病人了見×人魚遊作

ほんのり和風パロ

 本物の空からは天の雫――雨というらしい――が降り注ぐのだと、伝え聞いたのは何時のことだっただろうか。
 遊作にとっての雨は〝火〟だ。覆うように、囲うように、逃がさぬように。天と地、そして壁。すべてが篝火で編まれた牢獄。そこが遊作の世界そのものだった。
 どうしてここにいるのか、何故この場に閉じ込められているのか、自分自身は何者なこか。何一つ知らぬまま、ひとり。漠然と感じる、煉獄の終わりを待ち続けていた。時折、揺らめく火が形を得て話しかけてくることがなければ、とうの昔に孤独による発狂死をしていただろう。それくらい長く、ここにいる。
 火は遊作を燃やすことはなく、降りかかる火の粉は水面に差し込む日差しのように優しき熱で。手を伸ばせば届く場所に生きていくために必要な物は用意されていた。時折、物資を運ぶ存在に気が付いていたものの、彼らは遊作を存在しないモノとして扱っていることを悟ったのは早く。この牢獄という世界にしか遊作の居場所は無かった。
 けれど、一度だけ。
「……考える、みっつ。生きるため、帰るため、戦うため」
 外のモノに聞こえないよう、小さく囁くのはまじないの祝詞。孤独の中齎された唯一の灯火《きぼう》。遊作に与えられた最初で最後の他人という存在の証。
 それはもう遙か遠い出来事。この世界に入れられて孤独になったと自覚して、心が折れかけた一番初めの記憶。

『――――ねぇ……キミ、起きて』

 静寂の中、その声はどこまでも澄み渡り、遊作の静止していた心に波紋を呼び起こした。燃えさかる檻の向こう側にいる、誰か。姿は遠く、全貌を捉えることは適わなかった。
 けれど。
 その声の優しさに、存在に、言葉の意味に。折れた心を奮い立たせ、放棄していた生への本能を呼び起こし、一縷の望みを得た。
 だからこそ、遊作は生きる決意をした。たとえこの世界が地獄であろうとも、そこに降り注いだ一滴の水を糧にして。
 そんな日々が長く、長く続いた。繰り返される同じ時間に永劫を覚え始め、篝火から飛び出すモノが流暢に言葉を操るようになり、あの時からもう二度と声は聞こえない。それでもまだ、遊作は生きていた。惰性ながらに伸ばした手が目標を越えて進んだ事実に苦笑を浮かべながらも、緩やかに生へとしがみつく。
 胸に灯る、この想いを消さないように。

 そんな世界は唐突に終わりを告げる。

 ――――りぃん、と。

 それは場を清める鈴の音色。悪しきものを打ち消す美しき音に導かれるよう、天蓋の篝火が少しずつ役目を終えて解けていく。想像もしていなかった事態に、遊作は何が起こったのか理解出来ないまま、呆然と落ちてくる火の粉を受け止めながら見つめていた。
 長く、長くこの場所にいた。正確な時期なこど不明だが、もしかしたら物心ついた頃にはいたのかもしれない。覚えていたのは自分の名前と、この世界には存在しない〝水〟に関する知識だけ。
 そんな鎖された世界が開いていく。伸ばした手のさらに先まで続く、見知らぬ世界が覗いている。
「…………あっ」
 もしこの時、一歩でも踏み出す力があれば変わったのだろうか。無様でも、滑稽でも、本能に従って外に出ていれば。
 けれど、気が付いた頃にはもう遅く。
「――――――――」
「っ……!?」
 目前にそびえるのは、冷ややかな気配と重圧感を醸し出す、まるで氷山のような――人影。そう知覚した瞬間、遊作は地に伏せ倒れていた。

「――ぃ、痛っ! ……く、っ……!」

 ――――ずりずり、と。

 腕を荒縄でキツく締め上げられながら、暗澹と続く長い道筋を引き摺られていく。情け容赦など一切無く、まるで荷物を運んでいるような調子で、縄の先端を持つ者は明かりもない空間を進んでいく。遊作の手首から赤き飛沫がにじみ出るを気にもとめず。
 檻の外はこれほど恐ろしい世界だったのか、と遊作は唇を噛みしめながらそれでも必死に頭を動かし続けていた。口に出さずとも心に唱えるのは御守りとなった〝みっつ〟で。それがある限り、遊作が目指す未来は決まっている。そこに至るまで、絶対に死ぬわけにはいかないのだ。
 だから、と。
 鋭く這わせた視線は、己が今なお流れ出る鮮血を好機と捉えた。
 遊作は自分の正体を知らないが、それでも出来るであろう事柄に覚えはあった。実行する機会は悉く奪われ続けていたため確証はないが、現状で出来る唯一の抵抗手段。躊躇う必要は無く、ただ念じるだけで事足りた。

