氷室の親子

俺屍2なんてありましたっけ

 忘我流水道――――数多の死体が行き着く終着点。
 恨み、憎しみ、怒り、悲しみ……本来、物言わぬはずの骨たちが口々に語る。それを聞き、名を呼ぶことで無念を晴らす。そんな終わりのない道を選んだかの神『氷ノ皇子』。
 その日も、いつものように流れ着いたしゃれ頭を拾い上げ、ゆっくりと語られる悔恨に耳を傾けていた。

 がさっ。

 聞き慣れぬ雑音が、永久氷室の冷泉の間に響いた。
「……人か」
 一体何百年ぶりになるだろうか。この凍てついた空間に足を踏み入れるものが現れたのは。いや、もしかしたら初めてだったかもしれない。皇子がこの場にこの場にこもるようになってからおよそ千年、死者以外の者が訪れたのは。
「あなたが、氷ノ皇子ですね。天界の頂点に座すという」
 訪問者はまだ年端もいかぬ少年だった。だが、年に似合わぬ力を持っていることは言われるでもなくわかっていた。この冷泉の間にたどり着けたのがその証。しかも無傷のようだった。
「いかにも、私が氷ノ皇子。……して、人の子が何用じゃ。生憎と、与えられるものはもうあまり残ってはおらんぞ」
 与えられるものは全て与え、皇子の身体は凍てついた。僅かに残ったのは血潮と、熱き心だけ。
 しかし少年は首を横に振ると、冷めた瞳で皇子を見据え言った。
「……私を、殺してください」
「――――――なに?」
 告げられた言葉は皇子の予想をはるかに上回るものだった。
 よくよく見ると、少年の瞳は冷めているのではない。それは――――絶望。恨むでも憤怒でもない、ただ一縷の望みに縋ることも諦めてしまったかのような、そんな硝子のような眼だった。
「何をしても、私は死ぬことができない。ありとあらゆる事を試しては失敗してきました。でも、天界一の神がこの地にいると耳にし、僅かな可能性にかけてここまでやってきました」
 だから、自分を殺せ――――そう、口にはしなかったものの、視線が告げていた。
「…………」
 皇子は無言で頷くと構えた。
 事情は知らない。知る必要はないだろう。ただ、これほどまで思い詰めたこの少年をこのままにしておくのは、あまりにも不憫に思えた。
 せめて一撃で――――ひと思いに首を刎ねた。
 少年の体が崩れ落ちる。せめてもの黙祷をと思い、目を閉じかけたその時。
「なに……?」
 見間違いだろうか。いや、そんなはずはない。
 まるで時間を巻き戻すかのように、少年の首が引き離されたはずの胴体へ。傷口同士が重なり合い、一瞬にして溶け合った。
 ぴくり、と少年が身動きする。
 呆気にとられている皇子を尻目に、少年は何事もなかったかのように立ち上がり、全く変わらない己の身体を見て失笑を漏らした。
「やはり、駄目なのですか……」
「待て」
 空気が凍る。刹那、少年は氷塊に閉じ込められた。皇子の呪だ。皇子は、その氷塊を躊躇うことなく粉砕した。
 だが、やはりその状態からも少年は生還した。
 皇子が知りうる、あらゆる呪詛、あらゆる方法で少年を幾度も殺す。そしてその度に甦る少年。
 ……不毛な戦いだった。
 どれほどの時が流れただろうか。打てる手が無くなり、皇子は沈黙した。
「もう、よいのです」
 少年は失笑を顔に貼りつけながら言った。泣くでも怒るでもなく、ただ笑っているその姿が、本当に哀れだった。
「私は……ただ…………親も知らぬ、不気味な子を拾い育ててくれた親も、友も……みな逝ってしまった。同じところへ逝きたいと、ただそう思っただけなのです」
 それは、不死者には切っても切り離せない、無数の別れ。これまでにも多くを、そしてこれからはその数百、数千……それ以上の離別が降りかかるだろう。
 そう語る少年の姿に、皇子は無意識のうちに己自身を重ねていた。
 そのせいだろう。自分でも思ってもみなかった言葉を皇子は告げた。

