らっきょぱろグラ刹

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 ふと空を見上げると、ふわりと浮かぶ八つの影を見た。
 鳥のように飛ぶわけでもなく、ただその場に浮かんでいるだけの存在。
 てるてる坊主のようにひらひらした白い布をはためかせ、彼女たちは浮かんでいた。
 その中のひとりが口を開く。

『わたしは――飛べるの』

 そう言って、ゆっくりと風に乗って彼女は飛んだ。
 まるで蝶のようにひらひらと。辛そうにしながらも、彼女は笑っていた。
 そばにいた残り七つの影も、ひとり、またひとりと彼女を追って飛び立とうとした。
 けれど、彼女以外の影は飛べなかった。
 彼女たちは浮かぶことしかできなかったのに、それに気づかなかったのだ。
 飛び立とうと宙に身を投げ、そのまま風景を俯瞰したまま落ちていった。
 残されたのは唯一人。
 彼女は共に飛び立つ事ができる人が欲しくて、自由に空を飛んでどこかへ連れて行ってほしくて――――



◇◇◇



 うだるような暑さが続く八月上旬。
 グラハム・エーカーは先程コンビニで入手した賄賂を片手に、とあるアパートの一室を訪れていた。
 ぴんぽーん、と聞き慣れた電子音が鳴るのを聞き届けながら、遠慮など欠片もせずに重い扉を開け放つ。
「やあ刹那。調子は如何なものかな」
「…………絶不調だ」
 眼前で扉のチェーンを片手に持った、まだ少年と呼ぶべき年頃の部屋の主が不機嫌丸出しでグラハムを睨みつけていた。あと少し扉を開けるのが遅ければ、握られていたチェーンで入室を完全に拒まれていただろう。
 自分の強運さに改めて感心しつつ、するりと少年の脇を通って室内へ侵入する。
 窓際に簡易ベットが置かれただけの、なにもないワンルームがグラハムを出迎えた。
「暑いだろう? アイスを買ってきた。少年はイチゴだ」
「帰れ。……あとその発想はどこから来た。俺は甘いものはキライだ」
「ならば後で食べるといい」
 玄関の真横にある、ほとんど使われた形跡のないキッチンスペースの奥。物のないこの部屋で数少ない稼働中の冷蔵庫に手土産のアイスを無造作に放り込む。ちらりと確認したが、他に入っていたのはミネラルウォーターが数本ストックされているだけだった。
「この時期はやはりアイスに限る。君の好みを聞きそびれていたから少々悩んだが……どれも美味しさは保証する」
「本当に何しにきたんだ、お前」
 止めるのも面倒になったのか、呆れ顔で少年――刹那はため息と一緒にそう零した。
「私なりに君を心配しているのだ。……安心したまえ、保護者の許可はある」
「そうじゃない!」
「……ならば、こう言い換えようか。少々、私の独り言に付き合ってほしい」
 そう言うと刹那は少しだけ目を瞬かせ、鬱陶しそうにグラハムを睨みながらも、やがて諦めたようにベッドへ転がった。
 それを見届け、グラハムはベッドを背もたれにするよう床に腰を下ろし、静かに語りだした。

