ぽつぽつと不規則なようでどこか規則的に感じられる、不思議な音色に誘われるように思わず外へ出た。
傘は持たない。もともと濡れることにそこまで忌避感は持たない方であり、それになんだか今は雨に当たりたい気分だったのだ。
外に出て、二歩三歩。
本降りと言うには穏やかな、降り始めにしては量が多い、そんな雨模様。
肩口や頭上はしっとりと水分を吸収していくが、それがどこか心地よい。
気の赴くままに四歩五歩と足を進めていく。その時だった。
「そこの少年っ!!」
誰かが叫んだ気がした。
それを気にも留めず六歩七歩。自分を呼ぶ声ではない、と根拠はないのに自信があった。
なのに。
「待ち給え! 君だ、傘も持たず歩き続ける少年よ!」
次にかかった声は少しばかり無視できない単語を含んでいた。
この辺りは人通りが多いとは言い難い。皆無ではないが栄えている訳ではないのでまばらにいる状態。そんな場所で、傘を持たずに雨の中歩く人間は一体何人いるだろうか。
いや、と頭を振る。
割と突然の雨だ。準備をしておらず不可抗力で濡れてしまった者は多いことだろう。きっとあの声の主は、そんな誰かを呼び止めようとしているに違いない。
八歩九歩。
ふと、次の足を置くべき位置が陰っている。この辺りに影ができるような建物があっただろうか。そう考える間もなく。
「次で十歩目を刻む少年、君のことだ」
十歩。仕方なく立ち止まる。
眼の前には、子供のように碧眼をキラキラと輝かせながら真っ直ぐ此方へ視線を向ける青年がひとり、仁王立ちしていた。
ここまでされれば流石に呼び止められていたのが自分のことだと気付かざるを得ない。
だが、理由が皆目思いつかず、眉間に皺が寄る。
その拍子に前髪の一房から雨粒が一滴滑り落ち、地面の水溜りに落ちた。
――――ぽちゃん。
その音は、なぜだかよく響いて今でも耳の奥から離れない。
青年はその音を聴いていたようで、目を閉じながら深く音のない息を吐いた。そして。
「少年――――君を、私に奏でさせてもらえないだろうか」
そう、此方の肩を痛いぐらい掴みながら告げたのだった。
青年の名はグラハム・エーカー。作曲家。もちろん作詞もするし、弦楽器であれば演奏もするらしい。一番得意なのはピアノ。専門はクラシック。その筋の業界では中々の有名人らしく、近頃公演依頼が殺到しているとのこと。
――――すべて、本人からの受け売りである。
そんな人物の家に連れ込まれ、彼の言い分を話半分で聴きつつ周囲を見渡す。
部屋の中央に置かれた大きなグランドピアノ。譜面台から大きく雪崩を起こしている楽譜は、いたるところが斜線や黒塗りで修正されている。それだけだ。
あと辛うじて二人分の椅子が急ピッチで用意された。しかもピアノ椅子。
おそらく防音性は高いのだろうとか、他の楽器や機材は別の部屋にあるのだろうか、など現実逃避気味に考えている内に自己紹介が終了したらしい。
「……さて、では君を呼び止めた理由なのだが」
ばさり、と彼から手渡された楽譜は見事なまでに真っ白であった。
「実は悔しいことにスランプに陥っているのだよ。それで気分転換にでも、と外へ出たら君の後姿を見て――君の音があまりにも綺麗でね、瞬く間に心奪われてしまった」
どういう意味かさっぱりだったが、何度か説明を受ける内にようやく理解できた。納得はしていないが。
つまるところ、モデルになれということらしい。
モデルといわれると絵画やファッションの方を思い浮かべがちだが、楽曲でもそういったことはままあるらしい。
彼は今回が初めてらしいが。
「君の音はとても美しい。それを是非、私のものにしてみたい」
まったくもって理解不能だが、実害があるわけでもないので――というかしつこ過ぎて面倒になった――自分のプライベートに踏み入らない範囲でなら、という条件で彼に付き合うことにした。
彼が奏でるピアノは、まるで空を一直線に翔ける鳥のように真っ直ぐだと思った。
音符などまともに見たことがないため、彼が一心不乱に書き込んだ黒い丸がどんな音なのかわからないが、とてもクリアで心に刺さるような音だと感じる。
