カーテンから差し込む日差しが暖かい。レース越しに見た空は驚くほど澄み渡っている。
いい天気だ。こんなに晴れ渡ったのはいつぶりだろうか。
『なあ相棒、見てみろよ。すごくいい天気だ』
アテムは唯一自分の声が届く存在へと声をかけた。相棒――武藤遊戯はこちらに背を向けたまま、机に向かっている。
なんだか空気が重い。遊戯はアテムの声が届かなかったようで、反応を示さない。
『……? どうかしたのか、相棒』
再び声をかけるが、相変わらず返事がない。珍しいこともあるものだ。遊戯が誰かの言葉を無視するような人間ではないことはよくわかっている。だが、相変わらず遊戯はうつむいたままじっと動かない。落ち込んでいるように見えた。
喧嘩でもしていただろうか。少し前まで自分たちがどうしていたのかよく思い出せない。
『相棒、どうかしたのか? オレで良ければ相談にのるぜ?』
肉体のない半透明な身体で遊戯の隣まで移動する。
机の上には見慣れた、千年パズルのピースが収まっていたケースが置かれていた。遊戯の両手はそのケースの上にそっと重ねられている。
よく見ると、その手は微かに震えていた。
『あい、ぼう……?』
言い知れない不安に襲われる。気づいてはいけない、そんな警告が頭に鳴り響く。
だがそれを自覚するよりも前に、視線は遊戯の胸元へと向けられていた。
――――――千年パズルが、無い。
はた、はた。
重ねられた遊戯の手の上に、透明な雫が落ちる。とめどもなく。
思わず手を伸ばすが、アテムの手は当然のごとく何にも触れることはできない。
『…………っ!!』
アテムは叫びだしたくなった。何かの悪い冗談だと、仲間たちに、遊戯に早く告げられたい。
こんなことが許されるはずがない。彼は強い。自身よりもずっとずっと。だが――――
何度目かもわからない、己が半身に向かって呼びかけようと半ば悲鳴のように口を開く。
そのときだ。
「――――――――」
遊戯の声がした。
「――――く? もう一人の僕?」
ハッとした。
何度か瞬きをして、ようやくここが自身の心の部屋であり、石の玉座に腰掛けているのだと思いだした。
「あい、ぼう」
「よかった。なんだかうなされてるみたいだったから思わず起こしちゃった」
ごめんね、と謝る遊戯に礼を告げ、アテムは身体に溜まっていた不安を吐き出すように重い息を吐いた。
あれは……あの夢は、そう遠くない未来の光景だと言われば納得せざるを得ないビジョンだった。
もうじきアテムは遊戯と別れなければならない。記憶を取り戻し、己が真実の名を手に入れたいま、自身が死者であるという覆せない事実を受け入れた代償として。
肉体の持たない魂はいつまでも現世を彷徨っていられない。還るべき場所が待っている。
そのことになんの後悔も未練もない、とアテムは言い切れなかった。
「珍しいね、君が眠ってるなんて」
「……オレだって居眠りくらいするさ」
仲間たち――とくに相棒たる遊戯との別れは、心が引き裂かれるほどの衝撃を伴うものだと感じている。
わずか一年程度の時間だったが、生前の十六年間と同じくらい濃くて輝かしい日々だったのだ。もう少しだけ、なんてワガママを言いたくなってしまうほどに。
だが、それは決して許されない。
死者は現世に留まってはいけないのだ。
「相棒」
だから、残された数少ない時間を使って伝えておかなければならない。
「オレは…………」
「……? なに、もう一人の僕」
遊戯はアテムの言葉を待つ。その声がどこか震えているのは気のせいだと思いたかった。
――――オレはそんな声を、そんな悲しげな顔をお前にさせたくない。
喉まで出かかったのを寸前で飲み込んだ。これは言っても仕方がないことだ。悲しむのが悪いわけじゃない。
それに、遊戯は強い。時間はかかるかもしれないが、この痛みを必ず乗り越えられる。
だから言うべきことはもう一つのこと。責任感の強い彼のことだ、きっと背負わなくてもいいものを勝手に背負ってしまうだろう。
「……オレの分まで、笑ったり泣かなくてもいいんだぜ」
「――――――え……?」
「お前はオレじゃない。武藤遊戯というたった一人の存在。アテムとは別人だ。だから、オレの分まで生きよう――だなんて、思わないでくれ」
衝撃を受けた表情をする遊戯に背を向けて、アテムは自身の迷宮の奥へと向かっていく。
「――っ、待って! もう一人の僕!」
遊戯がアテムの背を追いかける。だが、いくら走れども追いつけない。
アテムはひとり、光りあふれる場所へといってしまう。止めてはいけないとわかっているのに、必死に手を伸ばす。
最後に一度だけ、アテムがこちらを振り返った。
「――――――」
アテムの声がした。
ふと、目が覚めた。いつの間にかうたた寝をしていたようだ。
カーテンから差し込む日差しが暖かい。レース越しに見た空は驚くほど澄み渡っている。
いい天気だ。こんなに晴れ渡ったのはいつぶりだろうか。
「すごい……いい天気だ」
心のなかで呟いただけのつもりが、いつの間にか声となって空気を震わせていた。
重く冷えきっていた冬の空気は、気がつけば仄かに花の香を纏った春のものへと変わっていた。時間が経つのは本当に早いとしみじみ思う。
「ねぇ、せっかくだし散歩でもしよっか。桜……はまだ早いけど、キレイな花が咲き始めてる気がする」
返事は無い。わかっていたのに、どうもこの癖は未だに抜け切らない。
「……っ」
胸元にあった重みが無い。それだけではない、他にも大切なモノが失われてしまった。いや――遊戯自らの手で還したのだ。
だから、この気持ちを抱くのは間違っている。
涙は流さない。振り向かない。前を見て――――
だって、約束したのだから。
「……、――――――」
だから、この言葉は決して口にしてはいけないのだ。