「九条ビルの連続飛び降り自殺……知っているか? 昨日、四人目が亡くなった」
「興味ない」
 切り出した言葉は即座に振り落とされた。あまりの速さに思わず笑みをこぼす。
 それを刹那にさとられないようにしながらグラハムは先を紡ぐ。
「犠牲者に共通点はとくになし。十代後半から二十代中頃までの女性であることくらいだ。……ああ、あとは皆遺書もなく前兆すらなく――少し寄り道をしてついでに飛び降りた、としか言いようがない状況であるということだな」
 世間に疎い刹那は知らないようだが、いまグラハムが述べた案件は連日ニュースのトップを飾る大きな問題だった。
 件の『九条ビル』は高層マンションとしてこの都市と隣接する市街地にある。できた当初は高級感漂う評価の高い人気物件であったが、近年は老朽化が進み、オーナーである九条建設の経営不況も重なり、取り壊しが決まったのがだいぶ前のこと。つい先日、最後の入居者が立ち退きに同意し、ようやく本格的な工事が始まると思われた矢先から続く不幸な出来事である。
「工事に反対する者たちによるセンセーションな事件である、と噂するものも多い。だが……」
 おそらくはそうでない、とグラハムの直感が告げていた。それに加えて。
「所長が意味深なことを言うのでね……だが、私には彼女らの気持ちが一切わからないため判断のしようがない」
 事故か自殺か。何を思って飛び降りたのか。残されたものにはわからないことだらけだ。
「高所から世界を俯瞰する――それはまさに神の視点を得たと錯覚するのもわかる。所長は俯瞰を続けた人間は『自分と世界の境界が曖昧になる』と言っていたよ」
 想像する。
 人の頭が点でしか表現できないほど高層から世界を見下ろす風景を、それをぼんやりと眺める自分自身を。
 視界に自分の四肢や髪の一房すら映らないほど、俯瞰した景色に己が飲まれていくような、そんな体験を。
「覚えがない、といえば嘘になる。だが、私は空を見上げるほうが好きだ。だから――」

 ――彼女たちが何を感じ、何を思って飛び降りたか。

 グラハムには理解できそうにもなかった。

「……浮かんでる影は八つ。あと四人――それで終わりだ」

 静寂が降りた中、ぽつりと刹那が囁いた言葉にグラハムは勢いよく振り返る。壁と対面するように寝転がったままの刹那は、そのままの状態で興味なさそうに告げた。
「俺が【視】えたのはこれだけ。……満足したか」
「止められないのか」
「知らない。…………お前が関わると、俺は視えない……」
 最後の方の言葉は、枕に顔を埋めながら小さく小さく囁かれたもの。この部屋がこれほどまでに静かでなければグラハムの耳に入ってくることはなかっただろう。
「……ありがとう刹那」


◇◇◇


 それから数日。
 暑さは日を追うごとに苛烈となり、学校が夏季休暇に入っていることもあって、刹那はひとり静かに過ごしていた。寝て起きて、赴くままに身体を動かし、思い出したかのように多少の休息を経て、夜が深まれば少しだけ外を歩く。昼間の熱を僅かに残しながらもガラリと雰囲気が一変した通りを彷徨う。
 これは昔からの習慣だ。昼間は嫌いだった。視界に映る人間(モノ)が多すぎて。
 刹那の瞳は特別製で、気を抜けば本来の視界を見失ってしまう。彼との出会いを経て知り合った、胡散臭いながらも事情を知る者からの助言等もあり、ある程度までは制御できるようになったが、少し前までは大通りなど目を開けていられないほどだったものだ。
 だから刹那は夜を好んで歩く。人々の気配が途絶え静まり返った夜の街を。
「…………」
 目的地などなく、足が動くままに進んでいく。長年住んでいる地区のはずだが、ふと気が付くと見知らぬ場所へ導かれることが儘ある。今日もそんな日なようで、瞬きした後、そこは異界の如き空間を形成していた。
 ぽっかりと開かれた交差点に覆い被さるように超高層の建物が四方に建ち並び、街灯は夜の闇と月光を混ぜたような緑光で辺りを染め上げる。建物の多くは老朽化が急速に進んでいるらしく、赤錆が嫌でも目に付く。まるで血が滴っているように映る。

 ――――まるで、檻だな。

 きっとビルの上から地上を見下ろせば、そのように感じるのだろう。翼が無ければ抜け出すことのできない、天上だけ開かれた檻の中。
 そう刹那が感じたその瞬間、ザザッと耳に付くようなノイズ音が走り――――視えた。


