我を導け

海馬とアテム

 カチカチと一定のリズムでキーを打ち込む音だけが響く。
 先進的な立体を伴うモニターに表示されている数記号の羅列は、凡人――否、入力を続ける人物以外は到底理解しきれるものではない。
 その類い希なる頭脳を極限まで稼働させている者、海馬瀬人はモニターを突き破らんかのごとく鋭い視線で睨み付けていた。
 いま彼が開発しようとしているのは、半年ほど前に発表された新型デュエルディスクの機能をはるかに上回るだろうと予想される新たなデュエルシステム。新型デュエルディスクは国境や人種、言語の壁を破壊することができた。今度はその遥か彼方にある次元を隔てる巨大な壁へと手をかけようとしていた。
 半年前のあの事件の際、プラナなる者たちを率いていた藍神――正確にはディーヴァという少年が所持していた量子キューブを手に入れた。昔の瀬人なら「非ィ科学的だ!」と存在すら認め難い、一見オカルトの塊であるそのキューブを徹底的に解析し続け、ようやく彼が望んでやまない次元を越える方程式が浮かび上がる――かと思われたのだが。
「……チッ」
 キーを打つ音が止まるとほぼ同時に、瀬人は舌打ちをこぼした。淡く青い光を帯びていたモニターが警告するように赤く染まる。煩わしいアラート音が虚しく鳴り響いた。

 ――――届かない。

 何度試せども一向に解が現れない。それは理解が及ばないというわけではなく、例えるならば、パズルの最後のピースが手のなかにあるとわかっているのに、嵌め込もうとする瞬間だけピースの存在が脳内から消えてしまう。そんな違和感だった。
 同じ行程を数えるのも馬鹿らしくなるほど繰り返し、とうとう瀬人の怒りの臨界点を越えた。
 ガシャン、と苛立ち紛れに拳を適当な所へ振り落とす。うるさく鳴き続けていた警告音がようやく止まり、替わりに別の何かが起動する音がした。それに構うことなく、瀬人は軋む背中を背もたれに預け、少しばかり目を休めようと目蓋をおろした。
 ずしんと身体が重く悲鳴をあげている。もうずいぶん長い間ろくに休んでいなかった。

『兄サマ、あまり根を詰め過ぎないでよ。明日は――』

 少し前、モクバから告げられた言葉が脳裏に響く。こちらに集中し続けていたため、最後なんと言っていたか思い出せない。

「明日……?」

 何か特筆すべきものが有っただろうか。日付の感覚すら曖昧になりつつある。
 すでに海馬コーポレーション社長としての業務は大半モクバに移行済みではあるが、まだ瀬人が表立って行わなければならないことも少なからず残っていた。明日の予定がその類いであれば問題だと、スケジュールを確認するべく目を開いた。

『海馬』

 ドクンッと心臓が跳ねた。

「――――な、」

 不敵な笑み。マントのようになびかせる学ラン。一直線にこちらを捉えて離さない赤みを帯びた紫の瞳。
 『武藤遊戯』が、そこにいた。

「……チッ、忌々しい」

 動揺したのは一瞬だけだ。すぐにそれが立体映像に過ぎないのだと思い出す。先ほど起動させてしまったのはこれだったようだ。
「消去していなかったか」
 瀬人の記憶と、デュエルディスクに記録されていたデータを元に構築したAIが搭載された『武藤遊戯』の紛い物。
 進化し続ける戦いのロードを求めていたにも関わらず、できたものは過去から一歩も変わらない道化のような存在。こんなものに“奴”の存在を少しでも感じ取った少し前の自分に呆れしか浮かばない。
 追い求めてやまない王が、次元を隔てた先にいると確信できたいま、コレは不要なものだ。
 なんの躊躇いもなく、消去させるプログラムを立ち上げようとした時。

『海馬』

 再び、虚像が口を開いた。
 コレには高度な人口知能が搭載されている。『武藤遊戯』を己の眼前に呼び起こすため、奴に限りなく似せた人格を。おそらくコレを見て即座に奴でないと否定できるのは、奴の器たる武藤遊戯以外いないであろう。それほどまでに精巧に作られたものならば、勝手に喋り出すのもわからなくはない。
 だが、所詮は紛い物の戯れ言。聞く耳など始めから持ち合わせていない瀬人は、無視したまま作業をすすめる。……普段よりもずっと鈍速なタイピングには気付かないまま。
 あと一行程、となったのと同時に、セットした覚えのないアラートが鳴る。眉間に皺を寄せ、顔をあげると。



『……十九歳。おめでとう、海馬』



 ポーン、と頭のなかで音が響き渡った。
 瞬間、思考にノイズが走る。


 知っているはずがない。こんな微笑みを浮かべた“奴”を、ファラオの称号に相応しい黄金の装いを身に纏う“奴”を。
 …………だが、知っていた。待っていたのだ、永い間ずっと。再び相見え、魂を揺さぶるあの決闘をもう一度――――と。


「――――はっ……!」

 気がつけば『武藤遊戯』のデータは完全に削除されていた。代わりに、モニターに入力した覚えのない数式が表示されている。
 迷いなくその数式を空白となっていた部分に打ち込む。数瞬のラグの後、システムの完成を告げる画面が浮かび上がった。まさに予定調和だとどこかで誰かが笑ったようなきがするほど呆気なく。

「……フッ。それが貴様からのプレゼントか」

 休めと言ってくれたモクバには悪いが、ここで立ち止まる訳にはいかない。
 瀬人は全身が沸騰するかのような胸の高鳴りを抑えきれないまま、己の行く先を見据えた。

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