我が墓所へ捧ぐ

本編『ハノイの塔』直前の話

 気が付けば暗闇にひとり、鴻上了見は立ち尽くしていた。

 直前までの行動を振り返る。あれは――ハノイの本拠地たる空間で、今はその意識をその空間に留める存在となっている父に我々の計画が最終段階へ入ったことを告げられた。
 そして、おそらく最後になるであろう現実への帰還を命じられたのだ。

 ――この計画の遂行をもって、我々は虚構世界と運命を共にする。

 始めから定められた結末、とは言えなかった。そもそもの発端は五年前のサイバース世界襲撃の際に闇のイグニスを取り逃がしたことから、現段階においても奴を確保できずにいる了見――ハノイの騎士のリーダーたるリボルバーの力不足によるものだ。
 機会は何度かあった。それらは悉く失敗に終わってしまった。
 一度目は純粋にイグニスの力を見誤り。二度目、三度目は――――
 そこで思考が一時停止する。
 回想のつもりが余計な事まで考えていたらしく、それ以上の詮索は無用だと意識して自身の現状を顧みる。

 そこは宇宙を思わせる何もない漆黒の空間だった。足をつけている感覚があることから地表にあたるものは存在しているようだが、目視によっては確認できない。
 続けて己の容姿に視線を動かす。記憶にある限りはネット上で活動するためのアバターを纏っていたはずだが、視界に映るのは剥き出しの掌とシンプルな装い。現実での恰好そのままだった。
 最後に確認すべきこととして、不躾ながら皮膚に爪をたてる。痛覚そのものはあるらしいが、目立った傷はつかなかった。
「……ログアウト障害か」
 VR空間にログインする際、脳は休眠状態となる。ログアウトは睡眠から目覚めるのによく似ている。だが今の了見はそのログアウトの際、VRそのものからは離脱したが脳が覚醒できず、そのまま夢を見ているような状態だと推測した。明晰夢に近いだろうか。
 だが、と少々疑念がないわけではない。
 通常のプレイヤーであればデュエルディスクのみを使用してログインするためこういった状態に陥りやすいが、了見のログイン環境は客観的に見ても最高峰のものだ。ハノイを率いる者として、SOLテクノロジーが提供するシステムを使用するなど言語道断。自ら一から構築したシステムと完全整備された機材を採用している。虚構を忌避する感性を持ち合わせている者として、こういった問題はとくに忌み嫌うもの。だからこそ現状は解せない。
 となれば、問題は。
「私自身、か……」
 ログアウト障害はシステムの不具合だけで引き起こされるものではない。とくに、使用者の精神状態が左右する。
 現実を拒んだものがVRに引きこもってしまう――そんな社会問題も少なくない時代。
 了見の精神状態は、万全とは言い切れなかった。
 その時。

 ――――――からん、と。

 何もなかったはずの空間に音が響いた。
 反射的に音のしたほうへ目をやると、そこには先ほどまでは間違いなくなにも存在していなかった筈なのに、まるで始めからそこに在ったと言わんばかりの存在感を持った扉が出現していた。
 石造りの、大きな扉だった。
 扉だと断言できるのに、それには取っ手らしきものが存在していなかった。
「偽扉のつもりか」
 文字も装飾も彫られておらず、ただ真ん中を一線で隔たれているのが分かるだけの扉に、了見は嘲笑を浮かべながら皮肉った。
 ただ、ある意味今の自身には相応しいものかもしれない、とぼんやりと思う。
 古代において生者と死者を別つ境界として墓に彫られたその装飾は、これから自死の道を往く了見に早々な出迎えをしてくれているように感じられた。
 スッと指を伸ばし、境界の線をなぞる。磨き上げられたようで、感触は実に滑らかだった。
 それを合図に、扉は重々しい動きでゆっくりと左右に広がっていく。光が溢れて、あまりの眩さに目を瞑った。


 目を開けると、そこは見覚えのある部屋だった。
 がらん、とした空間に四角いものが綺麗に並べられていた。人がひとり納まるサイズの箱が、五つ分。

 ――――五つ?

 激しい違和感に襲われ、了見はそのオブジェクトに駆け寄った。そして、中に納められているものに息をのんだ。
「ゲノム、バイラ、ファウスト……」
 リボルバーを、了見を公私ともに支えてくれた三騎士。彼らは現実でも今は深い眠りについている。その眠りは、きっともう醒めることはない。
 そして。
「……スペクター」
 リボルバーの腹心として仕える青年もまた、箱の中で眠りについていた。
 彼は現実ではまだ生きている。けれど近い未来、こうなることは避けられない。彼は喜んで受け入れる、と言っていたがそれを認めることは未だに複雑で。こうしてその姿を見るだけで胸が締め付けられる。
 あと、ひとつ。
 その中を見る勇気を、了見は持ち合わせていなかった。
「…………父、さん」
 想像は容易く、認めるのは度し難い。その姿は現実で嫌というほど見せられていて、そこからあの人を助け出そうと必死にもがいていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。