 月を背後に浮かび上がる人影。くすくす、と複数の笑い声。それに誘われ、覚束ない足取りで屋上の扉を開くひとりの少女。

『飛べるわ――あなたなら、きっと。いつも綺麗にとんでいたもの』

 懇願にも似た声色で、人影が語り掛ける。
 そうだ、飛べるのだ。難しく考える必要はない。いつもの通り、ふわりと心を風景と同化させるように足を踏み出して――

『そう――――あなたも飛べる』

 でもなんだか変だ。わたしは、本当に飛べたんだっけ……?
 その疑問を認識するよりも早く、投げ出された身が終点に辿り着いて――――


「………………っ!!」

 ブツリ、と強引に接続を切り離し、刹那は全速力で後退した。
 その数舜後、そこには真っ赤な華が開花した。虚ろな目で夢現の表情のまま、彼女の肉体は役目を終えていた。この地にあるどんなものよりも華々しく、鮮烈に咲き誇る大輪の華。
 刹那は彼方へ睨みを向ける。禍々しく光を放つ月を背に、八つの人影が浮かんでいた。


◇◇◇


 九月が目前へと迫る中。
 ニュースでは、かの飛び降りが六人目に達したことを報道していた。興味がない、という顔を遂にできなくなった刹那は苛立っていた。

『顔を出せ。話がある』

 そんな短いメッセージが端末に届いたのが一週間前。安易に従わなければここまで精神が乱れる事もなかったのだ、などと後悔はすでに何十回目だったか。
「……アイツの、せいだ――!」
 刹那の叫びを拾い上げる彼の存在は無い。


 呼び出されて出向いたのは、町の中心から少しずれた廃ビルが連なる一画。その中でもひと際存在感が薄いビル。もしここに目的の場所があると知らなければ、このビルの存在すら視界に入らなかっただろう。そのまま一歩敷地の中に踏み入れると途端に空気が変わるのが肌で感じられる。人避けの結界というらしいが、良く出来ていると感心せざるを得ない。
 建設途中で廃棄されたらしく、辛うじて崩れていない数階分の階段を上り、建付けの悪い扉を乱暴に開け放ち、呼び出した張本人を探そうと見渡すと、来客用――客など来ないくせに――の長椅子に腰掛けるグラハムの姿を見つけた。
 大きな音をたてて扉を開けたつもりだったが、グラハムは気づいていないのか背を向けたまま微動だにしない。
 らしくもない、と思ってしまった。そこまで付き合いが長いわけでもない――せいぜい数か月程度――のに、こんなことで違和感を覚えてしまった自分に驚愕せざるを得ない。
 驚きと何とも表現しがたい気味の悪い感情全てを込めて大きく息を吐く。そのまま店主はどこだ、と渋々声に出しながら手を伸ばして。

 ――――――――ドサ、と。

 その瞬間を、刹那は認識できなかった。

「……遅かったな」
 奥の扉からやってきた、この場所の主の声がするまで、刹那の意識は完全に停止していた。目の前で起きた現象に理解が追い付かない。視力が、脳が、心が――それらすべてが、彼のそんな姿を容認できなかった。

 グラハム・エーカーは眠っていた。
 昏々と外界からの刺激に一切の反応を示さず、まるで魂が抜き取られたかのように、伽藍とした身体を無造作にソファーに投げ出していた。

「三日前のことだ。例の飛び降りの調査に向かったらしく、気が付いたらコレだ」
 そう、淡々と報告書を音読するかのような口調で、刹那を呼び出した張本人でありグラハムが所長と呼び慕う人物――イオリア・シュヘンベルグは告げた。
「肉体的なことなら安心しろ、処置は済んでいる。半永久的にそのままでも大丈夫だ。だが、問題はそこではないな」
 バサリと床に散らばった資料からは、飛び降りの被害者たちの顔写真から始まり、経歴や身体情報などが網羅されているのが見て取れた。裏向きになっている紙には無数の走り書きが残っている。
「……コイツは、死んだのか」
 ようやく出た言葉は、普段よりもずっと小さく掠れていた。意味すらきちんと把握しておらず、口から滑り落ちたようだった。
「分かりやすく言うならば【魅入られた】というやつだ」
 ついてこい、と言われるがまま事務所の奥の扉へ招かれる。扉を潜る前、もう一度だけ彼の姿を視てみたが、やはり刹那の特異な瞳は眠ったままのグラハムをそのままに映すだけだった。