 ――――ぴしゃん、と。

 雫が落ちる音が響く。それに気付いたのか、人影が立ち止まるがもう遅い。
「…………悪いが」
 赤を纏った〝水〟が舞い散る。ほんの数滴たらずの、常であれば何の障害にもなり得ない、生きていることを証明する血潮。
 それが、この場に限り――無垢なる刃と成り代わる。
 始めに腕に絡む荒縄を切り捨て、その衝動で飛び出た新たなる紅を眼前の人影に向けて牙をたてた。
 それは、遊作が覚えている唯一の術。原理など知らず、方法など無意味で、ただ純粋なる己が持ち得た機能。
 遊作は自身が閉じ込められる謂われこそ知らないが、何故閉じ込める手段が天火の牢獄だったのかだけは知っていた。あの篝火は肉体を焼くことは出来ずとも、水の存在を消失させることに関しては恐ろしく忠実だった。摂取した水分を空中に放つも、遊作が何かをするよりも速く蒸発させる。そんな光景を見飽きるほど試した。
 だからこそ、遊作にとって〝水〟は武器だ。何も無い自身が唯一持てる、反撃の矛。
 人影は倒れたまま動かない。闇雲に突き立てた水が相手の何処を貫いたのか、そんなことを気にする猶予は無く、遊作は痛む腕を必死に動かして進み始めた。
 這って、進んで、生きる。ここは無慈悲で残酷な世界かもしれないが、それでも必ずどこかにあるはずモノがあることを知っているから、遊作は止まらない。
 床と擦れ合う肘が傷だらけになりながらも暗闇を進み続けると、少し開けた場所に出た。頭上からは蒼銀を帯びた仄かな光が差し込み、空間を少しだけ青く染めていた。まるで――知識でしか知らないが――海の中のようだ、と小さく息を零す。
 その刹那。

「――――まさか、自ら贄になりにくるとは」

 そこには人がいた。
 青き光に照らされた、薄氷のように今にも砕け散りそうで、それでも己の足で地を踏みしめる人が。
「…………に、え?」
 告げられた言葉の意味を無意識に問う。不思議と恐怖は感じなかった。それよりも胸に浮かぶのは好奇心か、それとも使命感か。目の前の人物に対して純粋に知りたいという欲求が湧き起こる。
 青光の膜がかけられた視界に映る彼は、まるで海面から見上げる灯火の如く。その双眸に浮かぶ強き意志と、それに相反するように身体から薄らと立ちのぼる弱き生気。少しでも生命に関しての知識があれば誰もが見て取れただろう。彼は、死に向かいつつあった。
「医者の宣告から数時間。そろそろの頃合いだとは思っていたが……」
 それはおそらく独り言で、遊作の問いかけに答えるものではなく、まるで嘲笑めいた呟きで。訳も分からず遊作は首を傾げると、彼はゆらり、と幽鬼のような足取りで遊作の元まで歩み寄ってきた。そして、目線を合わせるように膝を付くと、取って付けたような冷酷な顔を浮かべる。
「昔から、人魚の血肉は万病に効く妙薬になるという」
 言葉を受けて遊作は己の下半身へと視線を向ける。
 人間であれば対の足があるであろう箇所に、遊作は魚のそれに類した部位がある。蒼銀を浴び、艶やかに煌めく鱗。水中を進むことに特化した尾びれは一度も水を知らないまま、その美しき造形を保ち続けている。
 この姿をとる存在を〝人魚〟と称すのがこの世界の理なのか、と遊作はぼんやりと理解する。
「私は、幼少から不治の病を患っている。だが、血を絶えさせることを許されない立場故、どうしても病を治さねばらない」
 淡々と語る物言いは、遊作に対してというよりも自身に言い聞かせる類いのそれに聞こえた。
 本来であれば優しき心を持っているのだろう。それを振るうことが許されず、ただ冷淡な真実を述べることしか出来ない。彼もまた――牢獄に鎖された存在なのだろうか。
 そんな彼が、運命を告げる。


「…………悪いが、私のためにその身を捧げてくれ――――遊作」



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