 偽扉を潜った先がこの場所なら、ここはまさしく鴻上了見が埋葬されるべき墓場なのだろう。

 彼らは了見を弔うために捧げられたもの達。了見自身が最も望まない、悪意ある副葬品だった。
 本来なら、ここにいる者たちは犠牲になどならずに済んだのだ。了見が、リボルバーがイグニスを抹殺できていれば。かの存在の正体に拘っていなければ。彼らにも、生きる道はあったはずなのだ。
 それを踏み躙ったのは、了見自身だ。
 責められても仕方がないのに、彼らは皆――父を除いて――笑っていた。眠りに落ちてなお、了見が作戦を遂行できると信じて疑わずに、その道を自ら選んだと笑っていた。
 ちがう、と否定はできなかった。それを否定することは即ち、彼らの覚悟も無かったことにするということ。
 それでも。
「私は、貴方たちを犠牲になど――したくなかった」
 罪を背負うのは、己だけでよかったのだ。
 こんな冷たい棺に納まって、了見が死んだとき共に罪過の炎にくべられるのを待つだけなんて、許せなかった。
 謝罪の言葉も告げられず、了見は深く項垂れることしか出来なかった。
 再び瞳が塞がり、暗闇が空間を支配する。


 暗闇に朱の光が差し込む。つられるように、了見はゆっくりと重い瞼を押し上げた。
 黄昏の空が広がっていた。懐かしき、胸を抉られるような赤い空。
 了見の足元にはカードが散らばっていた。一枚、無意識の内に手を伸ばすと懐かしき絵柄が視界に入る。
 今はもう使っていない、幼き頃のデッキだった。強さも戦略も幼稚な、それでもあの頃に必死になって組み上げた思い出深い品。
 このデッキはあの日以来使用されることはなく、自室の奥深くに仕舞い込まれているはずだった。
 どうしてこんな場所にあるのか。その疑問が過るよりも早く。

 ――――たた、と軽やかな足音が鼓膜を揺らす。

 子供の足音だと分かったのは、直感だろうか。それとも、この過去を忘れられないせいだろうか。
 周囲を見渡せばそこは特筆するようなものは何もない、夕暮れに染まる住宅街。
 たったそれだけで、この空間が過去の再現だと気づいてしまった。了見が、初めて罪を犯した場所。
 己の姿を見やる。予想を裏切り、先ほどまでとは変わらない十八の姿に少しばかり安堵する。だが、安心は一切出来なかった。
 もうすぐ、運命がやってくる。誰も幸せにはしてくれない、悲惨な運命が。
 足音がしたほうを見つめる。
 過去に戻れたのなら、と考えたことは数多とあったが、実際にこの場で出来ることなど何もないと知っている。あの時は本当に偶然で、ただ嬉しくて、善意で誘っただけだったのだから。
 それが、十年にも及ぶ後悔になるとは。自嘲の笑みを浮かべることしか出来ない。
 足音を待つ。
 待って、どうしたいのか。己の心の内に尋ねるも、答えは返ってこない。彼の姿を認めて、どうすれば良かったのだろうか。自問は宵闇が迫る空に消える。
 そして、待てどもその姿を捉えることは出来ないことに気付いた。
「何故だ……?」
 一向に子供は現れない。ただ足音だけが遠くから響く。
 運命は、彼は自身から離れようとしているのか。そんな考えが浮かんだ時、果てしない困惑と嫌悪感が身を蝕んだ。
「――――っ!」
 衝動的に朱の空に逆らうよう走り出した。足音は、夜が深まる道へと続いていた。そのあとを夢中で追いかける。

 辿り着いた先は、何もない空間だった。
 あるのは、見覚えのある四角いオブジェクトが――二つ。寄り添うように、ぴったりと横に並んでいる。
 どくん、と心臓が跳ね飛んだ。
 一度は止めてしまった足を、震えそうになる膝を叱咤しながら踏み出す。
 こつこつ、と子供のものとは違いしっかりとした音を響かせながら、ゆっくりと進んでいく。
 そこに納められているものが何なのか。先ほどの部屋ではあれほど目を背けたかったはずなのに、いま目の前にあるソレは是が非でも見なければいけない、と全身が訴えている。
 かつん、とひと際大きな音が反響して、了見はソレを呆然と見つめた。
 人がひとり分、綺麗に納まるであろうサイズの匣。片方はがらんどうで、中身が埋まるのを今か今かと待ち侘びているように感じられた。
 そして、もう一方は。
 磨かれた大理石のように、美しき棺だった。今までのものとは違い、しっかりと蓋までされてそのままでは中を検める事も出来ない。
 了見は胸の奥に溜まった重苦しい息を吐きだしながら、そっとその棺の横に片膝をついた。
 心臓が早鐘を打つ。早く、中身が知りたいと視界がソレに支配される。
 そのまま蓋に手をかけ、全力を持って押した。石でできたソレは易々と開くつもりはないようで、動きはとても緩やかだった。それでも一度も力を緩めず、ひたすらその中にあるであろうものを求めた。
 長い時間をかけて、遂に。