 イオリアの表の職種は『人形師』である。その筋ではかなりの高名で、展覧会を開けば瞬く間にチケットが完売するほど。人形といっても日本人形やビスクドール等、人間をモデルにしたものではなく、どちらかといえばロボットなど機械仕掛けのものが専門だ。機械であるのに感情すら読み取れそうな造形が大いに人気で、依頼も殺到しているらしいがよほど金に困らない限り引き受けない。
 そこはそんな彼の仕事場になっていた。入って真っ先に視界へ入ったソレに刹那は目を見開く。
 白を基調としたトリコロールカラーで彩られた人型だ。特に目を引く青の鮮やかさは、どこか少年のような若さを連想させる。照明に照らされ神々しさすら感じられるが、右手に装備された大きな剣によって人形が何の目的で造られたのか一瞬で分かってしまう。それを意識して全身に目を配ると、節々に備えられた武装の数々と全体に薄っすら小さな傷が無数にあることに気がつく。見たものがどんな思いを抱くか、そこまで計算されて作製されていた。
【GNシリーズ3-001 エクシア・セブンソード】
 足元の名札に小さな字で記されていた、この人形の名。GNシリーズには聞き覚えがあった。イオリアの代表作で、機械仕掛けの天使を模したという人形。グラハムがイオリアを知り、半ば強引に弟子入りじみたことをした切っ掛けだと言っていた覚えがある。
「……奴もコレに惚れ込んでたよ」
 部屋の奥から声が届く。刹那がこの人形に目を奪われている間に、彼は奥から何かを携えてこちらに戻ってきていた。
「人形は外見はいくらでも変えられるか、中身は永遠に空(カラ)のままだ。虚空に惚れる奴など、魔に属するものたちには格好の餌食。……だから、あそこには近づくなと言ってあったんだがな」
「……伽藍堂(がらんどう)、か」
 人形は光を受け翠に煌めく瞳をしていた。その視線は真っ直ぐ刹那を貫き、なにかを訴えているような錯覚を覚える。そんなはずはない、と否定するのは簡単だが刹那にはできなかった。
 ただの視線が人を殺すこともできると、刹那は身をもって知っていたから。


 そのあとどうやって自身の拠点まで戻ってきたのか、記憶が曖昧だ。
 あれ以上あの空間に居たくなくて無我夢中で飛び出してきた。最後イオリアから何かを投げつけられ仕方なく持ってきたが、それが何なのか確認すらせず、一週間が経った。
 何もせず、部屋に籠ったままで時間だけが過ぎていった。どうしてそんな無駄ことをしたのか、最初は無自覚だったが今では嫌でも理解している。

 ――――刹那は待っていたのだ。グラハムが自力で目を覚まして、この部屋に戻ってくるのを。

『おはよう、刹那! こんないい天気に部屋に籠るのは感心しないぞ!』
 そんな煩い声とともにチャイムを鳴らすのを、ずっと。
「――――違うっ!」
 自身の心を否定したくて、刹那は無我夢中で外へ飛び出した。
 茹だるような暑さは少しだけ和らいで、皆秋の訪れを待ちつつある昼下がりの大通り。そこで。

 刹那は視た。ある男性は二日後に交通事故で死ぬ定めだと。
 刹那は視た。手をつなぐ一組は一年後海外で結婚することを。
 刹那は視た。そこの少女は五日後に夏休みが終わることに耐えらえず首を吊ること。
 刹那は視た。腰掛けた老人は三十分後孫に叱られながら自宅へ戻ることを。

 刹那の瞳は、無限に思える無数の未来を延々と映し出していた――――

「……………………」
 忘れていた。これが、刹那の本来の視界だと。
 気づかなかった。グラハムと出会ってから数か月、この視界から解放されていた事実を。
 思い出した。刹那は、決して好きになれない人種であるグラハムという存在をどう思っていたのか。
「――――――――っ」
 手を伸ばす。肌身離さず持ち歩いていた、イオリアからの手向け品。不思議な質感の布に包まれ、手になじむ質量で見覚えのあるシルエット。きっとあの老人はこの瞬間が訪れることも計算ずくだっただろう。仄かに魔術の痕跡を感じた。
 それをしっかりと握りしめ、刹那は真っ直ぐ歩みだした。
 行き先はひとつ。もう、決めたのだ。