「ならば……ここに留まるが良い」
「……?」




 少年――阿部晴明がこの永久氷室を訪れて、どれほどの月日が流れたか。
 あの頃と何も変わらないまま、今日も水に乗って哀れな骨が流れ着く。無念の言葉に耳を傾けるのは、もう青年と呼ぶ姿になった晴明だった。
 それを親のように見守る氷ノ皇子。
「父上」
 晴明が皇子に呼びかける。何故か晴明は皇子を「父」と呼びたい、と強く希望した。とくに拒む理由もなく、皇子は黙認している。
「どうした」
「あれを……」
 晴明が指差す先。そこにはこの場に似合わぬ物――――揺りかごが水面に浮いていた。氷壁に当たっては危なげに揺れるものの、頑として覆ることはなかった。
 皇子は、それが神気を帯びていることを悟った。
「天界のいらぬお節介じゃな」
 晴明が慎重に揺りかごを岸へ引き上げる。中には、赤子が小さく寝息を立てていた。赤き髪が、ただの人ではないことを暗に告げていた。
「これは……」
 困惑する晴明を横に、皇子は赤子を抱き上げ、首元にあった呪具を外してやった。
 やがて、ふるふると赤子の目蓋が震え、隠されていた瞳が顕になる。やわらかな黄金。しかし、それは一瞬にして消え去った。
「――――っ」
「なっ!」
 驚くべき俊敏さで赤子は皇子の腕から抜け出すと、憎悪の表情でふたりを睨んだ。
「ほう……。赤子とは泣くものであると思っておったが」
「まさか、鬼では?」
 呪歌を唱えようとした晴明を片手で止め、皇子は赤子に向かって手を差し伸べた。
「赤子よ、安心するが良い。危害を加えるつもりはない」
 しかしその言葉は逆に警戒心を強めただけで、こちらを見据えたまま、赤子は少しずつ後ずさりした。
 まるで手負いの獣だと晴明は思った。よく見ると、赤子は立ち上がろうと足を動かしては顔を顰めている。本当に手負いなのだろうか。
「父上、ここは少し様子を……」
 無言で皇子は頷くと、くるりと赤子に背を向けた。晴明もそれに倣う。
 刺すような視線を背に受けながら、ふたりは待った。急かしてはいけない。
 そして徐々に視線は小さくなり、消えた。振り向くと、力尽きたように赤子は眠っていた。
 そっと抱き寄せると傷だらけなのがよくわかった。晴明は父から教わり、一度も使用したことがなかった治癒の呪を小さく唱えた。

 目覚めた赤子は、牙のような憎悪を隠そうとはしなかったが、逃げようともしなかった。晴明はまだ警戒していたが、皇子は構わず赤子を抱き上げ、死者の名を読んだ。
「……しかし、名がないのは不便だな。おまえ、名は何という?」
 皇子の問いに、赤子はそっぽを向くことで応えた。言いたくない、もしくは無いのだろう。もっとも、赤子の歳を考えればあっても言えないのかもしれないが。
 しばしの間があり、皇子は言った。
「晴明、お前が考えろ」
「は? わ、私が……ですか?」
 予想外の言葉に唖然とする晴明。皇子は無言で首を縦に振った。
 晴明はうーんと腕を組み、冷泉の間を落ち着き無く歩き回る。その顔には、見たこともないほど思い悩んだ表情が合った。だが、本人は気づいていないだろうが、以前とは比べ物にならないくらい生き生きとしているのが皇子にはわかった。
 不死者がふたり。何も生まず何も失わない。そんな日々は少しだけ晴明の心を解かしてはいたが、あくまでも少しだ。決して癒すことは皇子にはできない。
 この赤子がきっかけになれば良い――――そう思うと、少しだけ天界のこの計らいに感謝を覚えた。
「どうだ、晴明」
「すみません……名前なんて考えたこともなくて」
 まだ思い悩んでいるようだ。皇子の腕の中にいる赤子が、冷たい呆れたような視線を送っている。
「良い名を授けてやれ。……兄として」
「――――えっ……!?」
 目を丸くし、口を魚のように開閉させる晴明。何故それほどまで驚くのか理解できず、皇子は小さく首を傾げた。赤子が抵抗を示すように皇子の腕を引っ張る。
「私が……兄?」
「なんじゃ、嫌なのか?」
「い、いえ……その……」
 しどろもどろの返答。視線があらぬ方を向いて、全身が小刻みに震えている。
「寒いのか」
 晴明の様子を受け、皇子はそう至る。すかさず炎を起こす呪歌を歌いかけ、慌てた晴明によって止められた。
「違います! ただ……ただ、なんと言ったらいいのか」
 こちらに歩み寄り、腕を伸ばしてきた。皇子の腕から晴明の元へ赤子が移された。嫌そうな顔をしているが、やはり赤子は抵抗しなかった。
 真っ赤な髪が視界に広がる。それはこの氷室において異物に近かった。皇子はもちろん、晴明もここまで鮮明な色は持っていない。まるで夜空浮かぶ、一点の星のようだ。
 ふぅ、と晴明は小さく息をつく。そしてまっすぐ皇子、そして赤子を見つめて言った。
「決めました。『朱点』――――それが、あなたの名です」
「朱点、か。良いではないか」
 そう皇子は微笑む。
 赤子――――朱点はまだ強くふたりを睨んでいたが、やがて首を縦に振ったような気がした。


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