 ――――がこん、と蓋が開かれた。

 そこにいたのは。
「………………ああ、やはり。おまえか」
 了見の運命が、横たわっていた。
 もっとも見覚えのあるアバター姿ではなく、最近ようやく知った、彼の現在の姿。学生服をほどほどに着崩して、青みを帯びた髪は眠っていても特徴的だ。
 十年前、あの黄昏で出会った時の姿を成長させたように、思い描いていた姿そのままだった。
 彼が、ここにいる。了見が収まるべき棺の横に。
 その事実に、動揺すらなく了見の心は凪いでいた。彼は遠ざかったわけではかった。ただ了見をここへ導いただけだった。それが――これほど心穏やかにさせるとは。
 なんて悪趣味な、と自身に呆れるほかない。
 三騎士も、腹心も、父も。皆が埋葬されるのは認められないのに。彼は、彼だけは――――

「――――恨んで、いるのか?」

 声が、した。
 目を見開くと、棺の中の彼は目を閉じたまま、口だけを動かして了見に問いかけていた。
「…………な、にを」
「俺を、恨んでいるのか?」
 彼の問いは当然の疑問だろう。
 宿敵であるはずの、決して相容れない者同士。それを夢の中とはいえ、棺に入れて葬りたいという意思を象徴するこの部屋。そんな場所にいるのであれば、理由は自ずと見えてくる。
 そんな彼の問いを。
「……違う。恨むなど、考えたことすらなかった」
 後悔はしている。それは何に対してなのかわからないくらいに、たくさん。
 だが、彼の言う恨みを覚えたことは一度もなかった。彼を誘ったのも、父を失ったのも、イグニスを取り逃がしたもの。すべて了見自身が導いてしまったことだから。
「――――俺を、殺したいと思っているのか」
 彼は再び、問いかける。
 これから行うことを考えれば、彼もまた死ぬ可能性は高かった。きっと彼ならば阻止しに来ることは想定されていた。対決は避けられず、負ける気もない。結果的に彼を死に追いやることになるだろう。
 だが。
「……いいや。殺すつもりも、ない」
 矛盾していると理解しているのに、その言葉は驚くほどすらりと飛び出していた。元から排除しようとすれば何時だってできた。正体を知った時点で、打てるべき手段はいくらでもあったのだ。それをすべて振り払ったのは、了見が選択したこと。
「――――ならば。何故、俺はここにいる?」
 再三の問いは、純粋な疑問だろう。
 この場所は鴻上了見の墓場だ。彼が電脳世界を伴ってその生命を散らす時、共に捧げられる供物を収める場所。そんな所にいる彼は、何のためにその身をくべられるのか。
「……それは、」
 その問いに答えて、いいのだろうか。
 これはただの我儘だ。叶うはずのない、文字通り墓まで持って逝くべき感情。それを自覚したのは彼の正体を知ってすぐのことで、でもそれはおそらく十年前のあの日からずっと了見の中に燻っていたもの。
 恨んでなどいない。殺したくなかった。けれど、どうしても譲れない思いがあった。

「……おまえが欲しい。だから、共に逝こう」

 初めて出会った同年代の子で。声をかけたことで最悪を引き起こして。決着をつけなければならない存在で。運命という鎖で雁字搦めになっていた二人。
 了見の心に決して抜けない杭を打ち込んだ彼を、自身のいない場所に残していくことが我慢できなかったのだ。
 手に入らないことは分かっている。すでにお互いへの道は断絶し、繋がっている未来はどこにもあり得ない。
 ならば、せめて。共に、世界を砕く炎にくべられて欲しい、と傲慢にも願わずにはいられなかった。

 彼は、動かなかった。
 了見は棺の中へ手を入れ、彼の腕を恭しく手に取った。冷たいが、仄かに熱を感じる。彼はまだ、生きている。
 その指のひとつに口を這わせる。意味などない。彼の意思を無視して欲望をぶつける図々しい自身が、所有印など付ける行為を許されるはずもない。
 だから、これは誓いだ。

「プレイメーカー……否、藤木遊作。おまえを絶対に逃がしはしない」

 どんな抵抗も、反論も聞き入れる気はない。
 了見は己が望みのためだけに、彼をこの墓所へ納めることを決意した。
「――――そうか。なら、」
 スッと閉ざされていた彼の眼が開く。
 新緑よりも鮮やかで、光よりも輝く意志にあふれたエメラルドグリーンが了見を貫く。
 そこにあったのは、否定か肯定か。眩んだ了見には、わからなかった。


 そして、目を覚ます。
 見上げた天井は見覚えのあるもので。そっと身を起こすと固まった筋肉が悲鳴を上げていた。それらを無視して、広々とした窓の外へ目をやる。
 期待したわけではない。だが、最期にもう一度だけと思ったことも事実で。
 高台に聳えるこの邸宅の下に広がる煉瓦道に馴染みのある車を認めた時、心の底から歓喜した。


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