◇◇◇


 夕立によって交差点は湖のようになっていた。月の光を歪に反射する水面は、この世のものならざる存在すら映す。
 人影が、八つ。高い高い空に浮かんでいた。ひらひらとてるてる坊主のような白装束で包む身体を風に揺らし、地上を見下ろしていた。……いや、違う。彼女たちは飛んでいるのだ。

 浮遊能力――おもに思春期の不安定な存在が無意識の内に発症する異能。夢遊病に近いそれは、意外なほど発症者は多い。だが誰もがそれを意識することは出来ない。意識すれば常識や限界を悟ってしまう。だから夢を見るように、無意識の間だけ彼女たちは飛べる。……はず、だった。

 パシャ、と水溜まりを蹴り上げるような乱暴な音が無音の闇に響く。静寂を切り裂く、夢の終わりを告げる音。
 八つの影のひとつ。抜きんでて高く飛ぶ女が地上を睨んだ。夜空を透かす長い髪は意志を持つようにうねり、来たるものを拒むよう空間が軋む。彼女の周りを揺蕩う七つの影が空間の響きに合わせゆらゆらと揺れを大きくする。
 カツン、と靴底がコンクリートを叩く。地に足をつけた、この異空間で唯一の存在が発する音。
 音が近づいてくることを察し、長い髪の女は来訪者を受け入れることにした。

 ここにいる七人と同じく教えてあげればいい。彼だって分かってくれる。誰だって、ここからの景色を見れば理解してくれる。

 この空間は全て彼女が支配していた。だから電気もないがエレベーターを動かし、彼をこの屋上まで招くことができる。地上から一直線に、ここまでおいでと呼びかける。
 彼は迷うことなく乗り込んできた。そう、やはり彼も私たちの仲間なのだろう。なおさら教えてあげなくちゃいけない。
 くすくす、と皆の笑い声が響く。あとちょっと、エレベーターを降り、目の前の扉を開けるだけ。そのまま来て、この景色を見れば思うことはただ一つ。

 ガシャン、と錆びついた扉がゆっくりと開かれた。
 雨によって水浸しになった屋上の床を踏みしめ、少年がひとり立っていた。
「…………」
 黒髪を吹き荒れる風に揺らしながら、少年は空に浮かぶ白い少女の群れを瞳を閉じたまま一瞥した。
 なぜ、目を閉じているにも関わらず少年に視られたと感じたのか。それをもっと深く考えればよかったと思ったのは後の祭り。白の女はそのまま彼に呼びかけた。

『……飛べる。あなたは飛べるわ。昨日も綺麗に飛んでいたもの。今日はもっと高くまで飛ぼう。大空は自由よ。何にも縛られない。早く行こう。だから――――』

 それは、常人には決して抗えない衝動。
 空に感傷を抱いたもの、自由に憧れたもの、苦痛からの解放を望むもの、現実から逃避を選んだもの。これらの感情をひとつも覚えたことのない者は少ない。彼女の暗示はこれらの感情を焦点に、相手の意識そのものに『自分は飛べる』という印象を植え付ける。人ならざる身故か、その威力は暗示を越え洗脳の域へと達していた。受けたものは本当に飛行を実行してしまうか、飛べるのだというある筈のない実感に呑まれ、高所から逃避することしか出来ない。

