り注いでいた。
 いくつかの行程を終え、吐き出した息の熱さに夜風を感じたくなった了見が自室の窓へと手をかけて。

 ――――ぴしゃん、と。

 頬を滑り落ちる水滴につられ、了見は夜の空へ視線を向けた。
 そこには。

『――――――』

 星天に浮かぶ、美しき極点。蒼銀の光を受けてしなやかに艶めく鱗と、何物にも染められない意志を灯す双眸。揺らめく長い尾が瑠璃の空と同化し、その全長を視界に収めきることは適わない。幻想の体現、理を超越した存在――竜が、静かにそこにある。
 まるで宙から飛来した生きた星のようなモノに、了見は何度目かも忘れた唖然と、それを隠れ蓑にして内部で燻っていた熱が風を受ける。それを吹き消すべく、そして彼に本来の姿を思い出させるべく、必要な言葉を紡ぐ。
「……何をしている、遊作」
 そう、静かに名を呼ぶ。瞬間、軽やかな水泡が弾ける音が響く。流星のように零れ落ちる光を纏いながら、竜は人の姿を形作っていく。夜の海のような深い青が目に入った時、了見は自らの胸の中に飛び込んできた温もりに愛おしさにも似た恣意がぐずり、と動き出したことを感じ取った。
 そこから目を背けて、ともすれば勝手に動き出しそうな腕で胸に引っ付く彼を揺り動かす。濡れそぼった髪と服に、どうやらまた海を越えて来たらしい、と彼の行動に目を覆いたくなってしまう。
 そんな了見の気持ちをようやく察したのか、伏せていた顔をゆっくりと上げて。
「逢いたくなった。……あと、暑いから泳ぎたい」
 と、まるで当たり前のことを言うように、遊作はエメラルドに輝く光を咲かせた。

 ◇

 遊作は言っていた。人は強い想いを抱くと、それに応じた姿へ変化すると。
 現に彼は――認めがたいが――了見への想いを経て、波濤をも割き澪を引く竜へと転身してみせた。ただの幻覚だと断ずる術はない。一度ならず幾度もその姿を目にしてきたのだから。
 そんな彼が。

 ――――ぴしゃん、と。

 満天を溶かし込んだ海で、遊作はその身を躍らせる。
 かの名高き幻想獣は、爬虫類を模した姿であることは語り継がれているが、地域や国柄によってその特色は大いに異なる。遊作のソレは、極東における竜だろう。河川の化身とも言われる存在であり、その身は蛇のように細くしなやか。四肢は退化したように大した役割を持たないが、代わりに鋭く研ぎ澄まされた感覚が世界に色をつけるという。
 深い青を纏った身を翻しながら海を、空を舞う。それは天地を繋ぐ架け橋たる滝か、それとも星でつくる天の川か。

 清廉で、稚く、そして何よりも美しき竜(ゆうさく)。

「――――っ」
 そんな姿に、否が応でも胸の奥が熱く滾る。了見自身を食い破りそうなほど、その熱は延々と膨らんでいく。嫌悪と居たたまれなさに胸元を掻きむしるが、指先は分厚い肌を越えられない。服の下を確認する勇気は、無くて。
 遊作がせせらぎ謳う水の竜ならば、了見はさしずめ狂える業火にくべられた浅ましき竜だ。
 自らが抱いてしまった欲望という灼熱。ひとつ満ちれば次はさらに上を望み、次第には果てを忘却して。彼方の灯火を、消えぬ意志の光を、そして決して忘れられぬ珠玉の双極を。
 手に入らぬからこそ、と理性は知っていても、本能はその熱から逃れることが出来なくて。ぐずり、と少しずつ人間という外装(テクスチヤ)を剥がし、鴻上了見という存在の内に秘めた欲望を露わにしていく。
 だからこそ、了見が転じる竜は西洋のソレに映る。無慈悲に溶岩を吹き出す、荒ぶる山の象徴たる存在。流れ出た熱が冷えて固まる最中、奇跡の貴石が生まれ落ちる。その輝きをひとつ残らず手中に収めて、自らの熱に苛まれながら次の光を求めて咆哮する、欲深き獣の姿。

 貪欲で、強かに、そして恐ろしく荒ぶる竜(りようけん)。

 どちらも互いを想うからこそ、その身を相応しき姿へ変えるのに、こうも相異があるのはそこに本質が現れるからだ。その事実が了見を深く抉る。
「…………ああ、熱いな」
 水と戯れ星の煌めきを纏う遊作を見て、了見は静かに告白する。
 きっと、きっといつの日か、己は真の竜と化す。
 無尽蔵に湧き出る欲望に取り憑かれ、目先の輝きに視界を奪われ、最上の光を冒涜の緋で染め上げる。
 その矛先は間違いなく――――

「――了見!」

 いつの間にか海から上がっていたらしい遊作が砂を踏みしめながら近づいてくる。星天を背に、淡い緑の灯火を湛えて。
 了見が最も欲する、永遠に届かないでいてほしい光。
 それが、こうも容易く垣根を越えてここへ来る。それが何よりも喜ばしく、疎ましくて、耐えがたい。
 だから。
「満足したのか」
 返事を聞くよりも早く、手にしていたバスタオルを素早く被せ、水気を取るふりをしながら光を覆い隠す。それはせめてもの抵抗。その場凌ぎに過ぎないとしても、了見はまだ人間でいたかった。
 触れても壊さずに、言葉を交えることを許されたまま、ただ純粋にその灯火を見ていたい。
「……もう大丈夫だ」
 そう遊作の声がしても、了見はその手をどかすことは出来なくて。再び彼を、あの緑の意志を目前にして正気を保てるか自信が無く。
 そんな中。
「了見、見ろ」
 あらゆるモノに雁字搦めになってしまった了見を揺り動かすのは、いつだって遊作の役割だ。
 ベールを剥がすようにタオルを放り投げて、遊作は大きく両手を伸ばす。片手は天を、もう一方は海を。それに誘われるように、了見は己の視界に映し出す。
 満天の夜空と、星天の海原を。

「俺はお前が――お前の瞳に灯す星の光が好きだ」

 それはまるで、欲望という低俗で生命である限り逃れられぬ定めから一線を画す、彼方から来る帚星のように純粋で愚かな愛の言葉。
「たとえお前が竜に成り果てようとも、その灯火の美しさだけは変わらない。だから……何があっても俺はお前を見つめ続けるぞ」
 決意であり、意志であり、運命の表明。
 それを告げる遊作の姿はまさに、星天に灯す星のように光り輝いていて。
「……ああ、そうだな」
 彼に応えるべく、了見も熱を孕んだ言葉を繋げる。胸奥に巣くって咆える竜に負けぬよう、精一杯の了見自身の言葉で。

「そんな君(ほし)の光が――――私は愛(ほ)しい」

 追憶した始まり。時と共に変質していった感情。それでも、抱いたこの想いは唯一無二のもの。
 歳を重ね、立場を違え、この身が竜に転じようとも――この灯火を待ち望む。


 そう、我らはスターゲイザー。
 星を見守り、天へ想いを募らせ、その灯火を愛すモノたちである。



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