そんな彼が、どうして自分なんかに目をつけたのか。未だに理解できない。もっと良いものがあるだろうに。それこそ、澄み渡る青空をイメージして弾かせれば、期待以上のものが出来ることは目に見えているというのに。
「そうだ! 少年、座りたまえ!」
なにか閃いたのか、唐突に指を止めグラハムが手招く。行き先はひとつ、グランドピアノだ。
彼は時折、自分に弾かせようとする。鍵盤を見てもどの音が出るかなんてわからないのに、彼は笑って好きなように弾けと言うのだ。
始めの頃は嫌がっていたら強制的に彼の膝の上へと導かれ、あまりの屈辱からそれ以降、渋々ではあるが抵抗しないことに決めた。
二人が腰掛けるには少しばかり小さめの、横長なピアノ椅子。そのできるだけ端の方へと座り、指一本で鍵盤を叩く。
ぽーん、と一音が響く。
「……そうだ、そのまま続けてくれ」
噛みしめるように、彼は目を閉じたまま静かに囁いた。
こんなものでいいのか、と疑念でいっぱいだが、彼はいつも微笑みながら聞き入っていた。
そんな調子で彼に付き合い始めてしばし後。
いつの間にやら楽譜の読み方を教わり、鍵盤の配置を覚え、適当に鳴らすだけだった音が曲へと変わりつつあった。
本命の曲は出来たのかよくわからないが、そんなことよりもこちらへピアノを教えるほうが楽しいと言って、二人並んで座ることばかり。まぁ、本人の要望なのだからいいか。
「君は筋がいい。そして指先から溢れる音すべてが素晴らしい!」
などと宣う彼の言葉は相変わらず耳から耳へ。
……だが、居心地がいいのは事実だった。
変わり者だと心底思う。
生まれながらハンデを背負っていた自分とここまで何の気兼ねもなく付き合えるほど、彼は常識から一線をなしていた。
――――ざあざあ、と雨が降っていた。
数日まで咲き誇っていた桜が散っていくのを少し残念に感じながら歩く。
傘はいらない。今日はちょっとだけ特別な気分なので、歌いたい気分だから。雨粒が身体に当たって撥ねる、只人には――自分自身でさえも――聞き取ることなど出来ない、ほんの僅かな音。それでも、彼なら一音残さず聞き取ってくれるだろう。そんな期待を他人に抱くことなんて、今まで無かったのに。
「――――少年!」
ばしゃばしゃと水溜りを走り抜けながら、グラハムがやって来る。傘をさしてはいるが、あれでは何の意味もない。
するり、と当然のごとく大きな傘の下へと招き入れられた。ふたりともびしょ濡れなので今更すぎるのだが、拒否しても無駄なので素直に好意に甘える。
「いい音が聞こえると思ったら、やはり君か。……なにやらご機嫌のようだが、今日はなにか特別なのか?」
なんと目聡い――いや、耳聡い。
彼の耳はよほど特別性なのだろう。だが、以前にそう訴えた時、彼は笑って否定したな。
『私が特別なのではない。君の音が特別なのだよ。……何よりも雄弁に、私の耳へと語りかけてくる』
そんなバカな、と否定したのは記憶に新しい。その否定すら明確に聞き取ってしまうのだから、本当におかしな奴だ。
だからというわけではないが、素直に疑問へ応えてしまうのはなんだか癪で。少し捻った答え方をすることに決めた。
傘から抜け出し、再び雨に当たる。
思い浮かべるのは、初心者向けだと言って手渡された、童謡などがメインの楽譜の一頁。誰もが知るその曲を、歌う代わりに音にする。雫が滴る音、それだけで十分。
自分の――刹那の、声なき音こえを、彼は必ず捉えるのだから。
天才作曲家のグラハムと発話障害者の刹那
「な……なんとっ! 少年、聞いてないぞ! そういうことはもっと早く告げたまえ! ……仕方ない、今日は即興でバースデーソングを贈ろう。だが! 来年はもっと盛大に、コンサートホール貸し切りくらいはしなければ!」
――――そう騒ぐから秘密にしていた。
「こうしてはおれんっ! 君の歌をもっと聴きたいのは山々だが、走るぞ!」
――――仕方ない。
「ああ、だが先にこれだけは言わなければ。少年よ、誕生日おめでとう」
――――ああ、ありがとう。