『飛ぼう、飛んで、飛べる――――――――飛べ!』

 そんな不可避の暗示は。

「いや――――そんな未来は、ない」

 確固たる真実の言葉で露と消え失せた。
『――――っ!?』
 白の女が驚愕に顔を歪めた。その顔を、少年――刹那はすでに知っていた。
 見開かれた両眼は金色に染まり、不思議な色光を放つ。女の身体が人ならざる魔のものであるならば、刹那の瞳は人智が及ばない恐るべきものだった。
 魔術世界において、魔眼と称されるもの。視線だけで対象を呪い、映るはずのない現象を捉える異能。刹那の魔眼は現存する中でもトップランクに入る【未来視】の魔眼。
 本来ならば未来とは現在から見て未確定な現象だ。未来視はその未確定を予測するタイプと、測定するタイプがある。前者は大まかな結末は変わらないものの、行動や突発的な行いにより変わる可能性がある。後者は視た未来を異能によって固着させてしまうため、絶対に変わることはない。
 刹那の魔眼は――そのどちらでもなかった。
「未来は無数にある。俺は視えた未来から……行く末を選ぶことができる」
 ばさり、とイオリアから託されたものの封を切る。包んでいた布は飛ばされ、刹那の手に残ったのは大振りのナイフ。形状はよく切れると評判の業物によく似ているが、外見だけだ。基本骨子、構成材質、創造理念……そのすべてに魔力を帯びていた。イオリアが刹那のためにデザインした唯一無二の無銘なる刃。
「どれだけ可能性が遠くても、俺の目なら捉えられる。捉えたら――あとは選ぶだけだ」
 無数にある未来。あまりにも多くの情報が一瞬で刹那の脳裏を走り抜け、視界はあるかもしれないこの先の姿を投影する。どこからが未来で、どこまでが現実か。その境界は不鮮明で刹那自身にも理解できない。生まれついでこの状態だったため目が眩む程度で済むが、常人ならば数秒で廃人だろう。
 そんな情報の海から、刹那が望むたった一つの確固たる未来を視た。とても近い場所にあるそれを手にするのはとても容易く、瞬く暇も必要なかった。
「――――ふっ!」
 刃が滑る。空気を撫でるように、月光を反射しながら流れる動作で切った。ただそれだけで、少女がひとり闇夜に溶け出した。
『…………!?』
 彼女たちはこの屋上に残された残留意識――俗に言う幽霊だった。白い女の暗示によって自分が飛べると錯覚したまま果てた命が、その強烈な死をこの地に刻んだ残響。肉体なんてあるはずもなく、ただ『かつてこの場所にいた』という情報だけで構成されたもの。
 それを刹那は意図も簡単に切ってみせた。刹那が選んだのは『ナイフで幽霊を切る』事ができる可能性。魔力の込められたナイフを手にしている時点でそれは達成されたも同然で。
 ふたり、みたり、よたりと舞うように切られていく。情報に過ぎない彼女たちには抵抗する意思も力もなく、ただ不思議そうな顔で消えていく。きっと、死に顔も同じ表情だったのだろう。
 それを高くから臨む女が残る。
『あ……ああ、そんな……!』
 彼女は嘆きと怒りを込めて手を刹那に向け翳す。同胞を消され、自らを脅かす存在に再び暗示を……今度は『飛べる』なんて甘い言葉ではなく。

『…………――ちろ、落ちろ、堕ちろ、墜ちろ――――――!』

 形相はまるで般若のごとく、怨嗟を撒き散らすその姿はまさに魔的。紡ぎ出される言葉は抗えない呪歌のよう、身体に鎖のごとく絡みつく。悲痛な姿の裏に飛びたいと、ここから解き放たれたいという本心が視えた気がした。
 空に、自由に憧れた人間ならきっと誘われるのだろう。だが。
「――断る。あいにく生きている実感も薄い俺には、お前の言うような憧れも望みも持ち合わせていない」
 数ヶ月前まで刹那は生きる屍と同位だった。未来という名の暴力的な情報に無防備に晒され、自分が立っているのか眠っているのかも分からず、ただ迫り来る未来に黙々と従うだけの人形。最適を無意識のうちに選び続けたため、生に対する実感や束縛を知らず、苦痛すら感じない。
 それが変わったのが、彼との出会いで。
「でも、あいつを連れて行かれるのは困る。拠り所にしたのはこっちが先だからな……返してもらうぞ」
 床を蹴り、勢いよく駆け出す。
 浮かぶ彼女までの高さは数メートルあるだろう。だが刹那にとってそれは何の障害にもならない。魔眼を起動する。金色の光の内に溢れ出る未来の可能性。その中からたった一つを掬い上げること。刹那にとっては呼吸するのと同じことだ。
 執念深く力を叩きつけてくる彼女に向かって跳躍する。
 落ちろ、と彼女は叫ぶ。それを完全に無視して――――

「お前が墜ちろ」

 女の胸に深々とナイフが突き刺さる。刹那が視た未来のままに。
 一度大きく痙攣したその身体を、夜空へ放り出す。フェンスを越え、ボロボロと身体を綻ばせながら墜落していく彼女を例えるならば――骨か、百合だろうか。
 不思議なことだが、彼女の肉体を貫通させた感触があった。他の少女たちのように情報体なのではなく、飛行する身体を持っていた異能者なのかもしれない。だがそんなことは刹那に関係なく、そのまま屋上に背を向けた。
 そこにはもう何の影も浮かんでいなかった。


◇◇◇


 グラハム・エーカーが目を覚ましたのは、日が一番高い時間だった。
「おはよう所員。リハビリにコーヒーを淹れてくれ」
「……? 承知した」
 いつ眠ったのかも記憶になく、頭上にいくつものクエスチョンマークを浮かべながらも、とりあえず指示通りに動こうと重い腰を上げる。ちょうどその時、ノイズ混じりながらもテレビではニュースが放映されていた。

『九条ビルでの飛び降り――遂に七人へ』

 そんなテロップが目に入り、グラハムは首を傾げた。
「いつの間に増えて……?」
「お前がぐーすか眠りこけているうちにな。もうこれで打ち止めだろうよ」
「いや、刹那の言葉ではあと――――」
 言いかけて、グラハムはハッと気づいた。
 どうしてかわからないが、刹那に会わなければいけない気がした。
「……今日は早退していい。さっさと行ってこい」
「いいのですか!?」
「機嫌を損ねて歯向かわれたりしたら敵わん。魔術師として、あの【瞳】の持ち主に喧嘩を売る度胸はない」
 イオリアの言い分は理解出来ないが、グラハムは気にせず帰宅準備を始めた。
 もともとグラハムはそちら側の人間というわけではない。ただイオリアの人形技師としての腕に惚れ込み押しかけたのち、紆余曲折を経て表と裏どちらの仕事も対応する窓口役になっただけ。才能も一応見てもらったが全く無能であると太鼓判を押された。
 だからあの偏屈で面倒くさがりのイオリアが、わざわざ機嫌を伺う必要があると言う刹那の能力がどれほどのものなのか、グラハムは知らない。知っているのは魔眼の中でも先天的、後天的を含めて自然界に現れる確率がほぼ無だというほど珍しい力というくらいだ。
 そして――――

「会いたかったぞ、刹那!」
「…………突然現れるな」

 無数の未来を視ることができる刹那が、唯一グラハムに関する未来だけは視ることができないこと。
 どんな理屈か、刹那自身にも理解できないという。未来の映像に塗れた刹那の視界で一点ポッカリと空いた穴のように、グラハムの姿は現在しか視ることができない。
 それは逆に、グラハムの姿だけは確実に現実のものであると定義できるということで。
「まぁ、ちょうどいいか」
「……! 上がっていいのか!? 失礼する」
「いつまでも冷凍庫を占拠されるのが嫌なんだ、始末していけ」
 乱暴に放り投げられたのはグラハムが手土産に持参したアイスクリームのカップで、いちごのイラストが小さく載せられている。
「大体、なぜ俺がイチゴなんだ」
 そんなガラじゃない、と文句を言う刹那にグラハムは笑った。
「君の瞳の色だ。……あの金色も捨てがたいが、私は通常の赤褐色のほうが好ましく思うよ」
「…………じゃあお前はメロンだな」
 そう言って、刹那はもう一つアイスを取り出していた。ちらりと見るところメロン味のようで。
 素直じゃないな、と思わずグラハムが呟くと次の瞬間ナイフが飛んできた。


 夏の終わりのことだった。


◇◇◇


 蝶が、飛んでいた。
 ともに飛び立つ番を失い、悲壮に暮れながらも飛んでいた。
 ここから飛び立ちたい、どこかへ連れて行ってほしい。
 仲間を、番を求めて飛ぶ彼女は何時しか呪いとなり――――

 終に、翅を穿たれた。



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